●富永太郎の上海を歩く
    初版2012年12月1日 <V01L01> 暫定版

 久しぶりに富永太郎です。先般、上海を訪ねる機会があり、”富永太郎の上海”を少し歩いてきました。事前に「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」、「上海歴史ガイドブック」、「中原中也研究 12号 富永太郎と上海」を読んでおいたのですが、天候にも左右されて完璧に取材をするのは難しかったです。


【富永太郎(とみながたろう)】
 東京市本郷区湯島新花町で父 富永謙治、母 園子の長男として生まれる。大正3年(1914)、東京府立第一中学校に入学。1級下に小林秀雄と正岡忠三郎がいた。大正5年(1916)、河上徹太郎が神戸一中から編入学、同級となる。大正8年(1919)、第二高等学校理科に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。人妻との恋愛問題で二高を中退、東京に戻り東京外国語学校仏語科に入学する。上海へ旅をするが、肺結核に感染。京都帝国大学に在籍する正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在。このころ、立命館中学の4年に在籍していた中原中也と知り合う。闘病生活の傍ら『山繭』に詩を発表。大正14年(1925)11月12日、逝去。享年24歳。(ウィキペディを参照)




「上海歴史ガイドブック」
<上海歴史ガイドブック>
 私のような歴史好きが上海を歩くには、なくてはならないガイドブックです。初版は1999年6月に出版され、昨年の12月に増補改定版が出版されています。上海万博が2010年に開催されたこともあり、上海の街並みの変わり様はすごいです。それらの変化に対応したのが増補改定版となっています。最新の地図で場所を紹介しているわけです。この本とカメラ、スマートフォンを持って上海市内をくまなく歩きました。

 「上海歴史ガイドブック」からです。
「   は し が き
 上海、いったいこの街はどこから来てどこへ行こうとしているのか。
 世紀末を迎えていよいよ変貌ただならぬアジアの大都会が経てきた過去から現在、そしてつづく未来へと、見る者の想像をつなぐ地図を編もうと試みた。
 人にとってそうであるように、都市にとっても、その過去、現在、未来は、切り離して考えることはできない。都市の今の相貌の裏に過去の時間を重ねてみることは、そのまま都市の現在を豊かに経験することにつながる。そしてまた逆に、街を歩き回る生身の人間の等身大のふるまいが、無機的なスペースから、経験によって意味づけられたトポスヘと、「上海」という場所そのものの持つ味わいを深めていくことともなる。
 このマップは、まずは無償の好奇心をかてに自分の足で上海を歩こうとする人のために編まれた地図である。
 上海こそは、現在の皮一枚の裏側によどむ空気のなかに、「近過去」の手触り、息吹きを感じさせずにはおかない場所であった。教科書の中だけにあるわけではない「歴史」、さまざまな感覚によってつながるそう遠くない過去の記憶の充填された場所、「上海」。
 旧市街の大規模な再開発によって、その「上海」が急速に、そして確実に姿を消していく。そんないまこそ、全身の感覚を通じて都市を味わい、その変容へ等身大の行動で参画することをもくろむ遊歩者たちのツールとして、このマップが活用されれば、編者の喜びはこれに過ぎるものはない。
 マップの製作にあたっては、できる限り実際に現地を歩いて、最新の状況をカバーしようとつとめた。とはいえ、限られた時間の申で、急激に姿を変えつつある大上海をくまなく踏査しつくすのは、もとより一個人の力の及ぶところではなかった。編者の現地調査の追跡しえなかった新たな変化が、この地図を手にされた方々自身によってアップデートされていくことを切に期待する。
                                     1999年初夏編著者しるす」

 ”この本とGPS付のスマートフォンがあれば何処でも行けるとおもったのですが、中国ではGPSでの位置情報が正確ではないようです。Googleの地図では約200m位西にずれて表示されます。わざとずらしているようです。GPSを使う事自体が法律に触れるようなことを耳にしました。中国でスマートフォンを購入して使っている人はどうしているのでしょうか?

