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最終更新日:2005年10月23日


●島崎藤村の東京を歩く(第二回) 2004年12月25日 <V02L01> 05/02/13 新花町の写真入替

 今週は「島崎藤村の東京を歩く」を引き続いて掲載します。先週は明治女学校の高等科英文科の教師となるまででしたので、今週は女性問題で明治女学校を辞めてから東北学院に作文教師として赴任するまでを歩きます。

<円覚寺塔頭帰源院>
 明治26年1月、明治女学院を辞めます。生徒との女性問題を悩んだ末の辞任でした。その後一時関西を訪ねますが、結局鎌倉の山ノ内円覚寺塔頭帰源院に秋まで滞在します。「…岸本が泊っているところは円覚寺境内の古い禅寺で、苔の生えた石段を登りつめたところに門を構えたような位置に在る。住職は親切な人だし、門前の飯屋とも懇意ではあるし、以前からの関係で復岸本はこの寺に置いて貰うことにした。奥州の方へ出掛ける時に比べると、彼は一層眼が眩んだように成って帰って来た。到頭、岸本は行き止るところまで行った。第一食うに困る。こう悶き始めた頃は、やがて十一月の初である。最早寺に愚図々々していることも出来なくなった。丁度、三日に、鎌倉を発つことにして、例の門前の飯屋へ勘定に寄って、そこの亭主にも別離を告げた。「これも何かの御縁で御座ましょう」こんなことを言いながら、亭主は黄ばんだ大きな手を揉んで、酷く別離を惜むように見えた。昼食には赤の御飯の炊いたのがあると言われて、有合の総菜に豆腐汁で、旅で暮す商人などと一緒に、岸本は二十二歳の天長節を祝った。…」。この門前の飯屋とは、「門前」でしょうか。このお店は川端康成で有名なお店です。島崎藤村が食事をしていた確証はありませんが夢があってもいいとおもいます。鎌倉は文学散歩の宝庫ですね。

上の写真は横須賀線北鎌倉駅の北東、直ぐ裏にある円覚寺の正面です。この円覚寺は島崎藤村というよりは、夏目漱石で有名です。漱石の「我が輩は猫である」の中にも登場します。「…「誰がって。一人は理野陶然さ。独仙の御蔭で大に禅学に凝り固まって鎌倉へ出掛けて行って、とうとう出先で気狂になってしまった。円覚寺の前に汽車の踏切りがあるだろう、あの踏切り内へ飛び込んでレールの上で座禅をするんだね。それで向うから来る汽車をとめて見せると云う大気焔さ。尤も汽車の方で留ってくれたから一命だけはとりとめたが、その代り今度は火に入って焼けず、水に入って溺れぬ金剛不壊のからだだと号して寺内の蓮池へ這入ってぶくぶくあるき廻ったもんだ」「死んだかい」「その時も幸、道場の坊主が通りかかって助けてくれたが、その後東京へ帰ってから、とうとう腹膜炎で死んでしまった。死んだのは腹膜炎だが、腹膜炎になった原因は僧堂で麦飯や万年漬を食ったせいだから、つまるところは間接に独仙が殺した様なものさ」。…」。と書かれています。北鎌倉駅の横にある踏み切りから円覚寺になりますから、書かれているとおりです。夏目漱石は座禅を行うために帰源院を訪ねていたようです。夏目漱石の石碑もありました。

左上の写真は鎌倉山ノ内円覚寺塔頭帰源院です。円覚寺正面から少し登って右側です。滞在した建物が残っていました。

<島崎藤村(明治5年(1872)〜昭和18年(1943)>
 明治5年(1872)島崎藤村(本名:春樹)は長野県木曽郡山口村字馬籠で父正樹、母ぬいの四男として生まれます。生家は馬籠宿の本陣・庄屋を兼ねる旧家でした。小学生の時に上京、明治25年には明治女学校の教師となります。北村透谷らと文芸雑誌「文学界」を創刊、明治30年に刊行した第一詩集「若菜集」によって名声を得ます。代表作としては「破戒」「春」「家」「夜明け前」などがあります。昭和18年(1943)脳溢血のため、71歳で亡くなります。

島崎藤村の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

明治14年
1881
パナマ運河工事を開始
岩波書店創業
9
9月 京橋鎗町の長女の嫁ぎ先高瀬薫方に滞在し、泰明小学校に転入
明治16年
1883
日本銀行が開行
11
京橋区銀座四丁目四番地 吉村忠道方に転居
明治19年
1886
帝国大学令公布
14
泰明小学校を卒業
芝の三田英学校に入学
9月 共立学校に入学
11月 父死去
明治20年
1887
長崎造船所が三菱に払い下げられる
15
9月 明治学院普通部本科に入学
明治21年
1888
森鴎外がドイツ留学から帰国
16
6月 高輪台教会で洗礼を受ける
明治24年
1891
大津事件
露仏同盟
19
6月 明治学院を卒業 横浜伊勢佐木町の雑貨店 マカラズヤを手伝う
明治25年
1892
第2次伊藤博文内閣成立
20
神田仲猿楽町に下宿
9月中旬 明治女学校の高等科英文科の教師となる
明治26年
1893
大本営条例公布
21
1月 明治女学校を退く
鎌倉山ノ内円覚寺塔頭帰源院に滞在
9月 三輪町八十九の長兄秀雄の家に滞在
明治27年
1894
日清戦争
22
4月 明治女学校に復職
明治28年
1895
日清講和条約
三国干渉
23
7月末頃 本郷湯島新花町転居
12月 明治女学校を再び辞める
明治29年
1895
樋口一葉死去
24
8月 本郷森川町に転居、母と長兄の妻子を移す
9月 東北学院に作文教師として赴任


