●谷崎潤一郎の「長崎」を歩く
    初版2015年10月10日<V01L01> 暫定版

 今週も長崎シリーズで「谷崎潤一郎の長崎を歩く」です。谷崎潤一郎が終ると次は「孫文の長崎」となります。孫文で長崎シリーズは終る予定です。「谷崎潤一郎の長崎を歩く」は大正15年(昭和元年)に上海を訪ねる途中、日本郵船の上海航路に乗船するために長崎に来ています。


「谷崎潤一郎全集」
<谷崎潤一郎全集(最新版)>
 谷崎潤一郎全集の新版が中央公論新社から今年の5月より出版されています。中央公論新社 創業130周年記念出版だそうで、月一冊の発行ですから、26巻で2017年6月まで掛かります。それまで中央公論新社がもつか心配です。(年譜や書簡の掲載された巻はまだ出版されていませんので、前版で記載します)

 谷崎潤一郎全集(前版、1981)の年譜から
「 大正十五年・昭和元年(一九二六)丙寅  四十歳
一月十三日、長崎丸で上海に旅立つ。内山完造を通じて、田漢、郭沫若、歐陽予倩、周作人らと相識る。二月十四日帰国の途につく。」


 年譜には長崎からの出発日と帰途に就いた日しか書いてありません。もう少し他の本を探す必要がありそうです。

谷崎潤一郎全集(前版、1981)の書簡から
「六四
十二月二十六日 兵庫縣武庫郡本山村北畑(消印東京中央)より中華民國上海九江路三井銀行支店内土屋計左右宛 封書(親展)
其後は長らく御不沙汰いたしました、いつも御變りなく大慶に存じます。
さて小生は地震後兵庫縣下に引移り、御影の近所に家を持つて居りますが、目下一寸用事があつて東京へ來て居ります。そして東京の用がすみ次第、多分年内に(大晦日頃)上海へ遊びに行かうと思つて居ります。滞在日数、プログラムなどはまだ確定して居ませんが、面白ければ一二月は居るつもりで、或は將來、上海と日本と両方に家を置き、往つたり來たりしようと云ふ考へもあります。さうなれば或は家族もつれて行くかも知れませんが、先づ今同は單獨にて行き、然るべき家具附の部屋を借りて住まうかと云ふ計劃です。それで何かにつけ、大兄の御盡力を仰ぎ度、最初四五日は宿屋住まひをしなければなりませんが、宿屋は日本旅館でなく、支那人経営の洋風ホテルが望ましく、勝手ながらこれも御配慮を煩はし度存じます。
兎に角御地到着次第、御訪ねいたしますが、出立の日に電報をさし上げます。御宅の住所が分らないので銀行宛に此手紙さしあげますが、今日此れから偕楽園へ行きますから笹沼にきくつもりで居ります。
いづれ拜顏の節萬
十二月二十六日
                                      谷崎潤一郎
土屋計左右様
二伸
或は大兄気附にて小生宛の郵便が行くかも知れませんが、その節は御預り置きを願ひます。
洵小生兵庫縣の住所は兵庫縣武庫郡本山村北畑です。一旦東京から歸宅して、神戸より船に乗る豫定です。」

 当初は長崎ではなく、~戸から船に乗船する予定だったようです。いつ長崎に変ったかは不明です。

左上の写真は今年5月に中央公論新社より発刊された谷崎潤一郎全集の新版です。2017年まで掛かりますので気の長い話です。今回は26巻です。前回は30巻だったので、削ったのか、各巻のページが増えているのかまだ分かりません。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
  明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)



長崎地図(芥川龍之介の地図を流用)



「旧長崎駅」
<長崎駅>
 この頃の谷崎潤一郎の住まいは現在の神戸市東灘区本山北町三丁目(本山第1小学校の右横)に住んでいましたので、日本郵船の上海便に乗船するには、~戸で良かったのですが、わざわざ長崎から乗船しています。家族も連れての長崎ですので、観光目的もあったのだとおもいます。大正15年1月6日~戸を出発、長崎には翌7日夕方に着いています。

