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最終更新日:2006年2月21日


●手塚治虫の大阪を歩く 初版:2003年7月19日 <V01L04>
 少し時間が経ちましたが、「手塚治虫を歩く」の第二弾として生誕の地である兵庫県宝塚市と大阪を歩いてみました。手塚治虫は昭和26年に上京しますが、それまでは兵庫県宝塚市に在住し、大阪大学医学部に通いながらマンガを書き続けます。

宝塚旧宅跡>
 手塚治虫は昭和3年(1928)11月3日、大阪府豊中市で生れますが、五歳の時に兵庫県宝塚市に転居します。当時の事を妹の美奈子さんが語っています。「私たちの家は宝塚駅から山側へ五分ほど歩いた、少し上り坂になった丘のふもとにありました。その上一帯にはお屋敷が建っていて、そのお屋敷地帯をぬけると、一面の畑と林と小山がつ、づいており、家はもう一軒もありませんでした。そこには池がいくつもあり、野井戸があちこちにありました。裏山は小さい子供だけで行ってはいけないと言われていました。野井戸は草におおわれていて、うっかりすると落ちてしまいそうなところに隠れているのです。あたりに人もいないので、落ちるとだれも助けてくれません。私たちはそれが怖くて、親の命令にさからってまで子供だけでは行きませんでした。でも、日曜日ごとに父がカメラ片手に、私たち兄妹三人を連れて行ってくれました。それはとても楽しみだつたのです。大きくなると、兄は昆虫網を持つて一人でどんどん行くようになりました。この裏山散策は、私たちに自然への愛着を培い、後年、自然破壊に対する兄の強い関心の原点になったと思います。」。手塚治虫の旧宅は宝塚駅から歩いて5〜6分位かとおもいますが、なにせ坂道なので大変です。いまはマンションと高級住宅だらけで、昔の面影はこの楠木だげですね。よく手塚治虫のマンガに出てくる宝塚の自宅の門は此方側から描いたものだとおもいます。

左上の写真が手塚治虫の宝塚旧宅跡です。持ち主も変わって家も建て直されていますが、写真の真ん中に有る楠木は昔のままだそうです。神戸新聞2002年1月1日にこの楠木の事が掲載されています。「ぐっと、こぶしを空に突き出すように立つクスノキ。所々をコケが覆っている。生い茂る葉が静かに揺れた。宝塚市御殿山。1933年(昭和8年)、当時五歳の手塚治虫は、家族と共に大阪府豊中市から移り住んだ。自宅があった地に今も残る大樹。幼い日の彼も、きっと仰ぎみたことだろう。…」。よかかりし時代のお話です。

左の写真は宝塚駅です。左が阪急宝塚駅で、右がJR宝塚駅です。地震で駅はかなり被害を受けましたが現在は前にもまして綺麗な駅になっています。この写真の右側を山に向かって登っていきます。

手塚治虫の「宝塚・大阪」年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

手塚治虫 宝塚・大阪の足跡

昭和3年 1928  
0 大阪府豊中市で生れる
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
5 兵庫県宝塚市へ転居
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞
7 大阪府立池田師範付属小学校(現大阪教育大学付属池田小学校)に入学
昭和16年 1941 真珠湾攻撃、太平洋戦争 13 大阪府立北野中学校(現北野高校)入学
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
17 大阪大学付属医学専門部入学
昭和21年 1946 日本国憲法公布 18 デビュー作の4コママンガが『少国民新聞(のちの毎日小学生新聞)関西版』に掲載される

宝塚歌劇場>
 手塚治虫の宝塚の家の隣には宝塚歌劇の大スター天津乙女さんの家があったそうです(大正末期から昭和初期にかけて)。またこの辺りには歌劇スターや宝塚の生徒たちが多くすんでいたそうです。宝塚歌劇については私が説明しなくても皆様よく御存じだとおもいますが、一様歴史だけ書いておきます。大正3年(1914)4月に宝塚少女歌劇が初めて公演されます。その時の少女歌劇団第1期生は17名だったそうです。大正7年(1918)5月には宝塚少女歌劇第1回東京公演が開催されます。大スター天津乙女さんの名前が出てくるのは大正9年(1920)10月の宝塚少女歌劇第27回公演からです。花組、月組ができたのは大正10年(1921)で、天津乙女さんは月組だったようです。大正13年(1924)、大劇場が完成し、新たに雪組ができます。昭和5年には「パリゼット」が上演され主題歌の「すみれの花咲く頃」が初めて歌われます。昭和8年には新たに星組が新設されます。近年では平成5年 写真の大劇場完成しています。

