●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 東京・その他編
    初版2008年7月7日
    二版2009年2月7日 <V01L01> 蒲郡「常盤館」の写真を追加

「細雪」の東京を歩きます。前回は銀座を中心に歩きましたので、今回は銀座以外の東京を歩きます。池之端から渋谷、本郷、それに鰻屋を回ります。今回で東京編は終わります。


「池之端の道明(紐屋)」
池之端の道明(紐屋)>
  前回も書きましたが、谷崎潤一郎の「細雪」は阪神間を中心としたお話のはずなのですが、京都はともかくとして、東京のお話もかなりのページを割いて書かれています。登場人物が大阪船場の古いのれんを誇る蒔岡家(まきおか)の四姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)なので、阪神間のお話となったのでしょう。特に東京の描写では昭和10年代の有名なお店が登場しています。前回は銀座を中心にして歩きましたので、今回は池之端、日本橋、渋谷、本郷、そして鰻屋を歩きました。ただ、現在も残っているお店は少なく、池之端の「道明」と日本橋の山本海苔店のみが現存していました。
「…午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は移しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部の地下室で又幾つかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際のニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りで又暫くは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌んで当座の割れを惜しもうと思ったからであった。…」
  上記に書かれている日本橋の三越はあまりに有名なので特に解説はしません。尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋、ジャアマンベーカリー、ローマイヤは前回の銀座編で紹介しました。今回は池之端の「道明」です。組紐で有名だそうで、残念ながらお店には入りませんでした。池之端の「道明」について書かれた本を頼んでいますので、到着次第追加改版します。

「海苔屋の山本」
左上の写真は池之端の「道明」です。おもったより小さなお店でした。現在の住所で台東区上野二丁目11番地です。仲町商店街の中で、蓮玉庵、池之端藪蕎麦の間で、パークホテルの手前になります。

左の写真は日本橋三越前の山本海苔店です。有名なので特に書くこともないのですが、「老舗の履歴書」の中にしっかり書かれていましたので、最初の所だけ引用します。
「…嘉永二年(一八四九) に初代山本徳治郎(幼名伊之助)が山本海苔店を創業した場所は、日本橋室町一丁日で、寛永九年(一六三二) に作製された「寛永江戸図」、正確には「武州豊嶋郡江戸庄図」にも”むろ町”と記載されている古い町である。
……。山本海苔店が創業した嘉永二年といえば、ペリー来航の四年前にあたり、時代が大きくうねっていたころだが、新参者にとって海苔業界の商いは楽ではなかった。
文化年間(一八〇四〜一七)まで海苔の老舗は浅草に集中しており、雷門前並木町の永楽屋庄右衛門、正木屋四郎左衛門、長坂屋伝助、井筒屋源七、尾張屋庄吉、雷門西広小路の木屋伝兵衛、仲兄世の大黒屋文右衛門、田原町三丁目の中島屋平右衛門、諏訪町の住吉屋藤兵衛などが、江戸城の御本丸や西丸、徳川御三家、諸侯、それに東叡山寛永寺などのご用達をつとめていたからだ。
これらの浅草海苔問屋は、品川や大森の生産地との結びつきが強く、集荷権を握っていて、日本橋の海苔商が割り込む余地は少なかった。
しかし、文政三年(一八二〇)に浅草雷門前並木町の永楽屋庄右衛門が、主要な仕入れ先である大森椛谷での海苔の採取権をめぐる不正事件に連座して処罰されたのが後々まで響いて、しだいに浅草の海苔問屋の勢力が弱まり、日本橋の海苔商でも大森あたりの海苔を扱うことが少しずつできるようになった。…」

  どのお店も最初は大変です。次に大変なのは三代目なのですが、このへんはうまくいったようです。続きは本を呼んでください。その他「細雪」に掲載されている「コロンバン」、「数寄屋橋際のニュウグランド」は銀座の地図に掲載しておきます。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


東京 「細雪」地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正9年 1920 国際連盟成立 34 7月 阪神急行電鉄が十三〜神戸(上筒井二丁目)間を開通
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 7月 阪神急行電鉄の十三〜梅田間が開通
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 4月 阪神急行電鉄が三ノ宮まで開通(上筒井線は支線となる)
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版



