
昭和13年の東京ですから、関東大震災の復興はなりましたが、不況下で戦時体制が強まりつつあった頃ではないでしょうか。銀座といえば現在は四丁目の和光ですが、当時は服部時計店として親しまれていました。昭和22年に服部時計店の小売り部門である和光が独立し、和光本館となっています。ですから戦前は服部時計店で、戦後は和光となったわけです。
「…午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は移しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部の地下室で又幾つかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際のニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りで又暫くは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌んで当座の割れを惜しもうと思ったからであった。それから大急ぎで宿へ帰り、荷纏めをし、東京駅へ駈けつけて、見送りに来ていた姉と待合室で五分ばかり立ち話をし、午後八時三十分発急行の寝台車へ乗り込んだ。…」。
東京の有名店の名前が次から次へと登場しています。ほとんど全てを訪ねる予定ですが、戦後、お店が無くなってしまったところもあり、探すのに苦労しました。
★左上の写真は銀座四丁目の和光です。数年前の写真です。現在の和光は工事中ですので写真になりませんでした。今年末まで工事中ではないかとおもいます。
★右の写真は日産本社の南東側から旧築地川を北東に撮影したかものです。正面の赤い筋が入ったビルは東劇ビル
です。「細雪」で幸子が宿泊した「浜屋」の推定場所は東劇ビルの右側が、左側少し先ではないかと推測しています。
「…幸子は考えて、まだ滞在が長びくのであったら、旅館へ移る方がよいかも知れない、浜屋と云う家は行ったことはないけれども、そこの女将はもと大阪の播半の仲居をしていた人で亡くなった父もよく知っていたし、自分も「娘さん」時代から顔見知りの仲であるから、始めての旅館へ泊るようなものではあるまい、夫の話では、もと待合であったのを旅館に直したので、部屋数も少く、お客と云うのも大部分は気心の分った大阪の人達であり、女中にも大阪弁を使う者が多いと云った風で…
…… 幸子は七時頃に、自分はとても寝られないと諦めて、悦子の障りを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、藤椅子にかけた。
彼女は近頃世界の視聴を集めている亜細亜と欧羅巴の二つの事件、── 日本軍の漠口進攻作戦とチェッコのズデーテン問題、── の成行がどうなるであろうかと、朝な朝なの新聞を待ち兼ねるくらいにして読むのであるが、東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染のうすい此方の紙面で読むせいか、記事が頭へ這入りにくく、何となく親しみが湧いて来ないので、直きに新聞にも飽きて、ぼんやりと川の両岸の人通りを眺めていた。昔、娘の時分に父と泊っていた采女町の旅館と云うのも、つい川向うの、此処から今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前を這入った横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地ではなく、ちょっと懐しい気持もして、道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の景色も今とは可なり違っていた。…」。
浜屋の場所については、築地川縁、歌舞伎座
の屋根が見える、元待合ということで、候補としては二カ所となります。待合は東劇の裏側と、当時の京橋区役所(現在の中央区役所)の南西側にあり、何方も築地川縁で、歌舞伎座の屋根が見えます。ただ、采女町が川向こうということで、東劇の裏側が本命ではないかとおもいます。有明館という旅館がその場所にありました。精養軒の反対側になるので、多分、間違いないとおもいます。