●富永太郎の京都を歩く
   初版2007年8月25日 <V01L04> 
 今回は先週に引き続いて富永太郎シリーズの第四弾、「富永太郎の京都を歩く」です。富永太郎は第二高等学校を中退し東京に戻りますが、友人たちは無事 第二高等学校を卒業し京都帝国大学に入学します。

「中也と太郎展」
<富永太郎と中原中也>
 以前にも書きましたが神奈川近代文学館で「中原中也と富永太郎展」が開催されていましたので、私も見てきました。資料もよく集められていましたので大変興味を持って見ることができました。中原中也については別に掲載していますのでそちらを見てください。今回は富永太郎と中原中也の京都での出会いのみを掲載します。大岡昇平全集17を参照します。「…中原が立命館中学に転校したのは大正十二年の春で、その年の暮、丸太町の古本屋で「ダダイスト新書の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を書き始めていた。当時立命館中学で国語を教えていた冨倉氏の作文の時間に、答案代りに詩を書いて出すほどの、自信と主張を持っている。 この頃洛西椿寺附近の下宿にマキノ・プロダクションの女優長谷川泰子と同棲していた。岡田時彦、葉山三千子等が同じ下宿にいた。正岡氏の日記五月一日の項に、冨倉氏等と共に、新京極の正宗ホールに飲む記事があり、既にグループの中にいる。富永とは七月が初対面であるが、中原の単純明快な自己主張と多弁の前に、太郎の迷いが一たまりもなかったのは、「ダダイストを訪ねてやり込められたり」の句に窺われる。年は中原が六歳年少であるが、まるで中原の方が先生みたいだったと、冨倉氏は回想している。また、他人の容晩を許さない緊張したものがあったともいう。友情よりは、対決と呼ぶのが適当な交際だったらしい。…」。 大正13年7月に二人は初めて出会います。この出会いの前に富永太郎の友人である冨倉徳次郎が中原中也を見いだしています。冨倉徳次郎は府立第一中学校で富永太郎の二級上で、第二高等学校から東大理学部に入学しますが、後に京大国文科に移ります。この京都時代にアルバイトで立命館中学の教師をします。その時の生徒に中原中也がおり、一風変わった中原中也を見いだしわけです。

左上の写真は神奈川近代文学館で開催された「中原中也と富永太郎展」で購入したものです。富永太郎と中原中也の生い立ちから出会い、亡くなるまでを詳細に記載されていました。大変参考になりました。

「中筋通石薬師上ル」
中筋通石薬師上ル>
 中原中也は京都時代には度々転居しています。富永太郎との出会いはこの中筋通石薬師上ル高田大道方からでした。「…九月一日に富永、冨倉、正岡氏と共に、出町のカフェー・フクヤに飲む記事が正岡日記にある。十月初め中原が中筋通石薬師上ル高田大道方へ越して来てから交友が繁くなる。…… 正岡日記十月二日に、富永、ダダイストと共に仏展を見るの記事がある。帰途動物園に入り、それから中原が近く引越すという中筋通の下宿に連れて行かれる。同じ下宿へ来いとすすめられたが、部屋に半間の押入しかないのを理由に断るとある。この後間もなく中原は泰子と共に中筋通石薬師上ル高田大道方に移る。下鴨宮崎町の富永の下宿とは一キロの距離である。既往のように、二人の間の交友がしげくなるのはこれからである。中原は富永にとっては、最初の詩人の友である。…」。富永太郎と中原中也の関係はなんともいえませんね。最初は物珍しく見ていたとおもいますが、その後は …‥・ですかね!!