<鉄道:大正16年1月の時刻表>
 神戸駅発21時25分(特急)→下関駅着8時25分(寝台泊)
 下関駅発8時40分→門司駅着8時55分(連絡船)
 門司駅発9時(急行)→長崎駅着16時01分
 (特急の一、二等で行くにはこれしかありません)
<船便:日本郵船上海便>
神戸寄航後、昭和2年(1927)当時の行程
往航:神戸(1日目・午前11時発)→長崎(2日目・午前9時着、午後1時発)→上海(3日目・午後4時着)

 谷崎潤一郎全集(前版、1981)の書簡から
「六五
一月十二日 長崎市大浦ジャパンホテル方より京都市上京區田中間田町四
四濱本浩宛 封書(御直披)(オテル・ドユ・ジャポン用便箋用紙、横書)
濱本浩様
新年おめでたう、昨冬は大變御厄介になりました。
六日に家族をつれて出發、長崎へ來て四五日遊びました。明十三日長崎丸にて出帆します。
いづれ上海から又御便りします。先は一寸御挨拶まで
 大正十五年正月十二日
                                        谷崎潤一郎
今日新聞で中平文子の事件を知りました、殺されて見ると當人も佩の毒、武林氏も佩の毒です。」。

 まだこの頃は千代夫人で、長女鮎子(9歳)も一緒だったとおもわれます。上記の中平文子の事件についてはこの件だとおもいます。

右上の写真は当時の長崎駅です。昭和20年4年の空襲で被害を受け、昭和20年8月の原爆で焼失しています。現在の駅舎の写真を掲載しておきます。この駅舎も高架化で変ってしまいます。

「長崎市大浦ジャパンホテル」
<長崎市大浦ジャパンホテル>
 谷崎潤一郎は長崎で大浦のジャパンホテルに宿泊しています。長崎で一二を争う高級ホテルだったとおもわれます。このジャパンホテルについて宮本百合子が少し書いています。

 宮本百合子の「長崎の印象」より
「 五月の『文芸春秋』に、谷崎潤一郎さんが、上海見聞記を書いておられる。なかに、ホテルについて、マジェスティックが東洋第一といいながら、ボルト酒のよいのを持たない、「長崎のジャパン・ホテルにだって一九一一年のブルガンディー酒があるくらいだのに」云々とある。読んだ時、私は思わず頬笑んだ。秘密な愛すべき可笑しさが、ジャパン・ホテルにだってという四字からひとりでに湧き上って来るのだ。
 今もいった通り、異様に森閑とした波止場町から、曲って、今度は支那人の裁縫店など目につく横丁を俥は走っている。私は、晴やかな希望をもって頻りにその町のつき当り、小高い樹木の繁みに注目していた。外でもない。我等のジャパン・ホテルは確にそこに在るらしかった。緑の豊かな梢から、薄クリーム色に塗料をかけた、木造ながら翼を広やかに張った建物が聳え立っている。そのヴェランダは遠目にも快活に海の展望を恣ままにしているのが想像される。大分坂の上になるらしいが、俥夫はあの玄関まで行くのであろうか。長崎名物の石段道なら、俥は登るまいなど、周囲から際立って瀟洒でさえある遙かな建物を眺めていると、私は俥の様子が少し妙なのに心付いた。俥夫は、駈けるのを中止した。のたのた歩き、段々広くもない町の右側に擦りよって行く。曲角でも近いのかと、首をさし延し、私は、瞬間、自分の眼を信じ得なかった。ジャパン・ホテルは、彼方の丘のクリーム色の軽快な建物などであるものか。つい鼻の先に横文字の招牌が出ている。而も、その建物を塗り立てたペンキの青さ! 毛虫のように青いではないか。私の驚きに頓着せず俥夫は梶棒を下した。ポーチに、棕梠の植木鉢が並べてある。傍に、拡げたままの新聞を片手に、瘠せ、ひどく平たい顱頂に毛髪を礼儀正しく梳きつけた背広の男が佇んでいる。彼は、自分の玄関に止った二台の車を、あわてさわがず眺めていたが、荷物が下り、つづいて私が足を下すと、始めて、徐ろに挨拶した。」

