●谷崎潤一郎の京都を歩く -3-
 初版2007年5月26日
 二版2011年11月25日 <V01L01> 瓢亭の朝がゆを追加
 関東大震災以前の「谷崎潤一郎の京都散策」の第二回目です。明治45年4月 新聞に京阪見物記を連載するということで京都を訪ねています。今回は京都帝国大学の教授となっていた上田敏との出会いを中心に掲載します。

「上田敏邸跡」
岡崎廣道三六番地の上田敏邸>
 谷崎潤一郎は明治45年4月大毎(大阪毎日新聞)、東日(東京日日)に京阪見物記を連載するという約束で京都を訪ねています。その掲載された新聞を見たのか、噂を聞いたのが分かりませんが当時の文壇では有名な京都帝国大学教授 上田敏が会いたいと言ってきます。
「…ある日、此方へ来てから間もなく、当時京都の帝大に教鞭を取っておられた上田敏先生が私たちに会ってみたいと云っておられるという話を、大毎支局の東野さんから聞いた。東野さんは始終先生の宅へ出入りをしていたものらしく、何かの機会にそんな意向を伺ったのであろう、「是非近いうちに先生の所へ御案内しましょう」と云うのであった。…… とにかく先生のお宅は新建ちの品のいい住宅の並んでいる、閑静な一区域にあって、狭い路の奥の方へ這入って行った記憶がある。私は門の呼び鈴の下に「これをお押し下さい」といぅ意味らしい佛蘭西語が記してあるのを見て、そういう所にも先生一流の好みを感じた。…」
 おそらく、大毎の京都支局長が気を利かせて出会いの場を創ったのだとおもわれます。ところでフランス語で「これをお押しください」とはどう言うのでしょうか。”S'il vous plaît poussez ceci.”ですかね!この後、上田敏の京都での住まいを少し追いかけて見ました。

左上の写真の右側辺りが谷崎潤一郎と大毎の京都支局長が訪ねた上田敏邸跡です(写真右端の鉄柵は岡崎郵便局です)。
「…京都に来た上田敏は初め三本木の「信欒」といふ放館に居て、翌四十二年六月からは岡崎廣道三六番地に一戸を構へた…」
 これは野田宇太郎の「関西文学散歩」からの引用です。最初は前回に紹介した「信楽」に泊まったのですね。次に転居した先が岡崎広道36番地です。現在の住所で岡崎入江町、岡崎郵便局裏です。番地は当時と変わってないようですが36番地はありませんでした。郵便局の地番に吸収されたようです。

「烏丸の下村別邸跡」
烏丸の下村別邸>
 上田敏は洋行後、京都帝国大学文学部の教授になります。東京帝大の教授にならずに京都に来るわけです。野田宇太郎の「関西文学散歩」によると、
「…詩人上田敏が、約一年間のヨーロッパ留学を路へて京都帝大文学部教授として赴任して来たのはやはり明治四十一年十一月のことである。九日会は若々しい気分の集りではなかったが、ともかくも京都にはその頃一種の文藝的雰囲気が出来てゐたのだ。上田敏氏はそこへ入ってきて、極力沈滞した京都人の心を覚醒しょうとした。努めて我々若い者を激励した。古い傅続と因襲とを無視してVie(生)を掴めと言った。ヴェルハアレンなどを讃んでゐられたのであらう。と無極は書いてゐる。上田敏に封する當時の高級な文学青年の尊敬は強く、その講義がききたいばかりにわざわざ京大を選ぶ学生さへゐた。詩人で英文学者の矢野峰大のやうな人は文学部に入学したが、なかにはフランス文学者の山内義雄のやうに家人の反対で文学部入学が許されず法科を選んでまで上田敏に近づいた人もあった。…」
 上田敏の京都時代の最後に下宿したのがこの烏丸丸太町交差点上ル左側の下村別邸でした。下村氏は「大文字屋下村呉服店」を現在の「大丸百貨店」に発展させた方で有名です。