写真は2011年12月発行の大修館書店版「上海歴史ガイドブック」です。編集者は木之内誠さん、出筆者は野澤俊敬さんです。よくここまで詳細に調べているなと感心しています。

「大岡昇平全集 17」
<大岡昇平全集 17 評論W>
 大岡昇平が富永太郎について書き残すため、自身の「大岡昇平全集」の中に多くのページをさいて書いています。特に富永太郎の書簡集としてはこの「大岡昇平全集 17 評論W」しかありませんので貴重です。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「… 父謙治があっさりと上海行に賛成したことは太郎には意外だったらしいが、父は子の惨状を深く哀れんでいたのである。生活費を取ることが出来るとは思っていなかったであろう。この日、謙治は青梅鉄道の専務を辞任している。太郎の異国旅行はかなりの負担であったはずだが、失恋に悩む長男の神経衰弱が癒されればよいとしたのである。
 その愛情といたわりをわざと見ようとしないかたくなさが、文面に見られる。それが青春の意地である。内心に忙しいことがあって、大人にはかまっていられなかったのだ。
 しかし実際上の必要について、かなり富永は動いている。村井の紹介で、一中の同級生河上徹太郎の上大崎の家を訪ねている。河上の父親は後に横浜ドックの会長であるが、当時、日本郵船役付社員だったので、便宜を計って貰うためである。例えば三等の料金で、上等の食堂へ飯を食いにいける特権など。十一月四日、河上訪問の記事あり。同時に今里町七七の小林秀雄も訪れたと見えて、名前が手帳にある。…」


 昔の人は良く手紙を書いています。手紙には必ず住所が書かれていますので、場所も直ぐに特定できます。

写真は「大岡昇平全集 17 評論W」です。この中から” 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品”を参考にします。上海関連の書簡としては全部で11通です。この11通の中から上海での住まいや訪ねたところを推定していきます。谷崎潤一郎や芥川龍之介のように、新聞等に掲載された書き物が残っていればよりベターなのですが、富永太郎は全く無名でした。

「中原中也研究 12号」
<中原中也研究 12号 富永太郎と上海>
 富永太郎の上海について一番良く纏められているのが「中原中也研究 12号」に張競さんが講演をまとめられた”富永太郎と上海”です。よく現地を調べられています。

 里見クの「中原中也研究 12号 富永太郎と上海」からです。
「今日は、上海における富永太郎の空間経験とその創作の関係についてお話をしたいと思います。コーディネーターの佐々木さんから、この研究会での発表のご依頼をいただいたとき、一瞬「なぜ私に?」と思いました。即答を保留して、関連する資料をとりあえず読んでみることにしました。私は「大正文学と中国」を専門研究のテーマにしており、その関係で、大正時代に中国を訪
れた日本の作家たちのことも勉強していました。その角度からならば、富永太郎の上海滞在について何か話せるかもしれないと思いましたが、富永太郎の詩を読んでいるうちに、その魅力に取り憑かれてしまいました…」

 
写真は中原中也記念館発行の「中原中也研究 12号」です。2007年8月発行です。講演は2006年6月に駒場の日本近代文学館で開催されています。私も講演を聞いてみたかったです。

「神戸 海岸通り」
<神戸 海岸通り 大橋旅館>
 富永太郎は上海に洋行するために神戸にやってきます。当時の上海航路は・長崎−上海間がメイン航路でした。
・長崎−上海:9便/月、約24時間の航路、運賃は三等で15円。
・横浜−上海(大阪、神戸、門司経由):5便/月、6日間、22円
・大阪−上海(神戸、門司経由):8便/月、5日間、18円
 長崎−上海間は新造船で圧倒的に早かったのですが、どうゆう分けか、富永太郎は神戸から上海行きに乗船しています。神戸を訪ねたかったのか、又は京都の冨倉徳次郎のところに寄りたかったのかもしれません。冨倉徳次郎は富永太郎の一中の2年先輩で、第二高等学校から東京帝国大学に進みますが、途中で京都帝国大学に移っています。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「 書簡52      十一月十八日附。…正岡宛。三宮局発。
  一昨晩冨倉のところに泊つた。昨晩は二人で神戸泊り。新開地の淫売宿のやうに見える宿屋 ── さうではないのだが ── の三畳に二人入れられた。京都から降り続いた雨が窓の外で降つてゐた。
  今日起きて宿を出たときは神戸つて下らない町だ ── こんなところで「午前に於ける散策の詩」をつくりたくなつたなんてどうかしてると思つたが、海岸通りの宿に移つてから、すつかり参つてしまった。午近くにうちを出て、海岸の赤煉瓦の人道の上をさんざ歩き廻つてから、南京町の支那料理屋で、午頃から五時すぎまで、飲んだり食ったりした。窓から支那人の男女を見おろして、大変幸福だつた。とにかく神戸はいゝとこだ。船の出帆が延びて、明日出ること〔に〕なつた。冨倉とはさつき停車場で別れて来た。「どうも近々僕も行きさうな気がする。正岡も黙つちやゐまい」とか云つてゐた。どう思ふ? むかふへっいたらまた便りをしよう。
   十一月十八日夜
                            海岸通大橋旅館にて                   太」


