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最終更新日:2007年1月12日


●寺山修司の弘前を歩く
  初版2006年12月9日
  二版2007年1月12日生誕の地の写真入替 
<V01L01>

 これから寺山修司の弘前、青森、三沢を三回に分けて歩きたいとおもいます。第一回は寺山修司の生誕の地、弘前市の紺屋町(弘前城傍)を歩いてみました。



<志功・太宰・寺山と歩く、ふるさと青森>
 寺山修司の青森に関する本は数多く出版されていますが、青森市文化団体協議会編「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」が一番詳細に書かれていますので、この本に基づいて青森を歩いてみました。特にこの本は寺山修司だけではなくて、太宰治についても書かれていますので大変面白い本です。寺山修司に関してはこの本の中で高木保さんが『寺山修司青年と「青森の街」』として写真と共に詳細に所在地が書かれています。『「寺山修司の職業は何だと思いますか?」と問われて、あなたは何と.答えるだろうか。晩年は演劇人や映画監督として注目を浴びた寺山修司だが、彼をこの二つの肩書きでは、くくりきれない。彼はこのほかにも、俳人、歌人、詩人、小説家、シナリオライター、写真家、競馬評論家、ボクシング評論家などの顔を持ち、多方面で超人的に活躍した。そして、昭和五十八年の五月四日、肝硬変に腹膜炎を併発し東京杉並の河北総合病院で死去した。享年四十七歳であった。…… その著書の数は膨大である。しかし、本格的な「自叙伝」は一冊も書き残していない。強いて言えば自らの生涯を語る自伝的小説に『誰か故郷を想はざる』がある。これは、寺山修司が三十歳までの軌跡を(自叙伝らしくなく)綴ったもので、他にはその続編ともいうべき『消しゴム』と題 した自伝抄がある。しかし、いずれも実像と虚構が入り交じっているため、寺山修司の生い立ちを調べた上で論評しようとする多くの文筆家を困惑させているようだ。彼らの著述、特に経歴について微妙な違いを見ることがある。…』。『誰か故郷を想はざる』は何処までが真実で何処までが「フィクション」かよく分かりませんね。生まれたと地についても、『誰か故郷を想はざる』では、「青森県の北海岸の小駅で生まれた。…」。と書かれています。寺山修司が生まれたのは、高木保さんの『寺山修司青年と「青森の街」』、のなかでは、「…『誰か故郷を想はざる』や 『消しゴム』などに出てくる寺山修司の青森時代の記述については、そのまま事実として受け止めることは出来ない。しかし、正確に事実を書き綴っている部分も多いから、見極めには細心の注意が必要だ。 …… 寺山修司が昭和四十九年に製作した実験映画に『青少年のための映画入門』という、三台の映写機で同時に三本のフィルムを回すという変わった映画がある。シナリオを読むと、寺山修司の古間木小学校の卒業証書や、青森市の地図 のほかに、寺山修司の戸籍抄本が出てくることになっていて《寺山修司自身の戸籍抄本に透かして、からみ合う男女の写真が浮かぶ》となっている。このフィルムがビデオになり発売されたので早速買い求め、ブラウン管にその画像を停止させてみたところ、ほんの五秒ぐらいだが寺山修司が九條映子(のち今日子)と結婚し入籍した時のものと思われる戸籍抄本が写っている。そしてこの戸籍抄本で、寺山修司の出生地が読み取れるのを発見した。そこには出生地・青森県弘前市大字紺屋町三十と記載されている。この場所は今の県工業試験場の近く、清酒一洋の酒造工場の後ろのあたりと推定される。…」。と書かれており、この本では生誕の地は青森県弘前市大字紺屋町三十となります。

左上の写真が青森市文化団体協議会編「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」です。現在は古本しかありません。「アマゾン」では古本で5千円程していましたが、「日本の古本屋」では千円から1.5千円で販売されていました。持っていて損のない本だとおもいます。