左上の写真が現存する下村別邸です。所有は「大丸」のようです。右隣に「下村」の表札の掛かった家がありましたのでそちらの方にお住まいではないかとおもいます。

「小林家跡」
下京区下二宮町 小林家>
 上田敏は当初家族をつれてきていたため、岡崎廣道36番に家を借りていましたが、大正4年4月に娘の瑠璃子が東京で就学することになり、夫人と共に東京へ帰し、自分一人だけ下京区下二宮町の家を借りて移っています。こちらも野田宇太郎の「関西文学散歩」を参照すると、
「…この下二宮町の家を法科の学生として訪れた山内義雄が、昭和二十二年の雑誌「四季」第五号に発表した「晩年の上田敏先生」によると それは七条大橋を西へわたり、橋袂から二三軒北へ上った川添ひの、いかにも京都風の作りの家だった。…… この追憶を私は在りし日の上田敏が、まだ京都のその町に住んでゐるやうな気拝を覚えながら讃んだ。…… 時折止んではまた降りつづく雨を冐して、私は山内の文章通りに七条大橋西語から加茂川に平行する下二宮町の「いかにも京都風の作りの家」が古びたままに泣ぶ狭い通りに歩いていった。七条を通ってゐる電車もなかった頃の今から四十年も昔のことで、今の電車通りのあたりにあった家も幾軒か取除かれてゐると言ふから、山内の文章通りにはゆくまいと思ひながらも「橋袂から二三軒北へ上った川添ひ」に當るあたりを、舊家だといふ「かるた」屋など一軒々々目ぼしい家をたづねてみたが、この界隈は昔から大学教授が住んでピアノの鳴るやうな家などなかつたやうだ、と心細い返事ばかりだった。かれこれ一時間もたつたらうか。私はやうやくそれらしい家を川添ひにみつけ出した。それは橋のたもとから七軒目で、水原病院と看板のかかった二階だての、この界隈ではもっとも大きい造りの家であった。。…」
 京都帝国大学からかなり遠い、鴨川縁の七条通りから少し入った家を借りています。なんでこんな遠い家を借りたのでしょうか!

左上の写真は七条大橋西詰、北上ルの二宮町です。上記に書かれていた通りでした。水原病院はありませんでしたが建物は残っていました。七条通りから丁度7軒目、右側でした。

「瓢亭」
瓢亭>
 上田敏は谷崎潤一郎を食事に誘います。場所は京都でも有名な料亭です。
「…春雨のしょぼしょぼと降りしきる日の夕方、上田先生から招待されて、私は長田君と一緒に、南禅寺境内の瓢亭へ俥を走らせた。やがて俥の止まったのは、見すぼらしい焼芋屋のような家の軒先である。大方車夫が蝋燭か草鞋でも買うのだろうと思って居ると、おいでやす、お上りやす、という声が聞えて,幌が取り除けられる。そこが瓢亭の門口であった。地味な木綿の衣類を着た、若い女中に導かれて、雨垂のぽたぽた落ちる母屋の庇に身を俺せかけつつ、裏庭に廻れば、京都の料理屋に有りがちな「入金」式の家の 造り。なるほどここが瓢亭だなと、ようよう合点が行く。雫に濡れた植込みの菓蔭をくぐって、奥まった一棟へ案内されると、もう上田先生が待って居られる。一としきり雨はまた強くなって、数奇を凝らした茶座敷の周囲を十重二十重に包んで、池水を叩き、青苔を洗い、ささやかな庭が濛々とと打ち煙る。筧をめぐる涓滴の音の、腸へ恥み込むような心地好さを味わいながら、さまで熱からぬほどの爛酒をちびりちびりと舌に受ける。…」
 有名な料亭ですから何も書く必要はありませんね。

右上の写真が南禅寺前の瓢亭です。現在はとてもきれいな建物ですが、上記を読むと「焼芋屋」ですから当時はそれほどでもなかったようです。それとも谷崎潤一郎風の厭味な書き方だったのかもしれません。
 
それにしても焼芋屋が料亭とは京都はすごいですね!!

「瓢亭の朝がゆ」
<瓢亭の朝がゆ>
 2011年11月25日 瓢亭の朝がゆを追加
 上田敏と谷崎潤一郎が食したのは夕食ですが、現在の瓢亭の夕食には手が出ないので”朝がゆ”を食してきました。それも、本店は高いので同じ料理で少し低価格になっている別館の朝がゆにしました。別館も予約が必要で、休日はそうとう先まで予約で埋まっているようです。私は平日に予約をしました(朝がゆは午前中で8時から11時です)。平日は直前でも予約が取れるようです。価格は瓢亭のホームページを見て頂ければとおもいます。それなりの価格です。

左の写真が最後に出てくる”朝がゆ”です。コース料理なので、順番に出てくる料理を説明します。
1.まず最初は梅干し入りのお茶です。
2.次は瓢箪型の器に入った料理です。器を開いた写真も掲載しておきます。
3.湯豆腐です。
4.最後に”朝がゆ”です。(”朝がゆ”と香の物、出汁醤油の餡掛けをかけて食べます)
 これで全てです.30分以上かかります。味はやはり京都風で全体的に薄味です。。別館は本館の直ぐ横にあります。座敷ではなく、六人掛けのテーブルに座って食べますので、畳に較べて楽は楽です。

