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最終更新日:2006年10月1日


●寺山修司の東京を歩く -2-
  初版2006年1月14日 
<V01L02>

 今週は「寺山修司の東京を歩く」の第二回を掲載します。昭和29年に青森から上京した寺山修司は体調を崩して入院し、早稲田大学を中退します。その後、文筆一本の生活に入ります。



旅館 川田>
 寺山修司が後に結婚することになる九條今日子(映子)と初めて出会ったのが神楽坂の「旅館 川田」でした。九条今日子の「ムッシュウ・寺山修司」には、「…昭和三十五年七月十日の午後、シノちゃんから掛かってきた突然の電話で、わたしはその日の夕方、飯田橋まで出掛けていった。 …… 夕暮れの飯田橋駅には約束どおり、シノちゃんが迎えに来てくれていた。電話で話していたシナリオ作家、寺山修司という男性と一緒だった。それまでのわたしは、作家というと白髪の老人というイメージしかなかったので、目の前に立っている男性が”作家“だとは信じられない気がした。「やあ、よく来てくれたね」 「しばらくね、シノちゃん」 「このひとがエコのファンの寺山修司」 「はじめまして」 タオル地のポロシャツを着ていたそのひとが頭を下げたので、わたしもあわてて、「はじめまして、よろしく」と同じように頭を下げながら見ると、ふたりとも旅館の大きな下駄をはいていた。……仕事部屋にしている河田旅館に案内されると、シノちゃんと寺山は、仕事からひととき解放されたかのように、よく喋り冗談をいってはわたしを笑わせた。…」、と書かれています。二人の合った旅館を「河田」と書いています。どうも漢字の「河田」が違うようです。『シノちゃん(篠田)』とは映画監督の篠田正浩(最近では「スパイ・ゾルゲ」の監督)です。また、田澤拓也の「虚人 寺山修司伝」では、「…「脚本料は三十万円だ」 篠田が言うと、修司は二つ返事で、「書く」 と応じた。二人はさっそく神楽坂の旅館『川田』にこもって脚本を書きはじめた。そこで篠田は九條の電話番号を調べて電話をかけた。すると受話器のむこうに本人が出てきた。「エコ、今晩ひま?」 ちょうど九條も仕事の合間で妹と住む渋谷のアパートで退屈していた。シナリオ作家の寺山修司という男がキミのファンで会いたがっているんだ。そう篠田から誘われて、九候は出かけていく気になった。七月十日の夕刻、修司と篠田は神楽坂の坂をおり、中央線の飯田橋駅の改札に九候を迎えに出むいた。暑い日で九候は黄色いワンピースを着ていた。…」。篠田監督が二人の愛のキューピットですね。若いときの九條今日子(映子)はスタイル抜群ですから、嘸かし眩しかったでしょう。二人の合った旅館は『川田』が正解です。

左上の写真の正面のマンションが旅館「川田」跡です。旅館から川田ハイツに変わっていたのですが、現在は野本ハイツ(旧川田ハイツ)となっていました。場所は神楽坂のサークルKから少し入ったところです。神楽坂三丁目2付近です。この旅館は結構有名で、若い方は知らないとおもいますが、私も生まれてもおりませんでしたが、昭和14年に流行した川田義雄とミルク・ブラザースの「地球の上に朝が来る」の川田義雄(昭和24年に川田晴久に改名、美空ひばりの育ての親としても有名)が経営していた旅館でした。

旅館 和可菜>
 ついでに神楽坂で現存する有名な旅館を紹介しておきます。黒川鍾信の「神楽坂ホン書き旅館」で書かれている有名な「和可菜」です。「川田」から少し離れた路地の奥に現在もあります。此方の方は別途特集したいと思います。

左の写真が旅館の看板です。小さくて、近くでみないと分かりません。私は「和可菜」の隣のお店には入ったことはあるのですが!