左上の写真は中筋通石薬師交差点です(中原中也全集別巻ではこの交差点より上がった左側七軒目の駐車場辺り)。高田大道方で調べれば詳細の場所は分かるかとおもったのですが、昭和31年の住宅地図には高田方はありませんでした。昭和5年の電話番号簿にも掲載はありませんでした。中筋通石薬師上ルの住所については写真右側のお宅の壁に住所表示がありました。この後、中原中也は写真の中筋通を少し上がった今出川一条目下ル中筋角、山本方へ転居します。(スペイン窓の家で有名で、現存します。)

【富永太郎(とみながたろう)】
 東京市本郷区湯島新花町で父・富永謙治、 母・園子の長男として生まれる。1914年、東京府立第一中学校に入学。1級下に小林秀雄と正岡忠三郎がいた。1916年、河上徹太郎が神戸一中から編入学、同級となる。1919年、第二高等学校理科に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。人妻との恋愛問題で二高を中退、東京に戻り東京外国語学校仏語科に入学する。上海へ旅をするが、肺結核に感染。京都帝国大学に在籍する正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在。このころ、立命館中学の4年に在籍していた中原中也と知り合う。闘病生活の傍ら『山繭』に詩を発表。1925年11月12日、逝去。享年24歳。(ウィキペディを参照)


富永太郎の京都地図


富永太郎の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 富永太郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 本郷区湯島新花町97番地で生まれる
明治36年 1902 小学校の教科書国定化 1 本郷区金助町73番地に転居
本郷区東片町に転居
明治41年 1907 ロンドン海軍会議 6 4月 駒込西方町誠之小学校に入学
大正 3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 東京府立第一中学校に入学
大正 4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 14 本郷区丸山新町24番地に転居
小石川区戸崎町13番地に転居
大正 5年 1916 世界恐慌始まる 15 荏原区入新井村不入斗1488番地に転居
大正 6年 1917 ロシア革命 16 東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地に転居
大正 8年 1919 松井須磨子自殺 18 9月 第二高等学校理科乙類に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 20 3月 連坊小路瑞雲寺に転居
5月下旬 青根温泉に遊ぶ
12月 第二高等学校中退
大正11年 1922 ワシントン条約調印 21 2月 第一高等学校仏法科を受験するが不合格
4月 東京外国語学校仏語科に入学
大正12年 1923 関東大震災 22 11月 上海に向かう
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 23 1月 上海より帰国
6月 京都の正岡忠三郎の下宿に同居
9月 下鴨宮崎町仲ノ町下鴨郵便局下ル西野方に転居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
24 3月 片瀬に転地療養



「浄土寺西田町96番地鳥居方」
浄土寺西田町96番地鳥居方>
 富永太郎は大正13年6月、京都帝国大学に入学した正岡忠三郎を京都の下宿に訪ねます。「…七月七日附。中渋谷大向小学校裏手村井宗太郎方村井康男宛。京都市浄土寺西田町九六鳥居よね方発。とうとうこゝへ遁走をしてしまった。遁走の結果はどうなんだか知らない。毎晩のやうに鴨川辺に出て来ては、生ビールをのんで、彷復してゐる。今もさうやってゐるところなのだ。おそろしく暑い。外で一枚描いたきりへこたれてしまった。明日からは市立図書館に入って泡鳴全集を読んで午後をくらすつもりだ。ダダイストを訪ねてやり込められたり、酔って円山公園の辻占亮の女の子を抱き上げて通行人に警察の無能を慨歎させたり、その他いろいろのことがあった。 この夏若し西の方へ行くやうだつたら寄り給へ。相棒は昨日帰国してしまった。市電の熊野で下りて、大学と三高の間を通って、大文字楼市場といふのをたづねるのだ。それからすぐ疏水を隔てたところだ。田舎だから遠いよ。村田さんに会ったときはよろしく。七月七日夜 鴨川べりのビヤホールで   太 …」。友人たちが京都に行ってしまい寂しかったのでしょう。京都に行きたくてしょうがなかったようです。

左上の写真の左側が正岡忠三郎が下宿していた浄土寺西田町96番地です。鳥居方は確認できませんでした(番地からの確認です)。上記に鳥居方を訪ねる道順が書かれていますが、あまり正確ではありません。西田町の北側の今出川通りは当時は無く、直ぐに疎水だったようです。

