●奥山はつ子の京都を歩く
 初版2016年10月1日 
 二版2016年12月21日 <V01L03> 貸座敷「おく山」を追加 暫定版

 暫くぶりで谷崎潤一郎を掲載します。京都 祇園の名妓であった奥山はつ子さんについて、谷崎潤一郎が「京羽二重」の中で書いているのを参考にして少し歩いてみました。奥山はつ子さんについては、書かれた物がほとんど無いため、ごく一部の掲載になります。


「バー アカデミー」
<「京羽二重」 谷崎潤一郎全集、中央公論新社>
 谷崎潤一郎全集が中央公論新社から今現在、発刊中です。17巻発刊され、残りは9巻です。少々お値段が高いのですが、現在購入し続けています。本棚の飾りにならなければ良いのですが!

 「谷崎潤一郎全集 24巻」より「京羽二重」の書き出しです。
「    京羽二重
   をけら火やしらみそめたる東山…
…熱海を立つ前に毎日新聞大阪本社の山口廣一君から電話があって、京都へ来たら是非大阪へ立ち寄って戴きたい、今道頓堀の中座で渋谷天外の一座が台所太平記を出してをり、藤山寛美の初役の女形の「はつ」が盛んに見物を笑はしてゐるから、あれを必ず見てやって下さい、なほこの機会にあなたをお招きして何処かで一席設けたいと本社の人々が云ってゐるから、御迷惑ながらその際はお越しを願ひたい、場所は大阪でなくてもいゝ、京都でも結構ですとの話であった。そんな事情で、先づ中座の観劇を済ませてから一旦都入りをして北白川の家に落ち着き、新聞社の招宴には日を改めて応じることにした。では会場は何処にしますか、大阪にしますか京都にしますかと、重ねて山口君からの電話で、私は即座に京都を希望した。京都は何処? と、山口君が三つ四つ料亭の名を挙げた中で、私は又躊躇するところなく「奥山」を希望した。…」

 この頃の谷崎潤一郎は熱海市伊豆山鳴沢に住み、京都へは春、秋の季節の良いときに訪ね、左京区北白川仕伏町の渡辺家を宿としていたようです。

【京羽二重(きょうはぶたえ)】
京都の西陣で織った羽二重。良質で美しいことで知られており、平織りと呼ばれる経糸(たていと)と緯糸(よこいと)を交互に交差させる織り方で織られた織物の一種。絹を用いた場合は光絹(こうきぬ)とも呼ばれる。通常の平織りが緯糸と同じ太さの経糸1本で織るのに対し、羽二重は経糸を細い2本にして織るため、やわらかく軽く光沢のある布となる。 織機の筬の一羽に経糸を2本通すことからこの名がある。白く風合いがとてもよいことから、和服の裏地として最高級であり、礼装にも用いられる。日本を代表する絹織物であり『絹のよさは羽二重に始まり羽二重に終わる』といわれる。

左上の写真が中央公論新社版の「谷崎潤一郎全集 24巻」で、現在発刊中です。「京羽二重」は昭和38年(1963)8月発行の「新潮」8月号に掲載されています。

「主婦と生活 S44/1」
<「主婦と生活」 昭和44年1月号>
 奥山はつ子さんについて書いた物がないか、いろいろ探したのですが、「主婦と生活」 昭和44年1月号に記事を見つけました。(国会図書館)

 「主婦と生活」 昭和44年1月号より
「華やかにも哀しい
名妓の座に生きて……
                                奥山はつ子
 「やっぱり女の幸せは結婚どす」大正、昭和二代を祇園に生きた奥山はつ子さんは、いま日陰の女の哀しみを秘めたその半生を振り返り、こう語る…
… 彦根藩
 井伊家の血筋
 このお正月で、数えで六十になりますわたしが、おかあちゃんの反対を振りきりまして、祇園町から舞妓はんに出ましたンは、あれはた大正十一年のお雛祭の日・・・・三月三日のことどした。數えで、十三才のときどす。
 当時、わたしの家は、祇園の清本町にございまして、おかあちゃんも芸妓はんでございました。おこがましいことでございますけど、わたしは、彦根藩の井伊家の血筋の子どもとして、井伊奧山因幡守いうお方が、ご先祖さんでございます。三代目あたりから、奥山とだけ名のるようになったいうことどして、いまでも彦根城の美術館にまいりますと、関ヶ原のたたかいのおりの絵巻に、奥山六左衛門いうご先祖さんが、先頭きって駒をすすめてはるお姿が出ています。つまり、おかあちゃんはご一新(明治維新)になって落魄(落ちぶれること)しはった幕臣の妻やったわけどして、しばらくは商いをしたようどすけど、そこはやはり武家の商法どすねえ。それで芸妓になりはって、大正の御大典(今上天皇の即位式)のときに、”おく山”いうお茶屋を出しましたンどす。…」

