●谷崎潤一郎の京都を歩く -2-
 初版2007年5月19日 <V02L01> 
 「谷崎潤一郎 散策」で残っていた関東大震災以前の「京都散策」を今回から数回に分けて掲載します。明治44年に東京帝国大学を退学した谷崎潤一郎は明治45年4月 新聞社から京阪見物記を連載するということで京都を訪ねています。その時の訪問記は朱雀日記として書かれています。
三本木の「信楽」>
 谷崎潤一郎は明治45年4月京都を訪ねます。大毎(大阪毎日新聞)、東日(東京日日)に京阪見物記を連載するという約束で、東日から前金を貰って、京都へ出かけたわけです。谷崎潤一郎としては初めての京都訪問となります。

「…私は京都には全く一人も友達がなかったので、着いた明くる日、私より一と足先にこの地へ来て三本木の「信楽」という宿に滞在していた長田幹彦君の所へ飛んで行った。この「信楽」という旅館は今はなくなっているだろうが、女将が与謝野晶子さんの善友であるとかで、そんな縁故から文人の投宿する者が多かったように聞いている。私が訪ねて行った時にも、つい二三日前まで有島生馬君その他白樺の連中が二階に陣取っていたという話であったが、幹彦君の部屋は、階下の離れのようになった川べりの座敷であった。何しろ三本木と云えば昔山陽の山紫水明処があった所で、当時はほとんど京都の郊外に近かったので、下木星町の私の宿から棒で行くのに随分乗りでがあったも のだった。幹彦君のいた座敷からは、加茂川を隔てて東山の三十六峰を窓外に眺めることが出来、朝な朝な川原に千鳥の囁く声が聞けるという場所柄で、恐らくあの辺の都雅な情趣は山陽の住んでいた頃とそう違ってはいなかったであろう。だが幹彦君も私も飲み・たい遊びたい盛りの時代で、そんな景色に感心している風流気などは持ち合わせなかった。…」

 谷崎潤一郎の「青春物語」からです。谷崎潤一郎が京都で初めて泊まった旅館が三本木の「信楽」となるわげです。上記に書かれているように女将が与謝野晶子さんの友人で当時はかなり有名な旅館でした。

左上の写真の右側のマンションの左隣の二階家が「信楽」跡です(鴨川側から撮影しています。建物が当時のままかどうかは分かりませんでした)。左の写真は丸太町橋上から鴨川上流右岸を撮影しています。左側に「信楽」が有ります。

 野田宇太郎の「関西文学散歩」によると
「…信欒を明治時代から経営してゐたのは谷出あいといふ知名人のなかにも知られ明治の有力政治家と深い関係にあつたとも伝えられる女性で、この人は通常お愛様とかおあいさんで人々に親しまれてゐたらしい。歌人与謝野晶子をはじめ上田敏、新村出などの学者文人から、島村抱月、近松秋江、長田幹彦、谷崎潤一郎、安成二郎、その他雑誌「白樺」 の同人たち……と信欒を京の宿とした文学者の名をひろつてゐては限りがないが、まづ、はっきりと信楽のおあいさんの名が文学書に記録されたのは、晶子が明治三十九年(一九〇六年)一月に出版した歌集「舞姫」であらう。その歌集をひらくと 「 ── 西の京三本樹のお愛様にこのひと巻をまゐらせ候 あき」と謝辞が記されてゐる位だから、晶子にとってこの信欒は単に京都のかりそめの宿といふだけではなかったことが判る。きくところでは信欒は堺の駿河屋(晶子の生家) の定宿でもあったらしいが、またおあいさんと晶子とは少女の頃からの知りあひだったといふことである。…」

 すごい旅館ですね。現存していたら私も泊まってみたかったです。
左の写真は東三本木通り側から撮影しています。右端に「ョ山陽山紫水明處」の碑があります。この碑の左側の小道を入ると「ョ山陽山紫水明處」があります。場所的には京都市上京区東三本木通り(中之町)、河原町丸太町交差点を東に鴨川の一つ手前の道を北に上がります。

 野田宇太郎の「関西文学散歩」を参照すると、、「…梶井基次郎の短篇「ある心の風景」にも主人公の喬がこの橋の袂から川原へ下りてゆくところがあったことなど思ひ出しながら、私は橋袂から電車道を少し西に歩いて、北側の三本木にはひつていつた。家竝はすぐに左右二つの通りにわかれて、昔この町が廓町であったことを示してゐる。その川治ひの右側の、ひっそりとした通りを歩いてゆく。高安月郊といふ詩人で戯曲家が住んでゐた町でもあると思ひながら、右側をみるとョ山陽が文政六年(一八二三年)四十四歳の頃から住居としたその家が、格子戸のある門をくぐつた奥にのこつてゐて、表に 「ョ山陽山紫水明處」の碑が建ってゐる。「山紫水明處」 は山陽が文政十一年、そこに別室を造って名づけたものである。私の訪ねる信楽のあとはそれから三軒目に、やはり「山紫水明處」のやうな形で格子戸のある門をくぐつた路地の奥に、家だけは音のままにのこつてゐた。…」

