●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 京都編
    初版2008年4月6日
    二版2008年4月29日
    三版2008年5月18日 上巻で書かれている京都の丸平大木人形店を追加
    四版2014年2月9日 <V01L02> 京都の丸平大木人形店の写真を更新・追加

 今週も「谷崎潤一郎の『細雪』を歩く」を継続して掲載します。今週は「京都編」です。「細雪」は京都の春も書いています。幸子の家族と妹達は桜の季節の京都を訪ねます。


「平安神宮」
平安神宮「神苑」>
「細雪」は地理的には阪神間を書いているように言われていますが、京都や東京もかなりのページを割いて書いています。なかでも特に谷崎潤一郎は平安神宮 の「神苑」の桜が好きなようで、かなり精細に書かれていました。「細雪」を読みながら「神苑」を回るのも一興です。
「…あの、神門を這入って大極殿を正面に見、西の廻廓から神苑に第一歩を踏み入れた所にある数株の紅枝垂、── 海外にまでその美を謳われていると云う名木の桜が、今年はどんな風であろうか、もうおそくはないであろうかと気を揉みながら、毎年廻廓の門をくぐる迄はあやしく胸をときめかすのであるが、今年も同じような思いで門をくぐった彼女達は、忽ち夕空にひろがっている紅の雲を仰ぎ見ると、皆が一様に、
「あー」
と、感歎の声を放った。この一瞬こそ、二日間の行事の頂点であり、この一瞬の喜びこそ、去年の春が暮れて以来一年に亘って待ちつづけていたものなのである。。…」

 平安神宮の「神苑」は過去にも何度か訪問して写真も撮影しているのですが、今年も桜が一番綺麗な時期を狙って訪ねました。実は4月5日(土)の昨日だったのですが、土曜日で人出がものすごかったです。人の切れ間が無く写真を撮るのに苦労しました(後ろ姿で写るようにしています)。

「臥竜橋」
左上の写真は上記に書かれている「西の廻廓から神苑に第一歩を踏み入れた所」の少し先の写真です。「神苑」の桜は本当に可憐で素敵です。彼女と一緒ならもっと良かったのですが、単身で残念でした。

右の写真は下記に書かれている「蒼竜池の臥竜橋」です。石の並びがすばらしいです。
「…貞之助は、三人の姉妹や娘を先に歩かして、あとからライカを持って追いながら、白虎池の菖蒲の生えた汀を行くところ、蒼竜池の臥竜橋の石の上を、水面に影を落して渡るところ、栖鳳池の西側の小松山から通路へ枝をひろげている一際見事な花の下に並んだところ、など、いつも写す所では必ず写して行くのであったが、此処でも彼女たちの一行は毎年いろいろな見知らぬ人に姿を撮られるのが例で、ていねいな人は態ゝその旨を申し入れて許可を求め、無躾な人は無断で隙をうかがってシャッターを切った。彼女たちは、前の年には何処でどんなことをしたかをよく覚えていて、ごくつまらない些細なことでも、その場所へ来ると思い出してはその通りにした。たとえば栖鳳池の東の茶屋で茶を飲んだり、楼閣の橋の欄干から緋鯉に麸を投げてやったりなど。…」。
 上記に書かれている場面の写真を一挙掲載しておきます。人が多すぎて良い場面での撮影ができていませんがご容赦ください。
白虎池の菖蒲の生えた汀 (菖蒲は池の渕にあります)
蒼竜池の臥竜橋の石の上を、水面に影を落して渡るところ
栖鳳池の西側の小松山から通路へ枝をひろげている一際見事な花の下
栖鳳池の東の茶屋 (場所が分からず蒼竜池の茶屋と推定)
楼閣の橋の欄干
 上記の場所は平安神宮のホームページに「神苑」の地図が掲載されていますので参照してください 。