 ”このお正月で、数えで六十になります”とありますので、「主婦と生活」 昭和44年1月号なので明治43年(1910)の生まれとなります。住まいは”当時、わたしの家は、祇園の清本町”とあり、”「おく山」いうお茶屋”とも書かれているのですが、祇園の清本町は現在も四条通を花見小路通を上がったところにあります。

左上の写真が「主婦と生活」 昭和44年1月号です。目次も掲載しておきます。「主婦と生活」は「主婦と生活社」が昭和21年(1946)5月から出版し、平成5年(1993)3月まで発行していた月刊誌です。

「顔」
<「顔」 丹羽文雄>
 もう一つ、奥山はつ子さん(旅館 おく山)について書かれている本を見つけました。元々は堀辰雄の浄瑠璃寺について調べていた時に見つけた本で、丹羽文雄の「顔」です。名前がそのまま出てくるわけではありませんが、記載内容から、奥山はつ子さんが経営されていた「旅館 おく山」が書かれています。ここでは「旅館 おく山」が「明(あきら)」になっています。

 丹羽文雄の「顔」からです。
「…「岡崎の、あまり知られていない旅館です。友だちに紹介されました。そこは、旅館をはじめたのも最近です。宣伝もしていないので、わずかのひとしか知りません。…
…「友だちの話では、明は二階建で、以前はだれかの別荘だったということです。旅館というよりは、料亭としてつかわれているらしいのです。最近庭に手をいれたので、旅館らしくなったといってました。立派なはなれがあるそうです。風呂もついているはなれですが、十畳とつぎの間というのでは、借りるわけにはいかないでしょう」…
… 岡崎の、一度ぐらいではとてもおぼえられない道を、車でぐるぐるとひきまわされた。距離としては、それほどでもなかったのだが、邸町(やしきまち)の静かな印象が、とおいところへ案内されるようだった。「二タ部屋、用意してもらったろうね」
 旅館「明(あきら)」の玄関で、耕がいった。廊下をいくとき、うちの中はひっそりとしていた。旅館らしい雰囲気ではなかった。案内されたのは、階下であった。「お二階にも、用意してあります」
 耕は衿子に、どちらにきめるかと目顔でたずねた。
「私は、どちらでも結構ですわ」「じゃ、ぼくがここにします。あなたの部屋を拝見しましょう」
 五十年配の女中が、階段をのぼった。年齢をとった女中であったことが、衿子をほっとさせている。しかも、素人素人した女中だった。
 階下とおなじような部屋のつくりであった。つぎの間が、六畳の寝室になっている。そこは二方がガラス障子になっていて、障子をあけると、庭の樹木が廂(ひさし)に接していた。別荘をつくったひとは、その六畳に鏡台をそなえるつもりではなかったであろう。黒塗りの、小さい鏡台が、つつましく隅におかれている。みだれ籠や、ちり籠も、凝った建具にふさわしく、渋いものでそろえられていた。押入が観音びらきの襖でつくられているのは、旅館にするための造作であろう。その部屋からも、廊下にでられるようになっていた。耕は、廂にみじかいすだれがさがっているのを、めずらしそうに見あげた。夏のすだれのようであった。そのすだれも、雨風にうたれて、色がわりしている。建物全体が、四、五十年ぐらいは経過しているだろう。耕は、居間の方の縁側の籐椅子にかけた。別荘時代からつかわれていた椅子らしく、相当に古びていて、形も古風である。…
… そこへ、おかみがあいさつにあらわれた。外出をしていて、出むかえができなかったとわび、要領よくひきあげていった。六十をこえているおかみである。
「何ものとみますか」と、耕がさつそくいった。
「この旅館にふさわしい方と思いますわ」
「しろうとじゃないですね」「そうですかしら。こういう商売をしてますと、自然とああいう風になるのではありませんか」…」

