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最終更新日:2013年11月01日


●寺山修司の東京を歩く -1-
      初版2006年1月1日  二版2006年1月15日
     三版2006年10月1日 高田老松町の写真を追加
      四版2013年11月1日 <V01L01> 豊島区高田南町の場所を修正

 2006年の最初は「寺山修司を歩く」から始めたいとおもいます。寺山修司は弘前で生まれ、青森から三沢、青森、そして東京へと移り住んでいきます。第一回は早稲田時代の寺山修司を歩きます。



<虚人 寺山修司伝>
 寺山修司に関する本は数多く出版されていますが、今回は田澤拓也の「虚人 寺山修司伝」にそって歩いてみました。客観的にかかれた読みやすい本です。「…四月にキャンパスで修司は早大俳句研究会の新入生歓迎句会に顔を出している。句会は大隈講堂横の学生ホールの食堂裏の二階の一室で開かれた。十人強ほどの新入生をまじえて三十人前後の学生がいた。そのなかに政経学部三年生で長身の青年がいた。…… 最初のうちは大橋克巳という本名で句作をしていたが、じきに俳号をつけようと思いはじめる。まず、アイディアが枯渇しないよう「泉」という文字が浮かんだ。「深泉」という号も考えた。だが、もうひとつピンとこない。江戸っ子の少年は戦前からの巨人フアンだった。「そうだ、巨人の巨がいいじゃないか」 そうひらめいた。巨泉という俳号を名のることにしたのである。…… 句会では、まず短冊に署名せずにそれぞれが自作の句を五句なら五句書く。その短冊を全員集めて混ぜあわせ、誰の作品かわからぬよう紙に書きうつし、それをまわしていって、そのなかからひとりずつそれぞれ五句なら五句ずつ選んで票を入れていく。「披講に入ります」 そう言って大橋は自分が選んだ句を読みはじめた。すると、大橋が読みあげるたびに部屋の隅のほうにいる新入生の間からこんな声が返ってくるのだ。「スウズ」 低く太い声は東北訛りのせいもあってよく聞きとれない。記録係がとまどって、「もう一度名前を言ってください。苗字から」 すると、今度はこう聞こえた。「寺山修司です」 大橋が見ると真っ黒な顔をして目をギョロリと光らせた新入生が座っている。次の句を読むと、また、「スウズ」 結局、大橋が選んだ五句のうち四句までが修司の俳句だったのである。…… 三十人出席者がいれば句数は全部で百五十句になる。そのなかから五句選びだすのに大橋は修司の句を四句も選んでしまった。修司の俳句の巧みさに内心、舌を巻きながら、一方で口惜しさもあった。…… 色の黒いサトイモのような顔の田舎出の子が、こんな俳句を作るのか。ショックは大きく、この日以来、大橋は俳句作りに精進する気持ちが急速に萎えていったという。四年まで句作はしたが、以後、俳句を作らなくなったのは、この修司との出会いが大きく作用していたと大橋は言うのである。…」。まさか、あの大橋巨泉が学生時代に寺山修司に遇っていようとは!、それにしてもよく出来た話かもしれませんが寺山修司は天才ですね!

左の写真は文春文庫の「虚人 寺山修司伝」です。寺山修司自身が自叙伝風に書いた「誰が故郷を想わざる」もありますが、別の機会に紹介したいとおもいます。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)



寺山修司の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和29年
1954
スエズ動乱
18
4月 早稲田大学教育学部国文科に入学
埼玉県川口市幸町の坂本宅に下宿
昭和30年
1855
自由民主党結成
19
3月 立川の河野病院に入院
5月 豊島区高田南町に下宿
6月 新宿区西大久保の社会保険中央病院に入院
昭和31年
1956
日ソ国交回復
20
5月 大隈講堂で「忘れた領分」上演される
8月 早稲田大学を中退
昭和32年
1957
長嶋茂雄が巨人と入団契約
21
1月 「われに五月を」出版される
昭和33年
1958
国立競技場が落成
22
7月 中央病院を退院
12月 新宿区諏訪町の幸荘に転居