 鴨川側ではなくて、反対側の東三本木通りの方から廻っていますので場所がよく分かります。写真右端の「ョ山陽山紫水明處」の碑から左に三軒目が「信楽」跡になります。三軒目といっても家が繋がっているので注意してください。先のマンションの手前と言った方が分かりやすいです(個人のお宅ですので直接の写真は控えさせていただきました)。
この東三本木通りにはもう一つ有名な建物がありました(右側の写真で中央の記念碑のある駐車場と左側の建物)。少し前までは大和屋旅館、その前は「立命館草創の地」としての清輝楼(記念碑があります)、その前が吉田屋(長州藩の桂小五郎(後の木戸孝允)と吉田屋の芸者、幾松(後の木戸夫人)の逸話で有名)です。京都はすごいですね!!

【谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)】
明治19年7月24日東京市日本橋区蛎殻町(現中央区日本橋人形町)で生まれています。府立第一中学校(現日比谷高校)、旧制第一高等学校卒業、東京帝大国文学科入学。明治43年に、反自然主義文学の気運が盛り上がるなかで小山内薫らと第二次「新思潮」をおこし、「刺青」などを発表、この年授業料滞納で東京帝大を退学になります。明治44年「三田文学」で永井荷風に絶賛され新進作家として世に出ます。大正10年には佐藤春夫との「小田原事件」を起こします。関東大震災後に関西へ移住、関西の伝統をテーマとした「吉野葛」「春琴抄」を世に送りだします。戦時中に「細雪」の執筆を始めますが、軍部により中央公論への掲載を止められます。昭和19年私家版として「細雪」を印刷配布しますがこれも軍部により禁止されます。終戦後、住まいを京都に移し、「細雪」を昭和23年に完成。昭和24年文化勲章を受賞、住まいを温かい熱海に移し「瘋癲老人日記」等を発表します。昭和40年7月30日湯河原の湘碧山房で亡くなります(79歳)

谷崎潤一郎の京都地図

谷崎潤一郎の関西年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 谷崎潤一郎の足跡
明治44年 1911 辛亥革命 25 7月 東京帝国大学退学
滝田樗陰と初めて遭う、三田文学で永井荷風絶賛
明治45年 1912 中華民国成立
タイタニック号沈没
26 2月 下京橋区蒟蒻島の「真鶴館」に滞在
4月 京都を訪問
大正2年 1913 島崎藤村、フランスへ出発 27 7月 実家は日本橋箱崎町に転居
大正12年 1923 関東大震災 37 9月 関東大震災に遭う
10月 京都市上京区持統院中町17番地に転居
11月 京都市左京区東山三条下西要法寺に転居
12月 兵庫県六甲苦楽園に転居

明治四五年の京都駅>
 「夏目漱石の京都」の時も同じでしたが、作家は京都を書くときにはまず京都駅を書きますね。どうしてでしょうか、京都駅は京都への玄関なのでしょう。京都駅は何度か建て直されており、写真の京都駅は明治10年に建設されたされた初期の京都駅です。

「…明治四十五年の四月、私は大毎東日両方の紙上へ京阪見物記を連載するという約束で、東口から金を貰って、京都へ出かけた。いわゆる「朱雀日記」と題するものがこの時の見物記である。…… 明治四十五年と云えばその七月に明治大帝が崩御された年で、もう今日から二十年前だ。私はあの大震災以来関西へ逃げて来て現在では上方の住人になってしまっているが、今にして「朱雀日記」の往時を想うとそぞろに人生の推移の意外なることを嘆ぜざるを得ない。誰かあの当時、二十年の後に自分が関西に居着くようになることを譲想しょうぞ。思えば不思議な因縁であるが、しかし元来好古癖のある私は少青年時代から京阪の地に一種の憧れを抱いていたことは事実である。…… 七条停車場も勿論今の場所ではなく、もっと小さい古めかしい建物だった。…」

 谷崎潤一郎の「青春物語 京阪流連時代のこと」の書き出しです。「朱雀日記」を再度解説しながら京都を紹介しています。12年後、関東大震災の後、谷崎潤一郎は関西に移住します。

左上の写真は明治10年に造られた京都駅です。大正3年に改築されていますが、谷崎潤一郎が下りた京都駅は写真の京都駅になります。現在の京都駅の写真も掲載しておきます。