 宮本百合子はジャパンホテルは丘の上にあるいとおもっていたようです。事前に丘の上にある絵葉書を見ていたのかもしれません。住所を大正3年の九州電話実業案内という電話帳で調べたところ、大浦25番地で、丘の上ではありません。丘の手前の一区画が大浦25番地となります。

 谷崎潤一郎の「上海見聞録」より
「…上海と云ふところは、一面に於いて非常にハイカラに発達してゐるが、他の一面では東京よりもずっと田舎だと云ふ感じを与へる。ダンス・ホールは市中に二三十あるけれども、帝国ホテル、花月園、もとのグランド・ホテルあたりの定連の方が(日本人西洋人を引っくるめて)ダンスは遥かに上手である。音楽なども昔は兎に角、今では日本の方がいゝのが聞かれるし、シテーヂ・ダッスも寄席芸以上のものは一つもない。活動写真は亜米利加物の二流どころの絵が主であって欧洲物は殆んど見当たらぬ。私は三井銀行の土屋君の紹介で、東洋第一、否世界中での有数な旅館と云はれる「マヂェスティック・ホテル」と云ふのへ、話の種に二三日泊って見たが、宿泊料は一日最低が二十五弗、最高が七十五弗で、設備万端贅沢を極めてゐるに拘はらず、ボルト酒は千九百二十二年のシヤトオ・ラフィットが最上と云ふところ、長崎のジヤパン・ホテルにだって千九百十一年のブルガンディー酒があるくらゐだのに、此れではちよっと貧弱である。料理も決して旨いとは云へない。一方支那人の風俗なぞも、悪く西洋かぶれがして、八年前に来た時とは大分違った印象を受けた。気に入ったらば上海ヘ一戸を構へてもいいくらゐに思ってゐた私は、大いに失望して帰った。西洋を知るには矢張り西洋へ行かなければ駄目、支那を知るには北京へ行かなければ駄目である。…」

左上の写真が当時のジャパンホテルです(写真は「ながさき浪漫」より)。丘の上にある絵葉書は別館ではなかったかと推定しています。大浦25番地は現在の長崎市大浦町7番地となります。ただ、長崎電気軌道(路面電車)が書かれていない地図(大正4年以前)では丘の上にジャパンホテルと書かれています。昭和3年の地図では丘の下(大浦25番地)にホテルと書かれていました。よく分からない?



長崎大浦地区地図(大正12年)



谷崎潤一郎の「上海」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正7年 1918 シベリア出兵 32 3月 神奈川県鵠沼海岸の「あづまや別館」に滞在
10月 支那旅行に出発
11月 上海に滞在
12月 帰国
         
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 1月 長崎経由上海へ単身で出発
2月 帰国
10月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園2号に転居
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
41 1月 兵庫県武庫郡本山村栄田259-1 好文園4号の別の家に転居



「長崎県立図書館」
<長崎県立図書館>
 谷崎潤一郎も長崎県立図書館を訪ねています。長崎を訪ねた有名人はほぼ全て長崎県立図書館を訪ねて芳名録に記帳しています(芥川龍之介のところでも説明しましたが、長崎県立図書館のホームページで芳名録を見ることができます)。谷崎潤一郎は大正15年1月12日に記帳しています。前項に記載した宮本百合子は大正15年5月12日中条百合子(結婚前なので)と記帳しています。谷崎潤一郎の前は米内光政(終戦時の海軍大臣)ですから分野は関係ないようです。。何故、皆がこの長崎県立図書館を訪ねて記帳するかと云うと、ここの館長が永山時英で、東京帝大卒、第七高等学校の教授をへて館長になった方だからです。長崎のキリシタン文化や対外史料の研究ではかなり有名な方のようです。

写真は現在の長崎県立図書館です。戦前から場所は変っていないようで、空襲や原爆にも堪えて残ったそうです。山影にあり、場所が良かったせいで免れたようです。戦前の長崎県立図書館の写真を掲載しておきます(写真は「ながさき浪漫」より)。