文京区高田老松町>2006年10月1日 高田老松町の写真を追加
 寺山修司は早稲田大学を受験するため上京します。「…東京の小石川に私の叔母(父の姉)が住んでいて、二次試験から発表までそこにおいてもらうことになり、いよいよ出発しました。…… いよいよ発表の日です。川口に住んでいる私の従兄の豊治さんも来てくれて、みんなで見に行くことになりました。修ちゃんは、「ぼく先に行くからあとから来てね」 と言っていなくなってしまいました。 結局、私たちだけで行き、発表を見ました。ちゃんと入っていました。ほっとしました。…… どうしたんだろうと、みんなが心配していると、夕方になってがっかりした様子で、修ちゃんがしょんぼり帰って来ました。 じつは早稲田だけでは不安だったので、内緒で青山学院を受けていたのでした。こっちは自信があったので、こっそり先にこちらを見に行ったのですが、これが駄目だったのです。自信があったはずの青山が駄目なのでは、とても早稲田は駄目だろうと、見に行く勇気がなかったのだそうで、しょんぼり帰って来たのでした。「修ちゃん、何言ってるの、ちゃんと受かってますよ」と葉書を見せたら、「ワァッ、よし今から見て来る」と、とび出して行きました。…」。良かったですね。無事早稲田大学に合格します。

左上の写真の正面を少し入った所が”小石川の私の叔母(父の姉)の所(高田老松町)”です。まだお住いのようなので詳細の場所は伏せさせていただきます。

埼玉県川口市幸町の坂本宅>
 寺山修司は青森県では最も名門の県立青森高等学校から早稲田大学教育学部国文科に入学します。「…昭和二十九年春、修司は青森高校を卒業し、早稲田大学教育学部国語国文学科に進学した。…… 早稲田大学教育学部国語国文学科に合格した修司だが、同時に受験した青山学院大学は不合格だった。すでに修司は前年暮れの同志社大学の推薦入学にも落ちている。……上京して早大に入学した修司は川口の坂本の親類の家に下宿した。はつも九州から上京してきたが、母子は一緒に暮らそうとせず、はつは立川の米軍基地ではたらいていた。 このころ修司の三沢の新町の家は売却されたようである。その売却代金もおそらく修司の学費に当てられたのではなかったろうか。…」。青森高校時代の成績は田澤拓也の「虚人 寺山修司伝」にも書かれていますが、それほどではなかったようです。

左の写真の正面のアパートの所に下宿先の坂本家がありました。現在の番地で川口市幸町一丁目4番付近です(詳細の場所は分かりました)。阪本家は福禄ストーブの社宅に住まわれていたようで、写真の右側が福禄ストーブ工場で、社宅は直ぐ横に在ったようです(福禄ストーブは石炭ストーブの代名詞で有名です)。現在は福禄ストーブの工場はなくトヨタレクサスの販売会社になっていました。時代の移り変わりですね!写真の右側に自動車の販売会社が少し映っています。

豊島区高田南町に下宿>
2006年1月15日川野病院の写真を追加
2013年11月1日高田南町の場所を修正

 寺山修司は早稲田大学入学後すぐにネフローゼ(腎臓の病気)で入院します。母親の勤め先に近い立川駅近くの川野病院でした。数カ月で退院し、高田馬場駅に近い高田南町の石川宅に下宿します。「…この立川での最初の入院は一月半あまりで、修司は五月はじめにはいったん退院し、高田馬場に下宿している。 中野は上京し、その修司の下宿に六月六日の夜に訪れた。その夜、教え子の女子大生ら二人をともなって訪れた中野の前で修司は軽い調子で「また入院だ」と告げた。 それから近所の寿司店に出かけた。ワサビ抜きの寿司を食べながら、久しぶりに会った中野の前で修司は陽気で餞舌だった。中野はこう書いている。話題の中にブラウスと云う言葉が出てくると、ブラウスって何だと云う。 「ブラウスを知らないの、女の人のシャツのようなものよ」と説明する私に怒ったように「書くときはちゃんと調べて書くから」と云っていた。 高校の時の寺山修司がここにいると思い楽しい一時であった。…」。中野とは中野トクさんのことで三沢時代の恩師です。入院してからよく手紙をだしていたようです。

