●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 阪神大水害編
    初版2008年3月29日  <V02L01> 

今週も「谷崎潤一郎の『細雪』を歩く」を継続して掲載します。「芦屋編」、「西宮編」と続けてきましたので、今回は「細雪」の重要なテーマになっています「阪神大水害編」を掲載します。貞之助は本山の洋裁学校に向かった妙子を救助に甲南女学校に向かいます。


「倚松庵二階」
住吉川沿いの「倚松庵」>
谷崎潤一郎が「細雪」を書いたのが住吉川沿いの倚松庵 でした。この倚松庵に谷崎潤一郎は昭和11年11月から昭和18年11月まで、丁度7年間住んでいます。「細雪」は昭和13年前後の時代を描いていますから、丁度この倚松庵に住んでいた頃になるわけです。
「…いったいこの家は大部分が日本間で、洋間と云うのは、食堂と応接間と二た間つづきになった部屋があるだけであったが、家族は自分達が団欒をするのにも、来客に接するのにも洋間を使い、一日の大部分をそこで過すようにしていた。それに応接間の方には、ピアノやラジオ蓄音器があり、冬は煙炉に薪を燃やすようにしたあったので、寒い時分になると一層皆が其方にばかり集ってしまい、自然そこが一番板かであるところから、悦子も、階下に来客が立て込む時とか、病気で臥る時とかの外は、夜でなければめったに二階の自分の部屋へは上って行かないで、洋間で暮した。二階の彼女の部屋と云うものも、日本間に西洋家具の一揃が備えてあって、寝室と勉強部屋を兼ねるようにしてあったのだけれども、悦子は勉強するのにも、ままごと遊びをするのにも、応接間ですることを好み、いつも学校用品やままごとの道具をそこら一杯散らかしているので、不意に来客があったりすると、よく大騒ぎをすることがあった。…」
 上記は「細雪」が描いている蒔岡(まきおか)幸子の芦屋で住んでいる家の様子です。この蒔岡(まきおか)幸子の家の様子は谷崎潤一郎が住んでいた倚松庵と瓜二つなのです。谷崎潤一郎は倚松庵をモデルにして「細雪」を書いたのだとおもます。「細雪」では隣家として「シュトルツというドイツ人の一家」が書かれていますが、この倚松庵の南西に「シュルンボム」というドイツ人が住んでおり、そのまま使ったようです。

「住吉橋」
左上の写真は現在の倚松庵 です(倚松庵の二階から住吉川を撮影しています)。離れ以外は当時のままですが、移築されています。現在の場所から南に120mが本来の場所だそうです。この倚松庵は川沿いで高さがあったため、阪神大水害は免れています。

右の写真は倚松庵から住吉川を上流に上がった国道二号線住吉橋を撮影したものです。撮影日時は昭和13年7月の阪神大水害の時です。住吉川は天井川なので、川自体が土砂で埋まってしまうと、自動的に氾濫してしまいます。
「…たとえば住吉川の上流、白鶴美術館から野村邸に至るあたりの、数十丈の深さの谷が土砂と巨岩のために跡形もなく埋ってしまったこと、国道の住吉川に架した橋の上には、数百貫もある大きな石と、皮が擦り剥けて丸太のようになった大木とが、繁々と積み重なって交通を阻害していること、その手前二三丁の南側の、道路より低い所にある甲南アパートの前に多くの屍骸が流れ着いていること、それらの屍骸は皆全身に土砂がこびり着いていて顔も風態も分らぬこと、神戸市内も相当の出水で、阪神電車の地下線に水が流れ込んだために乗客の溺死者が可なりあるらしいこと、── これらの風説には臆測や誇張も加味されていたに違いないのであるが……」。
 写真の住吉橋は現在は架け直されて新しい橋になっていました。新しい橋の写真 (同じ場所から撮影)を掲載しておきます。

この住吉川添いには阪神大水害の記念碑がいくつか作られていますが、住吉川右岸の甲南小学校には、東北の角に「細雪」 の碑と校内に「常ニ備エヨ」 の碑があります。少し上流に上がった住吉学園には水害の水位を表した「流石の碑」 があります。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


