●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 神戸編
    初版2008年4月13日
    二版2008年6月22日 神戸の「菊水楼」を追加
    三版2016年2月28日 バーアカデミーの「壁画」を追加
    四版2016年11月24日 <V01L01> バーアカデミーの上筒井の場所を推定

 今週も「谷崎潤一郎の『細雪』を歩く」を継続して掲載します。今週は「神戸編」です。芦屋に住んでいると、買い物や食事は大阪よりは神戸に出ます。谷崎潤一郎も神戸は良く通ったようで、地名や様々なお店の名前が度々登場します。実名で書かれたり、仮名で書かれたりしています。


「バー アカデミー」
バー アカデミー(ACADEMY BAR)>
 2016年2月28日 寄書き「壁画」を追加
 2016年11月24日 上筒井の場所を推定

   バーアカデミーは「細雪」には書かれていませんが、佐藤春夫との関係では有名なバーです。地理的にも「細雪」で登場する”上筒井六丁目の鈴木病院”の近くにあり、”上筒井六丁目”の地名はこのバーの地名から使ったと思われます。遺跡探訪会の「文学のふるさと ─ 神戸とその周辺」に、この「バー アカデミー」について書かれていました。
「…さて、このあたりに一軒のバーがあった。飾り気はないが、さっぱりした店で、作家・文化人に常連が多く、谷崎潤一郎や佐藤春夫もそのメンバーであった。佐藤春夫は昭和三九年五月六日、書斎で『自叙伝』のラジオ録音中に、「幸にも……」 のことばを最後にしてくずれるように逝った。かけつけた千代子夫人でさえ間に合わなかったほど突然訪れた最期だった。その三日後、五月九日付けの朝日新聞に、谷崎潤一郎は 「佐藤春夫のことなど」 と題して思い出話を載せている。
佐藤が始終私の家に出入りしていたので、妻との間に間違いがあって、私とわかれ、佐藤のところへ行ったと思っている人が多いが、そんなことはなかった。昭和五年八月一八日に「我等三人この度合議をもって千代は潤一郎と離婚致し春夫と結婚致す事と相成……」 という、当時としては破天荒な声明文を出し話題になった事件について、まずふれてから、いま、よくおぼえていないが、ある晩、佐藤が神戸に出て、アカデミーというバーに行った。このバーは、場所はかわったが、いまの加納町にあるなかなかいいバーで、当時は阪急の終点の上筒井にあった。私はそこがひいきで始終行くので、佐藤も行ったが、その晩、佐藤はここでひどく酔って帰って来た。彼は酒を飲まない男で、少し飲んでも赤くなって息苦しくなったが …… 翌日に軽い脳出血を起した。顔がゆがんで、なにかいうことがわからない。と、佐藤のある夜の行状を述べている。彼に痛飲させた原因はあかされていないが、「この時のことは佐藤の文学によほど影響していると思う」と、谷崎は判断している。…」

 上記に書かれている通り、当時「バー アカデミー」は神戸市中央区上筒井二丁目の交差点 にありました。阪急神戸線は現在は三ノ宮から高速神戸まで繋がっていますが、大正9年(1920)に阪急神戸線は十三から上筒井二丁目まで開通しており、ここで神戸市電に連絡していました(下記の地図参照)。ですから、この周辺は繁華街だったわけです。阪急神戸線が昭和11年(1936)4月に三ノ宮まで開通すると、この上筒井線は4年後の昭和15年(1940)廃止されます。

「評伝 竹中郁」
左上の写真は加納町交差点にある現在の「バー アカデミー」です。建物は古く、当時の面影があります(空襲で焼けていますので戦後の建物ですが!)。建物の写真 を掲載しておきます。

