●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 西宮編
    初版2008年3月15日  <V01L03> 

 今週から谷崎潤一郎の「『細雪』を歩く」を二回連続で掲載します。「西宮編」と「阪神大水害編」です。「神戸編」、「京都編」、「東京編」も掲載する予定ですが時期は未定です。「大岡昇平を歩く」の未掲載分は4月に掲載します。


「小出樽重と谷崎…」
西宮の「京楽」>
「細雪」には書かれていませんが、谷崎潤一郎お気に入りのお店が西宮にあります。「西宮」は阪神間の市で、芦屋市の東、大阪寄りになります。神戸市からは、神戸市→芦屋市→西宮市→尼崎市→淀川を超えて大阪市となります。谷崎潤一郎が西宮に住んだのは、丁末子と結婚した昭和6年11月以降で、夙川の根津別荘別棟に滞在した時になります。
「…重子が芦屋の住まい(借家)とアトリエを引き払い、夙川の姉の家の向かいに仮住まいしていたころ、谷崎は新婚の丁末子夫人を伴って訪ねてきたことがある。阪神電車、西宮東口のおでん屋「京楽」までいっしょにどうですか、というお誘いだった。谷崎ご晶屑の店だった。「谷崎さん、丁末子さんだけでは話題が不足なんかしら」と祖母は思ったそうである。「よろこんで」と祖母は同行した。
祖母はのちに高木治江の本で知ったというが、どうやら谷崎は丁末子夫人の手料理に辟易していたらしい。夙川の土手を、谷崎夫妻が先に、重子が後に従った。重子がふと足元に目をやると、谷崎はなんと破れ足袋を履いていた。その頃、谷崎は税金の滞納で岡本の家を出て、夙川に、根津清太郎の祖母が以前住んでいた別荘の離れ座敷を借りていた。重子の家とは近かった。…」

 上記は「小出楢重と谷崎潤一郎 小説『蓼喰う虫』の真相」からです。小出楢重は谷崎潤一郎の「蓼喰う虫」の挿絵で有名です。重子は小出楢重の奥様で、昭和6年(1931)2月13日、楢重本人の死去以降も谷崎家とは親しくしていたようです。

「京楽跡」
左上の写真は春風社の「小出楢重と谷崎潤一郎 小説『蓼喰う虫』の真相」です。谷崎潤一郎の『蓼喰う虫(たでくうむし)』は新聞小説で、昭和3年12月から昭和4年6月まで東京日日新聞、大阪毎日新聞に掲載されています。

右の写真の正面やや左のビルの3〜4軒先に谷崎潤一郎が贔屓にした「京楽」がありました。「京楽」の場所がなかなか分からなかったのですが、宮崎修二朗氏の「文学の旅・兵庫県」に掲載されていました。この本は昭和30年10月に出版されていますので、戦後ですが、内容的にはかなり古い本になります。
「…「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、!」 鉄道の下をくぐりぬけるトンネル ── それをこの土地では「マンボウ」と呼んでいるが ── は『細雪』のなかにもえがかれている。「一本松」といい、この「マンボウ」といい、谷崎潤一郎氏の足跡がこの市中を行きわたっているのも道理、氏はしばしは与古道町──そこの六湛寺川を南に渡ったところにあった酒場「京楽」を訪れているのである。郷士研究家浅田柳一氏は当時の谷崎氏をつぎのように回想している。
 「京楽」はいまの神戸新聞中央販売店から三、四軒南にあたり、酒蔵に直結した「日本盛」を飲ませて通者を喜ばせた。谷崎氏は長くこの店を贔屓して「東西南北人爭春夏秋冬客不絶」という顔を揮毫して掛けたり、素晴しい檜の台をみずから担いで来て寄贈したりするという気の入り方だった。その店の、油揚げで野菜を包んだガンモドキを、関西で「ヒリョウズ」と呼ぶのが興味をひいたらしく『中央公論』に『京楽のあげ袋』という一文を書いたりした。私たちご常連は、その後ヒリョウズを「中央公論」と呼んだりした。ときにはみずから詩を書いた盃を焼かせたりもした。刺身の類はあまり註文せず鯛の頭や海老を焼いたのを酒に浸し、ヒリョウズを焼いて大根おろしを掛けて肴にするといった、素朴な味を好む食通だったが、私たちご常連との話題にはいつも関西移住当時の回想談が出たものだった。中村不折の李白をえがいた油彩(昭和八年「文展」出品)が日本酒造のポスターになって店に掲げられた時、氏は筆をとり「李白一斗詩百篇」と、そのポスターに揮毫されたが、それがその店での最後の筆で、間もなく「京楽」は閉店した。当時の夫人古川丁末子さんや、その後の夫人松子さんを同伴しているのもよく見かけたし、近藤浩一路画伯や宇野浩二さんなどの姿もみたことがあった。……」。

