●富永太郎の東京を歩く (上)
   初版2007年8月4日 <V01L03> 
 五月に神奈川近代文学館で「中原中也と富永太郎」の展示会が開催されました。小林秀雄、大岡昇平、富永太郎については以前から掲載の準備をしていたのですが、いいきっかけになりましたので、富永太郎から順次掲載していきたいとおもいます。まず最初は「富永太郎の東京」を歩きます。

「大岡昇平全集17」
<「大岡昇平全集 17」>
 富永太郎について書かれた本はほとんどありません。唯一、大岡昇平が書いているのみです。Googleで「富永太郎」で検索しても本としてはほとんど検索できません。「 富永太郎(一九〇一−一九二五) の生涯について、私はこれまでに幾度か書いた。しかしその少年期については、あまりにも資料が少なく、詳しいことはわからなかった。例えば、東京府立第一中学校(現日比谷高校)時代については、次の河上徹太郎の証言があるだけだった。「富永太郎君は私と東京府立一中時代の同級生で、器械体操のうまい自暫長身の美青年であった。海軍士官になるのが目的で、中学時代から高等数学などマスターしてゐたが、結局高校へ入学したやうだった。要するに私は彼の親友と自分の親友とが共通であったが、直接は余り識らないといふやうな間柄であった」(筑摩書房版『富永太郎詩集』序。昭和十六年一月) こんど富永の加わっていた器械体操グループの卒業記念写真が出て来た (大正八年五月)。その中には海軍兵学校へ入った者がいるが、そうでない者の方が多い。つまり河上の証言は器械体操グループに兵学校志望者がいたから、富永も同じ志望だったろう、という推測にすぎなかった。 大正八年富永が入学したのは、仙台の第二高等学校理科乙類である。これはドイツ語を第一外国語とするクラスで、医科や生物学の志望者が選ぶ。つまり、理科の中ではあまり数学が得意でない者が集まるクラスである。そして富永は二年後、解析不出来のため落第している。 富ヶ谷の奥に、同級生中村幸四郎がいて、富永と家族ぐるみ附合いがあった。器械体操はやらないが、富永との関係で同じグループにいた。富永が大車輪をやるそばの地面で、数学をやっていたという。中村氏は後に阪大教授。一九四三年にヒルベルトの 「幾何学基礎論」を翻訳した。その百頁の解説が当時有名であったという。…」。富永太郎は当時はほとん無名であり、戦後大岡昇平によって紹介され名を知られます。大岡昇平とともに有名になっていったような気がします。中原中也と同じで、詩としては一級品です。当時はこのような詩は難しかったのかもしれません。

左上の写真は大岡昇平全集の17巻です。内容のほとんどが富永太郎について書かれています。大岡昇平が生きておれば富永太郎全集は発刊出来たとおもいますが、現在は未刊のままです。大岡昇平と富永太郎のつながりを探すと、「…大正十四年十二月(太郎の死後一ケ月である)に弟の次郎と成城学園で同級となり、以来富永家との交際が続いている。富ヶ谷一四五六番地の家とは一キロ半ぐらいの距離であるから、よく遊びに行った。一九四六年以来、私が太郎の遺稿を托され、その伝記を書くのに、十分な便宜を与えられているのはこのためである。…」。富永太郎の弟と「成城学園」で同級でした。戦後、大岡昇平が戦地から生きて帰って来たときに東京でやっかいになったのが富永次郎でした(この時の話は別途「大岡昇平を歩く」で特集します)。

【富永太郎(とみながたろう)】
東京市本郷区湯島新花町で父・富永謙治、母・園子の長男として生まれる。1914年、東京府立第一中学校に入学。1級下に小林秀雄と正岡忠三郎がいた。1916年、河上徹太郎が神戸一中から編入学、同級となる。1919年、第二高等学校理科に入学。正岡忠三郎や冨倉徳次郎と同学年となる。人妻との恋愛問題で二高を中退、東京に戻り東京外国語学校仏語科に入学する。上海へ旅をするが、肺結核に感染。京都帝国大学に在籍する正岡忠三郎を訪ねて京都に滞在。このころ、立命館中学の4年に在籍していた中原中也と知り合う。闘病生活の傍ら『山繭』に詩を発表。1925年11月12日、逝去。享年24歳。(ウィキペディを参照)


富永太郎の東京地図


富永太郎の東京年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 富永太郎の足跡
明治34年 1901 幸徳秋水ら社会民主党結成 0 本郷区湯島新花町97番地で生まれる
明治36年 1902 小学校の教科書国定化 1 本郷区金助町73番地に転居
本郷区東片町に転居
明治41年 1907 ロンドン海軍会議 6 4月 駒込西方町誠之小学校に入学
大正 3年 1914 第一次世界大戦始まる 13 4月 東京府立第一中学校に入学
大正 4年 1915 対華21ヶ条、排日運動 14 丸山新町24番地に転居
小石川区戸崎町13番地に転居
大正 5年 1916 世界恐慌始まる 15 荏原区入新井村不入斗1488に転居
大正 6年 1917 ロシア革命 16 東京府豊多摩郡幡ヶ谷代々木富ヶ谷1456番地に転居


