●富永太郎の仙台を歩く
   初版2007年8月18日 <V01L02> 
 今回は先週に引き続いて富永太郎シリーズの第三弾、「富永太郎の仙台を歩く」です。富永太郎は大学入学を目指して府立第一中学校(現 日比谷高校)から大学予科のある仙台の第二高等学校(現 東北大学教育学部)を受験します。

「第二高等学校正門跡」
第二高等学校>
 大正八年九月、富永太郎は東京府立第一中学校から第二高等学校に入学します。旧制高等学校とは、明治27年(1894)の「高等学校令」で高等中学校の名称が高等学校に変更された以降の官立高等学校のことをいいます。当初は全国に八校の高等学校が設立されます(第一高等学校が東京、第二高等学校が仙台、第三高等学校が京都、第四高等学校が金沢、第六高等学校が岡山、第七高等学校造士館が鹿児島、第八高等学校が名古屋)。大阪と福岡、広島が設立されず弘前や水戸等は後になって設立されています。当初、高等学校は専門学部4年、大学予科(後に本科)3年制に分かれており、京都の第三高等学校には大学予科がありませんでした(後に開設)。そのため、旧帝大に入るための大学予科のある第二高等学校を多くの生徒が受験したようです(第一高等学校は難しく、他は遠かった!!)。「…第二高等学校の創立は明治二十年の四月にまでさかのぼる。 明治十九年四月「中学校令」が発布されて、全国を五区に分画し、毎区に一つの高等中学校を設置することになった。その結果、同年十一月に高等中学校設置区域が定められて、宮城・福島・岩手・青森・山形・秋田の東北六県をもって第二区が編成され、ついで十二月、第二区の高等中学校は仙台に置かれることに決定した。…… 本校舎の敷地は、すでに二十一年二月十四日に仙台市片平丁元陸軍省用地に定められていたので、この年の七月十一日から新校舎の建築に着手した。翌年七月十九日に至って新築校舎中、本館が落成し本省から仮交付を受けた。…… 門は赤レンガの角柱一対で、扉がなく、鉄鎖一本を渡すだけのものであるが、跨いだ者は未だかつて一人もなかった。この門はその後、北六番丁に運ばれて、武道寮の正門となっていたが、現在は富沢分校内、二商記念館前に移されてある。終戦後、二高の三神峯移転当時の学生が、大八車で運んだのである。…… 明治二十七年(一八九四)六月二十五日に、「高等学校令」が発布されて、各高等中学校はそれぞれ高等学校と改称されることになった。そこで本校も第二高等学校と改称するにいたった。新制の高等学校は専門の学科を教授するところであって、あわせて大学に入学するもののために大学予科を設けることになり、七月十二日、二高には医学部および大学予科(一部・二部)が置かれた。大学予科に三部が設けられたのは、三十一年六月になってからである。ところが、この学制改革において、京都の第三高等学校には大学予科が設けられなかったので、大学入学を希望する同校の生徒七八名が、二高に転学してきた。…」。 今以上に当時は受験が大変だったようで、競争倍率が5〜7倍あったそうです。高等学校は全国で八校しかないですから当然です。No高等学校の定員と旧帝大の入学定員がほぼ同じだったようで、No高等学校に入りさえすれば旧帝大には簡単に入れたようです。太宰が弘前高等学校から東京帝大に入ったのも分かりますね。

左上の写真は東北大学片平キャンパスにある旧制第二高等学校正門です。第二高等学校は元々片平丁(下記の地図参照)の東北大学片平キャンパスにあり、後に北六番丁に移っています。正門も北六番丁に移ったのですが、昭和43年に東北大学片平キャンパスの元の位置に戻されました。

「鹿ノ子清水小路」
<米ヶ袋芝蘭寮>
 第二高等学校に入学した富永太郎は東京府立第一中学校生のための寄宿舎 米ヶ袋芝蘭寮に入ります。「東北大学五十年史」から第二高等学校の寮について書かれた所を参照しました。「…寮の歴史を顧みると、その後、高校生活の中心となるべき寄宿舎が全然なくてはとあって、三十一年八月に、元寄宿舎の一部を復活して誠之寮と名付け、四年間も続いたが、やはり、教室不足のためにこれまた三十五年になって廃止される運命をみた。荒町鈴木重兵衛の家屋を借受けて、清水小路に明善寮ができたのは、ずつと後の明治三十九年になってからである。ここも当初の収容人員は五〇人に過ぎなかったし、年年入寮希望者が増加したため、つぎつぎと増築したり、分寮を造ったりしたが、到底入寮希望者の全部を収容する,寮ができなかったのである。そこで、昭和二年、二高が北六番丁に移ったとき、二四〇人を収容することができる寄宿舎を新築し、始めて一年生全寮制度が実現を見た。いわゆる北六明善寮はこの一連の流れをくむものである。…」。富永太郎が入学時に入った米ヶ袋芝蘭寮については全く書かれていません。最も米ヶ袋芝蘭寮は東京府立第一中学校生のための寮だったようで、第二高等学校の寮ではなかったためかもしれません。