「丸平大木人形店」
<京都の丸平> 
  2008年5月17日 追加
 2014年2月10日 写真を更新・追加

  谷崎潤一郎は京都のお店も良く知っています。「細雪」の上巻で雛人形で有名な京都の丸平を登場させています。
「…この家の雛と云うのは、昔悦子の初節句の時に京都の丸平で作らせたもので、芦屋へ移って来てからは、結局家族たちの団欒の部屋に使われている階下の応接間が、洋間ではあるけれどもそれを飾るのに一番適当だと云うことになって、毎年そこに雛段が組み立てられるのであった。で、幸子は半年ぶりに戻って来る雪子を喜ばすために、この行事を二箇月早めて、新暦の節句から一と月おくれの節句まで、一箇月の期間飾って置こう、多分雪子もそ切一箇月間ぐらいは滞在することになるであろう、と云い出したのであったが、その提案が容れられて、新暦の三月三日と云う今日、飾り付けが始められたところなのであった…」
 「細雪 上巻」の解説には”京都市下京区四条通り御幸町西入る北側”と書かれていたのですが、調べると中京区六角通柳馬場東入大黒町68にあるようです。どうも住所が変わったようです。この人形店は江戸時代からのお店で雛人形では非常に有名なお店だそうです。

左上の写真は中京区六角通柳馬場東入大黒町68の丸平大木人形店です。明治時代から四条通堺町北東角、昭和30年頃には四条通御幸町西入北側、昭和53年頃に現在の中京区六角通柳馬場東入大黒町68に変わっています。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


「細雪」 京都 嵯峨野地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版



「広沢の池」
<広沢の池>
  谷崎潤一郎は「細雪」の中で、何回か「嵐山」を訪ねています。今回は昭和13年4月と思われる時期に訪ねた嵐山を、同じように訪ねてみました。
「…明くる日の朝は、先ず広沢の池のほとりへ行って、水に枝をさしかけた一本の桜の樹の下に幸子、悦子、雪子、妙子、と云う順に列んだ姿を、遍照寺山を背景に入れて貞之助がライカに収めた。この桜には一つの思い出があると云うのは、或る年の春、この池のほとりへ来た時に、写真機を持った一人の見知らぬ紳士が、是非あなた方を撮らして下さいと懇望するままに、二三枚撮って貰ったところ、紳士は慇懃に礼を述べて、もしよく映っておりましたらお送りいたしますからと、所番地を控えて別れたが、旬日の後、約束を違えず送って来てくれた中に素晴らしいのが一枚あった。それはこの桜の樹の下に、幸子と悦子とが佇みながら池の面に見入っている後姿を、さざ波立った水を背景に撮ったもので、何気なく眺めている母子の恍惚とした様子、悦子の友禅の袂の模様に散りかかる花の風情までが、逝く春を詠歎する心持を工まずに現わしていた。以来彼女たちは、花時になるときっとこの池のほとりへ来、この桜の樹の下に立って水の面をみつめることを忘れず、且その姿を写真に撮ることを怠らないのであったが、幸子は又、池に沿うた道端の垣根の中に、見事な椿の樹があって毎年真紅の花をつけることを覚えていて、必ずその垣根のもとへも立ち寄るのであった。…」
 上記に書かれている”池に沿うた道端の垣根の中に、見事な椿の樹”が探しだせませんでした。ご存じの方がいらっしゃいましたらご教授ねがいます。

左上の写真は広沢の池の南側から遍照寺山を背にして撮影したものです。一番綺麗なところはこのあたりとおもいます。

「大沢の池」
大沢の池>
 大覚寺横の「大沢の池」です。普段は拝観料は無いのですが、昨日は「文化財 維持協力金」200円を徴収されました。仕方がないですかね(大覚寺は当然拝観料を取られます)。
「…大沢の池の堤の上へもちょっと上って見て、大覚寺、清涼寺、天竜寺の門の前を通って、今年もまた渡月橋の袂へ来た。…」
 天気がよく、風もなかったので良い写真がとれました(人も多くは無かったです)。

右の写真は「大沢の池」の南端から撮影したものです。大沢の池に山並みが映っています。

「渡月橋」
渡月橋>
渡月橋はいつ来ても良いですね。特に春と秋は渡月橋の上から見る嵐山は最高です。
「…京洛の花時の人の出盛りに、一つの異風を添えるものは、濃単色の朝鮮服を着た半島の婦人たちの群がきまって交っていることであるが、今年も渡月橋を渡ったあたりの水辺の花の蔭に、参々伍々うずくまって昼食をしたため、中には女だてらに酔って浮かれている者もあった。…」
 渡月橋上はひとひとひとで大変でした。歩道の上だけでは人が多すぎてさばききれず、車道にはみ出して歩いていました。