右の写真の右側が現在の豊島区高田三丁目2番付近です(明治通りと新目白通りの交わる高戸橋交差点の直ぐ傍)。どの本を見ても新宿区高田南町と書かれていたので、てっきり新宿区だとおもったのですが、新宿区に高田南町はありませんでした。高田馬場駅からすこし目白寄りに入った豊島区に高田南町はありました。寺山修司が下宿していた高田南町の石川さん宅はこの付近にありました。正確には現在の神田川の上になります。昭和50年に高田馬場分水路を作るため、この付近の神田川の川筋(昔は写真の左側に大きく曲がっていた)が変り、石川さん宅は川の上となってしまいました。右側の木の茂っている辺りの川の上とおもわれます。(Iさんより教えて頂きました。ありがとうございました。)

西大久保の社会保険中央病院>
 
2006年1月15日 社会保険中央病院跡の写真を追加
 寺山修司は再びネフローゼで入院します。「…六月下旬、修司は再び都内新宿区の社会保険中央病院に入院することになる。今度は生活保護法の適用を受けての入院だったという。何度か生命の危機をへて入院生活は三年間におよんだ。……修司をラジオドラマのシナリオ執筆に誘いこんだのは谷川俊太郎だった。谷川は岸田衿子との結婚にやぶれた後、新大久保のアパートに一時住んでいた。そして昭和三十一年五月、修司が入院中に早大大隈講堂の ”緑の詩祭”で上演された修司の一幕物の処女戯曲『忘れた領分』を見て「すごい才能の男だ」と感じていた。 詩人の白石かずこに聞いたのか、あるいは山口洋子に聞いたのか、その寺山修司は谷川のアパートのすぐそばの病院に入院しているという。散歩がてら見舞いにいってみた。修司は大部屋の病室の窓ぎわにいた。それが谷川と修司との最初の出あいだった。…」。谷川俊太郎氏のことはご存じですね(現代を代表する詩人)。やっぱり、天才のところには天才がが集まります。

左の写真の左側が寺山修司が入院した社会保険中央総合病院跡です。寺山修司が入院していたころの中央病院は同じ新宿区の大久保通りにありました。現在の大久保二丁目12、ペアーレ新宿の所です。302号室に行ってみたかったのですが、残念です!!

諏訪町の幸荘>
 中央病院から退院した後に住んだのが早稲田通りと明治通りの交差点である馬場口に近いこの一間の幸荘でした。「…新宿の社会保険中央病院を退院してきた修司は、ほどなく新宿区諏訪町にある六畳一間のアパート幸荘に引っこしていた。……そう思いながら修司に招じいれられるまま部屋に入った。男性の部屋を訪れて居ごこちが悪く、武は室内をキョロキョロ見まわした。緑のカーペットが敷かれた部屋はチリひとつ落ちていなくて、きれいに掃除されていた。窓ぎわに机がおかれ、部屋の真ん中にテレビがあった。あとは家具らしさものは何もなかった。何もない部屋だな。そう思いつつ見あげると長押に板を使って本棚をグルリとまわし、そこに本がズラリとならべてあった。「いやあ〜、いい本がおいてあるね」 武は修司がどんな本を読んでいるのか興味があってその背表紙を目で追う。スタインベックの本が目にとまった。…」。やっぱり読む本が違いますね。スタインベックはアメリカの小説家です。結構有名です。

右の写真が正面のビル辺りがアパート幸荘が建っていたところです。向こう側にYMCAのホテル学校があり、その向うにはインド公使公邸です。


寺山修司の東京地図 -1-


寺山修司の東京地図 -2-


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