●谷崎潤一郎の「細雪」を歩く 芦屋編
    初版2008年3月9日
    二版2008年3月20日 <V01L02> 昭和初期の阪急芦屋川駅の写真を追加

 今週は「大岡昇平を歩く」をお休みして、谷崎潤一郎の「細雪」を歩いてみました。この「細雪」には仏蘭西系の企業であるMB化学工業会社が雪子のお見合い相手の会社として出てきます。大岡昇平との関係はどうなのでしょうか。


「細雪の記念碑」
「細雪」の記念碑>
 谷崎潤一郎の「細雪」は過去に何回か読んでいるのですが、改めて読み直すと、風俗小説そのものと感じます(下巻の最後に磯田光一が書いていますが)。一種の観光案内ではないかとも思います。登場場所の中心は阪神間ですが、、大阪、京都、東京の固有名詞がたくさん登場しています(それもお店の名前)。
「「こいさん、頼むわ。 ── 」
鏡の中で、廊下からうしろへ這入って来た妙子を見ると、自分で襟を塗りかけていた刷毛を渡して、其方は見ずに、眼の前に映っている長襦袢姿の、抜き衣紋の顔を他人の顔のように見据えながら、「雪子ちゃん下で何してる」と、幸子はきいた。
「悦ちゃんのピアノ見たげてるらしい」
 ── なるほど、階下で練習曲の音がしているのは、雪子が先に身支度をしてしまったところで悦子に掴まって、稽古を見てやっているのであろう。悦子は母が外出する時でも雪子さえ家にいてくれれば大人しく留守番をする児であるのに、今日は母と雪子と妙子と、三人が揃って出かけると云うので少し機嫌が悪いのであるが、二時に始まる演奏会が済みさえしたら雪子だけ一と足先に、夕飯までには帰って来て上げると云うことでどうやら納得はしているのであった。
「なあ、こいさん、雪子ちゃんの話、又一つあるねんで」
「そう、── 」
姉の襟首から両肩へかけて、妙子は鮮かな刷毛目をつけてお白粉を引いていた。決して猫背ではないのであるが、
肉づきがよいので堆く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える。…」
 「細雪」の書き出しです。四人姉妹のお話なのですが、雪子のお見合いの話から小説は進展していきます。「細雪」は大阪船場の古いのれんを誇る蒔岡家(まきおか)の四姉妹(鶴子、幸子、雪子、妙子)をめぐる物語で、鶴子(養子を貰って本家を継ぐ)と幸子(養子を貰って分家)はすでに結婚してしているで、芦屋に住んでいる幸子の家に同居している雪子、妙子が物語の中心になって話が進んでいきます。特に昭和10年代の関西の上流社会の生活のありさま(お見合いや男女関係等)を、特に高級住宅街の芦屋を取り上げて表現しています。”肉づきがよいので堆く盛り上っている幸子の肩から背の、濡れた肌の表面へ秋晴れの明りがさしている色つやは、三十を過ぎた人のようでもなく張りきって見える”等は谷崎流のエロティシズムというか、なにかいいですね!!

「帝国酸素本社跡(昭和13年)」
左上の写真は「細雪」の記念碑です。阪急芦屋川駅の山側、芦屋川を渡ったところにあります。

右の写真は昭和13年当時の帝国酸素株式会社本社です。現在の神戸大丸の裏になります。大岡昇平が帝国酸素株式会社に入社したのは昭和13年10月末ですから、7月の阪神大水害の後になります。谷崎潤一郎と大岡昇平の関係はどうなのでしょうか。下記に仏蘭西系ガス会社、帝国酸素株式会社(MB化学工業)が書かれていました。
「…「井谷さんが持って来やはった話やねんけどな、!」
「そう、 ── 」
「サラリーマンやねん、MB化学工業会社の社員やて。!」
「なんばぐらいもろてるのん」
「月給が百七八十円、ボーナス入れて二百五十円ぐらいになるねん」
「MB化学工業云うたら、仏蘭西系の会社やねんなあ」
「そうやわ。── よう知ってるなあ、こいさん」
「知ってるわ、そんなこと」
一番年下の妙子は、二人の姉のどちらよりもそう云うことには明るかった。そして案外世間を知らない姉達を、そう云う点ではいくらか甘く見てもいて、まるで自分が年嵩のような口のきき方をするのである。
「そんな会社の名、私は聞いたことあれへなんだ。── 本店は巴里にあって、大資本の会社やねんてなあ」
「日本にかて、神戸の海岸通に大きなビルディングあるやないか」
「そうやて。そこに勤めてはるねんて」
「その人、仏蘭西語出来はるのん」
「ふん、大阪外語の仏語科出て、巴里にもちょっとぐらい行てはったことあるねん。会社の外に夜学校の仏蘭西語の教節してはって、その月給が百円ぐらいあって、両方で三百五十円はあるのやて」
「財産は」…」。

 ひょっとしたら、MB化学工業のお見合い相手は大岡昇平をイメージしたものでは!!(大岡昇平全集では神戸での谷崎潤一郎との関係については一切書かれていませんでした)考えすぎかも!!