左の写真は渡月橋北詰から少し東の桜の木の傍から撮影しています。嵐山の桜が綺麗です。

「法輪寺」
法輪寺>
渡月橋の南詰近くにある法輪寺です。山の中腹にあるので階段を少し昇ります。
「…幸子たちは、去年は大悲閣で、一昨年は橋の袂の三軒家で、弁当の折詰を開いたが、今年は十三詣りで有名な虚空蔵菩薩のある法輪寺の山を選んだ。…」
 このお寺は十三詣で有名だそうです。毎年4月13日がその日なのですが、最近は前後一カ月でもいいそうです。私は十三詣は知らなかったのですが、13歳のお子さんが厄除け・健康等の祈願をするために神社にお参りをします(干支が一回りする時期)。

上記に書かれている、
大悲閣 、(本殿は焼けてしまったそうですが、写真の建物は当時のままだそうです)
橋の袂の三軒家 、(当時の写真がありましたので掲載します。現在の写真 と比較してください)
は写真を掲載しておきます。

右上の写真は法輪寺の本堂です。嵐山の中腹にあり、眺めが素敵な場所でした。渡月橋北詰 がよく見えました。

「野々宮神社」
野々宮神社>
嵯峨野はかなりの回数訪ねているのですが,「野々宮神社」は初めてでした。天竜寺の北側にあり、誰も訪ねないとおもったら、人でいっぱいでした。
「…そして再び渡月橋を通り、天竜寺の北の竹藪の中の径を、「悦ちゃん、雀のお宿よ」などと云いながら、野の宮の方へ歩いた…」
 谷崎潤一郎が何故このお宮を書いたかとおもったら、源氏物語の「賢木の巻」に書かれているのですね。天竜寺の北側で、竹藪の中で、北側はJR山陰本線が走っていました。

左の写真は野々宮神社です。天竜寺は左側で、右側にJR山陰本線の踏切があります。周りは竹藪 ばかりでした。

「厭離庵」
厭離庵>
この庵も私は知りませんでした。有名なのでびっくりしました。ただ見学できるのは紅葉の頃だけのようです。
「…午後になってから風が出て急にうすら寒くなり、厭離庵の庵室を訪れた時分には、あの入口のところにある桜が姉妹たちの袂におびただしく散った。…」
 この場所は藤原定家の山荘跡で、持主が冷泉家に移り、その後、霊元法皇より「厭離庵」の寺号を賜っています。明治以降、山岡鉄舟の娘、素心尼が住職となり尼寺となったようです。

右の写真は厭離庵(えんりあん)の正面入口です。二尊院と清涼寺の間にあるのですが、入り口 が分かりにくく、私は二回通りすぎてしまいました。

「清涼寺の門前」
清涼寺(釈迦堂)の門前>
嵯峨野の中では大きなお寺の一つです。天竜寺と大覚寺の中間にあります。
「…それからもう一度清涼寺の門前に出、釈迦堂前の停留所から愛宕電車で嵐山に戻り、三度渡月橋の北詰に来て一と休みした後、タキシーを拾って平安神宮に向った。…」
 昭和初期に開通した愛宕電車については資料があまりなく、当時の地図のみを下記に掲載しておきます。釈迦堂前の停留所は清涼寺(釈迦堂)の北側です。この愛宕電車の跡地は清滝まで清滝鳥居本線の道路となっています。

左の写真は渡月橋から清涼寺(釈迦堂)までの一本道の途中から清涼寺(釈迦堂)の仁王門を撮影したものです。桜が綺麗でした。清涼寺(釈迦堂)の本堂 の写真を掲載しておきます。

