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最終更新日:2006年2月21日

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●「帝銀事件を歩く」  初版2001年10月20日 V02L01
 今週は昭和23年(1948)1月26日に起こった強盗殺人事件「帝銀事件」を歩いてみたいと思います。帝銀事件とは西武池袋線(当時は武蔵野線)の椎名町駅近くの帝国銀行(現第一勧業銀行)椎名町支店で、支店が閉まった4時頃に東京都のマークの付いた腕章を腕に付けた中年の男が現れ、集団赤痢が発生したから予防薬を飲まなければならないと言って、全員に青酸カリを飲ませ、12人を毒殺、現金12万円と小切手を強奪した事件です。犯人として平沢貞通が逮捕されましたが、最後まで犯行を否認します。最高裁で死刑判決が確定しましたが、刑は執行されず昭和62年獄中で死去します。

<青酸カリ>
 猛毒の白色結晶で、正式名称はシアン化カリウムです(別称で青酸カリと呼ばれています)。金属精錬やメッキ、殺虫剤などに使われ、毒劇物取締法の毒物に指定されています。ここでは殺害の薬物が青酸カリと書きましたが、通常の青酸カリは速効性があり、下記の遅効性の状況から何らかの青酸カリの化合物ではないかと思われます。

左の写真は和多田進の「ドキュメント帝銀事件」、ちくま文庫版です。新刊書はもう売っておりませんので、インターネットの古本屋さんで購入しました。帝銀事件に関する図書はかなり出ており、結構楽しめます。

teigin01w.jpg<安田銀行荏原支店>
 帝銀事件が発生する前に同じような事件がいくつか起こっていました。最初に起こったのは「帝銀事件」の前年、昭和22年10月14日の事です。松本清張の「日本の黒い霧」を参照すると「狙われた銀行は、品川区平塚の安田銀行荏原支店だった。それも午後三時過ぎ、閉店直後の銀行に、一人の品のいい男が現れて、渡辺支店長に、厚生技官医学博士松井蔚、厚生省予防局、という名刺を出した。彼は云った。「…小山三丁目のマーケット裏の渡辺という家に避難してきた夫婦者が、赤痢にかかり、そこから集団赤痢が発生したので、消毒のため、GHQのパーカー中尉と一緒にジープで来た。調べてみると、きょう午前中、そこの同居人が、この銀行に預金に来たのが分ったので、この銀行のオール・メンバー、オール・ルーム、オール・キャッシュ、またはオール・マネーを消毒しなければならない。…」…。ここでは渡辺支店長が慎重で、近くの平塚橋交番に小使を行かせて問い合わせたので、交番の巡査が、早速、小山三丁目あたりを自転車で探し廻ったが、赤痢が出たような家がない。巡査が銀行に行くと、その男は支店長の前にまだ立っていた。…巡査は再び、確かめるために銀行から出て行った。そのあとで、その男は、予防のため全員これを飲まなければなりません、と云って、ズックの鞄から、茶の瓶褐色と無色透明の瓶を出した。…自分で飲んで見せたのち、全員に飲ませ、更に二番目の液も飲ませた。…遅いからちょっと見てくる、と云って、通用口の方へ歩いて消えた。」とあります。やり方は帝銀事件と全く同じなのですが、どういうわけか死者は出ていません(青酸カリではなかったのか!)。また、厚生技官医学博士松井蔚の名刺を残しましたが、この名刺の本人は実在しており、その上名刺自体が本物で、これが後の重要な証拠となります。

左の写真が現在の富士銀行荏原支店(旧安田銀行荏原支店)です。中原街道平塚橋交差点にあり、丁度交差点の反対側に平塚橋交番があります。安田銀行の渡辺支店長が頼んだ交番です。この辺は余り変わっていませんね。また武蔵小山商店街の端にあり、東急目黒線の武蔵小山駅から商店街を歩いてくると丁度富士銀行の横に出ます。