「細雪」  岡本、住吉地区地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和11年 1936 2.26事件 50 11月 兵庫県武庫郡住吉村反高林1876番地(倚松庵)に転居
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版



「水害記念帳 復刻版」
<阪神地方水害記念帳:甲南高等学校校友会>
  谷崎潤一郎は「細雪」の中で、阪神大水害について貞之助が幸子を助けに行く情景の中で詳細に描いています。ただ、阪神大水害の描き方があまりにリアルだったので、少し調べてみました。

甲南大学文学部教授 久武哲也さんの”『阪神地方水害記念帳』復刻にあたっての「解題」”によると
「…谷崎は「細雪回顧」(昭和三〇年、谷崎潤一郎全集、第二二巻所収)の中で次のように述べている。
「関西の風水害の時の叙述でも、水の出た時間などは正確でない。それからあの出水の箇処に書いたことは私の実際の経験であるように誤信してゐる人もあるやうに聞くが、私のゐたところは絶対安全なところで、実は私は少しも恐い思ひはしてゐないのだ。水が出た二三時間後に近所を歩いて見た見聞と、あの辺で実際に水害に遭った学校の生徒の作文をあとで沢山見せてもらったので、それが参考になってゐる程度である」(同書、三六四〜五頁)とその水害の状況の描写の源泉となったものを語っている。
しかし、翌昭和三一年(一九五六)五月の雑誌『文芸』(第一〇巻四号、臨時増刊「谷崎潤一郎読本」)の中の「谷崎文学の神髄」という座談会の席では、前述の「あの辺で実際に水害に遭った学校の生徒の作文」が、より具体的に「甲南小学校の生徒の作文」として同定されている。…」

 と書かれていました。
 「あの辺で実際に水害に遭った学校の生徒の作文」とは何かとおもい、図書館で少し調べてみました。阪神大水害について本山付近(神戸市東灘区)について書かれた学校関係及び自治体関係本は
 ・阪神地方水害記念帳:甲南高等学校校友会、昭和13年12月20日
 ・水禍記念誌:甲南高等女学校、昭和13年11月30日
 ・本山村水禍録:本山村役場、昭和15年3月20日
 の三冊がありました。図書館で上記の本を調べてみました。『阪神地方水害記念帳』は神戸新聞より復刻されていましたので、手に入れることができました。内容的に見ると、谷崎潤一郎は『阪神地方水害記念帳』を参考にしていた様です。書かれていた甲南高等学校生徒の作文と「細雪」を比較してみました。


項目 細     雪 甲南高等学校生徒の作文
…ふと貞之助は、足許に小蟹が二匹ちょろちょろ歩いているのを見つけたが、大方この蟹どもは今の小川が氾濫したので、線路の上へ逃げて来たのであろう。[中篇P48] …不圖(ふと)足もとにかにが二匹居るのを発見した。住吉川に居れなくなったので上って来たのだらう。[「水害の思い出」、Tさん]
…貞之助は暫く足を休めるつもりで線路から駅の構内へ這入ったが既に駅前の道路には水が一杯になっており、構内にも刻々浸入しつつあるので、入口に土嚢や蓆を積み上げて、駅員だの学生だのが代る代る、隙間から漏れて来る水を箒木で掃き出している。…… ここでも彼は甲南学校の生徒たちと道づれになった。彼等は今朝、登校して一二時間たった時分にこの騒ぎになり、授業が休みになったので、水禍の中を 岡本駅まで逃げて来て見ると、阪急は不通であると云われて、更に省線の本山駅まで来たのであるが、省線も矢張駄目であることが分ったので、暫く駅で休んでいた。(さっき構内の水掃きを手伝っていたのは彼等なのであった)[中篇P48] …阪急は不通らしい。省線も不適かも知れないがきつと大丈夫だらう。早く駅へ出たい。しばらくすると線路上に水が来てゐたが線路の上なら大丈夫だ。 本山駅へ出る為右へ曲った。…… 本山駅の前に水が一ばいたまってゐる。駅の周囲にはむしろや土嚢をつみ上げて水のはいるのか防いでゐる。バシャバシャと水の中を通って中にはいった。 駅員は省線は不通で住吉川はとても渡れないと言ふ。「何時頃通じますか。」と聞くと、「この調子なら何時や分りまへん。」と言ふ。大変だが仕方がないので待つことにする。水がはいるので二年生の者がほうきではき出してゐる。しかし水は少しもへらない。僕もかはった。[「水害の思い出」、Tさん]
…見ると、つい半丁程先のところに、列車が立ち往生をしていて、その窓の中から、同じ学校の生徒たちが首を出して此方の連中を呼んでいるのである。君等は何処へ行くつもりだ、もうこの先はとても危険だ、住吉川は大変な出水で渡れるどころではないそうだから、まあ此処へ上って来いと云う。で、貞之助も仕方なく彼等と一緒にその汽車の中へ上り込んだ。それは下り急行車の三等室で、甲南の生徒の外にもいろいろの人間が避難していた。中でも幾組かの朝鮮人の家族が一とかたまりになっていたのは、多分家を流されて命からがら此処へ駈け込んで来たのであろう。[中篇P48] …甲南女学校の側で汽車が停ってゐたのでその中へ入って見ると一年B組の須田君等四五人乗ってゐた。その不通列車中で休息してゐると大勢の人がこの汽車に非難して来たが中には朝鮮人も大勢混つてゐた。線路は高いので水は上って来ないが住吉川が氾渡したのであらう上の方からは川の様にはげしい勢で大きな木や屋根等を流して来るし、本山第二小学校は一階を水の中にうづめて居た。[「水害の日」、Mさん]

