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最終更新日:2007年1月7日


●寺山修司の三沢を歩く (上)
  初版2006年12月23日
 <V01L01>

 今週は「寺山修司の弘前、青森、三沢を歩く」の三日目です。一日目は生誕の地「弘前」、二日目は戦前の「青森」、今回は「三沢」での寺山修司の住いを中心に歩いてみました。



<寺山修司記念館>
 三沢駅からかなり遠いので、車でないと無理なようです。三沢駅からは約13Km.程、米軍三沢基地、三沢空港を越えた市民の森公園の中に有りました。この寺山修司記念館は寺山修司の母親であるはつさんより三沢市に寄贈された遺品を展示するために平成9年7月に建設された記念館です。この建物の建設に当たっては寺山修司と親しかった粟津潔さんがデザインを考えられ、九條今日子さんや元天井棧敷のメンバー等が協力しています(寺山修司記念館のホームページ参照)。見学するとよく分かりますが寺山修司そのものの記念館ですね。良くできていたのでビックリしました。よく地方にある”箱物を作るために記念館を建てた”のとは訳が違うようです。東京からメンバーを向かえて検討されたとおもいますが大変だったとおもいます(三沢市の方々はこのデザインと内容にビックリしたとおもいます)。一度見学されることをお薦めします。

左上の写真が寺山修司記念館です。三沢駅から三沢空港経由のバスが出ているようです。住所は青森県三沢市大字三沢字淋代平116-2955です。大字、字とくればやっぱり田舎の住所ですね。もう一寸、気の利いた番地をつけていただきたかった!!

三沢駅(旧古間木駅)>
 東北本線の三沢駅です。現在の東北本線は東北新幹線の八戸開業に伴い盛岡−八戸間が第三セクターに移行して、正確には上野−青森間は全通していません。在来線の特急としては寝台特急カシオペヤや北斗星が通過する程度です。「…現在のJR三沢駅は昭和三十六年九月一日に改称されるまでは「古間木駅(ふるまき)」の名で呼ばれていた。敗戦後アメリカ軍が進駐すると、改札口も待合室も米人用と日本人用に分けられ、乗る車輌も米人は「一等車」、日本人は「三等車」と決められた。日本海軍の基地があった三沢には、突然、蜃気楼のように、原色のアメリカ軍の基地の町が出現し、各地から仕事を求めて、多くの人々が集まってきた。街には、米兵相手の娼婦も夜になると至る所に出没した。最盛期にはその数五千人を越えたとも伝えられている。…」。「寺山修司 その知られざる青春 −歌の源流をさぐって−」からで す。今回はこの本に沿って寺山修司の三沢市を歩いてみます。三沢市は現在でも米軍の基地があり、その為繁華街は米軍三沢キャンプ付近に移ってしまっています。駅前から市内はかなり寂れていました。寂しい限りです。

左上の写真は現在の「三沢駅」です。駅前は戦備されており戦後間もなくの頃の面影はありませんでした。しかし、駅を少し離れると当時の建物や神社が残っています。すこし散策してみるのもよいかとおもいます。西側からの駅の写真も掲載しておきます。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
 1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。1067年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

寺山修司の青森年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
0
12月 寺山八郎、寺山はつの長男として、弘前市紺屋町に生まれる
昭和11年
1836
2.26事件
0
1月 1月10日生まれとして役場に届けられる
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
1
五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居
昭和13年
1938
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
2
浪岡署への転勤のため、浪岡に転居
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
3
青森県警への転勤のため、青森市内に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
5
7月 父 出征
母と二人で青森市へ転居
聖マリア幼稚園に入園
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
6
4月 青森市立橋本小学校に入学
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
9
7月 青森大空襲で焼け出される
三沢市に転居
9月 父 戦病死
母、米軍三沢キャンプに勤める
昭和21年
1946
第1次農地改革
極東国際軍事裁判
日本国憲法公布
10
米軍没収の家を譲り受ける
昭和23年
1948
帝銀事件
太宰治入水自殺
12
4月 古間木中学校に入学
秋 青森の阪本家に引き取られる


