●富永太郎の東京を歩く (中)
   初版2007年8月11日
   二版2009年11月22日<V01L01> 富永太郎実家付近の写真を追加
 「富永太郎の東京を歩く」(下)です。前回は生誕の地から府立第一中学校(現 日比谷高校)までを歩きましたが、今回は住居の変遷を中心に歩いてみました。この後は、第二高等学校の仙台、正岡忠三郎の京都を歩きます。

「浜須賀駅跡」
<片瀬2459番地>
 大正14年に入ると富永太郎の病状はますます悪化してきます。肺結核が進んでいたようです。片瀬江ノ島近くに母親とともに転地療養します。大岡昇平全集17に掲載されている「書簡を通して見た生涯と作品」から当時の書簡をピックアップします。
 「 書簡98  三月七日附。村井康男宛。(同右発)
 本、早速ありがたう。今受取ったところだ。多分明日片瀬へ転地することになった。遊びに来ないか。鎌倉あたりへ出掛けてもいゝ。神奈川県片瀬二四五九。(略図あり) 知れなかったら、はますかで熊野徳蔵といふ家を探し、そこできけばすぐわかる。 右取あへずお知らせ。 Au revoir

 書簡99 三月十一日附。杉並町馬橋二二六小林秀雄宛。鎌倉発。
  二、三日前からこっちへやって来た。肺尖が大分わるいので。毎日電車に乗って鎌倉まで行く。そして退屈して帰って来る。  気の向いた日にやって来ないか。石丸を誘って来てもい。(略図あり)鎌倉へでも遊びに行かう。白葡萄ぐらゐはつきあへるから。
 片瀬2459                       長谷にて…」

 昔の人は本当によく手紙を書いていますね。手紙には必ず住所が書かれていましたから場所の特定には苦労しません。またその手紙の中に地図が書かれていれば万全です。因みに”Au revoir”はフランス語で「さようなら」の意味です。

「片瀬2459番地」
左の地図は小林秀雄宛に書かれた上記書簡99に書かれていたものです。左上の写真は地図に書かれている”はますか(浜須賀駅跡)”です。地図には江ノ電の”はますか(浜須賀駅)”が書かれていますが、現在はこの駅はありません。現在はすぐ近くに湘南海岸公園駅があります。富永太郎が転地療養した所は上記写真の踏切を超えて、少し歩いて突き当たって右に曲がった左側当たりのようです(突き当たった所の少し遠目の写真を掲載しておきます)。地図に書かれている酒屋は上記にも書かれている熊野宅のことで、現在もご家族の方がお住まいのようでした。詳細の場所については2459番地を探すと、道から少し入った奥まった所のようです(昭和31年片瀬西方略図によります。下記の地図を参照してください)。「…片瀬を一番先に訪ねたのは、結局正岡氏だったようである。 日記三月二十二日。「藤沢に下車、Tを訪ねる。太っていて熱もそんなになき由。しかしぐるっと江の島の方まで海岸を散歩したら直ぐ熟を出した。」 正岡氏は休暇で京都の下宿から、上根岸の養家へ帰る途中であった。なお十九日には上京区中筋通今出川山本方に引越している。これは中原中也の貸間を引き継いだもので、中原と長谷川泰子はそれ以前に上京したことになる。。…」富永太郎の一番の友人はやはり正岡忠三郎だったようです。

【富永太郎(とみながたろう)】
東京市本郷区湯島新花町で父・富永謙治、 母・園子の長男として生まれる。1914年、東京府立第一中学校に入学。1級下に小林秀雄と正岡忠三郎がいた。1916年、河上徹太郎が神戸一中から編入学、同級となる。1919年、第二高等学校理科に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。人妻との恋愛問題で二高を中退、東京に戻り東京外国語学校仏語科に入学する。上海へ旅をするが、肺結核に感染。京都帝国大学に在籍する正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在。このころ、立命館中学の4年に在籍していた中原中也と知り合う。闘病生活の傍ら『山繭』に詩を発表。1925年11月12日、逝去。享年24歳。(ウィキペディを参照)


富永太郎の片瀬地図


富永太郎の東京年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 富永太郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 本郷区湯島新花町97番地で生まれる
明治36年 1902 小学校の教科書国定化 1 本郷区金助町73番地に転居
本郷区東片町に転居
明治41年 1907 ロンドン海軍会議 6 4月 駒込西方町誠之小学校に入学
大正 3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 東京府立第一中学校に入学
大正 4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 14 本郷区丸山新町24番地に転居
小石川区戸崎町13番地に転居
大正 5年 1916 世界恐慌始まる 15 荏原区入新井村不入斗1488番地に転居
大正 6年 1917 ロシア革命 16 東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地に転居
大正 8年 1919 松井須磨子自殺 18 9月 第二高等学校理科乙類に入学
大正10年 1921 日英米仏4国条約調印 20 12月 第二高等学校中退
大正12年 1923 関東大震災 22 上海に向かう
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 23 6月 京都の正岡忠三郎の下宿に同居
大正14年 1925 治安維持法
日ソ国交回復
24 3月 片瀬に転地療養



