●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 東京銀座編
    初版2008年6月7日  <V01L03>  地図を一部修正

 「細雪」で残っていた東京と大阪を続けて歩きます。「細雪」は当時としては一種の観光案内ではないかと思いました。「細雪」は阪神間を中心としたストーリーとされていますが、東京へも二度ほど旅行したお話が書かれています。その中で東京の観光地の名前と銀座界隈の有名なお店の名前が次から次へと登場します。今週は「細雪」で登場する銀座のお店を中心に歩いてみました。


「銀座和光」
銀座和光>
昭和13年の東京ですから、関東大震災の復興はなりましたが、不況下で戦時体制が強まりつつあった頃ではないでしょうか。銀座といえば現在は四丁目の和光ですが、当時は服部時計店として親しまれていました。昭和22年に服部時計店の小売り部門である和光が独立し、和光本館となっています。ですから戦前は服部時計店で、戦後は和光となったわけです。
「…午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。お春は移しい買物の包を持たされて、荷物の中から首を出したようになりながら、今日も顔じゅうに汗を沸かして三人の跡から附いて来たが、三人も皆めいめいに一つか二つ提げていた。そしてもう一度尾張町へ出、最後に服部の地下室で又幾つかの買い物をすると夕飯の時刻になったので、ローマイヤアは気が変らないからと、数寄屋橋際のニュウグランドへ上ったのは、宿へ帰って食べるよりも時間が省けるからでもあったが、一つには、今夜限りで又暫くは会えなくなるであろう雪子のために、彼女の好きな洋食の卓を囲み、生ビールを酌んで当座の割れを惜しもうと思ったからであった。それから大急ぎで宿へ帰り、荷纏めをし、東京駅へ駈けつけて、見送りに来ていた姉と待合室で五分ばかり立ち話をし、午後八時三十分発急行の寝台車へ乗り込んだ。…」
東京の有名店の名前が次から次へと登場しています。ほとんど全てを訪ねる予定ですが、戦後、お店が無くなってしまったところもあり、探すのに苦労しました。

「築地川跡」

左上の写真は銀座四丁目の和光です。数年前の写真です。現在の和光は工事中ですので写真になりませんでした。今年末まで工事中ではないかとおもいます。

右の写真は日産本社の南東側から旧築地川を北東に撮影したかものです。正面の赤い筋が入ったビルは東劇ビル です。「細雪」で幸子が宿泊した「浜屋」の推定場所は東劇ビルの右側が、左側少し先ではないかと推測しています。
「…幸子は考えて、まだ滞在が長びくのであったら、旅館へ移る方がよいかも知れない、浜屋と云う家は行ったことはないけれども、そこの女将はもと大阪の播半の仲居をしていた人で亡くなった父もよく知っていたし、自分も「娘さん」時代から顔見知りの仲であるから、始めての旅館へ泊るようなものではあるまい、夫の話では、もと待合であったのを旅館に直したので、部屋数も少く、お客と云うのも大部分は気心の分った大阪の人達であり、女中にも大阪弁を使う者が多いと云った風で…
…… 幸子は七時頃に、自分はとても寝られないと諦めて、悦子の障りを破らないようにそうっと起きて新聞を取り寄せ、築地川の見える廊下に出て、藤椅子にかけた。
彼女は近頃世界の視聴を集めている亜細亜と欧羅巴の二つの事件、── 日本軍の漠口進攻作戦とチェッコのズデーテン問題、── の成行がどうなるであろうかと、朝な朝なの新聞を待ち兼ねるくらいにして読むのであるが、東京へ来てからは大朝や大毎で読むのとは違って、馴染のうすい此方の紙面で読むせいか、記事が頭へ這入りにくく、何となく親しみが湧いて来ないので、直きに新聞にも飽きて、ぼんやりと川の両岸の人通りを眺めていた。昔、娘の時分に父と泊っていた采女町の旅館と云うのも、つい川向うの、此処から今も屋根が見えているあの歌舞伎座の前を這入った横丁にあったので、このあたりは全然知らない土地ではなく、ちょっと懐しい気持もして、道玄坂とは一緒にならないが、でもあの頃には東京劇場とか演舞場とか云うようなものは建っていず、この川筋の景色も今とは可なり違っていた。…」。

浜屋の場所については、築地川縁、歌舞伎座 の屋根が見える、元待合ということで、候補としては二カ所となります。待合は東劇の裏側と、当時の京橋区役所(現在の中央区役所)の南西側にあり、何方も築地川縁で、歌舞伎座の屋根が見えます。ただ、采女町が川向こうということで、東劇の裏側が本命ではないかとおもいます。有明館という旅館がその場所にありました。精養軒の反対側になるので、多分、間違いないとおもいます。