左上の写真が宝塚大劇場です。阪急宝塚駅の南口を降りて、右側に武庫川を見ながら東に遊歩道(はなの路)を少し歩くと右側が宝塚大劇場です(建物の周りにはフアンがたむろしています)。路なりにもう少し歩くと手塚治虫記念館になります。

池田小学校>
 手塚治虫は昭和10年大阪府立池田師範附属小学校(現大阪教育大学附属池田小学校)に入学します(ある事件で有名になった学校です)。「ぼくは子供時代、やせていて虫のような顔をしていました。ひじように小さく、休も弱かったのです。小学校は師範学校附属小学校と呼ばれるところで、つまり教師の研修のためのモデル校だったのですが、そこではクラスメートからばかにされて、いわゆる「いじめられっ子」でした。その思い出が根強く残っています。ぼくは目が悪くて、小さいときから眼鏡をかけていたので、これもからかわれる材料になりました。ばくが登校すると校門のところに何人かたむろしていて、ぼくを見るや歌をうたうのです。「ガジャボイ頭をふりたてて、今日も眼鏡がやつて来た。見えました。見えました。六〇メートルの眼鏡」というような歌でした。悔しかつたのでいまだに覚えています。」、といじめられ続けたと手塚治虫本人は書いています。ただ妹の美奈子さんは「兄はずっといじめられたように言っていますが、私はそうは思いません。確かに眼鏡をかけはじめた頃は、からかわれたかもしれません。小学校に入った頃もそんなことがあったかもしれません。……入学当時、母が「今日はいくつ泣かされたの」と聞いたら、兄が「今日はいくつ」と、指を一つ一つ折って答えていたというのを母から聞いたことがあります。友達にしてみればいじめたつもりではなくても、兄にとってははじめての経験で「いじめられた」と被害妄想になっていたと思うのです。」、と書いています。昔からガリ勉タイプの細面はいじめられますね。それにしても手塚治虫はかなり神経細やかな子供だったようです。

右上の写真は現在の大阪教育大学附属池田小学校です(阪急池田駅からは10分以上歩きます)。池田小学校は当時と場所が変っています。手塚治虫が通った昭和10年頃は池田市栄本町12-1(現在の池田文庫)にありました(教えて頂きました)。

大阪府立北野高校>
 昭和16年4月、大阪府立北野中学校(現北野高校)に入学します。この頃からマンガをかなり書いています。「中学二年生のある日、友人の今中宏君の家へ遊びに行ったときのことです。彼の部屋で遊んでいたら、隠居所から頭のはげたおじいさんがやって来たのです。顔をよく見たら、たいへんマンガ的な顔をしています。あとで「あの人はだれ」と彼に聞くと、彼のおじいさんだと言います。その顔がたいへん印象的だったので、おじいさんをモデルに、ばくははじめてキャラクターを描きました。したがつて、ばくにとつて一番古いキャラクターです。それが「ヒゲオヤジ」です。…」、やっはり、第一印象、イメージ、感性が大切ですね。それでも時代は切迫してきます。昭和16年12月、太平洋戦争に突入、ゆっくりマンガを書いておられなくなります。「そのころ旧制中学ではほとんど授業がまともにおこなわれず、近くの工場に勤労奉仕に行かされていました。旋盤を回したり、飛行場の格納庫の部品をつくったり、高射砲陣地をつくったり、防空壕を掘るというようなものです。男子も女子も一様にやらされました。ばくらも授業なんか放ったらかしで、淀川下流の三国というところにある飛行場の格納庫の屋根をつくる工場で、一日中スレートをつくつていました。学校なんかほとんど一年間通わずに過ごしてしまったわけです。一九四五(昭和二〇)年は戦争末期で、淀川沿いにB29が大編隊を組んで、大阪とか阪神沿線を空襲にやってきました。…」、このあと勤労動員中に6月の大阪大空襲に遭遇し、着の身着のままで宝塚まで帰ります。この時の印象が強烈でたびたびマンガになっています。

