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最終更新日:2006年2月20日


●日本橋人形町と谷崎潤一郎 2000年5月4日 <V01L04>

 今週は谷崎潤一郎の「幼少時代」に沿って日本橋人形町から茅場町周辺の散歩道をご紹介します。(下記の地図を参照してください)

 『私は多分それが私の四、五歳の時のことであったろうと思う記憶を、二つ、三つ持っている。』は谷崎潤一郎の「幼少時代」の書き出しです。この本は江戸の面影を残す明治中期の東京の下町に生まれ育った著者が、生い立ちから小学校卒業までの時期を描いている回想記です。
 谷崎潤一郎は明治19年(1886)年7月24日東京市日本橋区蛎殻町2-14(現中央区日本橋人形町1-7)の祖父が経営していた谷崎活版印刷所で生れています。「幼少時代」を読んでみますと『ここでちょっと、その活版所の位置と、付近の町の様子とを説明しておく必要があるが、戦争前に、都電が鎧橋の方から来て、水天宮の角を曲がって、人形町通りを小伝馬町の方へ伸びていく左側、・・・つい昨年あたりまで残っていた甘酒屋の向こう側の、清水屋という絵草子屋と瀬戸物屋の角を曲がった右側の、二つ目の角から西へ二軒目のところにその家はあった。この清水屋は今は玩具屋になり、瀬戸物屋は代が変わって「ちとせ」という佃煮屋になり、二階に「玉ひで」が越してきている・・・ 』は活版所の周りを説明していますが、現在は甘酒屋は玉英堂になり、清水屋はスガヤ果物店になっています。「ちとせ」はそのままで、二階の「玉ひで」もそのままです。

<玉ひで>
 親子丼で行列のできるお店で有名な「玉ひで」ですが、操業は、宝暦10年(1760)に山田鐵右衛門が妻「たま」と共に、現在の人形町3丁目に当たる地に屋号を「玉鐵」と称して、軍鶏専門の店を出したのが初めです。四代目善次郎の慶応元年(1865)には、たべもの店番付けの「花長者」に、「イツミ丁 玉鉄 あいかも しゃも」(後の町名地番制定により新和泉町7番地=現在人形町3-11-1)とあり、当時から人気があるのがわかります。また、明治8年(1875)には、「東京牛肉・しゃも流行見世」の番付に載る有名店として評判を得ています。明治16年(1883)現在の営業地、人形町1-17-10(当時蠣殻町2-14)に蠣殻町『玉鐵』として支店を出し、我が国最初の「親子丼」がお出前として売り出されています。「玉ひで」の屋号は、お客の愛称です。戦時中の強制疎開などにより、営業を中止していましたが、昭和24年に仮店舗で営業を再開致しています。当時の模様は、谷崎潤一郎の「ふるさと」に、『向う角の瀬戸物屋だった店が佃煮屋になっている。鳥屋の玉ひでがそこの二階で営業していると聞いていたが、今はその角を西へ曲って、大体昔の位置に近い所に引っ越している……いまもある玉ひでは私の家から東へ1,2軒目の所にあって、おいしいかしわ屋だったので食べに行ったことはないが始終取り寄せて食べた……。』と書かれています。ならぶ価値のあるお店の一つだと思います。親子丼は絶品ですね!!

<水天宮>
 江戸時代の水天宮は、久留米藩主有馬頼徳の上尾敷(現在の港区赤羽)にあり毎月5日、江戸庶民に開放していたそうです。明治時代に有馬家が青山に移ると一緒に青山へ移転したそうですが明治5年、現在の地に移ってきています。水天宮は天御中主神・安徳天皇・建礼門院らを祀り、創建当初から安産と水難除けにご利益があると庶民から信仰され、毎月5日の戌の日は安産を願う妊婦たちの参拝で賑わっていました。東京空襲で社殿を焼失、現在の鉄筋コンクリートの社殿は昭和42年に再建されています。昔は、妊婦らがこの社殿の鈴乃緒(鈴を鳴ら時す時の紐)を頂いて帰り、腹帯をして安産を願ったといわれていますが、今は社殿の前にマタニティー・コルセットを売るお店があり、皆さんそこで購入されています。

<茅場町日枝神社>
 谷崎一家は潤一郎5歳の時(明治24年)南茅場町に移っています。一度伯父久兵衛の所に戻りましたが、すぐにまた南茅場町に戻っています。潤一郎はここで阪本小学校時代をすごしました。そのときに遊び場となったのが茅場町の日枝神社です。「幼少時代」には『…地内には、南から数えて、天満宮、翁稲荷、浅間神社、神楽堂、日枝神社、薬師堂、閻魔堂、太子堂などがあって、ちょっとした小公園ぐらいの広さがあり、今の兜町、当時の坂本町の… 』とあります。現在は当時の面影は全くありませんが日枝神社、明徳稲荷、薬師堂が残っています。ビルの谷間の中にある神社ですので一度訪問してください。

人形町から茅場町付近地図

<谷崎潤一郎1886〜1965>
 東京市日本橘区蠣殻町2-14に生まれた。阪本小学校卒、伯父の援助により府立第一中学へ進学した潤一郎は、成績優秀だったが、家計の苦しさから住み込みの家庭教師をしながらの日々を送った。一高、東大に進んだが、授業料未納で大学を中退した谷崎は、『誕生』、『刺青』など次々と作品を発表する。明治44年「三田文学」11月号で、永井荷風が潤一郎の作品をとりあげて激賞し、これをきっかけに潤一郎は文壇に華々しくデビューする。大正4年春、石川千代と結婚。大正12年、潤一郎は関東大震災にあう。、以後、関西に定佳することになる。昭和5年、潤一郎は妻千代と離婚し、千代は佐藤春夫と結婚した。翌年、古川丁未子と電撃結婚する。『盲目物語』、『武州公秘話』、『聞書抄』など戦国時代に材を取った歴史物もそれぞれ高い評価を受け、さらに『吉野葛』、『蘆刈』、『春琴抄』などの物語文学を完成させた。潤一郎は、後に松子と結婚し、代表作『細雪』を発表する。昭和40年(1965)7月30日、腎不全から心不全を併発し湯河原町の湘碧山房で79年の生涯を閉じた。

【参考文献】

・幼少時代:谷崎潤一郎  岩波文庫
・谷崎潤一郎 東京地図:近藤信行 教育出版
・新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎:新潮社
・ふるさと:谷崎潤一郎 (中央公論 昭和33年6月号)

【見学について】
・水天宮:東京都中央区日本橋蠣殻町2-4-1 03-3666-7195
・茅場町日枝神社:東京都中央区日本橋茅場町1-6 03-3666-3574
・玉ひで:東京都中央区日本橋人形町1-17-10 03-3668-7651 ホームページ

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