左上の写真は鹿ノ子清水小路を北側から撮影したものです。正岡忠三郎の書簡の住所に”仙台市米ヶ袋鹿子清水芝蘭寮”と書かかれたものがあり、米ヶ袋芝蘭寮の住所が少し分かりました。上記に書かれている明善寮については鈴木方と分かっていた為、探したところ、上記写真の中央やや左側のマンションの場所とわかりました。米ヶ袋芝蘭寮については地番が分からないため、詳細の場所は分かりませんでした。この写真の道の何処かだとおもいます。

【富永太郎(とみながたろう)】
東京市本郷区湯島新花町で父・富永謙治、 母・園子の長男として生まれる。1914年、東京府立第一中学校に入学。1級下に小林秀雄と正岡忠三郎がいた。1916年、河上徹太郎が神戸一中から編入学、同級となる。1919年、第二高等学校理科に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。人妻との恋愛問題で二高を中退、東京に戻り東京外国語学校仏語科に入学する。上海へ旅をするが、肺結核に感染。京都帝国大学に在籍する正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在。このころ、立命館中学の4年に在籍していた中原中也と知り合う。闘病生活の傍ら『山繭』に詩を発表。1925年11月12日、逝去。享年24歳。(ウィキペディを参照)


東北大学片平キャンパス付近地図


富永太郎の年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 富永太郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 本郷区湯島新花町97番地で生まれる
明治36年 1902 小学校の教科書国定化 1 本郷区金助町73番地に転居
本郷区東片町に転居
明治41年 1907 ロンドン海軍会議 6 4月 駒込西方町誠之小学校に入学
大正 3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 東京府立第一中学校に入学
大正 4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 14 本郷区丸山新町24番地に転居
小石川区戸崎町13番地に転居
大正 5年 1916 世界恐慌始まる 15 荏原区入新井村不入斗1488番地に転居
大正 6年 1917 ロシア革命 16 東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地に転居
大正 8年 1919 松井須磨子自殺 18 9月 第二高等学校理科乙類に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 20 3月 連坊小路瑞雲寺に転居
5月下旬 青根温泉に遊ぶ
12月 第二高等学校中退
大正12年 1923 関東大震災 22 上海に向かう
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 23 6月 京都の正岡忠三郎の下宿に同居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
24 3月 片瀬に転地療養



「東七番丁十二番地奥田方」
東七番丁十二番地奥田方>
 富永太郎は米ヶ袋芝蘭寮から東七番丁十二番地奥田方に転居します。「…太郎は無事二高の入試に合格し、同年九月、仙台駅東側、東七番丁十二番地奥田方に下宿する。当時、二高は後の東北大学法文学部の位置にあったから、徒歩二十分ほどの距離である。なお仙台市はその前年大火があり、駅の西側の繁華街は殆んど壊滅していた。 理科には五組あり、一、二、三の組までが理甲、四、五の組が理乙である。富、氷は五の組の副長であった。当時の中学校、高等学校は入学試験の成績序列で組割りをした。理乙の中で一番が四の組なら、二、三番が五の組、四、五番が四の組へ戻るという風に。従って太郎の成練は理乙の三番だったということになるのだが、書田無生の調査では理乙の一番である。 …」。入学試験が一番とはすごいの一言です。寮から下宿に移れたのは裕福だったからでしょう。当時としては贅沢ですね。

左上の写真の右側が東七番丁十二番地です。大岡昇平の本では”仙台駅東側”と書かれていますが、正確には仙台駅南側です(下記の地図参照)。正確には、現 東七番丁一番辺り(現在の東七番丁は北と南の二カ所に分かれています)、市立病院の南側付近とおもわれます。

