<富永太郎と中原中也>
以前にも書きましたが神奈川近代文学館で「中原中也と富永太郎展」が開催されていましたので、私も見てきました。資料もよく集められていましたので大変興味を持って見ることができました。中原中也については別に掲載していますのでそちらを見てください。今回は富永太郎と中原中也の京都での出会いのみを掲載します。大岡昇平全集17を参照します。「…中原が立命館中学に転校したのは大正十二年の春で、その年の暮、丸太町の古本屋で「ダダイスト新書の詩」を読んで感激し、ダダ風の詩を書き始めていた。当時立命館中学で国語を教えていた冨倉氏の作文の時間に、答案代りに詩を書いて出すほどの、自信と主張を持っている。 この頃洛西椿寺附近の下宿にマキノ・プロダクションの女優長谷川泰子と同棲していた。岡田時彦、葉山三千子等が同じ下宿にいた。正岡氏の日記五月一日の項に、冨倉氏等と共に、新京極の正宗ホールに飲む記事があり、既にグループの中にいる。富永とは七月が初対面であるが、中原の単純明快な自己主張と多弁の前に、太郎の迷いが一たまりもなかったのは、「ダダイストを訪ねてやり込められたり」の句に窺われる。年は中原が六歳年少であるが、まるで中原の方が先生みたいだったと、冨倉氏は回想している。また、他人の容晩を許さない緊張したものがあったともいう。友情よりは、対決と呼ぶのが適当な交際だったらしい。…」。 大正13年7月に二人は初めて出会います。この出会いの前に富永太郎の友人である冨倉徳次郎が中原中也を見いだしています。冨倉徳次郎は府立第一中学校で富永太郎の二級上で、第二高等学校から東大理学部に入学しますが、後に京大国文科に移ります。この京都時代にアルバイトで立命館中学の教師をします。その時の生徒に中原中也がおり、一風変わった中原中也を見いだしわけです。
★左上の写真は神奈川近代文学館で開催された「中原中也と富永太郎展」で購入したものです。富永太郎と中原中也の生い立ちから出会い、亡くなるまでを詳細に記載されていました。大変参考になりました。