teigin02w.jpg<三菱銀行中井支店>
 帝銀事件が起こった武蔵野線椎名町駅から山手通りを新宿側に少し歩いた西武新宿線中井駅の三菱銀行中井支店で、第二の事件が起こっています。上記の安田銀行荏原支店事件からは3ヶ月たった、帝銀事件の僅か一週間前の昭和23年(1948)1月19日に起こっています。この事件も松本清張の「日本の黒い霧」を参照すると「新宿区下落合の三菱銀行中井支店に、品の良い紳士風の男が訪れて、厚生省技官医学博士山口二郎、東京都防疫官と印刷した名刺を出して、…ここのお得意さんから七名ほどの集団赤痢が発生したので、進駐軍が車で消毒に来たが、その会社の一人が、今日この銀行に預金に来たことが分った。それで、銀行の人も、現金、帳簿、各室全部消毒しなければならない。今日は現送はあったか、と訊いた。支店長が、現送は無い、と答え、預金に来た者の会社の名前を訊くと、赤痢が出たのほ、新宿区下落合の井華鉱業落合寮で、そこの責任者の大谷という人がここに来た筈だ、と山口と名乗る防疫官は云った。…折から、行員が小為替類をまとめて本店に運ぼうとしているのを止めた。支店長は、一枚のことでそんなことをされては困ります、その為替を消毒するだけにしてもらいたい、と抗議したので、彼は肩に掛けていたズックの鞄の中から、小さな瓶を取り出し、その瓶に入っていた無色透明の液体を、その小為替の裏表全体にふりかけたのちに、それを戻した。…この事件は、実害がなかったため、当時、銀行は警察には届けなかったものである。」とあります。この時も三菱銀行の支店長の機転で未然に事件が防がれています。この時に犯人が使った名刺は厚生省技官医学博士山口二郎で、これは実在しない人物でした。次の日の20日には豊島区上落合2-717(中井駅近く)の落合信用組合上落合出張所にも不審な男が現れています。

右の写真が三菱銀行中井支店があった淀橋区下落合2080辺りです。下落合2080はかなり広い範囲の地番で詳細の場所が分かりませんでした。写真の坂は”二の坂”で、一から八の坂まであり、”四の坂”には林芙美子の旧宅があります。この辺りは空襲に焼け残った所で、焼け残った民家を銀行の支店にしていた様です。現在は中井駅側にATMが有るのみで支店は東中野の駅前に東中野支店があります。また上記に出てきます井華鉱業(寮が下落合4-2130にあった)は昭和21年に住友鉱業が財閥解体で社名変更したもので、今は落合寮もありません。

teigin06w.jpg<帝国銀行椎名町支店>
 昭和23年(1948)1月26日午後4時ごろ事件は起こります。事件発生の様子を翌日26日の朝日新聞は一面ではありませんがタイトルで”帝銀椎名町支店の怪事件、全行員に毒薬を盛る、十一名死亡、犯人はすぐ逃走”とあります。事件の経緯は和多田進の「ドキュメント帝銀事件」では「吉田支店長代理…の供述から『……本日午後四時頃、…横のくぐり戸を開けて、年齢四四、五歳の背広服で左腕に白地に東京都の赤印ありの男が一人で入ってきまして名刺を出しまして、「東京都の者ですが支店長は」と申しましたから、私は支店長はおりませんが、私が支店長代理ですと言いました。…するとその男は「実は長崎二丁目の会田(相田が正しい)という家の前の井戸を使用しているところより四名の集団赤痢が発生し警察の方へも届けられたが、…調べて見るとその家へ同居している人が今日、この銀行へきたことがわかった。…その消毒をする前に予防薬を飲んでもらうことになった」と言われましたから、…薬は二種あって、最初の薬を飲んだ後、一分くらいして第二の薬を飲むのである」と言われ、…スポイトで少量宛湯飲みに少量宛分配して、その男は最初の薬を舌が出せるだけ出しましてその中ほどへ巻くように飲んで見せましたから、店員の者も全部それを見習って全部が飲みましたが、するとその薬は非常に刺激が強く、ちょうど酒の飲めぬ人が強い酒を飲んだように苦しくなってきました。それで一分後、第二薬をまた分配してもらって飲みました。そして私は井戸へ行きましてうがいを致して帰ろうといたしますと、みなの者もバタバタ倒れますので、これはいけないと私の席へ帰り洩したが、間もなく意識がわからなくなってしまいました。…吉田武次郎支店長代理は、収容された聖母病院で以上のように供述した。』」とあります。支店長が不在だったため、用心深く調べる事をせずに犯人の言う事を信じてしまったようです。富士銀行と三菱銀行では支店長がかなり用心深かった為、助かったのだと思います。その上、犯人がかなり慣れてきていて、うまく実行されてしまったのでしょう。亡くなられたのは12名、生き残ったのは支店長代理以下、僅か4名でした。

