< 大阪大学医学部跡> 昭和20年、軍医になれば、”前線で戦わなくてもいいだろう”と単純な発想で医者を目指します。「軍医養成学校のようなところで、医者の基本的なことを学び取ろうとしたのですが、その前に戦争が終わってしまって、軍医がいらなくなってしまったのです。学校も閉鎖になってしまいました。しようがないので大阪大学へ行きました。…」、それでも入学試験は大変だったとおもいますが!。医学部に入学してからもマンガを書き続けます。「学校に行ってもマンガばかり描いているのです。大学に行っても、階段教室の高上の、教授からまつたく見えない位置に座ってマンガを描いています。ある日、誤つて墨汁を引っくりかえしてしまい、教室の上の階段から墨汁がずっと流れ落ちていったのです。「何だ、これは」と、そのときにわかつてしまったのです。病院に勤めはじめたときも、そのころぼつぼつ新聞とか雑誌にマンガを描いていたので、締切が来てしまいます。ところが、ぼくは白衣を着て聴診器を持っているので、人前ではちよっとマンガを描けません。それで阪大病院の宿直室を借りて、夜になると宿直室へ入って、中から鍵を締めてマンガを描くのです。翌日、雑誌の編集者が患者みたいな顔をして玄関へ来ると、ぼくは医者みたいな顔をして行ってパッと原稿を渡すわけです。ところが、一人で宿直室で徹夜して原稿を描いても、とても締切には間に合いません。だれか手伝わせなければならないというので、一人の看護婦さんに「ちょっと来てくれや。こんどダンスホールにいっしよに連れて行ってやるから、ちよつとおれの手伝いをしてくれや」と言って、部屋に引きずりこみました。そして中から鍵をかけて、消しゴムで消させたり、手伝わせていたのです。そしたらあとで病院に変なうわさが」止ちました。手塚が毎晩毎晩、看護婦を部屋に引きずりこんで、中から鍵をかけて何かしている、看護婦はひじように疲れた顔をしているというのです。とうとう教授に呼ばれて、「おまえ頼むから医者にならないでくれ」と言われました。」、ほんとうにマンガが好きだった様です。卒業後昭和27年上京し四谷に下宿します。
★右上の写真中央の川は堂島川(旧淀川)で、なにわ筋の玉江橋の上から田蓑橋方面を撮影したものです。写真の右側が旧大阪大学医学部跡で、左側が旧大阪大学医学部附属病院跡です。両者ともすでに更地になっています。大阪大学医学部は大阪府吹田市に移転済みです。
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