<スケジュール>
・大正12年11月16日:京都の冨倉徳次郎の下宿に宿泊
・大正12年11月17日:”新開地の淫売宿のやうに見える宿屋”に宿泊
・大正12年11月18日:海岸通大橋旅館に宿泊
・大正12年11月19日:午前中に日本郵船の山城丸で上海へ向う

写真は現在の海岸通り中突堤付近です。大橋旅館はこの付近にあったものとおもわれます(戦前の海岸通りの写真を掲載しておきます)。商工名鑑等を調べましたが記載が無く、詳細の場所は不明です。もう少し調べてみます。”新開地の淫売宿のやうに見える宿屋”については全くわかりません。新開地は戦前の神戸では一番の繁華街で、二人はぶらぶらしたのだとおもいますが、東京での浅草の雰囲気ですので期待外れだったのではないでしょうか。18日に南京町を歩いてりますので、この付近は日本郵船神戸支店もあり、元居留地街近くですから雰囲気が良かったのではないかとおもいます。



上海1932年(昭和7年)地図



昭和14年(1939)上海日本人街便覧より



「日の丸旅館跡」
<日の丸旅館>
 大正12年11月19日、神戸を日本郵船の山城丸で出港しています。当時の時刻表を見ると、5日かかるのですが、4日目の22日午後上海に着いています。日本郵船は上海に自身の匯山碼頭を所有しており山城丸もこの埠頭に着いたものとおもわれます。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「 書簡53 十一月二十一、二十二日附。同右正岡宛。上海呉秘路二二六日の丸館発。
  ゆふべはかなり荒れたので夕飯を控へたほどだつたが、今日の天気と云つたら、またすばらしいものだつた。一日甲板の莫惹の上に人足のやうにころがつて、日向ぼつこをしてゐた。これでもうあしたの午すぎになると上海へ着いてしまふのださうだから訳のないものだ。
 三等には支那人が沢山ゐるが、神戸の南京街で見たやうな美しいのは、男にも女にも一人もない。この航海には船の中に可愛いゝ支那の女の子を一人欲しかつた。
 僕は特別三等といふので来だのだが、暗くて狭くて仕方のないものだ ── べッドと食事が三等よりいいのださうだが。夜は読み書きするのに為不自由なので、三等船室のひろびろとしたテーブルの、大きな電燈の下で書いてゐる。
 乗合の人などにきいてみると支那人の下宿なんかは馬鹿げて安いさうだから、当分は何にもしずに散歩ばかりしてゐられるかもしれない。
  十一月二十一日                                山城丸にて
 忠 様                                     太

 今日午後ついた。
 ここは日本人のやつてゐる下宿兼旅館といつたやうなうちだ。暗い路次のつきあたりの支那風の土壁の家だ。中に入ると畳がしいて襖が立つてゐる。江沢の室を貧弱にしたやうな室だ。後ろに倒れさうなエビ茶色の洋館があつて、着いたときは窓越しに白人の十六七の娘が二人、小さな女の子(頭だけしが見えないのでよくはわからぬ)の髪を結つてやつてはしゃいでゐた。そこへ年増の支那女が何がを盆に載せて入つて来るのが見えたが、夜散歩から帰つて来ると、同じ家からクラリネッ卜でショハンのノクチュルヌを下手に吹いてゐるのがきこえたつけ。
 町はいゝ。支那町も外人町も。当分大丈夫だと思つて気強い。
 あんまり可愛らしい女の子にはまだ逢はない。きつと家の中にゐるのだらう。いづれ後便で。」


 上海での宿泊先が「日の丸旅館」になった理由はよく分かりません。事前に調べていたものかもしれません。

写真は現在の昆山路と呉淞路の交差点の東側を北に向って撮影したものです。昔の呉淞路と比較してみると道幅は数倍に広がっていますので、呉淞路から路地を少し入ったところにあった「日の丸旅館」は写真の数十メートル先の道路の上ではないでしょうか。海寧路と呉淞路の交差点から呉淞路を南に撮影した昔の絵葉書@を掲載しておきます(道幅を見てください.、場所は右側に至誠堂書店があるので分かります)。