寺山食堂跡>
 青森空襲の後、寺山親子は父親の兄が経営していた三沢駅前の寺山食堂二階に移ってきます。「…修司の父・八郎の兄・義人は、国鉄古間木駅前(現在・JR三沢駅) で寺山食堂を経営していた。寺山母子はその二階の十二畳の部屋で暮らした一年八か月の間に、敗戦を知り、八郎の死を知った。…… 青森市まで、はつと修司を迎えに来た、八郎の兄・寺山義人は町議会議員を務めていたが、昭和三十三年に亡くなった。その四男で寺山修司のいとこにあたる孝四郎は、修司と同い年で寺山修司母子が古間木に来てから、同じ家で暮らしていた。…」。青森では母親はつの実家の直ぐ近くに住んでいたわけですが、実家も含めて空襲で焼けてしまったため、生活のためやむを得ず父親の実家に移ったようです。

左の写真の正面の交差点の所に寺山食堂がありました。道路ができたため無くなってしまったようです。三沢駅の正面です。

古間木小学校、中学校跡>
 青森市立橋本小学校から古間木小学校に移ります。「…寺山修司は青森市立橋本小学校から青森県上北郡の古間木小学校に転校し、古間木での新しい母子の生活が始まった。昭和二十三年二月に、上北郡の六戸村、下田村、三沢村が合併して、大三沢町になった。古間木は字名で、おもに下田村に含まれていたが、かなり広い範囲にまたがる地名で、古間木小学校には三村の児童が通学していた。昭和三十三年九月に大三沢町は三沢市となった。…」。三沢市は戦前からかとおもっていたら戦後なのですね。

右の写真が古間木小学校跡です。三沢駅前から200m程の距離ですので寺山食堂からは直ぐだったとおもいます。正面の二階建の建物と運動場は当時のままのようです。二階建ての窓の位置は見るからに小学校の跡です。

米軍三沢基地>
 寺山修司の母親が勤めたのが米軍三沢キャンプです。「…三十二歳の母は、アメリカ軍将校のハウスメイドに雇われた。おふくろが働きに行った進駐軍の部隊名”ワイルド・キャッツ”といいましたが、たまにおふくろは、雇い主かボーイフレンドでしょうが、車で送られて、”寺山食堂”に帰って来るんです。化粧して、洋服着て、これは古間木の田舎では大変なことなんです。クラスでただひとりアメリカ兵と腕組んで歩く口紅つけた母を持つ子ということは、やはり石をもって追われるようなことですね、当時は……。(『週刊女性自身』)…」。戦後間もなくは女性が働くことは大変だったとおもいます。生活のためだとはいえ苦労されたでしょう。

左上の写真が米軍三沢基地(MISAWA AIR BASE)正面です。横須賀基地などに比べるとすこしのんびりしています。

寺山修司自宅跡>
 米軍三沢キャンプに働きに出たため、寺山食堂には居づらくなり新たに小さな家を購入し転居します。「…行き場のないはつと修司を見かねて、八郎の姉・いとは、新町という所に四坪ほどの木造平屋の家を買って住まわせることにした。いとは、砂鉄業を営む、地元では有数の資産家である浪岡家に嫁いでいた。いとの尽力で米軍から家を払い下げてもらったのである。…… 新町の家は、栄作楼という遊廓の前にあった。栄作楼は戦前は海軍のための施設で、戦後は米兵専用になった。はつと修司が棲むことになった家は、遊廓に遊びに来た米兵の待合室として使われていた建物だった。…」。当時の建物は既に無く空き地になっていました。上記に書かれている「栄作楼」は現在は「旅館栄作」として残っていました。当時は二軒の遊廓が在ったようで、もう一軒は廃業しているようです。

右の写真の正面辺りに寺山修司の家が在ったようです。左側に「旅館栄作」の看板がみえます。実はこの家よ住む前に”旧日本海軍の将校の官舎だったA官舎という建物”に住んでいたのですが場所が特定できませんでした。大町二丁目にある現在の自衛隊の官舎の場所ではないかとおもうのですが詳細は分かりませんでした。

寺山家墓地>
 寺山修司の父親八郎は終戦後の9月に外地でなくなります。戦争で亡くなった訳ではないので家族は悔やみきれないでしょう。「…「公報が入りませんでしたか。じつは、遺骨を青森のお寺へまとめて納めたのです」と言われて、はじめてパパの戦死を知ったのです。親子で抱き合って、ただ泣くだけでした。六年も待っていたのにと、口惜しいのと失望で腹が立ってたまりませんでした。遺骨を引きとりに青森のバラック建てのお寺をたずねました。たくさんの遺骨がずらっと並んでいるのでさがすのが大変でした。やっと寺山八郎というのを見つけて、こっそり中をあけて見ましたら、枯葉が一枚と石ころのようなものが入っていただけで、そのほか遺品として、出発のとき修ちゃんが駅前でわたした写真がありました。これだけはたしかにパパの物と信じられましたが、遺骨とは名ばかりで、パパのは何も入っていませんでした。たぶん、パパが死んだ場所の石ころと枯葉なのでしょう。一人、一人の遺骨なぞ誰ももらえなかったらしいのです。でも写真だけは間違いなく本物でした。これだけが、どうして残っていたのか不思議です。…」。寺山修司のお墓は東京にあるのですが、父親のお墓は三沢市の瑞泉寺にあります。当時としては仕方がなかったのでしょう。