「湯島新花町97番地」
本郷区湯島新花町97番地>
 富永太郎は湯島天神のすぐ傍でうまれます。「…富永太郎は明治三十四年(一九〇一) 五月四日、東京市本郷区湯島新花町九七番地(現文京区湯島二丁目) に生れた。父謙治三十歳、母園子二十四歳の長男である。謙治は明治三年(一八七〇)名古屋市生れ、父孫一郎は維新前は尾張藩用人で家禄千石であった。謙治は六男三女中の五男で、この時の地位は鉄道省(当時、逓信省鉄道作業局)書記官であった。 母園子は明治九年(一八七六)生れ、父丹羽瀬生照は、美濃岩村藩(大給松平)家老丹羽瀬市左衛門の次男、分家を継いで、維新後太政官出仕となった。詩文を善くし、簡斎、野梅と号した。岩谷一六等明治の漠詩人と交友があった。富永孫一郎も蓬山と号し、漢詩を作り、書を善くした。その書は謙治に伝えられた。このように太郎は漢詩文と書がある親族中に育ったのである。…」。家庭としては恵まれていますね。富永家の将来を期待されて生まれてきた長男でした。

左上の写真の左側は湯島小学校です。湯島小学校は湯島新花町98番地なので、97番地は西側隣になります。写真では直接の撮影は控えていますが、写真の少し先左側になります。

「本郷区金助町73番地」
本郷区金助町73番地>
 母方の実家は新花町96番地で隣でした。あまりに近すぎたのか、富永家は湯島新花町のすぐ近くの金助町73番地に引っ越します。西南に200m位の距離です。「…太郎が生れた頃、丹羽瀬家は富永家の隣の新花町九六番地にあり、太郎は主に丹羽瀬家で育てられた。授乳の時間になると、志津が日本女学校の教員室まで太郎を抱いて行ったという。その知識と才能によって、明治社会に地位を得た中級官吏と女教師の共稼ぎ形態だったわけである。それぞれに封建的な家の束縛を持ちながら、学識にょって立つことに誇りを見出していた。…」。母親の方がしっかりしていたようです。今でいう共稼ぎです。ただ、母親が稼いだお金は母方の実家の生活費になっていたようです。

右上の写真の右から左側の道がサッカー通りです。金助町73番地は写真の正面左側になります。関東大震災の後の区画整理でこの付近は道が増えて変わってしまっています。

「駒込西方町誠之小学校」
駒込西方町誠之小学校>
 富永家は本郷界隈から少し離れた本郷区東方町に転居し幼稚園に入学します。「…明治三十九年太郎は本郷区誠之幼稚園に入る。図画に才があったことを現存する画帖が示している。利発な長男にかけた両親の期待はいかに大きかったかは、その成績表がこの段階から保存されていることでわかる。この間、富永家は本郷区金助町に移り、三十六年七、八月、同区駒込東片町に転じる。 四十一年四月、同区駒込西片町の誠之小学校に入学した。これは本郷区在住の主として東大教授、官吏等の子弟を集めた当時の名門校である。通信簿が残っているが、いわゆる全甲である。級長、運動会委員等を勤め、習字と図画は「甲上」または「甲上の上」と採点されている。ただその画帖に表わされた形象に、大人を戯画化るいたずらな傾向が見える。…」。両親は息子をよい学校に通わせるために東片町(東大農学部の前の追分を左に曲がった右側付近で現在の向丘一丁目)に転居したようです(東方町の住まいは番地が不明のため詳細の場所は不明)。今も昔も親の気持ちは同じですね。

左上の写真は駒込西方町誠之小学校です。当時と場所は変わらず、幼稚園も同じです。

「東京府立第一中学校跡」
東京府立第一中学校>
 両親の大きな期待を背負った長男(太郎)は期待に違わず優秀でした。「…大正三年四月、府立一中入学、同級に蔵原惟人、浅野晃、村井康男、河上徹太郎(三年より編入)がい、一級下に小林秀雄、正岡忠三郎がいたことはすでに書いた。当時一中の教育法は厳格な道徳主義、詰込み主義で、有能なる軍人官僚(学者を含む)養成機関である。剣道、柔道が択一の正科で富永は剣道を選んだ。その稗古着を着た姿を「ほれぼれするようなもの」と一級下の斎藤寅郎が措写する。 その精神と同じように身体も美しかったことが、富永太郎の短い生涯を伝説にしている。楕円形の輪郭、大きな限、端正な鼻、しまった口許などは、母園子の立教女学校卒業写真に最もよく似ている。身長は五尺七寸か七寸五分(一七三−五センチ)。「ほっそりと、だが骨格はしっかりしていた」と中原中也は伝える。詩文のある家に生れ、漢文、英語、書は個人教授に通って、特殊の教育がほどこされた。もと千石取りの富永家の家名を挙げる希望を托して育てられたのである。…」。府立一中は現在の日比谷高校です。当時は日本中で一番優秀な中学校だったとおもいます。すごい!!

右上の写真の左側に府立一中はありました。写真の右側は日比谷公園、左側は合同庁舎6号館です。府立一中は1929年に永田町の現在の場所に移転し、戦後、名前が都立第一高等学校→日比谷高校に変わっています。

次回も富永太郎の東京を歩きます。