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最終更新日:2006年2月21日


●島崎藤村の仙台を歩く 2003年1月11日 V01L03

 今週は東京からすこし離れて島崎藤村の仙台を歩いてみました。島崎藤村が仙台に滞在したのはわずか9ヶ月ですがこの間に母親が死去したり「若菜集」をまとめたりしており、人生の大きな転機になった時期だとおもわれます。東北学院を辞任して東京に戻ったあと、島崎藤村は明治32年(1899)4月、木村熊二の招きで小諸義塾に英語・国語教師として赴任します。小諸に行くならもう少し仙台にいてもよかったのではないかと‥…ですね!!

touson-meiji1w.jpg<若菜集>
 「若菜集」では「まだあげ初めし前髪の 林檎のもとに見えしとき 前にさしたる花櫛の花ある君と思ひけり…」があまりに有名ですが、書き出しには「明治二十九年の秋より三十年の春へかけてこゝろみし根無草の色も香もなきをとりあつめて若菜集とはいふなり、このふみの世にいづべき日は青葉のかげ深きころになりぬとも、そは自然のうへにこそあれ、吾歌ほまだ萌出しまゝの若菜なるをや。」、とあります。下記の年表のように明治29年から30年にかけて島崎藤村は仙台の東北学院に赴任しています。歳も25〜26歳、最も繊細で創作意欲のでる歳ではなかったかなとおもいます。島崎藤村は東北学院の教師をしながら「文学界」の同人として詩、評論などを書き送っていました。これが後にこの「若菜集」になるわけです。

左の写真は近代文学館が出版した名著復刻全集「若菜集」です。大きさも中身もまったく同じものです。印刷が新しいのですぐに復刻版とわかりますが、当時の雰囲気をそのまま伝えてくれるので私は個人的にきにいっています。(初版本などにはあまり興味がありません)

島崎藤村の仙台年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

島崎藤村の足跡

作  品

明治29年 1896   25 9月4日 仙台の東北学院に赴任、駅前旅館「針久」支店に宿泊
9月11日 第二学期の始業式
9月 池雪庵に転居
  
明治29年 1896   25 10月 支倉町10番地の田代家に転居
10月25日 母死去
 
明治29年 1896   25 11月 名掛62番地の三浦屋に転居   
明治30年 1897 河北新報創刊 26 7月1日 東北学院を辞任、上京  
明治30年 1897   26 8月29日 「若菜集」を春陽堂から出版
若菜集

touson3w.jpg東北学院>
 島崎藤村は当時の東北学院普通科(予科二年、本科四年、現在の中高校)に作文教師として赴任しています。東北学院は明治19年(1886) 押川方義、ウィリアム・E・ホーイの両名の協力により、キリスト教伝道者養成の目的をもって仙台市木町通りに「仙台神学校」を開設したのが始まりです。明治20年(1887) 東二番丁の本願寺別院跡を取得し、仙台教会と仙台神学校をここへ移しています。明治24年(1891) 南町通りに新校舎が完成、校名を「東北学院」と改称し、神学生のみに限らず広く生徒を募集するため普通科を設置しています。(東北学院ホームページ参照)

左の写真は東北学院の初代校舎です。東北学院の初代校舎は現在の東二番丁南町通りの北西角付近に明治24年9月に立てられ、昭和20年7月10日の仙台大空襲で消失しております。土樋キャンパスは大正5年に現在の土樋キャンパスの地に土地を求め、大正15年に現在の本館(当時は専門学校校舎)として落成使用されています。こちらが現在の東北学院土樋キャンパスの航空写真です。(東北学院のすべての写真は東北学院法人本部広報室よりお借りしております)