「余杭路(旧有恒路)」
<c/o Mme Roach 2039 Yuhang Rd. Shanghai>
 富永太郎が日の丸旅館から転居した先が”c/o Mme Roach 2039 Yuhang Rd.
Shanghai”です。漢字で書いてくれていれば良かったのですが、中国語(当時は上海語?)の読みをローマ字で書いたものなので正確性に欠けます。”Yuhang Rd”は”有恒路”と一般的には推定されています。”有恒路”は現在は”余杭路”と名前が変っており、ローマ字表記は”Yuhang Rd.”となっており、富永太郎が書いたローマ字と全く同じになっています。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「 書簡55   十一月二十七日附。正岡忠三郎宛。同右発。
  こゝへ移つた。
    c/o Mme Roach 2039 Yuhang Rd. Shanghai
  貧乏さうなルーマニア人の婆さんとその息子の家だ。プロフェサー・ティムシュを知つてゐるかと云つたら、大変親しいと云つてゐた。住所を知らないかと言つて、しつこくきいてゐた。
  今老酒に酔つてゐる。何にも書けない。
   十一月二十七日夜
  忠 様                            。              太
  今夜は上海最初の雨だ。暑い。」


写真は現在の「余杭路」を西から東に撮影したものです。300m弱しかありませんので、番地は門牌号なので2039号まで付くはずがありません。一般的には中国の番地は門牌号(建物)に付いていて、延安東路外灘を出発点に、ここから各方位に向かってそれぞれ左側を奇数番号、右側を偶数番号として順次数を増やしていくのを基本としているようです。

 「中原中也研究 12号 富永太郎と上海」では東余杭路ではないかと書かれています。

「梧州路10号」
<上海日日新聞>
 富永太郎は上海で一番通ったのが「上海日日新聞」でした。社長と社員にフランス語を教えていたようです。富永太郎はがフランス語を喋れたかどうかは不明です。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「  書簡57         十二月八日附。   正岡宛。同右発。
 手紙ありがたう。昨日受取つた。今夜は高梁酒に酔つた。場末のごく下等の居酒屋だ。
 この頃は夜昼茶館に入りびたりだ。暗い広間の中で日夏耿之介をよんだり、自分の詩を読み返したりして日を暮してゐる。
  こゝの日々新聞の社長と社員とにフランス語を教へて食費だけはとれるやうになつた。けれどゴマノハヒに 金をとられてふさいでゐる。それも色仕掛ならいゝが、あはれっぽい仕掛けでやられたんで、いけない。パイプはまだつかぬ。さよなら。
   十二月八日夜十一時十五分
  忠 様                                                  太

  書簡60                      同日附。仙台市土樋九六松倉方正岡忠三郎宛。同右発。
  十二月三日附、日の丸気附の手紙きのふ受け取つだ。僕はたしかに今の住所を知らせた筈なのに、こゝへ宛てゝ手紙が来ないのが不思議でならない。(あの手紙と、尚志会雑誌とはあの宿屋に十日以上おいてあつたにちがひない。)
 一昨日から銅貨一枚なしで、暮してゐたが、今日どうしたことか、ふとゴマノハヒが来て一弗置いて行つた。
で、今酔つてゐるわけなのだ。
 不思議な日が続く。これは詩になつて見せる折があらう。ここの日々新聞社の社長と社員とに、あやしげなフランス語を教へて、その代りに社の食堂へ飯を食ひに行くことが出来るやうになつてゐるから、当分かつへはしない。ただ今日の日ぐれ方から姻草がきれて喉が或る発作を起しさうになつてゐたのが、云ひ難い苦悩だつたが、(それで僕がニコチン中毒者であることを宣告された)今はそれが癒された。ゴマノハヒに感謝してゐる。
 二高の佐藤春夫をよんだ。どうせあゝなるならもっと佐藤春夫になりきってもらひたかった。藤村文集時代の藤村がまぎれ込んでゐるのは迷惑に思ふ。
 念のため今のアドレスをもう一度書かう。
  c/o Mme Roach 2039 Yuhang Rd. Shanghai
 それから僕の一ばんよく行くとこは上海日々新聞社だ。人工楽園は今ちよつと金になる見込がないが、念のため、こゝへ宛て送つといてくれたまへ。パイプはまだ届かないよ。

