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最終更新日:2007年3月12日


●寺山修司の青森を歩く (上)
  初版2006年12月16日
  二版2007年3月12日
 <V01L01> 2007/3/12 橋本小学校の写真を追加

 今週は「寺山修司の弘前、青森、三沢を歩く」の二日目です。一日目は生誕の地「弘前市」を歩きましたので二日目は戦前の青森を歩いてみました。



<寺山修司 その知られざる青春>
 小川太郎の「寺山修司 その知られざる青春 −歌の源流をさぐって−」は寺山修司の評伝本の中では一番面白い本です。前回紹介した「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」程の詳細さはありませんが(地域本なので当然ですが)、寺山修司の生涯を通して詳細に調べられています。「…「実際に起こらなかったことも歴史の裡である」と、雑誌の編集者として頻繁に会っていた頃、寺山にマジックで大書してもらった色紙が筆者の寝室の壁に掲げてある。いまの筆者には、「実際に起こらなかったこと」というのは、寺山の場合、「起こったこと」と光と影の関係のようなものであり、「起こったこと」の影が、寺山が創造した「虚構」の言葉のリアリティーを複雑な回路を経て支えているのではないか、と思われてならない。寺山修司の評伝に意味があるとすれば、恐らくその回路を追求するという一点にあるのではないか。…… 「実際に起こったこと」「実際に起こらなかったこと」、もはや、両者は渾然として分かちがたい部分も多いが、その波打ち際にこそ、「寺山修司」が立っているのである。筆者は昭和五十八年五月九日、青山斎場での寺山の葬儀の列に連なりながら、青空を見上げ、寺山修司の前半生において人間・寺山修司を形成した「実際に起こったこと」を検証し、寺山の短歌を中心にした作品世界の「虚と実」を読み解くという試みに挑戦してみたいと考えた。それは、少年時代に寺山修司の短歌に魅せられた筆者には、もう二度と会えない寺山修司に会うためのたった一つの方法のように思 われてならなかった。…」。寺山修司を語るには「虚構」という「単語」が必ず必要になります。寺山修司に関するどんな本を読んでも同じですね!!

左上の写真が小川太郎の「寺山修司 その知られざる青春 −歌の源流をさぐって−」三一書房版です。1997年1月初版ですから寺山修司本にしては新しい方の本です。

【小川太郎(本名:小亀富男)】
 昭和17年東京に生れる。昭和37年早稲田大学高等学院卒業。昭和41年早稲田大学商学部卒業。昭和41年小学館に入社。おもに週刊誌編集に従事し平成7年小学館を退社。現在フリーライターとして活動。著書としては  歌集「路地裏の怪人」(蒲生書房),「ドキュメント中城ふみ子 聞かせてよ愛の言葉を」(本阿弥書店),編著「寺山修司の世界」(情況出版)がある。

旧国鉄浦町駅跡>
 青森市内を通る戦前の東北本線のルートは東側から順に言えば、現在の遊歩道緑地、国道4号、遊歩道緑地(堤川を過ぎた辺りにある東湯で開業当時のルートと分岐する)、平和公園(浦町駅跡)、遊歩道緑地、空き地(青森ねぶた祭りの臨時駐車場などに利用されている)を抜け、現在の東北本線に合流するルートでした(明治24年に開通した東北本線のルートは旧線路通りで、大正15年に平和公園の所に移っています)。なぜ旧東北本線のルートを説明しているかというと、寺山修司の父親が出征した後、寺山親子は青森市内の国鉄浦町駅近くに下宿しており、浦町駅の名称が度々登場するからです。下記の青森市内地図を見ていただくと旧東北本線のルートがよく分かります。

左の写真は現在の「平和公園」です。旧東北本線の浦町駅があった所です。昭和43年東北本線のルートが現在のルートに変更になり、浦町駅も廃止になり、公園になったわけです(青森市内の東北本線ルートは二回変わっています)。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
 1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

寺山修司の青森年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
0
12月 寺山八郎、寺山はつの長男として、弘前市紺屋町に生まれる
昭和11年
1836
2.26事件
0
1月 1月10日生まれとして役場に届けられる
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
1
五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居
昭和13年
1938
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
2
浪岡署への転勤のため、浪岡に転居
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
3
青森県警への転勤のため、青森市内に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
5
7月 父 出征
母と二人で青森市へ転居
聖マリア幼稚園に入園
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
6
4月 青森市立橋本小学校に入学
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
9
7月 青森大空襲で焼け出される
三沢市に転居
9月 父 戦病死