 上記に書かれている寿橋を渡った左側にあった「神戸新聞中央販売所」は既に無くなっていました。昭和30年代の地図で新聞販売店の場所を確認しました。谷崎潤一郎が通ったのは昭和6年末から昭和8年頃までの短い期間だったのではないかとおもいます。住所は西宮市与古道町6番地、六湛寺川に架かる寿橋の南になります。それにしても”ヒリョウズ(飛竜頭)”は面白いですね。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


「細雪」 西宮地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
昭和6年 1931 満州事変 45 11月 武庫郡大社村森具字北蓮毛847根津別荘別棟に滞在
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版


「夙川バス停留所」
夙川バス停留所>
村上春樹の小説でもたびたび登場している「夙川」ですが、谷崎潤一郎の「細雪」でも登場します。順番は谷崎潤一郎の方が先ですね。村上春樹は谷崎潤一郎の「細雪」を読んだと何処かで読みましたが、「細雪」のきめ細かい風景描写手法を使っています。
「…はじめ幸子は、妙子と奥畑との最近のいきさつを雪子にも誰にも話さずにいたが、或る日又二人が散歩して夙川から香櫨園へ行く途中阪神国道を横切ろうとすると、通りかかった阪国バスから雪子が降りて来て運悪く出遇ってしまったと云うことを、雪子は黙っていたけれども、そのことがあって半月も過ぎた時分に妙子から聞いた。…」

 阪急夙川駅から阪神香櫨園駅までの夙川はデートコースとしては昔から有名だったのでしょう。奥畑の家を夙川の近くに位置させて、上手に使っています。

左上の写真は現在の阪神バスと阪急バスの夙川停留所です(右側が阪急バス国道夙川停留所)。この停留所の西側に夙川に架かった夙川橋があります(昔は上夙川橋と呼ばれていました)。夙川は桜並木で有名なので、再度桜の季節に撮影します。

「西宮病院前バス停留所」
札場筋バス停留所?>
「細雪」の中には国道を走る阪神バスの停留所が数多く書かれています。
「…お春の云うところに依ると、彼女は先月の下旬に、尼崎の父が痔の手術で西宮の某肛門病院に入院した時、二週間ばかり暇を貰って父に附き添っていたのであったが、その間大概日に一遍は食事や何かを運ぶために尼崎の家と病院とを往復した。病院は西宮の恵比須神社の近くにあったので、いつも彼女は国道の札場筋から尼崎までバスに乗って行ったが、その往復の道で三度奥畑に遊遺した。一度は彼女が乗ろうとするバスから降りて来て擦れ違い、二度は停留場でバスを待つ間に出遇ったのであったが、奥畑は彼女と反対の方向、神戸行きにばかり乗って、野田行きに乗ったことは一度もなかった。…」

