
2016年2月28日 寄書き「壁画」を追加
2016年11月24日 上筒井の場所を推定
バーアカデミーは「細雪」には書かれていませんが、佐藤春夫との関係では有名なバーです。地理的にも「細雪」で登場する”上筒井六丁目の鈴木病院”の近くにあり、”上筒井六丁目”の地名はこのバーの地名から使ったと思われます。遺跡探訪会の「文学のふるさと ─ 神戸とその周辺」に、この「バー アカデミー」について書かれていました。
「…さて、このあたりに一軒のバーがあった。飾り気はないが、さっぱりした店で、作家・文化人に常連が多く、谷崎潤一郎や佐藤春夫もそのメンバーであった。佐藤春夫は昭和三九年五月六日、書斎で『自叙伝』のラジオ録音中に、「幸にも……」 のことばを最後にしてくずれるように逝った。かけつけた千代子夫人でさえ間に合わなかったほど突然訪れた最期だった。その三日後、五月九日付けの朝日新聞に、谷崎潤一郎は 「佐藤春夫のことなど」 と題して思い出話を載せている。
佐藤が始終私の家に出入りしていたので、妻との間に間違いがあって、私とわかれ、佐藤のところへ行ったと思っている人が多いが、そんなことはなかった。昭和五年八月一八日に「我等三人この度合議をもって千代は潤一郎と離婚致し春夫と結婚致す事と相成……」 という、当時としては破天荒な声明文を出し話題になった事件について、まずふれてから、いま、よくおぼえていないが、ある晩、佐藤が神戸に出て、アカデミーというバーに行った。このバーは、場所はかわったが、いまの加納町にあるなかなかいいバーで、当時は阪急の終点の上筒井にあった。私はそこがひいきで始終行くので、佐藤も行ったが、その晩、佐藤はここでひどく酔って帰って来た。彼は酒を飲まない男で、少し飲んでも赤くなって息苦しくなったが …… 翌日に軽い脳出血を起した。顔がゆがんで、なにかいうことがわからない。と、佐藤のある夜の行状を述べている。彼に痛飲させた原因はあかされていないが、「この時のことは佐藤の文学によほど影響していると思う」と、谷崎は判断している。…」。
上記に書かれている通り、当時「バー アカデミー」は神戸市中央区上筒井二丁目の交差点 にありました。阪急神戸線は現在は三ノ宮から高速神戸まで繋がっていますが、大正9年(1920)に阪急神戸線は十三から上筒井二丁目まで開通しており、ここで神戸市電に連絡していました(下記の地図参照)。ですから、この周辺は繁華街だったわけです。阪急神戸線が昭和11年(1936)4月に三ノ宮まで開通すると、この上筒井線は4年後の昭和15年(1940)廃止されます。
★左上の写真は加納町交差点にある現在の「バー アカデミー」です。建物は古く、当時の面影があります(空襲で焼けていますので戦後の建物ですが!)。建物の写真 を掲載しておきます。
「バー アカデミー」が平成15年末に閉店されたそうで、戦後に書かれた有名人の寄書き壁画の写真(かなり昔に私自身が撮影したものです)を掲載しておきます。
★右の写真は足立巻一氏の「評伝 竹中郁」です。この中に当時、阪急の終点の上筒井にあった「バー アカデミー」について書かれていました。
足立巻一氏の「評伝 竹中郁」からです。
「… 竹中が卒業した昭和二年、わたしは入れ代わりに中学部に入学した。それで、そのころの学院の光景はよく記憶している。神戸市電の山手線は上筒井で終点となり、そのすぐそばに大阪・宝塚へ通じる阪急電車の始発駅の鉄傘がある。
その駅のあたりから、もう学院の正門が見とおせ、道の両側には学生相手の店屋がならんでいる。《アカデミー》というバー、《湖月》というしるこ屋、《助六豆》が売り物の菓子屋、《東京庵》《(イカラ堂》という食べもの屋が山側(北側)につづき、浜側(南側)には学生靴を一手に売る店や《立花》という学帽屋、《山根》《大高》という学生服の専門店などがならんでいる。…」。
と書かれています。下記の当時の地図を参照してもらうとよく分かりますが、上筒井の駅から関西学院の正門までは130mあります。この道の両側にお店が並んでおり、「バー アカデミー」は山側(北側)の一番手前にあったことがわかりますが、お店は5軒しか書かれていません。130mあると、お店は10軒以上はあったとおもわれます。ゆえに手前側にあったとしか分かりません。神戸市電の上筒井駅の写真(現在の写真)、「バー アカデミー」があったとおもわれる場所の写真を掲載しておきます。又、関西学院の正門跡の痕跡は