写真の道路を隔てた向こう側が北野高校です。いまでも有名進学高校のひとつです。宝塚からは阪急宝塚線で一本で、十三(じゅうそう)で降りて商店街を抜けて歩くと徒歩10分位です。

大阪大学医学部跡>
 昭和20年、軍医になれば、”前線で戦わなくてもいいだろう”と単純な発想で医者を目指します。「軍医養成学校のようなところで、医者の基本的なことを学び取ろうとしたのですが、その前に戦争が終わってしまって、軍医がいらなくなってしまったのです。学校も閉鎖になってしまいました。しようがないので大阪大学へ行きました。…」、それでも入学試験は大変だったとおもいますが!。医学部に入学してからもマンガを書き続けます。「学校に行ってもマンガばかり描いているのです。大学に行っても、階段教室の高上の、教授からまつたく見えない位置に座ってマンガを描いています。ある日、誤つて墨汁を引っくりかえしてしまい、教室の上の階段から墨汁がずっと流れ落ちていったのです。「何だ、これは」と、そのときにわかつてしまったのです。病院に勤めはじめたときも、そのころぼつぼつ新聞とか雑誌にマンガを描いていたので、締切が来てしまいます。ところが、ぼくは白衣を着て聴診器を持っているので、人前ではちよっとマンガを描けません。それで阪大病院の宿直室を借りて、夜になると宿直室へ入って、中から鍵を締めてマンガを描くのです。翌日、雑誌の編集者が患者みたいな顔をして玄関へ来ると、ぼくは医者みたいな顔をして行ってパッと原稿を渡すわけです。ところが、一人で宿直室で徹夜して原稿を描いても、とても締切には間に合いません。だれか手伝わせなければならないというので、一人の看護婦さんに「ちょっと来てくれや。こんどダンスホールにいっしよに連れて行ってやるから、ちよつとおれの手伝いをしてくれや」と言って、部屋に引きずりこみました。そして中から鍵をかけて、消しゴムで消させたり、手伝わせていたのです。そしたらあとで病院に変なうわさが」止ちました。手塚が毎晩毎晩、看護婦を部屋に引きずりこんで、中から鍵をかけて何かしている、看護婦はひじように疲れた顔をしているというのです。とうとう教授に呼ばれて、「おまえ頼むから医者にならないでくれ」と言われました。」、ほんとうにマンガが好きだった様です。卒業後昭和27年上京し四谷に下宿します。

右上の写真中央の川は堂島川(旧淀川)で、なにわ筋の玉江橋の上から田蓑橋方面を撮影したものです。写真の右側が旧大阪大学医学部跡で、左側が旧大阪大学医学部附属病院跡です。両者ともすでに更地になっています。大阪大学医学部は大阪府吹田市に移転済みです。

<手塚治虫の大阪地図 -1->



【参考文献】
・まんが道(愛蔵版 第一巻〜四):藤子不二雄、中央公論社
・愛…しりそめし頃に…(1〜4):藤子不二雄A、小学館
・トキワ荘の青春:石ノ森章太郎、講談社文庫
・トキワ荘実録:丸山昭、小学館文庫
・トキワ荘青春日記:藤子不二雄A、光文社
・石ノ森章太郎の青春:石ノ森章太郎、小学館文庫
・ぼくのマンガ人生:手塚治虫、岩波新書
・手塚治虫名作集2 雨ふり小僧:手塚治虫、集英社文庫
・手塚治虫物語 オサムシ登場(1928〜1959):伴俊男+手塚プロダクション、朝日文庫
・夫・手塚治虫とともに:手塚悦子、講談社
・鉄腕アトム HAPPY BIRTHDAY BOX:手塚治虫、光文社

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