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)


「細雪」 芦屋地図



谷崎潤一郎の「細雪」年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
昭和13年 1938 関門海底トンネルが貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
52 7月3日〜5日 阪神大水害
昭和18年 1943 ガダルカナル島撤退 57 1月 中央公論に「細雪」の連載開始
6月 掲載禁止となる
11月 兵庫県武庫郡魚崎町魚崎728-37に転居
昭和19年 1944 マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
58 7月 「細雪」上巻を自費出版
12月「細雪」中巻を脱稿したが出版できず
昭和21年 1946 日本国憲法公布 60 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル、中塚せい方に転居
6月 「細雪」上巻を中央公論社より出版
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和22年 1947 織田作之助死去
中華人民共和国成立
61 2月 「細雪」中巻を中央公論社より出版
3月 婦人公論に「細雪」下巻を掲載開始(10月完)
昭和23年 1948 太宰治自殺 62 12月 「細雪」下巻を中央公論社より出版


「阪急芦屋川駅」
阪急芦屋川駅>   2008年3月20日 写真を追加
 「細雪」に登場する駅です。芦屋には山側から阪急芦屋川駅、JR芦屋駅、阪神芦屋駅と三駅ありますが、幸子の家から一番近い駅は阪急芦屋川駅になります。
「…幸子の家から芦屋川の停留所までは七八丁と云うところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、又散歩がてらぶらぶら歩いて行くこともあった。…… 折柄の快晴の秋の日に、その三人が揃って自動車からこぼれ出て阪急のフォームを駈け上るところを、居合す人々は皆振り返って眼を歌てた。日曜の午後のことなので、神戸行の電車の中はガランとしていたが、姉妹の順に三人が並んで席に就いた時、雪子は自分の真向うに腰かけている中学生が、含羞みながら傭向いた途端に、見る見る顔を真っ報にして燃えるように上気して行くのに心づいた。…」

 この駅は芦屋川の川の上に駅があります。この駅の山側の道は水道路となります。

「昭和初期の阪急芦屋川駅」
左上の写真は現在の阪急芦屋川駅です。

右の写真は昭和初期の阪急芦屋駅です(「芦屋今むかし」より)。踏切があって道路とは立体交差になっていません。タクシー乗り場がある反対側からの写真も掲載しておきます。阪神間は山から海までの距離が短く、川の流れが急で、芦屋川駅から少し下ると「細雪」によく出てきます阪神国道の業平橋があります。阪急芦屋川駅は大正9年7月に開通した阪神急行電鉄神戸本線(梅田−上筒井間)の芦屋川停留所が前身です。阪急電車の正式名称は「阪急電鉄株式会社」。1906年に設立された箕面有馬電気鉄道が前身で、神戸線は1920年から、京都線は1925年(新京阪鉄道)から営業を開始しています。電車の色がマルーンカラーで、この色がなんともいえず阪神間の上品な町並みを現している様で、私個人的にも大好きな色です。

「水道路」
水道路と櫛田医院>
 阪急芦屋川駅山側の道が水道路です。この水道路に櫛田医院のモデルとなった重信医院があります。
「…この三人の姉妹が、たまたま天気の好い日などに、土地の人が水道路と呼んでいる、阪急の線路に並行した山側の路を、余所行きの衣裳を着飾って連れ立って歩いて行く姿は、さすがに人の目を惹かずにはいなかったので、あのあたりの町家の人々は、皆よくこの三人の顔を見覚えていて噂し合ったものであったが、それでも三人のほんとうの歳を知っている者は少かったであろう。…… 診て貰う程でもあるまいと思って櫛田医師に電話で相談して、アグリンを一箇寝しなに飲ますようにしてみたが、一箇ではなかなか利いて来ないし、量を殖やすと利き過ぎて寝坊をする。…」