「二葉亭跡」
二葉亭>
  「細雪」の中では姉夫婦が東京に転勤して借家を借りたのが渋谷区大和田町でした。当時は246(六本木通りor玉川通り)はありませんでしたので、道玄坂の南側一帯が大和田町でした。二葉亭は洋食で有名なお店で、東京のなかでも一二を争う有名店でした。
「…姉が何かと心を遣ってもてなしてくれるのを見ては、そうも云い出しにくかった。それに義兄も、家ではゆっくり晩飯もたべられないからと云って、東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋へ案内してくれたり、矢張その近所の北京亭と云う支那料理屋へ、悦子のために自分の子供達も連れて行って小宴会を催してくれたりする、と云う款待振であった。…」
  二葉亭については昭和29年発行された多田鐵之助の「うまいもの」に書かれていましたので引用します。
「…戦前にどこの洋食がうまいかと言えば「二葉亭」だという人がずいぶんあった。ここの先代の渡辺彦太郎氏は有名な日本の西洋料理の草分けである「中央亭」の御曹子であるけれども、「中央亭」の当主となって見事にこの店を潰して御覧に入れた人だ。そうしてのち再び自ら勉強を重ねて、これならば、という自信をもって開店した甥が渋谷の「二葉亭」である。
…… この店も戦時中、料理屋などには行けなくなったころどうなったかと思っておった。ところが昨年からこの店が再び開かれたというのを聞いて出掛けてみた。もっとも場所は渋谷駅の南口の近くに移転をして、もとの高台の方とは違って渋谷の下町の方へ出て来たわけであるが、以前に勝る大きな家になり、両も客も相当入っているようであった。…」

  残念ながら現在は無くなっています。

左上の写真正面の付近に戦前の二葉亭がありました。玉川通りから道玄坂に分かれる交差点の所です。当時は六本木通りはなく、交差点ではありませんでした。当時の住所で渋谷区上通り四丁目23番、現在の住所で渋谷区丸山町28番です。戦後は山の手線添いの渋谷区桜ケ丘12に移っています。その当時の二葉亭の写真 と同じ場所の現在の写真 を掲載しておきます。

「北京亭跡」
「うまいもの」
北京亭>
 このお店も当時は有名だったようです。戦後もしばらくは渋谷にお店があったようです。
「…東京では聞えている店だとか云う道玄坂の二葉と云う洋食屋へ案内してくれたり、矢張その近所の北京亭と云う支那料理屋へ、悦子のために自分の子供達も連れて行って小宴会を催してくれたりする、と云う款待振であった。…」
 このお店も戦後出版された奥野信太郎編「東京味覚地図」に少し書かれていましたので掲載しておきます。
 「…いま道玄坂の右側に大きく店を張っている「北京亭」は、以前坂上のほうで小じんまりとしゃれた店をやっていた。そのころは筋のとおった中国料理として、東京でも知られた家であった。たいへん待たせる家ではあったけれども、さんざん待ちあぐんだ末、さて出された料理に箸をつけてみると、待たされた不服もすぐ消しとんでしまうほどうまかったのである。ぼくはここによくいろんな人といったが、なかでも高田保と食べにいって、長時間歓談したことはいまにしてなおなつかしい思い出である。現在の北京亭はまったく大衆化してしまった。大衆化したというよりも、いわゆる普通の中華料理と呼ばれている店になってしまったことは、往年の北京亭を知るものにとっては残念なことといわなければならない。それでもぼくは春先になると、特に主人の李さんに無理をいって、春餅をつくってもらうことにしている。…」
 このお店も戦前ほどの評判はないようです。残念ですね。

左上の写真正面の所付近に戦前の北京亭がありました。現在は246(玉川通りから六本木通り)ができてしまっています。当時の住所で渋谷区南平台27番です。現在は道路の上です。戦後は道玄坂の右側、109の先にあったようです。

「小満津跡」
「東京味覚地図」
小満津>
  ここから二軒、鰻屋を紹介します。二軒とも戦前は有名な鰻屋でした。最初は京橋交差点近くの小満津です。
「…姉ちゃんに此方でお昼の御飯食べるつもりで早ういらっしゃい云うてほしい、と、そう云って電話を切ったが、悦子はお春に預けることにして、姉と二人で久々にゆっくり食事をするには何処がよかろう、と考えた末、姉は鰻が好きであったことを思い出した。ついては昔、父と一緒に蒟蒻島とか云う所の大黒屋と云う鰻屋へたびたび行ったことがあったので、今もその家があるかどうかを聞かしてみると、さあ、どうでございますやろ、小満津なら聞いておりますがと、女将が電話帳を繰ってくれたが、なるほど、大黒屋ございますわ、と云うことなので、部屋を申し込んで置いて貰い、姉を待ち受けて、悦ちゃんはお春どんと三越へでも行ってみなさい、と、云い置いて出かけた。。…」
  このお店も現在はありません。東京オリンピックの年にお店を閉められたようです。高円寺にお孫さんが再開したお店があるそうです。戦後出版された奥野信太郎編「東京味覚地図」に少し書かれていましたので掲載しておきます。
「…竹葉はもとよりだが、やはり木挽町の「神田川」それからちょっとおごると京橋の「小満津」だった。父などは、さすがに小満津の鰻だけは、さなぎくさくないと言っていたが、今ではどこの店のでも、養殖の餌のさなぎのにおいがするなどという事はあるまい。…」