 「旅館 おく山」の旅館の作りがよく分かります。上記に書かれている”おかみ”が奥山はつ子さんです。残念ながらこのおかみについて詳細には書かれていませんでした。

左上の写真が新潮文庫版 丹羽文雄の「顔」です。この小説は昭和34年1月1日から毎日新聞に連載された新聞小説です。文庫本は昭和38年に発刊されています。

「祇園切通シ 富永町上」
<御茶屋「おく山」>
 2016年12月21日 追加、2022年5月24日 修正
 奥山はつ子さんの実家である御茶屋「おく山」について少し調べて見ました。戦前のことでもあり、調べるのが難しいのですが、まず電話番号簿でしらべてみました。昭和9年の職業別で探すと、”奥山たみ 祇園切通シ 富永町上”とありました。「主婦と生活」昭和44年1月号では清本町とあり、祇園切通シ(「いづう」がある通りで、四条通から巽橋まで僅か180m)の鯖姿寿司で有名な「いづう」がある区画の右側が清本町となります。

 「主婦と生活」 昭和44年1月号より。
「… このお正月で、数えで六十になりますわたしが、おかあちゃんの反対を振りきりまして、祇園町から舞妓はんに出ましたンは、あれはた大正十一年のお雛祭の日・・・・三月三日のことどした。數えで、十三才のときどす。
 当時、わたしの家は、祇園の清本町にございまして、おかあちゃんも芸妓はんでございました。おこがましいことでございますけど、わたしは、彦根藩の井伊家の血筋の子どもとLて、井伊奧山因幡守いうお方が、ご先祖さんでございます。三代目あたりから、奥山とだけ名のるようになったいうことどして、いまでも彦根城の美術館にまいりますと、関ヶ原のたたかいのおりの絵巻に、奥山六左衛門いうご先祖さんが、先頭きって駒をすすめてはるお姿が出ています。つまり、おかあちゃんはご一新(明崘維新)になりで落魄(落ちぶれること)しはった幕臣の妻やったわけどして、しばらくは商いをしたようどすけど、そこはやはり武家の商法どすねえ。それで芸妓になりはって、大正の御大典(今上天皇の即位式)のときに、”おく山”いうお茶屋を出しましたンどす。…」。

 大正15年春の都踊写真帖の「祇園新地甲部組合貸座席名簿及び電話番号簿」で「奥山」を確認しましたが住所の記載はありませんでした。同じ写真帖に”初子さん”の記載もありました。

左上の写真のところが”祇園切通シ 富永町上”となります。写真の道が”祇園切通シ”です。大正時代から場所が変っていなければ、正面角から左に二軒目ヤサカビルのところです(教えて頂きました、ありがとうございました)。



奥山はつ子の京都地図 (1)



「旅館「おく山」跡附近」
<旅館「おく山」跡>
 谷崎潤一郎の「京羽二重」や 丹羽文雄の「顔」に書かれている「旅館 おく山」については”左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓”としか書かれていませんでした。詳細の場所を調べようとおもったのですが、丁度この時期に「京都府総合資料館」が引越しのため閉館しており、仕方が無く京都府立図書館でしらべました。住宅地図の古いのが無いため、「京都商工会議所特定商工業者並びに会員名簿」を見たところ、記載がありました。

 谷崎潤一郎の「京羽二重」からです。
「…会場の奥山と云ふのは、昔祇園で名を売った奥山はっ子が八九年前から左京区岡崎の平安神宮の東の方の、法勝寺町の閑静な一廓に開業してゐる料亭の名である。はっ子が祇園第一の美妓、従って又京都を代表する典型的な美人であることは、既に数々の機会に繰り返して述べたことがあるから、諄くは書くまい。嘗て彼女が祇園を去って料理屋兼旅館の女将となったと聞いた時、私はこの上もなくそのことを惜しんだ一人であるが、今日の会場を私かこゝに択んだのは、ひよっとしたら毎日新聞や山口君の顔で、こゝの座敷でなら彼女か得意の地唄舞を舞ふのを見ることが出来ようかと思ったからである。…」。
 「京都商工会議所特定商工業者並びに会員名簿」によると、”株式会社 おく山 奥山初 左、岡崎法勝寺町八三 料理、旅館”とあり、株式会社になっていました。”岡崎法勝寺町八三”はかなり広い場所を示しており、この番地だけでは場所の特定は困難だったのですが、近所の方にお聞きして判明いたしました。

左上の写真が旅館「おく山」跡附近です。住宅街だったので直接の写真は控えさせて頂きました。なんでこんな所に旅館があったのかとおもわせる場所でした。又、株式会社化されており、何方かしっかりした方が付いていたのだとおもわれます。