touson3w.jpg仙台駅前>
 島崎藤村は仙台時代のことを「市井にありて」の”『若菜集』時代”で、「…仙台へ出かける前の四年ばかりというものは、かなり私も暗い日を送ったあとで、よくよく行き詰った揚句、自分の古本でも売って旅に出かけようかと思いつきました。それが或る人の世話で、仙台の東北学院の教師として出かけることになって、旅も出来れば母への仕送りもいくらか出来るという始末であったのです。あの時は寂しい思いで東北の空へ向いました。着物なぞも母の丹精で見苦しくない程度に洗い張したもので間に合せ、教師としての袴は古着屋から買って来たもので間に合せました。荷物といっても柳行李一つで、それも自分があつめた本を大事にいれて行くぐらいなものでした。上野から汽車で出かけて、雨の深い白河あたりを車窓から見て行ったときの自分の気持は、未だに胸に浮んで来ます。そんなに寂しい旅でしたけれども、あの仙台へついてからというものは、自分の一生の夜明けがそこではじまって来たような心持を味いました。実際、仙台での一年は、楽しい時であったと思います。…」、と書いています。生活が苦しくやむをえず東北学院の先生になったようです。仙台行きは都落ちでそうとう滅入っていたようですが、実際に仙台での生活はそれなりに楽しかった様です。

右の写真はJR仙台駅北口の写真です。正面付近に島崎藤村が仙台で最初に宿泊した「針久支店」がありました。いまはまったく面影がありません。島崎藤村が上野から乗った列車は上野発午前6時40分、白河午後1時、仙台着午後7時ですから12時間くらいかかっています。


touson/touson2w.jpg支倉通>
 島崎藤村は仙台で何度か住居をかえています。最初に滞在したのが仙台駅前の「針久支店」ですが、すぐに支倉町の池雪堂(庵)に移ります。藤一也の「仙台時代の藤村」では「…それは北四番丁通りと支倉通りの角(西側)にあって、支倉町10番地の田代家とは同じ支倉通りにあり、目と鼻の先になる。…」、と書かれています。つきに移った場所は支倉町10番地の田代家です。こちらも藤一也の「仙台時代の藤村」では「当時の支倉町10番地は現在の支倉町一丁目五番地に当たる。…松浦やす氏の話では、この一丁目六番地の方が、藤村田代家であるという…」、とこちらも詳細に書かれています。

左の写真は支倉通りのちょうど中央付近の曲がり角にある「支倉通の碑」です。この碑の左側が支倉町10番地の田代家(写真手前から3軒目)であり、池雪堂(写真右側辺りです)は右側になります。

touson4w.jpg名掛丁 三浦屋跡>
 島崎藤村にとって約七カ月過ごした三浦屋はそうとう印象深かったようです。「…仙台の名掛町というところに三浦屋という古い旅人宿と下宿を兼ねた宿がありました。その裏二階の静かなところが一年間の私の隠れ家でした。『若菜集』にある詩の大部分はあの二階で書いたものです。宿屋の隣りに石屋がありまして、私がその石屋と競争で朝も早く起きて机に向ったことを憶えています。あの裏二階へは、遠く荒浜の方から海の鳴る音がよく聞えて来ました。『若菜集』にある数々の旅情の詩は、あの海の音を聞きながら書いたものです。」、と「市井にありて」の”『若菜集』時代”で書いています。

右の写真が名掛丁 三浦屋跡の記念碑です。仙台駅のすぐ近くで、区画整理の土地になっており、周りはまったく変わってしまっていますがこの碑と横の鳥居だけは昔のままのようです。

touson4w.jpg仙台 文学館>
 駅からは少し遠いですが、ぜひとも一度はは訪ねてほしい文学館です。もちろん仙台時代の島崎藤村も展示していますのでみていただければと思います。

右の写真は「仙台 文学館」正面です。

  【仙台文学館ホームページ】

島崎藤村 仙台地図



参考文献】
・若き日の藤村:藤一也、本の森
・仙台時代の藤村:藤一也、本の森
・新潮文庫大正の文豪:新潮社版(CD-ROM版)
・島崎藤村全集:新潮社
・文学散歩:文一総合出版、野田宇太郎
・新潮日本文学アルバム(島崎藤村):新潮社
・文京ゆかりの文人たち:文京区教育委員会
・文人悪食:新潮社、嵐山光三郎

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