
谷崎潤一郎は明治45年4月大毎(大阪毎日新聞)、東日(東京日日)に京阪見物記を連載するという約束で京都を訪ねています。その掲載された新聞を見たのか、噂を聞いたのが分かりませんが当時の文壇では有名な京都帝国大学教授 上田敏が会いたいと言ってきます。
「…ある日、此方へ来てから間もなく、当時京都の帝大に教鞭を取っておられた上田敏先生が私たちに会ってみたいと云っておられるという話を、大毎支局の東野さんから聞いた。東野さんは始終先生の宅へ出入りをしていたものらしく、何かの機会にそんな意向を伺ったのであろう、「是非近いうちに先生の所へ御案内しましょう」と云うのであった。…… とにかく先生のお宅は新建ちの品のいい住宅の並んでいる、閑静な一区域にあって、狭い路の奥の方へ這入って行った記憶がある。私は門の呼び鈴の下に「これをお押し下さい」といぅ意味らしい佛蘭西語が記してあるのを見て、そういう所にも先生一流の好みを感じた。…」。
おそらく、大毎の京都支局長が気を利かせて出会いの場を創ったのだとおもわれます。ところでフランス語で「これをお押しください」とはどう言うのでしょうか。”S'il vous plaît poussez ceci.”ですかね!この後、上田敏の京都での住まいを少し追いかけて見ました。
★左上の写真の右側辺りが谷崎潤一郎と大毎の京都支局長が訪ねた上田敏邸跡です(写真右端の鉄柵は岡崎郵便局です)。
「…京都に来た上田敏は初め三本木の「信欒」といふ放館に居て、翌四十二年六月からは岡崎廣道三六番地に一戸を構へた…」。
これは野田宇太郎の「関西文学散歩」からの引用です。最初は前回に紹介した「信楽」に泊まったのですね。次に転居した先が岡崎広道36番地です。現在の住所で岡崎入江町、岡崎郵便局裏です。番地は当時と変わってないようですが36番地はありませんでした。郵便局の地番に吸収されたようです。