 ここでは札場筋のパス停留所が書かれていますが、
・西宮の恵比寿神社(西宮神社)の近く
・マンボウの直ぐ傍
を考慮し、上記の地図を見ると、西宮戎のバス停留所ではないかと考えています。札場筋のバス停留所では遠すぎます。意識して違う場所のバス停留所を書いたのか、単純に間違えたのかは分かりません。昭和13年頃のバス路線を調べてみる必要があります。

左上の写真は札場筋のバス停留所です(現在は”西宮病院前”の名称に変わっていました)。正面の交差点は国道二号線と国道171号線(西国街道)の交わる札場筋交差点です。

「マンボウ」
マンボウ>
「細雪」で有名になった”マンボウ”です。「細雪」の中に詳細な解説が書かれていました。
「…バスを待つのに、彼女は国道を南から北へ横切って、山側の停留場に立つのであるが、奥畑は、その山側の停留場のうしろの方のマンボウから出て来て、国道を北から南へ横切って、浜側の停留場に立つのであった。(お春はマンボウと云う言葉を使ったが、これは現在関西の一部の人の間にしか通用しない古い方言である。意味はトンネルの短いようなものを指すので、今のガードなどと云う語がこれに当て敢まる。もと和蘭陀語のマンプウから出たのだそうで、左様に発音する人もあるが、京阪地方では一般に託って、お寺が云ったように云う。阪神国道の西宮市札場筋附近の北側には、省線電車と鉄道の堤防が東西に走っており、その堤防に、ガードと云うよりは小さい穴のような、人が辛うじて立って歩けるくらいな障道が一本穿ってあって、それがちょうどそのバスの停留場の所へ出るようになっている)…」。
 ここにも阪神国道の西宮市札場筋近くにマンボウがあると書かれています。解説ですからやっぱり勘違いしたのではないかとおもいます(札場筋の近くにはマンボウはありません)。

左上の写真は西宮戎パス停留所近くにあるマンボウです(JR線路南側から撮影)。北側から撮影した写真も掲載しておきます。こちらの方が、形態がよく分かります。

「一本松」
一本松>
 「細雪」下巻で登場する奥畑の家がマンボウを北側に越えた一本松のところにありました。
「…向う側に立っていた奥畑が何と思ったか線路を越えてノコノコ傍へやって来て、お春どん、よう君に遇いまんなあ、何ぞこの辺に用事でもありまんのんかと、声をかけたので、実はこれこれでございましてと、暫く立ち話をした。奥畑はひとりニコニコして、そうだっか、この近所に来てなさるのんか、そんなら一遍僕所へ遊びに来給え、僕所はあのガードを越えた直きそこです、── と云いながら、そのマンボウの入口を指して、── 君、一本松知ってなさるやろ、僕所はあの一本松の傍やよってに、直き分ります、是非やって来給え、と云って、まだ何か話したそうにしていたが、そこへ野田行きのバスが来たので、失礼いたしますと云って、お春はそれに乗ってしまった。…」
 一本松は本当にあるのかとおもったら、ありました。有名な一本松でした。

右上の写真は西宮市常磐町の一本松です。道からはみ出していました。正面から見た写真も掲載しておきます。横の石柱には「一本松地蔵尊」と「武庫郡と菟原(うはら)郡の郡界伝説の碑」があります。「…西宮の一本松の傍に家があると云われたのが意外だったので、或る日、あのマンボウを通り抜けて、一本松の所まで行って見たら、成る程ほんとうにお宅があった。前が低い生垣になっている、赤瓦に白壁の文化住宅式の小さな二階家で、ただ「奥畑」とだけ記した表札が上っていたが、表札の木が新しかったのを見ると、極く最近に移って来られたのであろう。自分が行ったのは夕方の六時半過ぎ、大分暗くなってからであったが、二階の窓がすっかり開け放してあって、白いレースのカーテンの中に明るい電燈が燈っており、蓄音器が鳴っていたので、暫く立ち止まって様子を窺うと、たしかにあのお方ともう一人、── 女の方らしい人の声がしたけれども、レコードの音に妨げられてはっきりとは聞き取れなかった。…」。この辺りは戦前からの住宅街で、現在も生垣に囲まれた家がありました。