青森市浦町字橋本二四五番地>
 父親が出征した後、親子は青森市内に転居します。母親のはつの実家が青森市内にあり、其れなりの援助が貰えたからだとおもわれます。「…《私と母とが間借りしていたのは、神精一という名の退役軍人の家の二階であった。神という姓は、ジンと読むのだが、それでもカミと間違えて読む人の方が多かった。月に一度位来る葉書に神様方と書かれてあるのを見るたびに、私は 「神様方」 に間借りしているような気がして、何となく誇らしく思ったものである。》 (誰か故郷を想はざる・神の章) 寺山母子の住まいとなった家のご主人の名は神精一ではなく○×○で、浦町字橋本二四五番地、現在の住居表示では橋本二丁目○番地の××である。○×○はもう亡くなっているが妻の美恵は、かなりの高齢ながら健在だ。しかし、寺山母子が自分の家に寄宿していたことも、記憶から失いつつあるという。神家は浦町旧線路通りのソニーショップ横井でんきの東隣り、割烹舞大の向かいに位置する。…」。「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」からです。引用するには「誰か故郷を想はざる」が一番いいのですが、上記にも書いた通り何処までが「虚構」かがわかりませんので、「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」から引用しています。

左の写真の正面辺りが浦町字橋本二四五番地です。”ソニーショップ横井”はもう無く、”Video People”というお店になっていました。上記の本に書かれていた新住居表示は古いようで現在の住居表示とは違っていました(上記に書かれた方がお住いのようなので詳細の住所は臥せさせていただきます)。

聖マリア幼稚園跡>
 昭和16年、寺山修司は青森に転居後、直ぐ近くの幼稚園に通います。「…竹内さんの奥さんの実家が青森にあったので、そこの二階に間借りをすることになり、母子二人の生活がはじまりました。幼稚園も変わりました。新しい幼稚園は、アメリカ女性の経営している教会付属の聖マリア幼稚園で、情操教育にとても力を入れているところでした。…」。青森市内は昭和20年7月28日の青森大空襲ですっかり焼けてしまっていますので、幼稚園も当時の建物はありません。

右の写真が聖マリア幼稚園跡です。幼稚園は移転してしまっていました。建物自体は戦後建てられた幼稚園の建物のようです。「…昭和十六年、寺山修司はアメリカ人の経営する聖マリア幼稚園に入園する。橋本国道沿いの元みちのく銀行浦町支店跡、現在青森目口交流協会になっている所に、戦前レンガ造りの青森聖アンデレ教会があったがそこの付属幼稚園である。聖マリア幼稚園は青森市役所の国道沿い東棟通りの角にタカラ住宅機器ショールームがあり、その隣りにある。…… 寺山修司が聖マリア幼稚園に入園した前年、外国人宣教師に対して引場命令が出され、院長のミス・スペンサーが八月に日本を去った。外国人経営の幼稚園なのに、外国人は教師も園児も一人も居なく、戦争がはじまるのを予感させずにおかない時代になっていた。…」。場所的には上記に書かれている通りで、私も直ぐに分かりました。

青森市立橋本小学校> 2007/3/12 橋本小学校の写真を追加
 寺山修司が戦前の青森で通ったのが青森市立橋本小学校です。「…聖マリア幼稚園を卒園した寺山修司は昭和十七年、前年に小学校から国民学校と呼び名が変わった橋本国民学校に入学する。体が弱く医者通いの多い子供だったらしい。主治医ということでは無いのだが、なぜか柳町にまで足を延ばし、内科の開業医をしていた私の父にも世話になったと、生前母の寺山はつが話していたことがある。 …… 寺山母子は、神家の南向きの裏二階に空襲で焼け出されるまで四年間、住んでいた。 《一九四五年の七月二十八日に青森市は空襲に遭い、三万人の死者を出した。私と母とは、焼夷弾の雨の降る中を逃げまわり、ほとんど奇跡的に火傷もせずに、生き残った。翌朝、焼跡へ行ってみると、あちこちに焼死体がころがっていて、母はそれを見て嘔吐した。私の家のすぐ向かいには青森市長の蟹田巽氏の家があり……その蟹田実氏の家と、神家とのあいだには幅一メートル位の川があって、その川では一人の若い女が、あおむけに浮かびながら、焼死していた。》 (誰か故郷を想はざる・空襲の章) 青森市長の蟹田実氏というのは横山実市長のことで、今は区画整埋で家の向きが変わったりして判りにくいが、神家の西隣りに大きな防空壕があって、さらに西隣りに横山市長の家があったのだという。…」。母親と二人の生活でした。このころが一番幸せだった頃ではないでしょうか。青森大空襲は終戦まじかの昭和20年7月28日でした。7月14日には青函連絡船が攻撃されていましたので青森市内の空襲は時間の問題でした。