 「バー アカデミー」が平成15年末に閉店されたそうで、戦後に書かれた有名人の寄書き壁画の写真(かなり昔に私自身が撮影したものです)を掲載しておきます。

右の写真は足立巻一氏の「評伝 竹中郁」です。この中に当時、阪急の終点の上筒井にあった「バー アカデミー」について書かれていました。

 足立巻一氏の「評伝 竹中郁」からです。
「… 竹中が卒業した昭和二年、わたしは入れ代わりに中学部に入学した。それで、そのころの学院の光景はよく記憶している。神戸市電の山手線は上筒井で終点となり、そのすぐそばに大阪・宝塚へ通じる阪急電車の始発駅の鉄傘がある。
 その駅のあたりから、もう学院の正門が見とおせ、道の両側には学生相手の店屋がならんでいる。《アカデミー》というバー、《湖月》というしるこ屋、《助六豆》が売り物の菓子屋、《東京庵》《(イカラ堂》という食べもの屋が山側(北側)につづき、浜側(南側)には学生靴を一手に売る店や《立花》という学帽屋、《山根》《大高》という学生服の専門店などがならんでいる。…」。

 と書かれています。下記の当時の地図を参照してもらうとよく分かりますが、上筒井の駅から関西学院の正門までは130mあります。この道の両側にお店が並んでおり、「バー アカデミー」は山側(北側)の一番手前にあったことがわかりますが、お店は5軒しか書かれていません。130mあると、お店は10軒以上はあったとおもわれます。ゆえに手前側にあったとしか分かりません。神戸市電の上筒井駅の写真現在の写真)、「バー アカデミー」があったとおもわれる場所の写真を掲載しておきます。又、関西学院の正門跡の痕跡は神戸文学館(関西学院のチャペル跡)の横に”関西学院発祥の地”の碑があるところが正門跡です。

「春日野会病院」
上筒井六丁目の鈴木病院(春日野会病院)>
  前回にも書きましたが谷崎潤一郎の「細雪」には病院も数多く登場します。
「…鈴木病院と云うのは上筒井六丁目の、昔の阪急の終点附近にあったが、漸くそこへ病人を担ぎ出す段取りが付いたのは、暗くなりかかった頃であった。その時も磯貝院長の仕方は不親切を極め、話がそうと決定してからはいかにも厄介払いをしたと云う態度で、自分は一切姿を現わさず、挨拶にも出て来ないので、病人を運搬するについての世話は、総べて鈴木病院から出張した医師や看護婦が担当した。…」
 上記に書かれているとおり、昭和初期の頃の阪急神戸線の終点は上筒井駅二丁目 ですから、六丁目の鈴木病院は少し西に歩いたところにあります。上筒井六丁目には戦前から劉外科病院があり、この病院がモデルになったとおもわれます。現在は名前が医療法人春日野会病院と変わっています。

左上の写真は上筒井六丁目の交差点から山側を撮影したものです。坂を少し登ったところに医療法人春日野会病院があります。写真中央で、拡大するとよく分かります。



神戸 上筒井付近地図(昭和初期)



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
大正9年 1920 国際連盟成立 34 7月 阪神急行電鉄が十三〜神戸(上筒井二丁目)間を開通
大正15年 1926 蒋介石北伐を開始
NHK設立
40 7月 阪神急行電鉄の十三〜梅田間が開通
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 4月 阪神急行電鉄が三ノ宮まで開通(上筒井線は支線となる)
11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版



「ユーハイム跡」
ユーハイム>
 「細雪」にはドイツパンと洋菓子で有名なユーハイムが登場しています。ユーハイムはもともと横浜でお店を開いており、関東大震災で、神戸に避難してきてお店を開きます。
「…妙子はその日、神戸の元町へ買い物に出た帰りにユーハイムでお茶を飲んでいると、そこへ「お婆ちゃん」がカタリナを連れて這入って来た。そして、これから新開地の聚楽館の屋上にあるスケート場へ行くのだと云って、あなたもお暇なら是非いらっしゃいと頻りに誘った。妙子はスケートは経験がなかったが、私達が教えて上げます、直きに覚えられますと云うし、そう云う運動競技には自信があるので、兎も角も一緒に行ってみた。…」
 新開地の聚楽館のスケート場が掲載されています。詳細は下記に譲ります。現在のユーハイム神戸元町本店 の写真を掲載しておきます。

左上の写真正面の京町筋の左隣のビルのところが戦前のユーハイムでした。工場もお店の裏側の少し離れたところにありました。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
  明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