「西宮病院」
<国道筋にある木村病院>
妙子は奥畑の家で病気になり、国道筋にある木村病院に入院します。
「…国道筋にある木村病院、あそこには隔離室の設備があるから、彼処へ入院なさるように話して上げよう、と云うので、そうすることに極まりかけたが、たまたま勝手口へ来た出入りの八百屋が、あの病院は止した方がよいとお春にロをすべらしたので、近所で聞いて見ると、なるほど余り評判がよくない。何でも院長は耳が遠くて、聴診が十分に出来ず、よく誤診をする。阪大出身であるが、学校時代は成績が悪く、博士論文も或る同級生に書いて貰ったとやらで、その同級生も今はこの近くに開業していて、あれは僕が書いてやったのだと、云っていると云う。お春はそのことを奥畑に告げたので、奥畑も不安になって他の病院を当って見たが、隔離室の設備のあるのがこの近所には外にない。…」
 奥畑の家から近い国道筋にある木村病院ですから、国道二号線沿いにある病院と分かります。札場筋の近くに県立西宮病院があり、この病院は昭和11年に設立されていますから、推定ですが、木村病院は現在の西宮病院ではないかとおもいます(あくまで推定です)。

左上の写真は札場筋交差点です。右側の大きな建物が県立西宮病院です。西宮病院のホームページに”昭和11年1月、現在地で兵庫県立西宮懐仁病院として発足”と書かれていました。

「阪神御影駅」
阪神の御影にある蒲原病院>
「細雪」ではバス停留所もたくさん登場しますが、病院もたくさん登場しています。妙子は西宮病院から阪神御影駅近くの知り合いの蒲原病院に転院します。
「…蒲原病院と云うのは、阪神の御影町にある外科の病院なのであったが、そこの院長の蒲原博士は、阪大の学生時代から船場の店や上本町の宅に出入りして、蒔同家の姉妹たちとは娘の頃からの馴梁なのであった。それと云うのが、亡くなった父が、当時秀才と云う評判のあった蒲原が学費に窮していることを聞き、人を介して援助の手をさし伸べたのが始まりで、父は蒲原が独逸へ留学する時にも、帰朝して今の病院を開業する時にも、費用の一部を負担したことがあった。蒲原は一種名人肌の外科医で、手術にかけては大なる自信があっただけに、病院は忽ち繁昌するようになり、数年ならずして蒔同家から補助して貰った金の全額を、耳を揃えて一時に返却して来車が、その後も蒔岡家の家族や船場の店の店員たちが治療を受けに行くと、治療代を法外に割引して、何と云ってもそれ以上は受け取らなかった。…」
 この病院は実在するか調べたのですが、御影駅ちかくにあるT外科病院ではないかと推定しました(直接の写真は控えさせていただきました)。外科病院で自宅と繋がっていて、戦前からの病院が条件となっていましたので調べたのですが、詳細は不明でした。

左上の写真は阪神御影駅です。駅前が区画整理され、大きいな建物が建設中でした。「…新国道の柳の川の停留場へ出て、いつものようにそこから電車へ乗ろうとすると、折よく芦屋川の顔見知りの運転手が、神戸の方から空のタキシーを飛ばして来たので、ちょっと! 帰りやったら乗せて行ってんかと、往来の此方側から声をかけて自分の傍へ車を着けさせ、わざわざ廻り道をさせて芦屋の家の曲り角まで運んで貰った。…」。女中のお春さんが蒲原病院から芦屋に帰るときの情景です。新国道とは国道二号線のことで、阪神国道線が走っていたころのお話です。柳の川駅は中御影駅と駅名が変わっていました。現在の御影中交差点のところです。