「連坊小路瑞雲寺」
連坊小路瑞雲寺>
 大正十年に入ると、富永太郎は二高付近の通称鍋屋横町の下宿に転居しています(鍋屋横町の場所は不明です)。転居の理由は後で分かります。「…母親園子が来て、前の下宿で娘さんかお手伝いさんと問題を起こしたといった。…」。このコメントは「群像 1976年1月号、大岡昇平の”問わずがたり考”」よりです。先方からは結婚の話もあったようですがうまくいかなかったようです。更に3月には連坊小路瑞雲寺に再度転居します。この下宿でも大岡昇平に「問わずがたり」に書かれた第二の恋愛事件を起こします。「…彼女の家は連坊小路の東の端れ、東街道との交叉点の南方にあり、瑞雲寺とはあまり遠くない。陸軍将校はその夫の妹の夫で、後に大阪兵器廠長官、当時東北大理学部に特別留学中だった (陸軍はこんどの敗戦までフランス語が第一外国語だった)。 この富永に取って宿命の女H・Sにわれわれは一九七四年、仙台市宮城学院の蒲生芳郎氏の取りなしによって、会うことができた。瑞雲寺住職の代は替っていたが、最近他家に嫁いだ叔母の花子さんが仙台に帰っていて、その話を聞いた。H・Sの住居もわかり、面会を申込んで、会うことができたのである。 H・Sはこの時八十歳、明治二十六年生れであるから、富永より八歳年上である。無論、富永との恋愛も、この後富永の両親との交渉など、富永家に伝えられることを否定されたが、この年の夏、青根温泉で富永と知り合い、帰仙後、家に遊びに来て、義弟の陸軍将校がフランス語を教えたことは肯定された。これは瑞雲寺住職の叔母花子さんの証言と一致する。…」。事件とはここに書かれている通り、人妻H.Sとの恋愛事件です。ただ、富永太郎はまじめで何も無かったですが、この人妻の夫に知られてしまったことが問題を大きくします。

右上の写真が連坊小路瑞雲寺です。仙台は空襲にあっていますので、建物は建て直されているようです。現在の瑞雲寺の前の道は当時は無く、昔の瑞雲寺は連坊小路に面していたではないかとおもいます。また”彼女の家”については連坊小路と東街道の交差点の南側の医院ということで場所が特定できました。また、富永太郎の書いた絵の中に火葬場がありますが、このお寺の裏側に火葬場がありました。大正十五年の地図で確認しています。

「青根温泉不忘閣」
青根温泉>
富永太郎が初めて人妻H.Sに会ったのは仙台近くの青根温泉でした。「… 五月末から六月へかけて、正岡氏と共に、青根温泉に遊んでいる。これは仙台市西南二十八キロ、蔵王山東麓の温泉地で、旅館の娘「やっちゃん」に富永が興味を示したことが、正岡日記の記事にある。 七月暑中休暇、正岡氏は十五日帰京、富永は再び青根に遊んだ。そして「宿命の女」H・Sに会うことになるのだが、これについては、後に注する。二十九日東京の自宅に帰った。…」。青根温泉は江戸時代は仙台藩伊達氏の御殿湯が置かれていたそうです。

左上の写真の正面が不忘閣です。富永太郎が泊まった旅館で人妻H.Sと会ったのもこの旅館でした(雨の日の撮影で写真がいまいちでした)。共同浴場が近くにあり私も入浴しました。よかった!!


東七番丁十二番地、連坊小路付近地図



「米ヶ袋広丁14三浦方」
仙台市米ヶ袋広丁14番地三浦方>
 人妻H.Sの夫とは和解しますが、第二高等学校を中退し仙台を去ることが条件になります。「… 二人が町を散歩する姿が将校の目に留った、と正岡氏は記憶しておられる。この将校が騒ぎ立てたので、事件が大きくなった、と百合子さんはいう。 東京へ帰った太郎は、マダムの家に近い瑞雲寺を即座に引払うことを命じられたらしい。八日仙台に帰るとその日のうちに引越した迅速な行動は、彼自身も危険を感じたことを示している。米ケ袋広丁は連坊小路とは線路の反対側で、広瀬川の攣曲部に臨んだ住宅街、三浦方とは正岡氏の下宿である。 事件は一応これで落着いたように見える。…」。富永太郎の母親が仙台でこの事件の後始末をしています。富岡家としてはこの人妻を”太郎の妻にしてもよい”との決断をして仙台に来たようですが、人妻に逃げられてしまったのが真実のようです。熱くなったのは富永太郎だけだったのでしょうか!

左上の写真の正面突き当たりの手前右側付近が米ヶ袋広丁14番地三浦方です。左側は宮城県立工業高校です。現在の米ヶ袋二丁目3番地付近です。

この後、富永太郎は第二高等学校を中退し、東京の実家に戻ります。第一高等学校を受験しますが受からず東京外国語学校仏文科(東京外大)に入学します。

次回は富永太郎の京都を歩きます。


富永太郎の仙台地図