左上の写真の路を十歩程歩いた右側にあります。兄弟と同じお墓です。

次回も引き続いて三沢市内を歩きます。

寺山修司の三沢地図


【参考文献】
・誰が故郷を想わざる:寺山修司、角川文庫
・東北という劇空間:村上善男、創風社
・志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森:青森市文化団体協議会、北の街社
・母の蛍:寺山はつ、新書館
・虚人 寺山修司伝:田澤拓也、文春文庫
・新潮日本文学アルバム 寺山修司:新潮社
・寺山修司 その知られざる青春:小川太郎、三一書房


●寺山修司の三沢を歩く (下)
  初版2007年1月6日
 <V01L01>

 今週は「寺山修司の弘前、青森、三沢を歩く」の四回目です。前回は三沢市での住居を中心に歩きましたが、今回は三沢時代の恩師や友人を中心に歩いてみました。



<寺山修司青春書簡>
 寺山修司は故郷三沢の中学校教師中野トクさんと手紙のやり取りをかなり長い間しています。「中野トクは昭和二十四年九月三十目付で大三沢中学校に赴任した。したがって寺山は中野の直接の教え子ではない。大三沢中学で中野の教え子だった広瀬隆平氏が二人を引き合わせたのである。「寺山はあまり幸福でないから、先生に会ったら少しは幸福になるかもしれない」と広瀬は中野に話したという(「『われに五月を』のころ」『デーリー東北』平1・5・15)。…… 寺山が中野に宛てた書簡は、高校二年生の昭和二十八年一月一日にはじまり三十八年までの七十五通におよぶ。内訳は高校時代が十通、二十九年四月早稲田大学に入学し翌年三月までが七通、入院後の三十年四月から年末までが十九通、三十一年「絶対安静」が続く中で二十六通、三十二年八通、三十三年三通、以後が二通で ある。そのうちの五十通、全体の三分の二が「ながい手紙下さい、手紙と本位しかたのしみもなし」(昭30・11・17)という入院生活の中で書かれたものである。…」。中学時代の先生だったというわけではないようですが、寺山修司として得るものが在ったから手紙のやり取りをしたのだとおもいます。手紙の内容を読むと寺山修司の30年代の考え方がよく分かります。

左上の写真が「寺山修司 青春書簡 ─恩師・中野トクへの75通─」二玄社版です。「…一九九七年二月から八月まで『東奥日報』に寺山修司が中野トクに送った手紙の内容を紹介した(「拝啓中野トク先生・修司青春の手紙」全二十五回)。この本の解説はその時の記事がベースになっている。一九九六年に三沢を訪れた時、息子の直樹さんは、母が大切にしてきた寺山の手紙を自分が預かるのは荷が重く、個人での保管には限界があると話されていた。その手紙が一九九六年十二月三沢市に寄贈され、寺山修司記念飴に保存されることになり、「これで肩の荷がおりた」と心底ほっとされた様子だった。…」。一度新聞に掲載されたのを本にしたようです。東京にいると「東奥日報」を読む機会は全くなかったです。

恩師 中野トクさんの住居(推定)>
 恩師 中野トクさんの住居を探しました。最初はよく分からなかったのですがこの本に書かれていた住所を頼りに探しました。「昭和30年7月2日 青森県大三沢町大三沢中学校前公営住宅四号」、「昭和33年7月30日 青森県上北郡大三沢町松園町公営住宅29−4」。最初の住所では大三沢中学校前と書かれていましたので、大三沢中学校は現在の第一中学校の事ですので、この中学校の直ぐ傍のはずです。次の住所は松園町と書かれていましたので第一中学校の南側にあることが分かりました。第一中学校の傍の松園町の公営住宅を探したところ写真の所となりました。寺山修司もこの場所を訪ねたことがあるようです。

左上の写真は第一中学校から道を挟んだ南側にある公営住宅です。建て替えられているようで当時の面影があるのかどうかも分かりませんでした。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
 1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。1067年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

