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最終更新日:2018年06月07日


●寺山修司の東京を歩く -3-
  初版2006年1月14日

  二版2006年2月3日 麻布天井桟敷館を修正
  三版2006年3月20日 <V01L02> 下馬天井桟敷館を修正

 今週も引き続いて「寺山修司の東京を歩く」の第三回を掲載します。昭和42年に劇団天井桟敷を旗揚げしてから昭和58年に亡くなるまでを歩いてみました。



高尾霊園A区19側>
 寺山修司のお墓は高尾霊園にあります。都心からは少し遠いですね、東京駅でJR中央線特快に乗って一時間と少しかかりました。「寺山よ。君は昏倒して入院してから一度も意識を回復しなかったから、自分の死がどのように訪れたか知らなかったにちがいない。その日、何かにせきたてられて私が病院についた時は、まだ、いつも好奇心を湛らせていた君の特異な眼は混濁する虚空を追い求めていたはずだ。二週間ほとんど眠らないで看護していた九條映子が病室から出てきて、今朝から君の強い心臓が弱り始めたと告げ、そのまま君のお母さんに連絡するため公衆電話の方に走った。私に、二十三年前の一九六〇年の初夏の頃、君を映子にひき合わせた神楽坂の陽ざしが甦ってきた。そして、あの季節の同じ深緑をつけてた樹々が病棟の窓から見えた。……」。これは篠田正浩映画監督の寺山修司に対する弔辞です。やっぱり、神楽坂の話が出てきますね。

左上の写真が寺山修司のお墓です。JR高尾駅からは少し遠いです。歩いては無理でしょう。お墓は南側の山の斜面の一番下の段にありました。冬でしたが日差しが温かかったです。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

河北総合病院
 寺山修司が死去したのは阿佐ヶ谷駅近くの河北総合病院でした。「寺山さん。 入院中の貴方は、四百十号室のベッドで体をひねって右へ起き上がろうとしました。既に意識もなく眼はふさがっていましたが、点滴が行われている右腕の方に向かって、肘をつきながら、何度も上体を浮かしました。右腕の静脈に刺さった針から逃れるならば左へ体を回せばいいのに、針に向かって体を起こす貴方は、のしかかろうとするものに歯向かうかと見たのは僕だけではないでしょう。……そして四月二三日、河北病院四百十号室のドアを開けた時、不思議なことにベッドの下に貴方のサンダルは見当りませんでした。それ故に、そのことが気がかりで、寺山修司は、まだどこかで、あの靴を穿いて青森弁をまくしたてているような気がします。寺山修司がもし死んだらばと、なるべく考えないようにしました。それが、心安らかにと述べずに、このようなアイサツになってしまいましたが、どこかで、やはり、貴方の声が聞こえるように思えます。寺山の思ったことと、寺山節よ永遠に。」。これは唐十郎の寺山修司に対する弔辞です。二人は新宿で乱闘をしたような仲ですが、死去したその日、病院に尋ねています。世の中は本当に芝居のようですね(これは篠田監督が言っていました)。建物は当時のままでしょうか、410号に入ってみたかったです。

左の写真が河北総合病院です。阿佐ヶ谷駅から徒歩10分位です。途中に太宰治が盲腸で入院した篠原病院(現在はマンション)があります。


寺山修司の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和41年
1966
日本の人口が1億人を突破
文化大革命
30
春 世田谷区下馬の一軒家に転居
昭和42年
1967
第3次中東戦争
31
1月 劇団天井桟敷が旗揚げ
仕事部屋を渋谷の松風荘に移す
昭和44年
1869
東大安田講堂に機動隊
アメリカのアポロ11号が月面に着陸
33
3月 渋谷に天井桟敷館が落成
昭和51年
1976
ロッキード事件
40
7月 麻布に天井桟敷館を移転
昭和58年
1983
東京ディズニーランド
NHKのドラマ「おしん」
47
4月 寺山修司、阿佐谷の河北病院に緊急入院
5月4日 寺山修司死去