ふと上を見ると汽車の窓から甲南の生徒が汽車の中へ入って来いと呼んでゐたそこで四人は大喜びで汽車に乗りこんだ。[「水害」、Sさん]
いきなり脚が砂の中へずぶずぶと膝の上まで漬かった。ずぽッと脚を抜いた途端に片一方の靴が脱げた。ずぽッ、ずぼッ、と脚を抜きながら五六歩行くと、再び幅一間ばかりの激流があった。前を行く人が何度も流されそうになりつつ渡って行く。その流れの強いことは、さっき悦子を背負いながら渡った時の比ではない。中途で彼は、もう流される、もう駄目だと二三度観念した。漸く向う側へ着いたら、又砂の中へずぽツと腰の上まで漬かった。慌てて電信柱に抱き着いて這い上った。甲南女学校の裏門がつい鼻の先五六間の所にあるので、そこへ駈け込むより外はないのだが、その五六間の間に又一条の流れがあって、見えていながら容易に向うへ行き着けなかった。と、門の扉が開いて熊手のようなものをさし出してくれた人があった。貞之助はそれに掴まってどうにか門の内へ引きずり込んで貰った。[中篇P54] 汽車を降りずぼっずぼっと行くと前に幅二米ぐらゐの流れがある。とてもきつい。前の者が流されさうになりつゝ向ふへついた、危い。よしと決心して流れの中にふみこんだ。うっかりすると流されさうだ。流れで足が前へ出しにくい。足をふみしめくやつと渡って向ふの砂地へ足をふみ入れたと思ふと、ずぼーっと片足が腰近くまでは入った。はつと思って片手で前の柱にしがみつく。夢中になってはい上った。ズポンは一面に泥がつき上衣も所々に泥がついてゐる。やつと甲南女学校についた。かうして来たものゝ前にまだ流れがあってとてもはいれたものではない。今立ってゐるすぐ横に小さい戸があるが開かぬらしい。すると中からこの学校の先生が来られて、こっちへ来いと言ふ。それで一歩々々ふみしめながら流れの中にはいりやうやく乗切った。[「水害」、Sさん]



「芦屋川西側から西を見る」
芦屋川西側の国鉄線路>
ここからは「細雪」で貞之助が妙子を助けに行くストリーに従って歩いてみました。
「…家から半丁ほど北のところで線路へ上った。と、それから数丁の問は全然水を見ず、線かに森の辺から両側の田圃が、二三尺の深さで浸水している程度であった。森を出て田辺へかかると、水は却って線路の北側だけになり、南側は平日の通りであったが、本山駅へ近づくに従って次第に南側にも水を認めるに至った。でもまだ線路の上は安全で、貞之助は歩いて行くのに格別の危険も困難も感じなかったけれども、時々甲南高等学校の生徒が二三人ずつかたまって来るのに行き遇い、呼び止めて様子を聞くと、この辺は何でもありません、本山駅から先が本当に大変なのです、もう少し歩いていらっしゃれば向うが全部海のようになっているのが見えますと、誰も同じような答をする。…」