左の写真が当時の地番で東京都豊島区長崎町1-33、現在の豊島区長崎1-7-1付近です。帝国銀行は質屋を借りて支店にしていた様で、現在は不動産屋さんになっています。西武椎名町駅からは70〜80m位、長崎神社の横で、現在は人通りも多く、角の電柱に辻質店と広告があるのが、なにか当時を思い出させます。

teigin07w.jpg<安田銀行板橋支店>
 犯人は帝国銀行椎名町支店で現金12万円と小切手を奪っています。この小切手の盗難手配が遅かった為、犯人は易々とこの奪った小切手を翌日換金することができます。「盗まれた小切手の手配をしたのだが、それは、すでに犯行翌日の二十七日、安田銀行板橋支店から金に換えられていたことが分った。それは、振出人森越治、金額一万七千四百五十円。裏書には「板橋三の三六六一」と犯人の筆蹟がしるされてあった。裏書人は後藤豊治だったが、これは本人が名前だけ書いていたので、犯人がデタラメの住所を、横に書き加えたのであった。この男の人相、風体について調べると、同銀行支店長代理の田川敏夫は「その男は五尺三寸前後で、肩は丸みをおび、厚みがあって、猫背ではなく、着ぶくれたような感じだった。」と述べた。」とあります。ここでは目撃証言と小切手の筆跡がポイントになります。

右の写真が板橋本町の交差点角にある当時の安田銀行板橋支店、現在の富士銀行板橋支店です。環状七号線と中山道の交差点で、上には首都高速が走っており、排気ガスまみれの所で、あまり長くいたくない所でした。

《事件の経緯》
事 件 日 曜 日 時 間 発 生 事 件
昭和22年10月14日 午後3時〜4時 安田銀行荏原支店(未遂)
昭和23年1月17日 午前10時 名刺注文(山口姓)
昭和23年1月18日 午前 名刺受け取り
昭和23年1月19日 午後3時〜4時 三菱銀行中井支店(未遂)
昭和23年1月26日 午後3時〜4時 帝国銀行椎名町支店
昭和23年1月27日 午後3時30分 安田銀行板橋支店(小切手換金)

ここで、犯人探しになるのですが、当初捜査当局は、薬学、理科学系の知識があるもの、旧軍関係、特殊学校、防疫給水隊、特務機関に勤めたもの、を中心に捜査を進めていました。しかしながら、これらに関係なく平沢貞通が犯人として逮捕されます。逮捕のポイントは厚生技官医学博士松井蔚の名刺を貰っていた(松井博士は名刺の交換先を記録していた)、小切手の筆跡、所持していた大量の現金等で、当時は戦前の法律のままで自白が重要視されており、ほとんど自白により有罪の判決が出た様です。最初にも書きましたが、遅効性の青酸カリに近い劇物は、当時としては旧陸軍研究所で開発されたアセトンシアンヒドリン(通称ニトリール)しかなく、の関連が有力です(しかし当時は占領下で、この点を追求するのは殆ど不可能だった)。そして私が気になるのは、全て山手通り沿いで起こっている事です(荏原支店も山手通りからは直ぐです、板橋本町も山手通り)。車を持って移動した様に思えます。どうでしょうか?そうすると犯人は!!
 

帝銀事件の関連地図
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【参考文献】
・ドキュメント帝銀事件:ちくま文庫、和多田進
・日本の黒い霧:文春文庫、松本清張
・「文藝春秋」にみる昭和史:文春文庫、文藝春秋
・昭和史の謎を追う:文春文庫、秦郁彦

【住所紹介】
・富士銀行荏原支店:東京都品川区荏原4-4、武蔵小山商店街入口(平塚橋角)
・富士銀行板橋支店:東京都板橋区本町32、都営地下鉄三田線板橋本町駅
 
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