「下鴨宮崎町下鴨郵便局下ル西野方」
下鴨宮崎町仲ノ町下鴨郵便局下ル西野方>
 富永太郎は一度東京に戻ります。親の許可を得て京都に下宿したかったのだとおもいます。「…二度目の京都行は志津から汽車賃を貰い、家へは無断で実行された。最初は一週間ぐらいの予定で許可されたのだろうが、長期滞在となると別問題である。勉強はどうなる、と母親が心配するのは当然で、恐らく父とも喧嘩して家を出て田端の丹羽瀬家へ行き、旅費を叔母から貰って、そのまま発ってしまったのである。…」。母親の実家を頼りにしているようです。叔母はやさしいですね(東京の母親の実家を再度歩いてみる予定です)。「…富永はこんどは正式に京都住いの許可を得たらしい。九月三日以前に下鴨宮崎町、乱の森西辺の農家の離れに移っているからである。富永家としては、息子をいつまでも正岡氏と同宿させることは、正岡家に対して出来ないわけである。月々の手当は後出の母園子宛書簡によれば三十円である。…」。この辺りは松竹撮影所の近くでもあり、下宿もたくさんあったようです。冨倉徳次郎もこの近くに転居しています。

右上の写真の右側奥辺りに下宿があったようです。西野さんは現在もお住まいでしたので直接の撮影は控えさせていただきました。下鴨郵便局は現在はありませんでした(建て直し中かも入れません)。少し前まで下鴨郵便局があった所の写真を掲載して来ます。戦前の場所も少し違ったようです。

「岡崎町南御所町13番地青木方」
岡崎町南御所町13番地青木方>
 冨倉徳次郎の下宿も掲載しておきます。「… 冨倉は国文学者冨倉徳次郎氏。府立一中で二級上で、この頃は東大理学部一年生、後に京大国文科に移り、立命館中学生の中原中也を見出す。その後、二松学舎その他の教授、『平家物語』専門の国文学者として知られる。しかしこの頃は小説家志望だった。東京の家は神田小川町にあった。…… 京都行は十日後実現する。結局母親が負けたのである。三十日の夕方京都着。正岡、冨倉両氏に迎えられて、円山食堂で飲み明かす。…」。京都帝国大学から少し離れた平安神宮の東側に下宿をしています。インクラインや動物園のすぐ傍になります。遊ぶにはこちらの方がよかったのかもしれません。アルバイトしていた立命館中学校は遠すぎます。

左上の写真の左側、二軒目です(新しい家になっていました)。青木方は確認できませんでした。番地のみの確認です。左側のお宅は戦前の建物だとおもわれますので、冨倉徳次郎もこのようなお宅に下宿していたのでしょう。

「下鴨宮崎町7番地中山方」
下鴨宮崎町7番地中山方>
 冨倉徳次郎は富永太郎が京都に滞在しているときに転居したようです。「… 正岡日記によれば、九日、正岡氏は富永と共に中原の下宿を訪ね、花を引く。下鴨の冨倉氏の新しい下宿先へ 行き、一時すぎまで話す。それから富永の部屋へ行き、中原と三人で話す。翌朝、七時に起き、喫茶店でパンを 食べて、一人下宿へ帰った。 正岡氏はほとんど富永と中原との会話を聞いていただけだったという。恐らくこの頃が二人の友情が一番緊張 した時期である。友情はあとひと月続くが、十一月十四日富永は「時間の空費だった」と考える。 十月十一日重大な事件が起る。喀血である。どの程度の喀血か、富永は正岡氏にも隠していた。その後の経過 から見て、小指の先ほどの微量と思われる。…」。富永太郎の下宿のすぐ傍です。この下宿の南側は下鴨小学校で、もう少し南に下がると松竹下加茂撮影所となります。この撮影所は関東大震災(大正12年9月)の後に開設されており、富永太郎や冨倉徳次郎もこの撮影所の前を歩いたとおもいます。田中絹代がこの撮影所に通っていた頃です。

右上の写真の正面の駐車場辺りが下鴨宮崎町7番地です。こちらも中山方は確認できませんでした。番地のみの確認です。

この後、富永太郎は体調を崩し、東京に戻ります。

次回は「富永太郎の東京を歩く」に戻ります。