 水道路は大阪から神戸に水道水を送るために送水管を埋設した上に道を作ったので、水道路と呼ばれているようです。大正15年の地図で確認してみてください。

左上の写真が水道路です。写真右側に重信医院(櫛田医院のモデル)があります。阪急芦屋川駅のすぐ近くです。

「津知のバス停留所」
津知のバス停留所>
 このバス停留所から妙子は本山の洋裁学校に通います。
「…彼女が洋裁学院へ行く時は、国道の津知まで歩いて出て、そこからバスで行くのであるが、そう云えばさっきお宅のこいさんが国道の方へ下りて行かはるのと、僕そこで擦れ違いました、青いレインコート着たはりましたな、あの時刻に出かけはったんやったら、向うへ着かはってから間もなく水が出たぐらいやったかも知れません、小学校よりも野寄の方がずっと心配でっせと、運転手も云うのである。 …」。
 この文章は「細雪」の中巻に書かれています。妙子が洋裁学校に通う通学路から幸子の家を探してみます。

左の写真は津知の阪神バス停留所です。国道2号線にあり、芦屋川の業平橋からは西に500m弱の距離となります。


「業平橋」
業平橋>
 芦屋川に架かる国道2号線の橋が業平橋です。
「…今日はそう云う大雨なので、学校まで悦子を送り届けて置いて、帰って来たのは八時半頃であっただろうか。途中彼女は、余り降り方が物凄いのと、自警団の青年などが水の警戒に駈け歩いているので、廻り道をして芦屋川の堤防の上へ出、水量の増した川の様子を見て戻って来て、業平橋の辺は大変でございます、水が恐ろしい勢でもうすぐ橋に着きそうに流れておりますなどと語っていたが、それでもまだそんな大事に至ろうとは予想すべくもなかった。…」
 国道43号線(戦後です)が整備されるまでは、この国道2号線が阪神間の中心となる国道でした。もっと昔には、阪神間の国道は阪神電車より南を通る西国街道・浜街道でした(国道43号線の基になった)。大正15年の地図でを参照してください。

右上の写真は芦屋川に架かる業平橋です。この業平橋は大正14年に完成していますから、谷崎潤一郎が渡った橋もこの橋だったわけです。

「小学校」
<悦子の小学校>
 悦子の通っている小学校は、阪神電車より南、芦屋川より西にあると「細雪」中巻には書かれています。
「…芦屋の家でも、七時前後には先ず悦子が、いつものようにお春に附き添われながら、尤も雨の身掃えだけは十分にしたことだけれども、大して気にも留めないで土砂降りの中を学校へ出かけて行った。悦子の学校は阪神国道を南へ越えて三四丁行ったあたりの、阪神電車の線路よりも又南に当る、芦屋川の西岸に近い所にあって、いつもならお春は国道を無事に向う側へ渡してしまうと、そこで引き返して来ることが多いのであるが、今日はそう云う大雨なので、学校まで悦子を送り届けて置いて、帰って来たのは八時半頃であっただろうか。…」
 実際には、阪神電車より南、芦屋川より西には小学校はありません。阪神電車より南、芦屋川より東に精道小学校があります(地図参照)。阪神大水害で芦屋川が氾濫するため、小学校は芦屋川より西にないと話が繋がらなくなり芦屋川の西に変えたのだとおもわれます。

左上の写真右は阪神電車芦屋駅です。川は芦屋川で、「細雪」では写真の左側に小学校があるわけです。

「清水町6番付近」
幸子の芦屋の家>
 そろそろ幸子の芦屋の家を探してみます。
「…幸子の家から芦屋川の停留所までは七八丁と云うところなので、今日のように急ぐ時は自動車を走らせることもあり、又散歩がてらぶらぶら歩いて行くこともあった。…… 家から半丁ほど北のところで線路へ上った。…」
 ここでは、
・阪急芦屋川駅から七八丁
・家から北へ半丁で国鉄線路
・津知のバス停留所の近く
の3ポイントで、一丁=約110mで場所を探しました。
阪急芦屋川駅からは直線ではなく,道なりに七八丁、国鉄線路よりすこし南へ下がると考えました。すると、芦屋市清水町6番付近と推定しました。ただ、”芦屋川より西に七八丁”とも書かれていて、完璧に場所を特定するのは難しいです。

左上の写真の左側が芦屋市清水町6番付近です。写真正面はJR東海道線の踏切です。この踏切を超えて阪急神戸線のガードを潜って、水道路を阪急芦屋川駅まで歩いていきます。写真の反対側を下りていくと、津知の交差点となります。写真の付近は地震ですっかり面影が変わっているようです。昔の面影が知りたいですね!!!