左上の写真が現在の橋本小学校です。廃校になったようです。写真はYさんより送っていただきました。ありがとうございました。


●寺山修司の青森を歩く (下)
  初版2007年1月20日
  二版2007年3月12日
 <V01L01> 2007/3/12 東京庵跡の写真を追加

 今週は「寺山修司の弘前、青森、三沢を歩く」の五日目、最終回です。寺山修司は母と別れ三沢から青森の親類の家に戻り、高校時代をこの青森で過ごします。



<あおもり文学の旅>
 昨年の11月に出版された本で、青森に関係した文学者達を数多く紹介しています。陸奥新報に連載されたものを本にされたようです。「…本稿は二〇〇五 (平成一七)年四月から二〇〇六 (平成一八)年八月まで、一年五カ月にわたって陸奥新報に連載された。…」。内容的には今までの文学散歩の本には書かれていないような新しい事柄が掲載されています。寺山修司では生誕の地を詳細に写真入りで紹介していました(「寺山修司の弘前を歩く」を参照)。私のような少し知識のある人には面白い本です。ただ余りに多くの作家を紹介しているため、一人一人の内容は物足りないです。「…本書で私は、四〇人の作家の足跡をたどりながら、青森県の文学系譜を明らかにしようと試みた。そのことによって、郷土の作家たちが、日本の近代文学史上、どのような役割を果たしたのか。それを幾分でも浮き彫りにしたいと思った。すぐれた業績を残しながらほとんど省みられなくなった作家も少なくない。こうした埋れた作家たちにも光をあてた。作家ゆかりの地を、自分の足でたしかめようと、県内各地をめぐった。津軽、南部、下北とほとんどの市町村を訪れた。その地 で新しい発見もいくつかあり、本文にも反映されている。…」。新聞に掲載されたものを本にしたため、量的に物足りないのは仕方がないのかなともおもいます。

左上の写真が阿部誠也氏の「あおもり文学の旅」北方新社版です(太宰治、石坂洋次郎、寺山修司、三浦哲郎等について書かれています)。阿部誠也氏の本では「名作に描かれた青森の風景」も面白い本です。東京の本屋さんではなかなか手に入りにくい本ですので通信販売で購入されたらいいとおもいます。青森に興味が無いと面白くないかもしれません。

【寺山修司(てらやましゅうじ)】
 1935年、青森県生まれ。早稲田大学中退。67年、演劇実験室「天井桟敷」を設立。演劇・映画・短歌・詩・評論など意欲的に活動。主な著書に『田園に死す』 『書を捨てよ、町へ出よう』 ほか多数。83年、敗血症により47歳で逝去。(文春文庫より)

寺山修司の青森年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

寺山修司の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
0
12月 寺山八郎、寺山はつの長男として、弘前市紺屋町に生まれる
昭和11年
1836
2.26事件
0
1月 1月10日生まれとして役場に届けられる
昭和12年
1937
蘆溝橋で日中両軍衝突
1
五所川原署へ転勤のため、五所川原に転居
昭和13年
1938
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
2
浪岡署への転勤のため、浪岡に転居
昭和14年
1939
ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
3
青森県警への転勤のため、青森市内に転居
昭和16年
1941
真珠湾攻撃、太平洋戦争
5
7月 父 出征
母と二人で青森市へ転居
聖マリア幼稚園に入園
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
6
4月 青森市立橋本小学校に入学
昭和20年
1945
ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
9
7月 青森大空襲で焼け出される
三沢市に転居
9月 父 戦病死
昭和21年
1946
第1次農地改革
極東国際軍事裁判
日本国憲法公布
10
米軍没収の家を譲り受ける
昭和23年
1948
帝銀事件
太宰治入水自殺
12
4月 古間木中学校に入学
秋 青森の阪本家に引き取られる
昭和26年
1951
「鉄腕アトム」の連載開始
対日講和条約
15
4月 青森県立青森高校に入学
吹田狐蓮主宰の「暖鳥句会」に出席
昭和27年
1952
対日講和条約、日米安保条約が発効
16
青森県高校文学部会議を作る。京武久美、近藤昭一(のちに自殺)、塩谷律子(のちに自殺)他と「魚類の薔薇」を発行
昭和29年
1953
「七人の侍」公開
18
4月 早稲田大学教育学部国文科に入学


