<「大岡昇平全集 17」>
富永太郎について書かれた本はほとんどありません。唯一、大岡昇平が書いているのみです。Googleで「富永太郎」で検索しても本としてはほとんど検索できません。「 富永太郎(一九〇一−一九二五) の生涯について、私はこれまでに幾度か書いた。しかしその少年期については、あまりにも資料が少なく、詳しいことはわからなかった。例えば、東京府立第一中学校(現日比谷高校)時代については、次の河上徹太郎の証言があるだけだった。「富永太郎君は私と東京府立一中時代の同級生で、器械体操のうまい自暫長身の美青年であった。海軍士官になるのが目的で、中学時代から高等数学などマスターしてゐたが、結局高校へ入学したやうだった。要するに私は彼の親友と自分の親友とが共通であったが、直接は余り識らないといふやうな間柄であった」(筑摩書房版『富永太郎詩集』序。昭和十六年一月) こんど富永の加わっていた器械体操グループの卒業記念写真が出て来た (大正八年五月)。その中には海軍兵学校へ入った者がいるが、そうでない者の方が多い。つまり河上の証言は器械体操グループに兵学校志望者がいたから、富永も同じ志望だったろう、という推測にすぎなかった。 大正八年富永が入学したのは、仙台の第二高等学校理科乙類である。これはドイツ語を第一外国語とするクラスで、医科や生物学の志望者が選ぶ。つまり、理科の中ではあまり数学が得意でない者が集まるクラスである。そして富永は二年後、解析不出来のため落第している。 富ヶ谷の奥に、同級生中村幸四郎がいて、富永と家族ぐるみ附合いがあった。器械体操はやらないが、富永との関係で同じグループにいた。富永が大車輪をやるそばの地面で、数学をやっていたという。中村氏は後に阪大教授。一九四三年にヒルベルトの 「幾何学基礎論」を翻訳した。その百頁の解説が当時有名であったという。…」。富永太郎は当時はほとん無名であり、戦後大岡昇平によって紹介され名を知られます。大岡昇平とともに有名になっていったような気がします。中原中也と同じで、詩としては一級品です。当時はこのような詩は難しかったのかもしれません。
★左上の写真は大岡昇平全集の17巻です。内容のほとんどが富永太郎について書かれています。大岡昇平が生きておれば富永太郎全集は発刊出来たとおもいますが、現在は未刊のままです。大岡昇平と富永太郎のつながりを探すと、「…大正十四年十二月(太郎の死後一ケ月である)に弟の次郎と成城学園で同級となり、以来富永家との交際が続いている。富ヶ谷一四五六番地の家とは一キロ半ぐらいの距離であるから、よく遊びに行った。一九四六年以来、私が太郎の遺稿を托され、その伝記を書くのに、十分な便宜を与えられているのはこのためである。…」。富永太郎の弟と「成城学園」で同級でした。戦後、大岡昇平が戦地から生きて帰って来たときに東京でやっかいになったのが富永次郎でした(この時の話は別途「大岡昇平を歩く」で特集します)。