「細雪」の幸子家族が嵯峨野を回った経路については上記の地図を参照してください。

「嵐山駅」
阪急嵐山駅>    2008年4月29日 下巻での嵯峨訪問を追加
京都嵯峨野は「細雪」の下巻に再度書かれていました。雪子のお見合いから、再度、京都の嵐山を訪ねることになります。
「…当日、貞之助たちは新京阪の桂で乗り替えて嵐山の終点で降り、中之島を徒歩で横ぎって渡月橋のほとりに出た。毎年の春の花見に馴染の深い場所であったが、今は極寒の季節であるのに加えて、京都の冬は格別なので、大堰川の水の色を見ても何かしんしんとしたものが骨身に泌みるようであった。…」
 新京阪とは現在の阪急電鉄京都線の初期の名称です。昭和初期に現在の京阪電気鉄道の関係会社として設立された会社で、戦時中に阪急電鉄と合併、戦後、分離したときに新京阪は阪急電鉄側に残り、阪急電鉄京都線となります。又、大堰川(おおいがわ)は嵐山より上流の名称なのですが、現在は保津川とも呼ばれています。嵐山より下流が桂川となります。

左上の写真は阪急 嵐山駅です。多分、新京阪当時の嵐山駅そのままとおもいます。プラットホーム も昔のままでした。趣のある駅でよかったです。

「小督局」
小督局>    2008年4月29日 下巻での嵯峨訪問を追加
新京阪の嵐山駅から渡月橋 を渡り、北詰から桂川添いに三軒屋のある西に向かいます。
「…川に沿うて三軒家の前を西に行き、小督局の墓所を右に見て、あの遊覧船の発着所の前を過ぎ、天竜寺の南門の方へ曲ったところに「聴雨庵」と云う額の懸った門のあるのがそれであると教えられていたので、直ぐに分ったが、貞之助たちはこんな所にこんな別荘があることを始めて知ったのであった。家は葛尾茸の平家建てで、そう広そうにも思えなかったが、座敷の正面に嵐山を取り入れた泉石の眺めは素晴らしかった…」
 ”小督局の墓所”とありますが、お墓ではなくて仮住居跡のようです。説明看板の写真 を掲載しておきます。お墓は東山の清閑寺にあります。

右の写真は小督局の旧跡です。渡月橋北詰から西 に向かい、最初の角を右に曲がって数十メートル先の左側です。

「聴雨庵跡」
聴雨庵(ホテル嵐亭?)>    2008年4月29日 下巻での嵯峨訪問を追加
聴雨庵を探したのですが、やはり存在しませんでした。おそらく「ホテル嵐亭」のことではないかとおもいます。
「…国嶋の紹介で主人側の人々との挨拶が済んだあとで、寒いけれども風がないから少しお歩きになりませんか、庭を御覧下さると親父が喜びますから、と、御牧がそこらを案内して廻ったが、ここから見ると、嵐山は庭つづきになっていて、間に道路や大堰川が挟まっているようには思われない、そして花時の雑沓の折にも、ここばかりは人里離れた仙境のように閑寂であり、外の群衆の騒音などは何処にあるかと訝しまれるばかりである、と云うのが親父の自慢であって、庭内にはわざと一本の桜樹をも植えず、四月ともなればあの峰の上の花の雲を、心静かに賞美しようと云う趣向なのである、と御牧は云って、今年のお花見には是非お立ち寄りになるんですな、ここで弁当をお開きになって、あの座敷から遠山桜を御覧になることですな、それこそ親父がどんなに喜ぶか知れませんよ、などと云った。…」
 「ホテル嵐亭」のホームページを参照すると、「…ホテル嵐亭の設立は、明治32年に川崎造船所創始者の川崎正蔵氏が現在地に別荘「延命閣」を、また、明治43年には嵯峨遊園株式会社が「八賞軒」を建設したことに端を発しております。その後、昭和11年には山口玄洞氏、昭和18年鴻池善右衛門氏、昭和28年林原一郎氏が所有し、昭和37年株式会社京都ステーションホテルが当時、カバヤ食品株式会社名義となっていたものを購入いたしました。…」、と書かれていました。おそらく、谷崎潤一郎はこの別邸を訪ねたことがあるのでしょう。聴雨庵は仮称だとおもわれます。

左の写真は桂川から「ホテル嵐亭」を撮影したものです。丁度、正面あたりです。遊覧船の発着場はもっと右側になります。遊覧船の発着場の写真 を掲載しておきます。

阪急嵐山駅からの経路については上記の地図を参照してください。



昭和初期の嵯峨野地図