「資生堂美容室」
資生堂美容室>
 関西の人間が東京を訪ねるとどうなるか、が、面白おかしく書かれていましたので掲載します。場所は銀座七丁目角の資生堂美容室です。
「…幸子たちはその晩が遅かったので、明くる朝は九時半頃まで寝過してしまったが、幸子は昼の食堂の開くのを待っていられず、部屋で簡単にトーストを食べると、雪子を促して資生堂の美容室へ出かけた。それと云うのは、ここのホテルの地階にも美容室はあるけれども、資生堂ではパアマネントを懸けるのに、ゾートスと云う薬液を使う新しい遣り方をしている、それだと電気器具などを頭へ取り附ける面倒がなくて楽であるから、彼処でやってお貰いなさいと、昨夜光代に教えられたからであったが、行って見ると、十二三人もの先客が控えており、これでは何時間得たされるかも分らない形勢であった。神戸の井谷の店であると、こう云う場合に顔を利かして我が儘を云い、順番を胡麻化して貰う手があったが、ここではそう云う手を使う余地がなく、待合室に待っている間も、周囲がいずれも見も知らぬ純東京の奥様や令嬢ばかりで、誰一人話しかけてくれる者もいない。二人は小声で語り合うのさえ、上方訛を聞かれることが気が引けるので、さながら敵地にいる心地で身をすくめながら、あたりでぺちゃくちゃ取り交される東京弁の会話に、こっそり耳を傾けているより外はなかったが、今日は大変込むんだわね、と、一人が云うと、そりゃそうよ、今日は大安だもんだから御婚礼がとても多いのよ、美容院は何処も大繁昌よと、一人が云っている。幸子は、成る程そうだったのか、それでは井谷が送別会を今日にしたのも、雪子のために縁起を祝ってくれたのかも知れない、と心付いたが、そう云ううちにも客が後から後からと詰めかけて来、済まないけれどあたし時間の約束があるんで、……… と、例の手を使って二人も三人も先に這入って行くのであった。幸子たちは十二時前に此処へ来たのに、やがて二時になってしまい、五時と云う今夜の会に間に合うかどうか心もとなく、二度と再び資生堂なんかへ来るものではないと、腹立たしさをこらえながら苛々していたが、出がけにトーストを食べただけなのが今になると答えて、たまらなく腹が減って来た。…」
昭和13年の話ですから面白いですね。関東から関西に移った谷崎潤一郎ならではでないでしょうか。

左上の写真やや左側の資生堂ビルに当時は資生堂美容室がありました。左側反対側も資生堂です。銀座通りの七丁目と八丁目の角にビルを持っているのですから資生堂は凄いですね。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


東京 銀座付近地図 -1-



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正9年 1920 国際連盟成立 34 7月 阪神急行電鉄が十三〜神戸(上筒井二丁目)間を開通
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 7月 阪神急行電鉄の十三〜梅田間が開通
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 4月 阪神急行電鉄が三ノ宮まで開通(上筒井線は支線となる)
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版




「阿波屋跡」
阿波屋>
 「細雪」で登場する東京の有名店を紹介していきたいとおもいます。まず最初は履物の「阿波屋」です。現在も銀座で営業されていました。
「…「ふん、有難う」
「まだもう一つあるわ、その下の方見て御覧。── 」
「あった、あった、これやろ」
そう云って悦子は、銀座の阿波屋の包紙に包んである箱を取り出したが、中から出て来たの
は紅いエナメルの草履であった。
「まあ、ええこと。穿き物は矢張東京やわなあ。── 」
と、幸子もそれを手に取って見ながら、
「これ、大事に直しといて、来月お花見に穿きなさいや」
「ふん。いろいろ有難う、姉ちゃん」…」

つい先頃まで、銀座八丁目の電通通り、日航ホテルの隣にお店があったのですが、現在はコリドー通りのビル二階 に移られていました。お店が小さくなって残念です。「細雪」の当時から八丁目にお店があったようです。

左上の写真正面の付近に銀座八丁目のお店がありました。右側は日航ホテルです。通りは電通通りとなります。

「ゑり円」
尾張町の襟円(現在は「ゑり円」)>
 私は良く知らないのですが、半襟(和装小物店)のお店ではないかとおもいます。このお店自体は戦前と同じ場所にありました。
「…午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。…」
 銀座(旧尾張町)四丁目の三越の横です。お店はビルになっており、お店自体はありませんでした。ビルの上の階にお店を移しているのかもしれません。「銀座と文士たち」によると、永井荷風も贔屓にしていたそうです。

右上の写真正面真ん中のビルが「ゑり円」です。一階は銀行のキャッシュコーナーになっていました。

「平野屋跡」
平野屋>
平野屋は袋物屋で、昭和9年に銀座に移って商売をはじめたようです。
「…午後には四人で池の端の道明、日本橋の三越、海苔屋の山本、尾張町の襟円、平野屋、西銀座の阿波屋等を廻って歩いたが、生憎残暑のぶり返した、風はあるけれども照り付ける日であったので、三越の七階、ジャアマンベーカリー、コロンバン等々、方々で一と休みしては渇きを癒さねばならなかった。…」
「細雪」の当時は銀座五丁目一番のあずま通りでお店を持たれていたようで、現在の銀座コアの裏側付近ではないかとおもいます。戦後も同じ場所の反対側でお店を持たれていたようですが、現在はありません。銀座八丁目の金春湯の側 に本店があったとおもう(確信がない)のですが、このお店もありません。現在は銀座六丁目4番の電通通り裏 にお店があります。