歌舞伎座>
 昭和23年、寺山修司は母親と別れて、今回は一人で青森市の親類の家に転居します。ここでは「志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森」を参照しながら歩きます。「…古間木小学校から古間木中学校に進んだ二年生の秋、母はつが米軍キャンプで働くことになったため、寺山修司はひとり青森に移り母はつの祖父坂本繁太郎の三番目の弟夫婦、坂本勇三、きゑが経営する塩町四十三番地(現青柳二丁目一番地十五)の映画館・歌舞伎座に住むようになる。…… 中学二年の二学期から、野脇中学校に通うことになった寺山修司の住まい歌舞伎座は、戦前は芝居小屋で、空襲で 焼け出されたあと戦後、歌舞伎座の館名をそのまま残し映画館として再開したものである。戦前の歌舞伎座は大正三年、元中村座跡に開業、花道 や桟敷席のある本格的な歌舞伎が上演出来る劇場であった。中央からの歌舞伎が時折かかり、浜町の芸妓たちのおさらい会の常打の劇場として人気があった。…」。母方の親類は戦前からお金持ちのようで、青森空襲で焼け 落ちた歌舞伎座を戦後間もなく映画館として復興させています。寺山修司はこの歌舞伎座に住み込み、直ぐ近くの野脇中学校(現在は青森市文化会館になっていました)に通い始めます。

左の写真の正面辺りが歌舞伎座跡です。「…歌舞伎座は映画界の斜陽化の影響で、昭和四十一年に閉館となり一時食品の卸屋の倉庫に使われていたが、間もなく取り壊しとなった。今は警察共済組合青森県支部が運営する施設 『はくちよう会館』となっていを 『はくちょう会館』は結婚式や会合などで、警察関係者だけでなく市民に広く利用されている。この 『はくちょう会館』 の西隣の名畑商店は、いまも「トランプの名畑商店」の看板をかかげ苦のたたずまいを残しながら商いを続けている。…」。「はくちょう会館」は現在「モルトン迎賓館」として結婚式場になっていました。西隣の名畑商店は大きな看板そのままでした。

青森高等学校>
 昭和26年、寺山修司は青森県立青森高等学校に入学します。太宰治の後輩ですね。「…昭和二十六年、野脇中学校を卒業した寺山修司は、筒井桜川の青森高等学校に入学する。青森高校は元陸軍歩兵第五連隊の兵舎のあった所で、まだ明治八年に建設したという兵舎や連隊本部だった建物が残っていて、教員たちの住宅として使われていた。…」。青森高校(戦前の青森県立青森中学校は合浦公園にあった)は終戦直前の青森空襲で焼けてしまい、戦後間もなく桜川に移ります。

右の写真が青森県立青森高等学校の正門です(本当に正門?)。時間がなかったので校舎の写真は撮れませんでした。

松原町の阪本勇三宅>
 歌舞伎座に下宿していましたが、松原町に新築した坂本勇三氏の自宅に住むようになります。「…塩町の歌舞伎座に住み青森高校へ通学していたことになっている寺山修司だが、一二年生のときには堤川沿いの松原町へ移っている。卒業時の住所録や、青森高校生徒会文化クラブ文学部長の時代の寺山修司の名刺には、青森市松原町四十九となっている。このあたりからは堤川がすぐで、学校へはこの土手せ通ってゆくのが格好 の通学路だった。京武久美と文学論を戦わしながらこの土手を行き交っ たであろう姿が想像できる。…」。まだご家族の方がお住いのようだったの で直接の写真は控えさせていただきました。青森高等学校方面から見た 堤川の土手の写真も掲載しておきます。