左上の写真の右から二番目に当時は蕎麦屋の藪伊豆があり、その先の路地の向うに「小満津」がありました。藪伊豆も日本橋三丁目に移っており、寂しい限りです。

「大黒屋跡」
蒟蒻島の大黒屋>
 二軒目も鰻屋です。場所が現在から考えると不便なところにありました。当時としては河岸でハイカラだったのでしょう。
「…「此処は大阪に似てるなあ、東京にもこんなとこがあるのんかいな」 と、座敷の外を取り巻いている川の流れを見廻した。
「ほんに大阪見たいやろ。− 娘の時分に東京へ来ると、いつもお父さんが此処へ連れて来やはってん」
「蒟蒻島云うて、此処は嶋になってるのん?」
「さあ、どうやろか。──たしか前には、こんな川附きの座敷はなかったような気イするけど、場所は此処に違いないわ。──」 幸子もそう云って障子の外に眼を遣った。昔父と来た時分には、この河岸通りは片側町になっていたのに、今では川沿いの方にも家が建ち、大黒屋は道路を中に挟んで、向う側の母屋から、川附きの座敷の方へ料理を運ぶようになっているらしかったが、昔よりも今のこの座敷の眺めの方が、一層大阪の感じに近い。と云うのは、座敷は川が鍵の手に曲っている石崖の上に建っていて、その鍵の手の角のところへ、別に又二筋の川が十の字を描くように集って来ているのが、障子の内にすわっていると、四つ橋辺の牡蠣船から見る景色を思い出させるのである。そして此処でも、その十文字の川から川へ、四つは架っていないけれども、三つは橋が架っていた。ただ惜しいことに、江戸時代からあるらしいこのあたりの下町も、災前には大阪の長堀辺に似た、古い街に共通な落ち着きがあったものだけれども、今では人家も橋梁も舗装道路も皆新しくなり、両もそのわりに人通りが閑散で、何となく新開地の気分がするのであった。…」

 戦後もしばらくはお店があったようです。いつ無くなったかは分かりませんでした。

左上の写真正面の両側にお店がありました。当時の住所で新川一丁目3番地、現在の住所で新川一丁目1〜2番地です。大きなビルが建てられて昔の面影はありません。

「本郷薬局跡」
本郷薬局>
 最後に東京帝国大学傍の本郷薬局です。戦前からの有名な薬局です。東京帝国大学医学部付属病院の傍ですので、関係が深かったのではないかとおもいます。
「…先ず朝のうちに本郷西片町にある杉浦博士邸を訪ねて診察を受け、本郷薬局へ廻って処方箋を示して調剤を乞い、赤門前からタキシーを拾って浜屋へ戻ると、雪子とお春とが来て待っていた。雪子は第一に診察の結果を尋ねたが、杉浦博士の見るところも大体辻博士と同じようなことであった。…」
 本郷西片町にある杉浦博士邸の場所は当然フィクションですので不明ですが本郷薬局はそのままでした。戦後もしばらくはお店があったようです。現在は更地になっていました。

左上の写真正面の更地のところが本郷薬局跡です。後ろに見える白いビルは東京大学医学部のビルです。付属病院はもっと後ろの方になります。



「常盤館跡」
蒲郡 常盤館>   2009年2月8日 追加
 「細雪」 下巻には東海道の観光地が登場しています。幸子は雪子のお見合いで名古屋まで来て、蒲郡の常盤館に滞在します。
「…幸子達は、蒲郡に遊ぶのは初めてであったが、今度行く気になったのは、かねて貞之助からそこの常磐館のことを聞かされていたからであった。毎月一二回名古屋へ出向く貞之助は、是非お前達を彼処へ連れて行ってやりたい、悦子などはきっと喜ぶであろうと云い云いして、今度こそは今度こそはと、二三度も約束したことがあったが、毎度お流れになってしまったので、今日の彼女達の蒲郡行きは、貞之助が思い付いたのであった。名古屋についでのある時と思っていたが、いつも用事が多いので附き合っている暇がないから、こう云う機会にお前達だけで行って見るがよい、少し忙しないけれども、土曜の夕方から日曜の午後まではいられる、── と、貞之助は云って、電話で常磐館へ交渉してくれたので、去年の東京行き以来夫と離れて旅行する経験を積んだ幸子は、昔と違って自分が大胆になったことに子供のような嬉しさを覚えながら、出て来たと云う訳であった。が、彼女は旅館へ着いて見て、夫が自分達のためにこう云う日程を確りてくれたことを、改めて感謝しないではいられなかった。。…」
 常盤館は明治45年(1912)に開業しており、現在も残っている丘の上の蒲郡ホテル(現在のプリンスホテル)は昭和9年(1934)、竹島への遊歩道は昭和7年(1932)に作られています。この常盤館は菊池寛、川端康成、志賀直哉、三島由紀夫他の文人が宿泊しています。常盤館は残念ながら昭和55年(1980)廃業して取り壊されました。現在は蒲郡ホテル(現在のプリンスホテル)のみ残っています。

左上の写真は竹島へ渡る橋の上から高台の蒲郡プリンスホテルを見たところです。浜辺のところに常盤館が建っていました。当時の絵はがき(蒲郡ホテルが出来る以前)がありましたので、掲載しておきます。