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)


寺山修司の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和33年
1958
国立競技場が落成
22
7月 中央病院を退院
12月 新宿区諏訪町の幸荘に転居
昭和35年
1860
新安保条約を可決
24
7月 神楽坂で九条映子と初めて会う
昭和36年
1861
加山雄三の若大将シリーズ
ベルリンの壁
25
2月 四谷左門町山口荘に転居し母親と同居
昭和38年
1963
黒澤明監督の「天国と地獄」
こんにちは赤ちゃん
27
4月 吉祥寺カソリック教会で結婚式、新居は和泉三丁目
昭和41年
1966
日本の人口が1億人を突破
文化大革命
30
春 世田谷区下馬の一軒家に転居
昭和42年
1967
第3次中東戦争
31
1月 劇団天井桟敷が旗揚げ


四谷左門町 山口荘>
 母親が立川から四谷三丁目の交差点に近い四谷左門町に転居してきます。暫くして寺山修司も一緒に住むようになります。「…その頃、寺山は長い間別れ別れだったお母さんと一緒に暮らしはじめていた。 仕事のほうが順調にいくようになって、生活にもそれなりの余裕ができてきたのだ。一もう、懐かないでさあ、おれと一緒に住もうよ」 立川のベースで働いていたお母さんを呼び寄せて、六畳ひと間の新宿河田町のアパートから、四谷左門町のいまでいう2DKふうの広い所に移っていた。……アパートは木造の二階建てで、下に二軒と上に二軒のこぢんまりした造りで、下の左側が寺山とお母さんの部屋だった。…」。一間の幸荘から2DKの山口荘ですから、かなり進歩しました。

左の写真は左門町交差点から外苑東通りを四谷三丁目方面を撮影したものです。地番が分からず、詳細の場所が特定できませんでした。昭和30年代後半の住宅地図を見ると写真左側のナポリアイスクリームの先に「ワイシャツ 山口」と書かれたお宅があり、その家の奥が「山口荘」ではないかと推測しています。

松風荘>
 寺山修司では有名な松風荘です。元々は九條今日子(映子)が大船の撮影所に通うために借りたアパートでした。「…千葉の我孫子から東京を越えて、神奈川の大船までは通いきれず、一人住まいでは心配だという両親の案で、高校を卒業していた上の妹、満子を監視役につけて、渋谷にアパート住まいをするようになっていた。…… 「おはよう」 そういって、わたしのアパートに現れるのが、きまって朝の九時。 ソファーに腰かけると、寺山はその日いちにちのスケジュールを書きこんだメモをひろげる。
・九時、松風荘着
・九時十分、コーヒー
・十時、有楽座
「早く、早く、トーストもね」 そばで妹の満子が、「うるさいなあ」 って感じでウロウロしている。 寺山が作る計画表は、わたしたちにとって?権威″だった。わたしと妹は、その計画表の実行にかなりの情熱をそそいだ。…」
。現在はマンションになっていました。渋谷駅、原宿駅からはかなり遠くて大変です。直ぐ傍に寺山修司が通った三浜鮨があります。

右上の写真が松風荘の跡に建てられた渋谷ダイカンプラザシテイです。手前側がNHKになります。

和泉三丁目>
 九條今日子(映子)は寺山修司との結婚で新居を探します。
「…お部屋を探しています
『お部屋を探しています。結婚して住むためのもので、できれば三部屋程度で電話が自由に使える所。場所は少々遠くても静かな所でしたらその方がうれしいのです。予算は二万円以内でイヌが飼えることが条件です。結婚は来春ですが、見つかり次第拝見させていただきたいと思います。なお、近年中に家を建てたいと思っておりますが、そのことについても何かよいアドバイスをしていただければ幸いです。
連絡先は渋谷区神南町二十一の四
松風荘内 九條です。』
週刊新潮の”掲示板”にこんな記事を載せてもらった。十月初めのことだった。……素敵な家だった。十畳のリビングルームと十二畳の書斎と寝室に六畳の和室が付いていた。玄関の前にも、リビングルームの前にも小さな可愛い庭があり、念願の犬も飼うことができるし、わたしたちはその日のうちに借りることを決めた。…」
。今だったらインターネット利用でしょうが、当時は週刊誌なのでしょう。今どき週刊誌に女優がこのような記事を載せたら大反響ですね。

左上の写真の鉄塔の所を左に曲がった先の二軒目のお宅です(個人のお宅でしたので直接の写真は控えさせて頂きました)。高圧電線の真下ですね、書かれているとおりの場所でした。

次回の「寺山修司を歩く」は何時掲載できるか分かりません。

寺山修司の東京地図 -1-


寺山修司の東京地図 -2-


寺山修司の東京地図 -3-


寺山修司の参考図書(お問い合わせが多いのでAmazonにリンクしました)




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