<東北という劇空間>
 たまたま村上善男の「東北という劇空間」という本を読む機会があって、その中に「弘前市紺屋町三五番地」というページがあり、何かとおもって読んでみると、「…戸籍謄本には、弘前市大字紺屋町三五番地とあり、因みに本籍地は、青森県上北郡六万町大字犬落瀬字古間木六二−一番地である。母の証言や謄本に嘘はあるまい。…」、と書かれていました。また阿部誠也の「あおもり文学の旅」では”青森県弘前市大字紺屋町三五”と書かれていましたので三五番地で間違いないとおもいます。

左の写真が「村上善男の「東北という劇空間」、創風社版です。寺山修司ついて書かれているページは数ページですので、そのために購入するのはもったいないとおもいます。購入するなら阿部誠也の「あおもり文学の旅」をお薦めします。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

寺山修司の青森年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
0
12月 寺山八郎、寺山はつの長男として、弘前市紺屋町に生まれる
昭和11年
1836
2.26事件
0
1月 1月10日生まれとして役場に届けられる
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
1
五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居
昭和13年
1938
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
2
浪岡署への転勤のため、浪岡に転居
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
3
青森県警への転勤のため、青森市内に転居


弘前市紺屋町>
 2007年1月12日写真入替
 寺山修司の生誕の地については「母の蛍」を引用します。「…私は二十一歳、夫は二十三歳で若い両親でした。夫は警官で、その頃秩父宮殿下連隊勤務のため弘前市の菊地別荘に二年間滞在しており、夫はその敬語に付くため、一家は弘前市に住んでいたのです。…」。生まれた場所については戸籍抄本を見ないと正しい番地は分かりませんが三十五番地が正解とおもわれます。

左上の写真の中央の電柱右側に二棟の長屋が在ったそうです。五十石町と紺屋町の境界から西側を撮影したものです。電柱の右側辺りが紺屋町35番地です(阿部誠也の「あおもりの文学の旅」より)。

弘前警察署紺屋町巡査派出所(消防屯所)>
 寺山修司の生誕地の直ぐそばにある派出所です。最初は父親が勤めていたところかとおもったのですが違うようです。宮様の警衛のために寺山修司が住んでいた長屋の斜向かいの川村醸造所(清酒一洋)の敷地内に(現在は無い)「弘前警察署臨時紺屋町派出所」ができて、そこに寺山の父八郎が青森堤町巡査派出所から移動したと、昭和11年7月15日発行の「東奥年鑑」に記されています(Kさんから教えていただきました)。写真の『弘前警察署紺屋町巡査派出所』は現在は空き家になっているようですが少し前までは弘前消防団第四分団として使用されていたようです。

右の写真が弘前消防団第四分団です(現在は使われていない)。建物の左側入口の上にうすく右側から『弘前警察署紺屋町巡査派出所』と二段に書かれていた跡がわかります。

弘前菊地別荘(明の星幼稚園)>
 寺山修司の父親が警備していたのが秩父宮殿下の宿舎であった菊地別荘です。秩父宮妃勢津子様が書かれた「銀のボンボニエール」では、「…その年の八月、宮さまは弘前(青森県)の歩兵第三十一連隊の大隊長を命ぜられ、八月九日の夜、上野駅発の列車で私もお供をして弘前にご赴任になっております。…… 弘前での住まいは、弘前市の町はずれの紺屋町にある菊池長之という人の本宅で、私どもがまいりましてからは「御仮邸」と呼ばれました。すぐ裏は田圃つづきで、農作業をする人々の様子がよく見え、窓の向こうに穂を出す前の青い稲が風に波打っております。…」、と書かれていました。実際に住まわれていたのですから間違いないとおもいます。現在は明の星幼稚園になっています(以前の建物は焼失したようです)。

左の写真が現在の明の星幼稚園です。「弘前警察署紺屋町巡査派出所」から北に430m程の距離です。

次回は戦前の青森市内を歩きます。

寺山修司の弘前地図


【参考文献】
・誰が故郷を想わざる:寺山修司、角川文庫
・東北という劇空間:村上善男、創風社
・志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森:青森市文化団体協議会、北の街社
・母の蛍:寺山はつ、新書館
・虚人 寺山修司伝:田澤拓也、文春文庫
・新潮日本文学アルバム 寺山修司:新潮社
・寺山修司 その知られざる青春:小川太郎、三一書房
・あおもり文学の散歩:阿部誠也、北方新社

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