●谷崎潤一郎の「上海」を歩く -2-
    初版2012年12月31日
    二版2015年1月6日  <V01L01> マジェスティック・ホテル、功徳林関連の写真を入替え他 暫定版

 今週も上海シリーズを続けます。今回は「谷崎潤一郎の上海を歩く」です。谷崎潤一郎は大正7年と大正15年(昭和元年)の二回上海を訪ねています。二回目の訪問である大正15年1月13日の長崎出発から2月19日の神戸着までを追ってみました。 因みに(-1-)は大正7年の上海を予定しています。


「日本郵船長崎丸」
<日本郵船長崎丸>
 芥川龍之介は上海行きの船に門司から乗船しましたが、谷崎潤一郎は乗船時間の一番短い長崎から乗船しています。長崎−上海間の航路は大正12年開設ですから間に合っています。この航路は翌日には上海に到着しますから一日の船旅でいいわけです。下関からでは2日掛かります。門司ー長崎間の列車も急行で6時間掛かりますので、船旅か鉄道かは好みだとおもいます。

 谷崎潤一郎全集の書簡から
「六五 一月十二日 長崎市大浦ジャパンホテル方より京都市上京區田中關田町四四濱本浩宛 封書(御直披)(オテル・ドユ・ジャポン用便箋用紙、横書)
濱本浩様
新年おめでたう、昨冬は大變御厄介になりました。
六日に家族をつれて出發、長崎へ来て四五日遊びました。明十三日長崎丸にて出帆します。
いづれ上海から叉御便りします。先は一寸御挨拶まで
 大正十五年正月十二日
                                        谷崎潤一郎」


 谷崎潤一郎の長崎での宿泊場所はジャパンホテルでした。このジャパンホテルについては別途掲載したいとおもっています。

 濱本 浩(はまもと ひろし、1891年4月20日 - 1959年3月12日)は、日本の作家。
 愛媛県松山市生まれ。高知市出身。同志社中学部中退。改造社編集部員時代に谷崎潤一郎の担当編集者として知遇を得ていました。(ウイキペディア参照)

左上の写真は日本郵船長崎丸です。長崎ー上海間に就航した高速船です。25時間で結んでいたようです。大正13年には神戸まで航路が伸びていますので、谷崎潤一郎は帰国では神戸まで乗船しています。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
  明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)



上海全体地図



「一品香ホテル跡」
<一品香ホテル>
 谷崎潤一郎の上海での宿泊場所は共同租界の競馬場前にある「一品香旅社(一品香ホテル)」でした。日本人街からは少し遠いですが、仏蘭西租界や上海の繁華街である南京路、四州路(現 福州路)等のすぐ傍でした。一流好みの谷崎潤一郎にピッタリです。

 谷崎潤一郎の「上海交遊記」より
「…二人は私の泊まってゐる一品香ホテルまで来て、紹興酒を飲みながら又暫らく談じ続けた。酔ひが循るに従って、両君ともに現代支那の青年の悩みを率直に語る。わわれの国の占い文化は、目下西洋の文化のために次第に駆逐されつゝある。産業組織は改革され、外国の資本が流入して来て、うまい汁はみんな彼等に吸はれてしまふ。支那は無限の宝庫だと云はれ、新しい富源が開拓されては行くけれども、われわれ支那の国民は少しも利益に与らないばかりか、物価が日増しに高くなるので、だんだん生活難に追はれる。上海は殷賑な都会だとは云へ、そこの富力と実権とを握ってゐる者は外国人だ。そして年々、租界の贅沢な風習が田舎に及んで、淳朴な地方の人心を蠧毒して行く。百姓たちは田を耕しても一向金が儲らないのに、購買慾を刺戟されて、そのためになほ貧乏する。…

ホテル前の、競馬場に沿うた坦々たる西蔵路の大道を、車は二人を載せたまゝ北から南へ走つて行く。コンクリートの路面が研きをかけた廊下のやうにキラキラして、カラリと晴れた日の光を反射してゐる。旧暦の歳の暮なので街は人馬絡繹たる光景。自動車、馬車、人力車、苦力の群集の間を分けて、馬に乗つた兵隊が蹄の音を朗かに鳴らしながら通る。芝居、活動、年末大売出し等の広告隊がその後に続く。…」。


 ”購買欲を刺激されて”は現代でも同じですね。昔からマーケティング手法は変わりません。新興国で商品を売りさばく手法です。

正面の路は西藏路で、やや左にメモリアル・チャーチが写っています。このメモリアルチャーチから漢口路を挟んで右に2軒目が「一品香旅社(一品香ホテル)」でした。「上海歴史ガイドブック」によると、”旧上海の有名な大型旅館、1883年創業、1919年南側に拡張、ダンスホールや楽隊を有する宴会場など豪華な設備で知られる”と書かれています。