世田谷区下馬 和田レヂデンス>
 2006年3月20日 下馬天井桟敷館を修正
 和泉三丁目の借家の主が戻って来たため転居します。「…昭和四十年の暮れ、新潟に転勤していた大家の○○さんから、「来年の春過ぎに東京へ戻ることになりそうです」 という連絡が入った。 春まではまだしばらく間があったが、いずれ明け渡さなければならないのなら早いほうがいいだろうと、わたしたちは引っ越しの準備をすることにした。 新しい家に住むということは、新鮮な空気を吸いに旅に出掛けるようなもの、といった気軽な気分で、きっそく家探しを始めた。 もっとも、下見はもっぱらわたし一人で、目ぼしい家が見つかるまでは、寺山はわれ関知せずというふうだった。「杉並に住んだから、今度は世田谷なんてのはどうお」 家そのものはどうでもよかった。書斎の膨大な量の本が納まるスペースさえあれば、寺山はそれで満足だった。 何軒か見て回った末に、世田谷区下馬のその借家には、備え付けの大きな本棚があるという理由で、わたしたちは転居先をそこに決めた。祐天寺の駅から十分ほどのその家は、広さや家賃が希望どおりで、だいいちに住宅地の静かな環境がわたしたちの気に入った。…」。東急本線の祐天寺駅から500m程です。(天井桟敷のポスターに書かれていた住所の世田谷区下馬2-5-7は旧住所表示で、住居表示が変わっていました)。天井桟敷の場所は判明しましたが下馬で最初に住まわれた場所の詳細は不明です。

左上の写真が寺山修司が天井桟敷館として借りていた和田レヂデンスです(クリックすると周りの風景が出ます)。現存していました。個人の方がお住いのようなので詳細の住所は消さして頂きました。最初の下馬の住いは道路を隔てて左側だとおもわれます(推定)。

渋谷区警察通りの天井桟敷>
 昭和44年3月、天井桟敷を住宅地の下馬から渋谷の並木橋近くに移します。「…わたしが日頃から車の修理に利用していた自動車工場が、渋谷の並木橋にあった。前々から、地下が空いているから使わないかといわれてきたのを、地下だけじゃしょうがないと聞き流していたところ、工場全体が引っ越しすることになった、と知らされた。わたしは、きっそく、東と一緒に交渉に行き、またしてもニューヨークに行っている寺山に報告した。「あそこなら、なんとかいけるんじゃないの。地下を劇場にして、一階を喫茶室、二階を劇団事務所、楽屋、宿舎っていうのはどう。こっちの劇場を見にくるといいんだけど……、劇場の写真いっぱい持って帰るから。問題は家賃だね、なんとか払えるようだったら思い切って借りようよ」と、電話の向うで寺山がいった。「ねえ、お母さんに相談してみない。喫茶店なんかやってみたいっていってたでしょ」「ウン、ちょっと打診してみておいてよ」…」。結局、一階をお母さんの喫茶店にしてしまいます。

右上の写真のロイヤルホストの右隣(そば、うどんの梅もと)が渋谷天井桟敷館跡です。ロイヤルホストの所は当時は三菱石油のガソリンスタンドでした。

麻布天井桟敷館> 2006年2月3日麻布天井桟敷館を修正
 渋谷に転居してから7年後の昭和51年、麻布に天井桟敷館は移転します。「…昭和五十一年七月、契約期限が過ぎて、渋谷の天井桟敷館は、立ち退きをせまられていた。…… 「麻布にラムネ工場だったところが空いています。見に行きましょう」 そして、四トン車十台分の劇団が、麻布に引っ越してきた。 寺山とふたりでデザインした看板「演劇実験室・天井桟敷」も、すでに表の壁に掛けられている。新しい劇団のアトリエでの、初めての総会が終わって町に繰り出した劇団員たちが、血相を変えて戻ってきた。「この町はなんだ。乾物屋のおじさんが英語を使うよー」。…」。麻布の商店街から少し入ったところです。当時は交通の便が悪い場所だったのですが、今は地下鉄が通っています。場所的には今話題の六本木ヒルズに近いです。最後に寺山修司が映像作品の拠点にした人力飛行機舎はまだそのまま残っていました。写真を掲載しておきます。

左の写真の左側、マンションの手前の空き地です。現在の住所で港区元麻布三丁目12−44番地付近です。右側のビルは当時のままです。ただ、本によっては港区元麻布3-10-9と記載されているものもあります。そうすると、右側になるのですが、写真ではこの構図ですので間違いないとおもいます。

「寺山修司を歩く」は東京編を終わります。

寺山修司の東京地図 -3-


寺山修司の東京地図 -4-


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