「氷見家跡」
<永見徳太郎>
 谷崎潤一郎は長崎で有名な資産家で文化人であった永見徳太郎も訪ねています。永見家の「其日帖」に谷崎潤一郎が記帳しているのでわかります。日付は大正15年1月8日です。7日夕方に長崎に到着していますから、翌日に銅座町の永見家を訪ねています。

 大谷利彦氏の「長崎南蛮余情」から
「…    8 谷崎潤一郎とその手紙

 大正期の銅座氷見家来訪文人の掉尾を飾るのは、谷崎潤一郎である。「其日帖」の署名は、十五年「正月八日」となっているが、谷崎はその四日後の一月十二日に、京都の浜本浩宛に封書を送った。中央公論社昭和四十五年版『谷崎潤一郎全集 第二十四巻』「書簡」の記載によると、発信地は、長崎市大浦ジャパンホテル、オテル・ドユ・シャボン用便箋、横書きとなっている。
 「浜本浩様/新年おめでたう、昨冬は大変御厄介になりました。/六日に家族をつれて出発、長崎へ来て四五日遊びました。明十三日長崎丸にて出帆します。/いづれ上海から又御便りします。先は一寸御挨拶まで (以下略)」
 谷崎はこの文面通りに、十三日発の船で単身、上海へ向けて二度目の中国旅行に旅立ったが、数日間の長崎滞在に関する谷崎の記述は、「其日帖」の署名以外は見られない。…」

 谷崎潤一郎は永見徳太郎について何も記載していません。余り、印象に残らなかったのかもしれません。

右上の写真正面の3階建てパチンコ屋の附近が永見家跡です。大正13年発行の本の奥付に住所の記載がありまた。長崎市銅座町20番地です。

「上海丸」
<上海航路>
 谷崎潤一郎は乗船時間の一番短い長崎から乗船しています。長崎−上海間の航路は大正12年開設ですから間に合っています。この航路は翌日には上海に到着しますから一日の船旅でいいわけです。~戸からでは2日掛かります。~戸ー長崎間の列車も特急、急行と乗継いで19時間掛かりますので、船旅か鉄道かは好みだとおもいます。

 谷崎潤一郎全集(前版、1981)の書簡から
「六五
一月十二日 長崎市大浦ジャパンホテル方より京都市上京區田中間田町四
四濱本浩宛 封書(御直披)(オテル・ドユ・ジャポン用便箋用紙、横書)
濱本浩様
新年おめでたう、昨冬は大變御厄介になりました。
六日に家族をつれて出發、長崎へ來て四五日遊びました。明十三日長崎丸にて出帆します。
いづれ上海から又御便りします。先は一寸御挨拶まで
 大正十五年正月十二日
                                        谷崎潤一郎
今日新聞で中平文子の事件を知りました、殺されて見ると當人も佩の毒、武林氏も佩の毒です。」。


 <上海航路>
 大正12年(1923)2月11日に日華連絡船として、長崎−上海間の航路が日本郵船により開設されます。 航路開設に伴い投入された長崎丸と上海丸は、英国のウィリアム・デニー社造船所にて建造された姉妹船で、最高速力は約21ノットと当時としては快速の貨客船でした。しかし、乗客が伸びず、長崎港での帯港時間短縮や運行回数等の見直し等の合理化に着手し、大正14年(1924)5月からは航路の起点を神戸港とし、神戸ー長崎間の都市間輸送による乗客数の増加を狙います。神戸・長崎間の運賃は10円(3等)で、「汽車よりも安くて快適」と乗客の評価は高く、利用者は順調に伸びます。(ウイキペディア参照)
神戸寄航後、昭和2年(1927)当時の行程
往航:神戸(1日目・午前11時発)→長崎(2日目・午前9時着、午後1時発)→上海(3日目・午後4時着)
復航:上海(1日目・午前9時発)→長崎(2日目・午前12時着、午後3時発)→神戸(3日目・午後3時着)
 かなり早いです。

右上の写真は長崎港の日本郵船上海丸です。同じ場所からの現在の写真を掲載しておきます。