「マジェスティック・ホテル跡」
<マジェスティック・ホテル>
 2015年1月6日 日中の写真に入替え
 谷崎潤一郎は上海でもう一軒宿泊したホテルがあります。府立一中一年生甲級の同級生である土屋計左右が手配したようです。土屋計左右は三井銀行上海支店に勤めており、大正7年の上海訪問時にも谷崎潤一郎を世話しています。

 谷崎潤一郎の「上海見聞録」より
「…私は三井銀行の土屋君の紹介で、東洋第一、否世界中での有数な旅館と云はれる「マヂェスティツク・ホテル」と云ふのへ、話の種に二三日泊って見たが、宿泊料は一日最低が二十五弗、最高が七十五弗で、設備万端贅沢を極めてゐるに拘はらず、ボルド酒は千九百二十二年のシャトオ・ラフィツトが最上と云ふところ、長崎のジャパン・ホテルにだって千九百十一年のブルガンティー酒があるくらゐだのに、此れではちよっと貧弱である。料理も決して旨いとは云へない。一方支那人の風俗なぞも、悪く西洋かぶれがして、八年前に来た時とは大分違った印象を受けた。気に入ったらば上海へ二戸を構へてもいいくらゐに思ってゐた私は、大いに失望して帰った。西洋を知るには矢張り西洋へ行かなければ駄目、支那を知るには北京へ行かなければ駄目である。…」

 ここで長崎のジャパンホテルが登場しています。よっぽど印象が良かったのでしょう。

左上の写真付近一帯が「マジェスティック・ホテル」でした(今は伊勢丹がありました)。近くにMajestic Theatre(マジェスティック劇場)がありますがとくに関係はないようです。詳細の場所は地図を参照してください。撮影が夜でイマイチです。
 「上海歴史ガイドブック」によると
「大華飯店(マジェスティツク・ホテル) Majestic Hotel 1910年頃麦辺花園 McBain Garden跡に建てられた豪華ホテル。大理石の列柱をもった回廊や、広大な芝生の庭園で知られる。 1925年以降夏だけの露天映画場大華露天影戯園 Majestic Lawn Cinemaを庭園内に付設。 1927年12月1日には蒋介石と宋美齢の盛大な結婚披露宴が行われる。 1933年頃取り壊され南側の庭園跡に大都会花園舞庁を開く。」
 蒋介石と宋美齢の結婚披露宴がポイントです。



上海地図 -5-



谷崎潤一郎の「上海」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正7年 1918 シベリア出兵 32 3月 神奈川県鵠沼海岸の「あづまや別館」に滞在
10月 支那旅行に出発
11月 上海に滞在
12月 帰国
         
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 1月 上海へ単身で出発
2月 帰国
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園2号に転居
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
41 1月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園4号の別の家に転居



「功徳林」
<功徳林>
 2015年1月6日 日中の写真に入替えと旧場所の写真を追加
 「上海交遊記」の最初に登場するお店です。谷崎潤一郎が訪ねた頃とは場所が変っていましたが、私も中国語の喋れる友人と一緒に訪ねてみました。日本の精進料理とはすこし違っていました。最初はよく分からなかったのですが、食べている内に理解しました。

 谷崎潤一郎の「上海交遊記」より
「上海交遊記
      (1) 内山書店
或る日、上海へ着いて間もなく、三井銀行の支店長をしてゐる旧友のT氏に招かれて、「功徳林」と云ふ支那の精進料理屋へ行った。会する者は三井銀行並びに物産の社員、その他T君の懇意の人々十数人であったが、席上、ブローカーの宮崎君から私は意外な話を聞いた。と云ふのは、現在の支那には青年文士芸術家の新しい運動が起りっゝあって、日本の小説や戯曲など、目欲しいものは大概彼等の手に依って支那語に訳されてゐると云ふのである。…」


 ”三井銀行の支店長をしてゐる旧友のT氏”とは上記のも書きましたが府立一中一年生甲級の同級生である土屋計左右氏です。土屋計左右氏は戦後、第一ホテルの社長になっています。

写真は現在の「功徳林」入口です。夜に撮影したお店全体の写真も掲載しておきます。「上海歴史ガイドブック」によると、このお店は1922年に北京路(現在の東北京路)と貴州路の角に開店、1932年頃に黄河路43号に移転、1997年に現在地に移転しているそうです。黄河路43号にはまだお店がありました

「北京ダック」
<功徳林の料理>
 中国料理(広東料理、四川料理等)は、日本では中国料理のメニューを理解して頼んでいたのですが、「功徳林」のメニューを見てもさっぱり分かりませんでした(ビールとお茶の種類だけは何とか理解できた)。中国語を喋れる友人が一緒だったので彼に任せて頼んでもらいました。