島崎藤村 東京地図



三輪町の長兄秀雄の家>
 鎌倉山ノ内円覚寺塔頭帰源院から東京に戻ると島崎藤村は三輪町八十九の長兄秀雄の家に滞在します。「…岸本の母や姉は最早三輪の方で、兄の民助と一緒に暮していたが、岸本はまだ恩人の家に止まって朝晩の手伝いをしていた。……九月の新学期が始まる頃から、岸本の通う路は随分遠かった。三輪から坂本まで、あの変化のない、平坦な道路だけでも可成ある。あれから上野の広小路へ出て、切通坂を上って、猿飴の角から斜に本郷の町々を通り過ぎる。神田川に添うて飯田橋の方へ傾斜を下りる間は、最も彼が気に入った道路であった。対岸にある樹木、小石川の方に続く町々の眺めは彼の眼を悦ばせた。九段へは、中坂から上る。富士見町、上六番町は、やがて彼を学校の方へ導いた。…」。これは島崎藤村の「春」の中の文です。三ノ輪から麹町ですからかなり遠いです。10Km程あったのではないでしょうか!!

左の写真が三輪町八十九の長兄秀雄の旧宅跡です(地下鉄日比谷線三ノ輪駅近くの三ノ輪一丁目28番地付近です)。「秋谷新七の持ち家で、相馬事件の青田剛立の豪華な旧宅」と何処かで読んだのですが、読んだ本を忘れてしまいました。何処かで思い出したら記載します。

本郷湯島新花町二四番地> 05/02/13 写真入替
 島崎藤村は、三ノ輪から家族で湯島に転居します。「…明治二十八年の十一月に成った。支那の俘虜を満載したガタ馬車が幾台となく東京の市街を通ったのも、最早二月程前のことである。……本郷切通の坂を往来する人々の顔にも何となく喜悦の色がある。土の上には影が動いている。日は坂の上の空気と塵埃とを照している。勝手の道具や、柳行李や、それから大きな風呂敷包などを積み載せた荷車の後に随いて、丁度上野の方から坂へかかった人力車がある。荷車は右へとり左へとりしながら、本郷台へ向って上って行った。人力車も徐々随いて上った。車の上の人は万感こもごも胸に迫るという風で、人目も憚らず男泣に泣いて、傍へ来て何か手付をして見せた立ン坊のあるにも気が着かずにいた。この男が岸本である。彼は今、三輪を引払って、湯島に見つけて置いた新しい住居の方へ移ろうとする途中である。坂の中央で岸本は麹町の学校の生徒に逢った。生徒は彼の顔を不思議そうに見て、意味もなく笑って、やがて挨拶しながら車の側を急いで行った。…」。日清戦争は明治27年6月〜28年4月で、4月の下関条約で集結ですから9月は戦後になります。「支那の俘虜を満載したガタ馬車」は日清戦争後の話ですね。

右の写真の左側、本郷湯島新花町二四番地(現在の湯島2−13付近)が島崎藤村旧宅跡です。空襲で焼けてしまっていますので昔の面影はありませんが湯島という雰囲気はあります。(一筋間違えましたので写真を差し替えました)

本郷森川町一番地宮裏319号>
 湯島は僅か一年しか住まず、東大正門前の本郷森川町に転居します。「…翌日、岸本の家では本郷の森川町へ引移った。そこは二間ばかりの小さな平屋ではあったが、勝手の好く出来た家で、狭いながら裏庭もあり、母や姉が留守居をするには別に不自由を感じなかった。台所の障子を開けると、直ぐ往来で、近くにある井戸へ水汲みに出掛けられる。干物は裏で出来る。丁度郷里から岸本の甥にあたる太一というが、遊学の目的で出京していて、この甥がまめまめしく手伝ってくれた。大根畠から荷車で運んで来たものは、何処へ形付くともなく、この狭い屋の内へ納まって了った。思がけない応援の手紙が北清に居る二番目の兄の許から届いた。留守宅の生活費は月々其方からも助けられることに成った。今は岸本も仙台の方へ落ちて行くことが出来る。…」。本郷森川町に転居する前に明治女学院を再び退職しています。

左の写真の奥が本郷森川町一番地(現在の本郷6−14付近)です。写真の道の反対側は本郷通りを隔てて東京大学正門となります。

この後、島崎藤村は東北学院に作文教師として赴任します。

島崎藤村東京地図 -2-


島崎藤村東京地図 -3-


【参考文献】
・冬の家 島崎藤村夫人・冬子:森本貞子、文藝春秋
・群像 日本の作家 島崎藤村:小学館
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎
・大磯町パンフレット:大磯町
・大東京繁昌記(山手篇):平凡社
・飯倉だより:島崎藤村、アルス
・新片町だより:島崎藤村、春陽堂

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