「潺湲亭跡」
<「前の潺湲亭(せんかんてい)」跡>
  時期が少しずれていますが、岡崎法勝寺町の「おく山」の直ぐ近くに谷崎潤一郎が住んでいた時がありました。

 谷崎潤一郎の「京羽二重」からです。
「…はっ子が法勝寺町に「奥山」の店を持つだのは昭和三十年の三月の由であるが、私も昔ついあの近くに二三年住んだことがあった。それは昭和二十一年から二十四年の四月頃までの、足かけ四年間ぐらゐであるから、彼女がまだ祇園に出てゐた時代である。場所は岡崎ではなく、あれから白川の細い流れを越えた南禅寺の下河原町で、川は私の家の庭の端を通り、書斎の窓の下を淙々と音をたてゝ流れてゐた。「潺湲亭」の号は最初その家に名づげたのであったが、私の跡を引き継いだ人が今もそのまゝ住んでゐる。川を一つ隔てた向う河岸が法勝寺町で、現在も私か彼処に住んでゐるとしたら、あの書斎からはっ子の料亭の屋根が見えるかも知れず、声をかげれば聞えるかも知れず、私に取ってはまことに懐しい土地である。ことしは生憎五月の初めから長雨っゞきで、楽しみにしてゐた当日も朝からじめくと降ってゐだが、しかし折角のことであるから、私は背広服を止めて、前田青邨画伯から贈られた、取って置きの「ちた和」の微塵の対の結城紬を着、去年の秋から北白川の家に預けっぱなしにして置いた茶の古ぼけたインバネスを、雨除け代りに羽織って出かげる。今時こんな時代物のインバネスなどを着る者はめったにないが、陽気外れのこんな季節にはこれが結構役に立つ。せいぜいめかし込んだ妻は、可哀さうに夏のコートしか用意かないので、自動車を降りて番傘に護られながら玄関へ辿り着くまでが大騒ぎである。…」。
 谷崎潤一郎が住んでいたのは左京区南禅寺下河原町52(前の潺湲亭)ですから、直線で100m程の距離になります。下記の地図を参照してください。

左上の写真の正面附近が左京区南禅寺下河原町52です。家は建て直されていますので、昔の面影はありません。残念です。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
 明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)



奥山はつ子の京都地図 (2)



谷崎潤一郎、奥山はつ子の年表(年齢は満年齢)
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎、奥山はつ子の足跡
明治43年 1910 日韓併合 1 奥山はつ子(初)生まれる
昭和20年 1945 ソ連参戦
ポツダム宣言受諾
36 5月 岡山県津山市小田中八子 松平別邸に疎開
7月 岡山県真庭郡勝山町新町に疎開
昭和21年 1946 日本国憲法公布 37 3月 京都、下河原の旅館、喜志元に滞在
5月 京都市上京区寺町通今出川上ル5丁目鶴山町3番地の1、中塚せい方に転居
11月 京都市左京区南禅寺下河原町52「前の潺湲亭」に転居
昭和24年 1949 湯川秀樹ノーベル物理学賞受賞 40 4月 京都市左京区下鴨泉川町5番地「後の潺湲亭」に転居
昭和25年 1950 朝鮮戦争 41 2月 熱海市仲田805 別荘「先の雪後庵」に転居
昭和29年 1954 スエズ動乱 45 4月 熱海市伊豆山鳴沢1135番地「後の雪後庵」に転居
昭和30年 1955 自由民主党結成 46 3月 岡崎法勝寺町に「おく山」開業
昭和31年 1956 日ソ国交回復 47 京都下鴨の家を売却
左京区北白川仕伏町3番地の渡辺家を宿とする
昭和44年 1969   60 「主婦と生活 S44/1」に掲載



「左京区岩倉花園町附近」
<岩倉> 2022年6月28日 修正
 ネットで調べて見ると、奥山はつ子さんが旅館「おく山」を閉じられたあとに住まわれていたのは、”左京区岩倉花園町”と記載があるので、当時の住宅地図で調べて見ました。時期的には新しいので、左京区岩倉花園町を全て見て、探したところ分かりました。

左の写真は現在の左京区岩倉花園町附近です。現在は個人のお宅ですので、直接の写真は控えさせて頂きました。出町柳から叡山電鉄で鞍馬行に乗り、八幡前で降りて少し歩いたところになります。