 谷崎潤一郎の「上海交遊記」より
「…先日「功徳林」で喰べたのが始めてゞあった。然るに今日のはその「功徳林」の料理に比べると、更に一層精緻である。聞けば「供養斉」と云ふ店の仕出しで、そこの番頭と内山氏と相知るところから、特に念入りにゃらせたのださうである。その材料を考へるのに、主要なものは麸と、豆腐と、豆腐皮(ゆば)であって、その外には片栗のやうなもの、白玉のやうなもの、饂飩粉のやうなものを用ふるに過ぎない。それらをいろいろに変形させて後から後からと違った料理を運んで来る。その外見は普通の料理と少しも変らない。たとへば燕の巣の吸ひ物もあり、鶩や鴨の蒸焼もあり、魚のつみいれの羹もある。尤も此れだけのことならば、羊羹を刺し身に見立てるとか、豆腐皮を鰻の蒲焼に擬するとか、日本の精進料理でもやる。しかし日本のは色と形を模倣するだけに止まってゐるのに、驚くべし支那に於いては、進んで我等の味覚をも欺かんとするのである。勿論そっくりそのまゝと云ふことは出来ないにしても、燕菜のとろとろとした舌ざはり、鶩の肉の濃厚なる脂の感じ、芳烈なるも、滋潤なるもの、淡泊なるもの、深刻なるもの、普通の料理にあるところの複雑な調味は、何一っとして備はらざるなしと云ってよい。精進料理と云へば、腹の足しにならないアツケないものと思ってゐた私は、事実肉だの魚だのを満喫したのと同じ程度に食慾を充たした。…」

 谷崎潤一郎が上記に書いていますが、”主要なものは麸と、豆腐と、豆腐皮であって、その外には片栗のやうなもの、白玉のやうなもの、饂飩粉のやうなものを用ふるに過ぎない。それらをいろいろに変形させて後から後からと違った料理を運んで来る。”、全くその通りでした。

右上の写真は普通に見れば北京ダックです。見栄えも、食感も、味も北京ダックに似せているのですが、今一歩なのは仕方がないのかもしれません。ダック自体は麸か豆腐か湯葉(豆腐皮)のようなもので創られていました(よく分からなかったです)。鶏肉が見た目も味も一番ソックリでした。もう一品取ったのですが何かわらずでした。最後に焼きそばで締めて、二人で195元(青島ビール含)でした(日本円で2700円位)。安かった。レシートを掲載しておきます(一部消しています)。

「内山書店跡」
<内山書店>
 2015年1月6日 魏盛里の場所の修正と写真の追加
 上海の内山書店を掲載するのは三度目です。一度目は”ゾルゲ事件の尾崎秀実”、二度目は先般掲載した”芥川龍之介の上海”で、今回が三度目になります。

 谷崎潤一郎の「上海交遊記」より
「…宮崎君の話のやうに、それほど日本の文学が紹介されてゐようとは、八年ぶりで今度上海へやって来る迄、全く予期しないことだった。新聞で見ると、支那の学生は今でも矢張政治運動や社会運動に没頭してゐる、なかく文学を顧みる余裕はあるまいと云ふ風に考へてゐた。
数日を経て、北四川路の阿瑞里にある内山書店へ、私はM君に連れて行かれた。此の書店は、満洲を除けば支那に於ける日本の書肆では一番大きな店であると云ふ。主人と云ふのは、気の若い、話の分る、面白い人であった。店の奥のストーヅの周りに長椅子やテーブルが置いてあって、買ひ物に来たお客たちがそこでちょっと茶を飲みながら話をするやうに出来てゐる、 ── 思ふに此の店は書物好きの連中の、溜りのやうになつてゐるらしい。 ── 私はそこで茶を呼ばれながら、支那青年の現状に就いて主人の語るところを聞いた。主人の云ふには、大凡そ此の店は年に八万円の売上げがある。さうしてそのうちの四分の一は支那人が買つて行く。而もその率は年々殖えて行くばかりだと云ふ。では支那人は主にどう云ふ種類の本を買ふのかと云ふと、いや、どれと云つて極まつてゐない、どんな種類の本でも買ふ。…」


 芥川龍之介よりは谷崎潤一郎の方が面白いです。 内山書店店主の内山完造は魯迅を匿ったり、谷崎潤一郎、佐藤春夫の上海渡航時は世話をしたりして内山書店自体が上海文化人のサロンになっていたそうです。昭和10年(1935)には東京に支店を開設します。戦後は上海永住を決意しますが昭和22年、強制帰国命令でやむを得ず帰国します。

左上の写真は谷崎潤一郎が訪ねた頃の内山書店跡です。1917ー1929年までは魏盛里(写真の右側が人民病院で、道を挟んだ前あたりの路地を少し中に入ったところにあった)にあり、1929年以降は四川北路2048号に移っています。中国工商銀行の壁に日中両国語の祈念プレートがありました。

 今日はここまでです。追加更新予定です。



上海地図 -2-