 貞之助は自宅から50〜60m北にある国鉄線路に上り、岡本駅に向かって大雨の中を西に歩き始めます。

左上の写真は芦屋市清水町のJR神戸線から岡本方面の西を撮影したものです。拡大すると分かりますが、微かに甲南山手駅が見えます。当然ですが、当時は甲南山手駅はありませんでした。

「摂津本山駅」
摂津本山駅>
貞之助が最初にたどり着く駅が「摂津本山駅」でした。
「…やがて本山駅へ来てみると、成る程この辺は水勢が物凄い。貞之助は暫く足を休めるつもりで線路から駅の構内へ這入ったが既に駅前の道路には水が一杯になっており、構内にも刻々浸入しっつあるので、入口に土嚢や蓆を積み上げて、駅員だの学生だのが代る代る、隙間から漏れて来る水を箒木で掃き出している。貞之助は、そこらにうろうろしていれば自分も帝木を持って手伝わなければならないので、一服吸うと、又ひとしきり強くなり出した雨を冒して、再び線路の上を進んだ。…」

 芦屋市清水町から約2Kmの距離です。

左上の写真は現在の摂津本山駅です。阪神間では数少ない昔の面影がある駅です。少し前まで灘駅が昔のままだったのですが、昔の駅舎は無くなってしまいました。

「立ち往生の列車」
立ち往生の列車>
「細雪」で書かれている”立ち往生した列車”です。フィクションかとおもったら、本当に立ち往生した列車がありました。
「…見ると、つい半丁程先のところに、列車が立ち往生をしていて、その窓の中から、同じ学校の生徒たちが首を出して此方の連中を呼んでいるのである。君等は何処へ行くつもりだ、もうこの先はとても危険だ、住吉川は大変な出水で渡れるどころではないそうだから、まあ此処へ上って来いと云う。で、貞之助も仕方なく彼等と一緒にその汽車の中へ上り込んだ。それは下り急行車の三等室で、甲南の生徒の外にもいろいろの人間が避難していた。…」。
 摂津本山駅から600m西に列車が立ち往生していたようです。

左上の写真は立ち往生した列車です(「阪神地方水害記念帳」より)。毎日新聞の写真がもっと綺麗に映っているのですが、掲載できません。因みに機関車はC53−18でした。

「本山第二小学校」
本山第二小学校>
 「阪神地方水害記念帳」に書かれていた小学校です。「細雪」でもそっくり登場しています。
「…貞之助も、雨が洋服に渉み透って寒くなって来たので、レインコートと上衣を脱いで腰掛の背に懸け、ブランデーを一二杯飲んでから煙草に火をつけた。腕時計は一時を示していたが、一向腹が減って来ないので、弁当を開く気にはなれなかった。彼が腰かけている席から山手の方を望むと、ちょうど本山第二小学校の建物の水に漬かっているのが真北に見え、一階南側に列んでいる窓が恰も巨大な閘門のように移しい濁流を奔出させているのであったが、あの小学校が彼処に見えるとすると、今この列車の侍っている位置は甲南女学校を東北に距ること僅々半丁程の地点であることは明かであり、従って、此処から目的の洋裁学院へは、平日ならば数分を出でずして到達出来る訳であった。…」
 校舎は震災後建て直されています。

右上の写真は現在の本山第二小学校です。現在は本山第二小学校と線路の間に建物が建てられ電車からは見えなくなっています。電車から見える学校は本山第二小学校の東隣にある本山中学校 です。この本山中学校は昭和22年に設立されていますので当時はありませんでした。