 書簡62                   (十二月三十日)、代々木富ケ谷一四五六富永次郎宛。同右発。
 学校で書いた手紙うけとつた。ありがたう。…
…      ’
 ガンバスの宛名は
  上海梧州路 上海日々新聞社内 長谷川三雄としておいてくれたまへ。」


 上海日日新聞については「上海歴史ガイドブック」には書かれていませんでした。他の新聞社は書かれていたので不思議です。仕方がないので国会図書館で1926年発行の「上海年鑑」で調べました。電子化されているので探すのは簡単なのですが、ページ送りが遅くて困りものです。新聞、通信及び出版業の欄で見つけることができました。

写真は現在の「梧州路」を南から北に撮影したものです。梧州路10号ですから写真の先の右側、高層住宅のところになります。上記にも書きましたが、上海の地番のつけ方は、延安東路外灘を出発点に、ここから各方位に向かってそれぞれ左側を奇数番号、右側を偶数番号として順次数を増やしていくのを基本としているようです。南北に走る道路では、延安路の北側は南から北の順に、西側に奇数の、東側に偶数の門牌号を付けます。

「日本人クラブ跡」
<日本人クラブ>
 最後が「日本人クラブ」です。日本人クラブは谷崎潤一郎が1918年(大正8年)一回目の上海旅行で宿泊したので有名です。谷崎潤一郎の友人が三井銀行上海支店に勤める土屋計左右で、虹口日本人倶楽部に下宿していたからです。

 「大岡昇平全集 17 評論W 富永太郎 書簡を通じて見た生涯と作品」からです。
「  書簡58     十二月十三日附。富永次郎宛。同右発。
 手紙今うけとつた。版画や、マヴオの図録ありがたう。版画は、ずゐぶん技巧がうまくなつたんで驚いた。仏像の技巧なんか立派なもんだ。だが、僕は風景の方がすきだ。おちついたいい味が出てゐる。
 マヴオはさかんだつたらしいね。今そんなに見たいとは思はないが。
 こつちでも今絵の展覧会が二つある。一つは水彩画会ので、下らないにきまつてるから見に行かない。一つは僕の知つてゐる秋田といふ人と、その友人の岡島といふ人との二人会だ。こつちにはなかく面白い風景があつだ。日本人クラブでやつだものだから、そこいらの日本人が、尤もらしい顔をして、沢山やつて来たが、上海に絵のわかる日本人なんか居るものか。
 からだはもういゝかい。東京は馬鹿に寒いさうだから、気をつけなくちやいけない。今日から地図の校正にやとはれた。半日やつて来たら眼がしょぼしょぼして閉口だ。こつちも今朝からかなり寒くなつだ。
   十二月十三日
  次郎様                                           太
  本のことありがたう。待つてゐる。」


写真は現在の塘沽路(旧 文路)と呉淞路の交差点を西に撮影したものです。日本人クラブは写真左側にありました。もっとも、呉淞路が拡張されているので道路の上かもしれません。



現在の上海地図



富永太郎の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 富永太郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 本郷区湯島新花町97番地で生まれる
明治36年 1902 小学校の教科書国定化 1 本郷区金助町73番地に転居
本郷区東片町に転居
明治41年 1907 ロンドン海軍会議 6 4月 駒込西方町誠之小学校に入学
大正 3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 東京府立第一中学校に入学
大正 4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 14 本郷区丸山新町24番地に転居
小石川区戸崎町13番地に転居
大正 5年 1916 世界恐慌始まる 15 荏原区入新井村不入斗1488番地に転居
大正 6年 1917 ロシア革命 16 東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地に転居
大正 8年 1919 松井須磨子自殺 18 9月 第二高等学校理科乙類に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 20 3月 連坊小路瑞雲寺に転居
5月下旬 青根温泉に遊ぶ
12月 第二高等学校中退
大正11年 1922 ワシントン条約調印 21 2月 第一高等学校仏法科を受験するが不合格
4月 東京外国語学校仏語科に入学
大正12年 1923 関東大震災 22 11月 上海に向かう
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 23 1月 上海より帰国
6月 京都の正岡忠三郎の下宿に同居
9月 下鴨宮崎町仲ノ町下鴨郵便局下ル西野方に転居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
24 3月 片瀬に転地療養