「丸山新町24番地」
<本郷区丸山新町24番地>
 富永家は、太郎が府立第一中学校(現 都立日比谷高校)に入学した後、度々転居しています。父親は大正八年退官後、民間の青梅鉄道に再就職しています。「…謙治は明治末、西園寺内閣時代、私鉄合併を企画して功績があった。大正八年退官時の位級は高等官四等で(これは局長のすぐ下で、書記官として最高の等級である)、大正六年休職後は教育に転じ、鉄道教習所で書を教えた。代々木富ヶ谷の家は退官後の隠棲のために新築したものであるが、翌七年、青梅鉄道株式会社専務に招かれ、九年社長となった。青梅鉄道は浅野セメントの資材製品運搬用の鉄道である。しかし謙治の性格には洞介なところがあったから、浅野側の重役とうまく行かない。無料パス発行停止というようなことから、大正十二年には辞職の止むなきに至る。しかしとにかくこの間の四、五年は、富永家が最も裕福な時期である。…」。家庭としては裕福な方だったようです。

左上の写真の右側が本郷区丸山新町24番地です。誠之小学校のすぐ傍ですが、すでに府立第一中学校に入学していますので、日比谷まで通学は大変だったとおもいます。

「小石川区戸崎町13番地」
<小石川区戸崎町13番地>
 大正四年の二度目の転居は本郷区丸山新町から500m程離れた小石川区戸崎町です。この住所については「。大岡昇平全集17」に記載されている富永太郎年譜には書かれていませんでした。書簡の住所にも無かったのですが、「ユリイカ 増頁特集 富永太郎」の中の年譜に詳細の住所が書かれていました。

右の写真の右側辺りが小石川区戸崎町13番地です。当時の地図を見るとこの地番は禅雲寺というお寺になっていました。写真の道が参道だったようです。寺は既になく、この辺りも住宅が立て込んでしまって詳細の場所は不明です(13番地はかなり広い)。現在の住所では白山二丁目5番地付近です。

富永太郎の本郷・小石川地図



「入新井村不入斗1488番地」
<荏原区入新井村不入斗1488番地>
大正五年になると、どういう訳か富永家は大森駅近くの入新井村不入斗(いりやまず)に転居します。母方の実家である丹羽瀬家がそちらにあったからともおもわれます。「… 大正十一年一月八日、正岡氏は富永家を訪ねて泊った。九日、冨倉氏と三人で、大森に鳥を食いに行った。不入斗の元富永家の住んでいた家が鳥屋になったからだった。夕刊で大隈重信の死を知った。十五日、正岡氏は仙台に帰った。…」。当時のことについては全く書かれていませんでしたが、大正十一年の正岡忠三郎の日記に少しかかれていたようです。正岡忠三郎の日記は本当によく書かれているようです。ぜひとも出版して頂きたいとおもいます。

左上の写真の正面のダイシン百貨店の所辺りが1490番地です。当時の地番が書かれた地図を見ると1488番地はありませんでした。1487番地から1490番地に飛んでいました。多分、1490番地が広いため、この番地に吸収されたではないかと推定してます。現在の住所では大田区山王三丁目6番辺りです。

「代々木富ヶ谷1456番地」
<幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地>2009年11月22日 実家付近の写真を追加
 富永太郎が最後に住んだのがこの東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地(渋谷区神山町22番地)でした。「…代々木富ヶ谷一四五六番地は現在の渋谷区神山町二十二番地で、約五〇メートル西へ行くと、東大農学部(現教養学部)敷地に沿った通り (現山手通り) に出る。当時、下北沢で玉川上水から分流した三田用水が道に沿って流れ、渋谷と目黒の境の丘陵上を南東して、三田、二本榎に至っていたのでその名がある。この頃では多分目黒の海軍火薬厳が終点で、途中恵比寿ビールに給水する。これだけでも大きな工業用水であるから、水量は常に豊かで、水音も高かったのである。夏は恵比寿ビールの煤煙が富ヶ谷の空まで延びて来たらしい。…… 代々木富ヶ谷の家は退官後の隠棲のために新築したものである …… 代々木富ヶ谷の家は三百坪ほどの敷地に庭を広く取り、盆栽と高山植物を育てた。数十の鉢に、炎天下に水をやるのは園子の役目であった。太郎はその様子を縁側で見て、「余輩成長の後、自己の趣味のために妻子を苦しめず」と叫んだという。これは謙治自身が回想している言葉である。…」。代々木富ヶ谷1456番地は非常に広い地番です。渋谷区神山町22番地で見ると70m×90m 1900坪あり、この区画の中の300坪だとおもわれます。

右上の写真の正面左側が渋谷区神山町22番地です(代々木富ヶ谷1456番地で見ると写真左側全てが1456番地です)。富永太郎の実家は正面の白いビルの所手前をを左に曲がった先の交差点手前右側になります。下記の地図を参照してください。

次回は富永太郎の仙台を歩きます。

富永太郎の渋谷地図(大岡昇平の渋谷地図から)