左上の写真は銀座五丁目8番地、銀座コア裏側です。戦前は右側にお店があり、戦後は左側に移っています。昭和30年代の地図でも平野屋支店として確認しています。

「ローマイヤ跡」
ローマイヤ>
ここから三軒はレストランと日本料理屋です。ローマイヤは現在でも営業されているお店です。
「…何処かで三人落ち合って一緒に食べたいから、銀座あたりまで出向いてほしい、と姉は云った。妙子は銀座まで出かけるなら、話に聞いているニュウグランドかローマイヤアへ行きたいと云うので、ローマイヤアと云うことにしたが、あたしも行ったことないねん、数寄屋橋で降りてどう行くのん、と、姉が却って幸子に尋ねる始末であった。それでも、二人が一と風呂浴びて出かけて行くと、姉は先に来てテーブルの予約をして待っており、今日はあたしが看るからと云った。いつもこう云う時には、幸子の方が金廻りがよいところから、彼女が勘定を受け持つことに極まっているのであったが、今夜は姉が特別にあいそがよく、妙子に対してもいろいろと労わりの言葉を掛け、こいさんのことも忘れている訳ではないが、何しろ家が狭いものだから、雪子ちゃん一人をさえ持て扱っているような次第で、そのうちにこいさんも呼んで上げたいと思いながら、なかなか手が廻らないなどと、言訳とも付かないことを頻りに云った。そして、三人が独逸ビールのジョッキーを一人で一つ宛空けて、ローマイヤアを出てから初夏の夜の銀座通を新橋の方へそぞろ歩きしたが、幸子は新橋駅前まで二人を送って行って別れた。…」
 ローマイヤは大正14年、銀座でオープンしたドイツ料理店です。創業者のアウグスト・ローマイヤさんは日本で最初にロースハムを作ったことで有名だそうです。戦後も営業されていましたが、ビルの建て替えで一時お店を閉められていました。日本橋でお店を初めて、現在は銀座八丁目にもお店 を出されています(私は日本橋のお店にはいったことがあります)。

右上の写真正面やや左のコーチのビルのところにローマイヤがありました。数寄屋橋際のローマイヤとなっていますが、数寄屋橋からすこし離れて銀座西五丁目3の対鶴館内にありました。

「ジャーマンベーカリー跡」
ジャーマンベーカリー>
こちらのお店も戦前は有名だったようです。
「…午少し前に渋谷から電話で、明日の歌舞伎の切符が取れたことを知らして来たが、今日は一日することがないので、午後から銀座に出てお茶を飲み、尾張町でタキシーを拾って、靖国神社から永田町、三宅坂辺を一と周りして日比谷映画劇場へ着けた。妙子は日比谷の交叉点を横切る時に、窓の外の通行人を眺めながら、
「東京はえらい矢絣が流行るねんなあ。今ジャアマンベーカリーを出てから日劇の前へ来る迄に七人も着てたわ」
「こいさん、数えてたのん」
「ほら、見て御覧、彼処にも一人、彼処にも一人、── 」
などと云ったが、暫くすると何と思ったか、
「中学生が両手をポッケットに入れたまま歩くのん危いなあ。── 」
などとも云った。
「── 何処やったか、関西の中学校で、制服のズボンにポッケット附けさせないとこがあ
ったけど、あれ、ええことやわな」…」

  戦後も有楽町駅前にジャーマンベーカリーがありました(田園調布や横浜にも支店かあったようです)。このお店も平成9年(1998)に閉店します。

左上の写真は銀座五丁目鳩居堂の裏手です。戦前はこの場所にジャーマンベーカリーがありました。戦後にお店があった有楽町駅前の中央通り商店街 の写真を掲載しておきます(写真のマツモトキヨシの所です)。

「現在の浜作」
浜作>
こちらも有名な日本料理店です。もともとは大阪新町(新町遊廓で有名、吉兆も新町から発展)のお店で、昭和3年に東京に進出しています。京都にも浜作があるのですが、大阪のお店はどうなったのでしょうか。
「…朝から銀座を歩き廻って尾張町の交叉点を三四回も彼方へ渡り此方へ渡りしてから、浜作で昼飯を食べて、西銀座の阿波屋の前から道 玄坂へタキシーを飛ばした。妙子はその日も、絶えずしんどいとか疲れたとか云いながら附いて来、浜作の座敷では座布団を枕にして足を投げ出したりしていたが、二人の姉がタキシーへ乗る時に、自分は行くことを差控えたい、本家は自分を勘当したことになっているから、 訪ねて行っては姉ちゃんが挨拶に困るであろうし、自分もそんな所へ行きたくない、と云い出した。…」
 現在も銀座七丁目7番にお店があります。浜作のお店は当時銀座八丁目にありましたから、阿波屋の近くだったとおもわれます。

右の写真正面が現在の「浜作」です。「細雪」の当時は銀座八丁目、金春湯の側 にあったようです。戦後、場所を移転しています。

次回の「細雪」の「東京を歩く」は、銀座以外を歩きます。



東京 銀座付近地図 -2-