「聚楽館」
新開地>
 戦前の神戸を代表する繁華街でした。演劇場、映画館、飲食店、東隣には福原遊廓があり、遊ぶには困らないところでした。
「…八月の中旬に、菊五郎が神戸へ来たので、貞之助、幸子、悦子、お春の四人で松竹劇場へ出かけたことがあった。(妙子はその時分、幸子が映画や芝居見物に誘ってもめったに附き合ったことがなかった。自分も見に行くことは行くけれども今日は止めると云って、別箇行動を取ることが多かった) 四人は多聞通八丁目の電車道でタキシーを下り、新開地の交叉点を聚楽館の側へ渡ろうとするところで、貞之助と悦子だけが先に渡り、幸子とお春とがストップを食って立ち止まっていると、二人の眼の前を、楠公前の方から来てあっと云う間に通り過ぎた自動車があったが、中に乗っていたのが奥畑と妙子であったことは、夏の真っ昼間のことなので疑いようがなかった。…」
 上記に書かれている”楠公前”とは神戸駅前の湊川神社のことです。地元では楠公さんとして親しまれています。戦後の神戸の繁華街は東に移り、三ノ宮から元町界隈となっています。寂しい限りです。

右上の写真正面の派手なビルが現在の「聚楽館」です。聚楽館は二度建て直されており、「細雪」のころは二代目聚楽館でした(現在は三代目)。

「鯉川筋」
鯉川筋の画廊>
   「細雪」で書かれている”鯉川筋の画廊”とは、昭和初期に大塚銀次郎がJR元町駅南側の鯉川筋に作った「画廊」という名の画廊のこととおもわれます。
「…妙子の個展は今度は神戸の鯉川筋の画廊を借りて三日間開催され、阪神間に顔のひろい幸子の蔭の運動もあって、第一日で大部分の作品が売約済になると云う成績を挙げた。幸子は三日目の夕方、会場の取り片附けを手伝い方々雪子や悦子たちを連れて来たが、残務を終えておもてへ出ると、「悦ちゃん、今夜はこいさんに著って貰お。こいさんお金持やよってに」「そやそや」と雪子も咲けるような口調で、「何処がええ、悦ちゃん、洋食か、支那料理か」「そうかて、まだお金受け取ってえへんねん。── 」と、妙子は空惚けようとしても空惚けきれないで、こヤニヤしながら云った。「構めへんわ、こいさん、お金やったら立て換えとくが」幸子は妙子の懐に、諸雑費を差引いても少からぬ売り上げが這入る勘定であることを知っているので、何とかして馨らせようとかかるのであったが、井谷の話ではないけれども、幸子と違って現代式にチヤツカリしている妙子は、こう云う場合にちょっとぐらい煽てられてもそうやすやすと財布の紐を緩めない方であった。「そんなら、東雅楼にしてんか、彼処が一番安いよってに」 「ケチやなあ、こいさんは。オリエンタルのグリル奮発しんかいな」東雅楼と云うのは南京町にある、表の店で牛豚肉の切売もしている広東料理の一膳めし屋なのであった…」
 鯉川筋とは、JR元町駅東側の通りで、大丸の西側から山麓にある神戸移住センターまでの道をいいます。石川達三の「蒼氓」にも書かれている道です。次に南京街 の東雅楼ですが、この名前のお店は無く、詳細は不明でした。

左上の写真は大丸西側から鯉川筋を撮影したものです。この付近に「画廊」があったはずですが、詳細の場所が分かりませんでした(もし少し調べてみます)。

「旧オリエンタルホテル」
オリエンタルホテル>
   神戸では最も有名なホテルです。昔は神戸で高級ホテルといえば「オリエンタルホテル」だったようです。
「…井谷と云うのは、神戸のオリエンタルホテルの近くの、幸子たちが行きつけの美容院の女主人なのであるが、縁談の世話をするのが好きと聞いていたので、幸子はかねてから雪子のことを頼み込んで、写真を渡しておいたところ、先日セットに行った時に、「ちょっと奥さん、お茶に附き合って下さいませんか」と手の空いた隙に幸子を誘い出して、ホテルのロビーで始めてこの話をしたのである。…」
 オリエンタルホテルは何度か場所を変えていますが、昭和初期は海岸通りにありました。現在はメリケン波止場にあります。