「甲南学園前バス停留所」
甲南学園前パス停留所>
ここでもバス停留所が登場しています。本当にバス停留所が良く登場します。
「…今度は寧ろ妙子の安否が気遣われて来た。彼女の通っている本山村野寄の洋裁学院と云うのは、国道の甲南女学校前の停留所の辺を少し北へ這入った所にあって、住吉川の岸から直径二三丁に過ぎないので、今の運転手の話だと、どうしてもその濁流の海の中にあるらしく思える。彼女が洋裁学院へ行く時は、国道の津知まで歩いて出て、そこからバスで行くのであるが、そう云えばさっきお宅のこいさんが国道の方へ下りて行かはるのと、僕そこで擦れ違いました、青いレインコート着たはりましたな、あの時刻に出かけはったんやったら、向うへ着かはってから間もなく水が出たぐらいやったかも知れません、小学校よりも野寄の方がずっと心配でっせと、運転手も云うのである。…」
 当時としてはバスはハイカラな乗り物だったのでしょうか。

左上の写真は現在の甲南学園バス停留所です。甲南学園は移転していますが、バス停留所の名前はそのままです。

「甲南女学校」
甲南女学校>
国鉄の線路を挟んで、本山第二小学校の反対側(南側)にあったのが「甲南女学校」でした。「細雪」では貞之助がこの学校にたどり着くために苦労します。
「…「甲南女学校まで行こうや」
生徒たちが真っ先に跳び出すと、大部分の人が鞄を提げたり風呂敷包を背負ったりして後に続いた。貞之助もその中の一人であったが、彼が夢中で土手の下へ駈け降りたのと同時に、非常な大波が北側から列車の方へ襲いかかった。水が凄じい音を立てて滝のように頭上へ崩れて来、材木が一本にゅっと横あいから突き出た。彼は辛うじて濁流から逃れて、水の干上った所へ来たが、いきなり脚が砂の中へずぶずぶと膝の上まで漬かった。ずぽッと脚を抜いた途端に片一方の靴が脱げた。ずぽッ、ずぼッ、と脚を抜きながら五六歩行くと、再び幅一間ばかりの激流があった。前を行く人が何度も流されそうになりつつ渡って行く。その流れの強いことは、さっき悦子を背負いながら渡った時の比ではない。中途で彼は、もう流される、もう駄目だと二三度観念した。漸く向う側へ着いたら、又砂の中へずぽツと腰の上まで漬かった。慌てて電信柱に抱き着いて這い上った。甲南女学校の裏門がつい鼻の先五六間の所にあるので、そこへ駈け込むより外はないのだが、その五六間の間に又一条の流れがあって、見えていながら容易に向うへ行き着けなかった。と、門の扉が開いて熊手のようなものをさし出してくれた人があった。貞之助はそれに掴まってどうにか門の内へ引きずり込んで貰った。…」

 この場所は現在は本山南中学校になっています。甲南女学校が移転したのは昭和43年(1968)で、その後甲南大学のグラウンドとして使用され、その後生徒数増に悩む本山中学校を分校する形で昭和61年(1986)、甲南女学校跡に本山南中学校が開校されました。

左上の写真は阪神大水害当時の甲南女学校構内の写真です。良く見ると、列車の屋根が映っています。立ち往生した列車が甲南女学校の直ぐ山手に止まっていたのがよく分かります。

「国道二号線住吉川東」
甲南女学校傍の洋裁学院>
「細雪」で貞之助が救助に向かった甲南女学校傍の洋裁学院を探してみました。
「…散歩好きな貞之助はあの辺の地理をよく知っており、洋裁学院の建物の前も度々通っているのであるが、彼に一つ希望を抱かせたことと云うのは、その建物は、省線の線路が本山駅を出て西へ十数丁行ったあたりの直ぐ南側に、一本の道路を隔てて甲南女学校がある、その女学校から少し西へ寄った所、線路から云えば南へ直径一丁ほどの地点にあるので、もし線路上をその女学校の附近まで伝わって行けるものとすれば、或は洋裁学院へも到達し得るかも知れず、し得ない迄も、その建物の被害程度を探ることぐらいは出来そうに思えたのであった。…」
 甲南女学校の北側にある国鉄線路から南に一丁(110m)、甲南女学校の西側となると場所は限られます。現在の田中保育園の付近 (写真は右側が甲南女学校跡となりますので洋裁学院は左側となります)と推測しました。

左上の写真は第二国道住吉橋から東側を撮影したものです。右側には受験校で有名な灘高のグランドがあります。「細雪」では少し先(二つ目の交差点)の田中町四丁目交差点を左に120m位入ったところに洋裁学校があるはずです。