左上の写真の道を少し歩いた右側小道を入った突き当たりに坂本勇三氏のお宅がありました。この道にはもう一人、寺山修司の知人が住んでいました。「虚人 寺山修司伝」から、「…『暖鳥』への投句をめぐって修司は選者のもとにねじこむ強引さも持ちあわせていた。その選者は千葉菁実という小学教師で、修司の松原の家の数軒先に住んでいた。修司は京武や教師の宮川のもとに毎日俳句を見せにいくのと同様に、千葉の家をも連日のように訪れていた。そうして千葉が「これはすばらしい」とマル印をつけて評価してくれた作品を『暖鳥』に投句していたのである。…」。この千葉菁実さんのお宅がこの道の右側に有りました(詳細の場所は控えさせていただきます)。

吹田孤蓬宅跡>
 寺山修司は友人と青森の俳句会に出席します。「…ある日、同級生の京武久美が一冊のリトル・マガジンを持って、にやにやしていた。「どうしたのだ?」と聞いても答えない。そこで、私は無理やりにそのリトル・マガジンを引ったくって、ひらいてみた。それは青森俳句会という無名の少結社の出している「暖鳥」という雑誌であったが、そのなかの「暖鳥集」という欄に、京武久美という名と、彼の俳句が一句印刷されてあるのだ。…… そして、その夜私は京武に連れられて「暖鳥句会」 に出席した。それは吹田孤蓮という怪人物の自宅で、「会」はそのうすぐらい六畳間でひらかれた。…」。この句会が開催された場所は歌舞伎座の直ぐ近くでした。

右の写真の正面の空き地に「吹田孤蓮の自宅」がありました。「…ここに登場してくる怪人物・吹田孤蓮は蓮の字が二子違うけれど、県文化賞を受賞している俳人の吹田孤蓬(平成元年没) のことだと分かる。青森俳句会の事務局になっている吹田孤蓬宅は、今のホテル青森の真向かい、青柳二丁目三番地十五で、ここでは青森空襲の日の夜も句会を開いていたという位、熱心な俳人たちが集まった。…」。残念ながら家は有りませんでした。

北谷書店跡>
 青森高等学校のの先輩で、早稲田大学俳句研究会でも一緒だった当時青森放送広報部長の工藤迫氏の依頼により青森放送のPR誌に書かれた「私と青森」を参考にして青森を歩きました。「…わが夏帽どこまでころべども故郷  人は誰でも、書くと感傷的になる時か所を持っている。私にとって、それはどうやら『青森』のようである。大観堂での本の立ち読み。東京庵の青い色をした天ぷらソバ、小田九の塩っからいラーメン、北谷書店の上にはじめてできた喫茶店。そうしたものと私との間には、もう十年の月日がしきっている。しかし私には冒頭にあげた高校時代の俳句が、つい昨日のもののように思い出されてくるのである。…」。「北谷書店」の上の喫茶店とは「ラスキン」の事らしいのですが、「北谷書店」も二階の「ラスキン」も有りませんでした。「北谷書店」は「カメラの富士屋」になっていました。この「カメラの富士屋」の前にある本屋さんの「成田本店」そのままありました。

左上の写真の右から三軒目が「カメラの富士屋」です。この二階に寺山修司と工藤迫氏が良くお茶を飲んでいた「ラスキン」が在ったはずなのですが!

大観堂書店>

右の写真が上記に書かれている「大観堂書店」です。まだ存在していました(失礼しました)。

小田九> 2007/3/12 東京庵跡の写真を追加

左の写真が上記に書かれている”小田九の塩からっいラーメン”の「小田九」です。此方もまだ存在していました(失礼しました)。”東京庵の天ぷらソバ”は場所が分かりませんでした。

Yさんに東京庵跡の写真を送っていただきました。残念ながら数年前に取り壊されたそうです(場所は、青森市長島1丁目5−1(農林中央金庫青森支店)と、長島1丁目5−12(斗南ビル)の間)。送っていただいた東京庵跡の写真を掲載しておきます。

今回で「寺山修司の青森を歩く」は終了します。

寺山修司の青森地図


【参考文献】
・誰が故郷を想わざる:寺山修司、角川文庫
・東北という劇空間:村上善男、創風社
・志功・太宰・寺山と歩く ふるさと青森:青森市文化団体協議会、北の街社
・母の蛍:寺山はつ、新書館
・虚人 寺山修司伝:田澤拓也、文春文庫
・新潮日本文学アルバム 寺山修司:新潮社
・寺山修司 その知られざる青春:小川太郎、三一書房

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