右上の写真正面やや右のビルがオリエンタルホテルです(昭和初期の写真です)。現在は他のビルになっています。左側の通りが海岸通りです。左隣のビルは大阪商船ビルで、このビルは当時のままです。現在の写真 も掲載しておきます(反対側からで一番左の建物が大阪商船ビル、その右側がオリエンタルホテル跡です)。

「トアロード」
トーアロード>
   神戸では三宮神社から異人館に繋がるトアロードは有名です。昭和初期から上品なお店が多かったようです。谷崎潤一郎はトーアロードと書いています。
「…百貨店、化粧品店、洋品店等の書付を見ると、妙子の買い物が大部分を占めているのであったが、お春は図らずも、去年の十二月に妙子が神戸のトーアロードのロン・シン婦人洋服店で掃えた駱駝のオーバーコートと、今年の三月頃に同じ店で掩えたヴィエラのアフタヌンドレスの勘定書があるのを見付けた。駱駝の方は、表と裏と色の違う織り方になっている、厚くて滴も大変軽い地質のもので、表は茶、裏は非常に花やかな赤であったが、当時妙子は、この外套は三百五十円かかった。…」
 ここに登場する「ロン・シン婦人洋服店」は関東大震災までは東京のお店で、震災を避けて神戸にお店を出したのだとおもいます。

左上の写真はトアロードです。JR神戸線の高架橋の山側から撮影しています。山まではっきり見えます。ロン・シン婦人洋服店の詳細の場所は不明でです。

「又平」
与兵>
   「細雪」に登場する神戸の寿司屋です。実在しないとおもっていたら、モデルのお店がありました。
「…貞之助達は海岸通から生田前まで歩いて、今朝席を申し込んで置いた与兵の暖簾をくぐったが、幸子、貞之助、雪子、妙子の順に椅子を列べて掛けながら、まだその話をつづけていた。「そんなこともないねんけど、お化粧の工合やわ。それに今日は特別お酒落してましてんで」…」
 紀香・陣内の結婚式が行われた生田神社の西側になります。お店には入らなかったのですが、お店には谷崎潤一郎の写真があるそうです(お値段が!!)。

右の写真正面が「余兵」のモデル「又平」です。常連客しか入れないような店構えです。

「菊水楼」
菊水>
 2008年6月22日 神戸の「菊水楼」を追加
  「細雪」には 昭和10年代の神戸のお店が数多く登場しています。ただ、神戸は空襲を受けて市街地は殆ど焼けてしまっていますので、残念ながら戦後まで残ったお店は数少なくなっています。ここで登場するのは、すき焼の「菊水楼」です。戦後は菊水倶楽部になっていましたが、現在は無くなっています。
「…約束の日曜日には、朝の十時に父子で芦屋へ来、一二時間家で遊んでから、主人側の四人と都合六人でハイアを神戸まで飛ばして、花隈の菊水へ行った。今日の食事の場所については、支那料理、オリエンタルのグリル、しつぽく料理の宝家、等々の案も出たことだけれども、神戸見物と云う意味では菊水が一番珍しかろう、と云うことになった訳であった。おそい昼食を二時頃から始めて四時頃に終え、帰りは元町から三宮町まで散歩してユーハイムで一と休みし、阪急に乗る父子を見送ってから、四人は阪急会館へ亜米利加映画の「コンドル」を見に這入ったりしたが、その日は双方の家族が顔つなぎをしたと云う程度で、そう一遍に打 ち解けると云うところまでは行かなかった。…」
 すき焼の「菊水楼」は戦前銀座にも出店していた有名なお店です。神戸のお店は、趣を凝らした部屋ですき焼を食べさすことで有名でした。「菊水楼」の玄関部屋の写真を掲載しておきます。

左上の写真は「菊水楼」の絵はがきです。写真を拡大すると分かりますが、ローマ字で"SUKIYAKI RESTAURANT"と書かれています。裏には「菊水楼」への地図 が書かれていました。上記には花隈と所在が書かれていましたが、実際には現在の住居表示で北長狭通四丁目4〜5付近とおもわれます。元町駅西側から県公館方面を撮影した写真 を掲載しておきます(写真の少し先、左側に一筋越えたところに「菊水楼」がありました)。



神戸中心街地図