寺山修司の青森年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
0
12月 寺山八郎、寺山はつの長男として、弘前市紺屋町に生まれる
昭和11年
1836
2.26事件
0
1月 1月10日生まれとして役場に届けられる
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
1
五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居
昭和13年
1938
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
2
浪岡署への転勤のため、浪岡に転居
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
3
青森県警への転勤のため、青森市内に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
5
7月 父 出征
母と二人で青森市へ転居
聖マリア幼稚園に入園
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
6
4月 青森市立橋本小学校に入学
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
9
7月 青森大空襲で焼け出される
三沢市に転居
9月 父 戦病死
母、米軍三沢キャンプに勤める
昭和21年
1946
第1次農地改革
極東国際軍事裁判
日本国憲法公布
10
米軍没収の家を譲り受ける
昭和23年
1948
帝銀事件
太宰治入水自殺
12
4月 古間木中学校に入学
秋 青森の阪本家に引き取られる


<駅前通り>
 寺山修司の初恋の人(石岡雅子さん?)とのデートの様子を書いている「寺山修司 その知られざる青春 −歌の源流をさぐって−」を参考にして三沢駅から市内を歩いてみました。「…石岡は話を続ける。「一度だけ、二人きりで会ったことがありました。三沢の駅前に同級生が集まるからと修司さんから葉書をもらったので、行ってみると、修司さん以外誰も来ませんでした。だまされたんです。お父さんのお墓を掃除しに一緒に行ってくれと言うんです。二人きりでは嫌なので同級生の薬局の娘を誘ったら、店番で駄目だった。私の家の前を避けるため、遠回りしたり…」。寺山修司の初恋の人については諸説があるようです。時間があれば少し調べてみたいとおもいます。

左上の写真は三沢駅から市内に向う踏切方向を撮影したものです。二人はこの道を歩いていったとおもわれます(遠回りしていたらこの道は通らない?)。写真の真ん中やや右側に上野時計店跡があります。寺山修司がよくレコードを聞いていたお店です。

石岡商店>
 本にも実名が書かれているので今回はそのまま掲載させていただきました。「…九條以前に寺山の心をとらえた女性は三人いた。雅子、和子、夏美である。中野トク宛ての手紙に出てくるマサコは、三沢市で肥料と雑穀を手広く商っていた石岡商店の娘・まきで、寺山修司とは古間木小学校のクラスメート。古間木中学校でも中学二年生まで一緒だった。青森市に移ってからも、寺山は俳句仲間の京武久美によく石岡の話をした。一緒に三沢に行ったとき、”あれが石岡の家だ”と指を指して教えたこともあった。…」。上記にも”私の家の前を避けるため、遠回りしたり”と書かれている石岡雅子さんの実家です。

右の写真が石岡商店です。駅から近いところに在ったのでビックリしました。

広瀬金物店跡>
 寺山修司の中学時代からの友人の広瀬隆平の実家跡です。「…広瀬隆平という同級生がいる金物店の前を通るときは、かばんで顔を隠してました。広瀬くんも集まるとうそをついていたので、バツが悪かったのか、私と二人のところを見られたくなかったのでしょうか…」。小さな町ですから二人でデートしていると直ぐバレてしまうでしょう。

左の写真の交差点の正面角から右側二軒目が広瀬金物店跡です。「…金物店の息子・広瀬隆平も寺山と親しくなった一人であった。「私のおふくろが、寺山がひとりでかわいそうだとしょっちゅう家に呼んで、食事をご馳走していました。あの頃、古間木には本屋は一軒しかなかったのですが、西条八十や島崎藤村の詩集を買って一緒に読んだりしたこともありました。…」…」。寺山修司がよく訪ねていたようです。

<その他>
 寺山修司記念館のホームページを参照しながら寺山修司の歩いた道を辿ってみました(寺山食堂の裏手に在った天満宮は残念ながら無くなっていました)。

右の写真は寺山食堂跡裏の山の中腹にあるお墓です。小学校時代の寺山修司が良く遊んだ場所のようです。古間木小学校近くの不動神社も小学校時代の遊び場だったようです。

次回は寺山修司の青森(下)です。

寺山修司の三沢地図


【参考文献】
・誰が故郷を想わざる:寺山修司、角川文庫
・東北という劇空間:村上善男、創風社
・志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森:青森市文化団体協議会、北の街社
・母の蛍:寺山はつ、新書館
・虚人 寺山修司伝:田澤拓也、文春文庫
・新潮日本文学アルバム 寺山修司:新潮社
・寺山修司 その知られざる青春:小川太郎、三一書房

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