【上田敏(うえだびん)】
旧幕臣の子として明治7年、東京築地に生まれる。第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒。大学院では、たまたま講師を勤めていた小泉八雲に師事し、その才質を認めさせたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)と進む。第一高等学校在学中、北村透谷、島崎藤村らの文学界同人となり、東大在学中、第一期帝国文学の創刊(1895年(明治28年1月))にかかわる。1908年(明治41年)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となる。大正5年、腎臓疾患で急死。享年41。

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

谷崎潤一郎の京都地図



谷崎潤一郎の関西年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
明治44年 1911 辛亥革命 25 7月 東京帝国大学退学
滝田樗陰と初めて遭う、三田文学で永井荷風絶賛
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
26 2月 下京橋区蒟蒻島の「真鶴館」に滞在
4月 京都を訪問
大正2年 1913 島崎藤村、フランスへ出発 27 7月 実家は日本橋箱崎町に転居
大正12年 1923 関東大震災 37 9月 関東大震災に遭う
10月 京都市上京区持統院中町17番地に転居
11月 京都市左京区東山三条下西要法寺に転居
12月 兵庫県六甲苦楽園に転居



「長谷仲跡」
富永町 長谷仲>
 谷崎潤一郎は祇園のお茶屋さんを徘徊しています。「…「日記」を見ると、それから私たちは富永町の「長谷仲」という家へ行ったとある。
「やがて金子さんが『長谷仲』と記した家の格子を開けて、一同を中へ連れ込んだ。細長い土間を一二間行くと、左手が上り梶で、『長町女腹切』の舞台で見たような、抽出しの付いた梯子段がある。天井でも、柱でも、板の間でも、悉く古びて黒光りに光って居る。通されたのは二階の奥の、八畳か十畳ほどの座敷である。まず座布団と脇息が出て、次に燭台が四つ運ばれると、スイッチを拍って電燈を消してしまう。寺の本堂の来迎柱の前に控えたようで、蝋燭のはためくままに、部屋の四壁へ明暗定まりなき影が浮ぶ。何となく西鶴の物語や近松の浄瑠璃本の男女の魂が綿々たる恨みを現代人に囁くような、因襲的な哀愁がじめじめと歓楽の底を流れて来る。松本おこうという老肢が、錆を含んだ搬嗅れた喉で、京の地謡を唄って聞かせる。…」

 当時の祇園のお茶屋さんがよく分かります。

左上の写真は四条通り上ル花見小路入口です。当時の地図を見るとこの路は新橋通りまで一直線の路ではありませんでした(調査不足です)。この写真の付近が富永町なのですが「長谷仲」の詳細な場所は不明です(もう少し時間を下さい)。

「三条万屋跡」
三条万屋>
 この旅館も有名です。夏目漱石も泊まっていますので、そちらでも取り上げて掲載したいとおもいます。
「…私たちはそれからたびたび三条万屋の金子さんの所を訪ねた。(私は、三条小橋の下を高瀬舟が通っていた光景をはっきり想い出す)金子さんの兄さんは有名な岡本橘仙さんであって、この人も金子さんと一緒によく私たちを方々へ引き廻して下すった島原の角屋で遊んだ時も岡本さん兄弟と幹彦君と私と四人連れで、七条から丹波口まで汽車で行ったのを覚えているが、その頃の京都の西の郊外は東の方よりも一層人家が疎らであって、千本通りも四条辺から南は全く片側町であり、西はげんげと菜の花の咲き乱れた野がずっと太秦から嵯峨の方までづづいていた。…」
 万屋の場所は三条小橋西入ルとなります。島原の角屋の写真も掲載しておきます。

右上の写真が三条小橋です。通りが三条通りとなります。写真を拡大すると三条河原町からの写真となります(写真右側に万屋がありました)。右上の写真では万屋の位置は数十メートル先の左側になります。

「祇園の女紅場跡」
祇園の女紅場>
 現在の祇園演舞場です。
「…当時は閑静な原っぱのような所にあの鳥屋が一軒だけ、ぽつんと建っていたように覚えている。開く所によればもとあの辺は建仁寺の地内であったのを、祇園の女紅場が寺から借りるか買うかして、ぽつぽつ色里を彼処へ移すようにしたので、初めは狐や狸などが出たものだと云う。して見ればちょうどあの時分が花見小路の開けかけた時であったかも知れない。まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあって、ただ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあったのを記憶するけれども、その外には女紅場(即ち祇園演舞場、都踊りをやる所)があったぐらいで、あの花見小路から今の東山線の電車の走っているあたりは実に淋しいものであった。…」
 一力の話も出てきますね。万亭とは一力のことです。

左上の写真が祇園演舞場です。当時の地図に演舞場が書かれていました。

次回も引き続いて「谷崎潤一郎の京都を歩く -4-」を掲載します。

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