 「朱雀日記」の書き出しを紹介しておきます。
「…鬱陶しい雨がざあざあと美濃の野山を閉ぢ込めて、恐ろしく蒸し暑い日の午後である。汗掻きの私は、べつとりと脂の濁染んだ顔を窓外に出して、冷かな雫を火照った南頬に受けた。汽車は関ケ原を出てから間もなく近江の国境に這入る。南側の平地には菜の花が一面に咲き乱れて、見渡す限り遠く横いて居る。丁度米澤地方の桑畑のやうに、菜畑は近江の圃一園を埋めて居るかと疑はれる。天気の好い日であったら、黄色い花が、眼の覚めるやうに萌えて輝くであらう。湖水の端の見え出したのは、米原を過ぎてからである。…… 午後二時ごろ、七条停車場に着いて、生れて始めて西京の地を括む。…」

 さすが谷崎潤一郎の文章です。書き出しがすばらしい!!
大阪毎日新聞京都支局>
 大毎(大阪毎日新聞社)から京の見物記を頼まれていましたので、まず最初に大毎の京都支局を訪ねています。

「…宿を取るにも、見物するにも、一向勝手が分らないところから、東京の松内さんに戴いた紹介状を持って、早速大阪毎日支局の春秋さんを訪ねる。名古屋の俥の東京よりも新式で敏捷なのには、大いに江戸ッ児の度胆を抜かれたが、京都の方はさすがに悠長で、ゴム輪とは云え、ピカピカ光った車台などはなかなか見当らない。しかも相箱が今もって盛んに流行すると見える。幅が狭くて、両股の間へ鞄を挟むと足を入れる空地がない。お蔭で私は買いたての足駄の歯を鋏いて、洋傘をどこへか落してしまった。…」

 京都では特に新しい俥(人力車)は必要としないでしょう。土地柄だとおもいます。

右上の写真が大毎の京都支局跡です。当時の建物がそのまま残っていました(現在の住所で三条御幸町通り交差点南東角、昔と住所は変わってなかったようです)。京都ならではです。「…私は俥の幌の間からその狭い烏丸通りの両側に並ぶ家々を、東京では見ることの出来ない紅殻塗りの格子造りの構えを、「これが京都かなあ」と思ってなつかしくも物珍しくも眺めたことだった。三条御幸町の大毎の支局というのは今もその時と同じ所にあるように思うが、支局長の春秋さんという人はその後大阪の本社に移り、…」。よく支局長の名前を覚えていますね。明治時代の烏丸通りや河原通りの写真を入手しましたら掲載します。
現在の万養軒>
 その日のうちに大毎の京都支局長に食事につれて行かれます。食事に祇園の芸者を呼ぶのですからすごいですね。今では考えられません。

「…私は、その日の夕刻この春秋さんに案内されて桝屋町の万養軒という洋食屋へ連れて行かれ、そこで始めて祇園の芸者というものを見せられたのである。「若い方のは、今夜都踊に出るとかで、その支度のままの艶な頭である。まず祇園では十人の指の中へ数えられる一流所の女だそうだが、肌理の細かいのは勿論のこと、鼻筋が通って眼元がばっちりと冴えて唇の薄い、肉附のいい美人である。外の一人は、黒の縞のお召を着た年増で、これはなかなか好く喋る」と、「日記」に書いてあるその若い方の芸者の顔は今もなお眼底に残っていて、ときどき想い出すことがあるけれども、何という名の女であったか「日記」 にそれが洩れているのが残念である。なおまた「日記」によると、この時春秋さんは二人の妓の外に万亭の女将を呼んで紹介してくれたとあるが、これは全く記憶がない。いくら大毎支局長の勢力でも万亭の女将が洋食屋の二階へ呼ばれて来るのは変なようだから、あるいは仲居であったかも知れない。…」

 万養軒(萬養軒)は現在でもお店があります。場所は変わっていますが洋食屋として続いているようです。万亭は夏目漱石の處でも書きましたが、一力のことです。一と力を足すと万となるので万亭と呼ばれたようです。

左上の写真が現在の万養軒(萬養軒)です。祇園の新橋通りにあります。少々お高いので予約していきましょう。谷崎潤一郎が訪ねた明治45年は上記に書かれている通り桝屋町にありましたが、時期は不明ですが四条通りに移っています。祇園に移ったのは最近のようです。桝屋町の場所四条通りの場所の写真を掲載しておきます。
花見小路の「菊水」>
 昼食は万養軒、夕食は菊水です。当時の一流所だったのでしょう。

「…此方へ来てから知り合いになった三条万屋の若主人の金子さん、その他二三人の人々を案内役に誘い出して、最初に花見小路の「菊水」 へ行って晩飯を食った。今ではあの菊水の近所に茶屋や置屋が一杯に建て込んでしまったけれども、当時は閑静な原っぱのような所にあの鳥屋が一軒だけ、ぽつんと建っていたように覚えている。開く所によればもとあの辺は建仁寺の地内であったのを、祇園の女紅場が寺から借りるか買うかして、ぽつぽつ色里を彼処へ移すようにしたので、初めは狐や狸などが出たものだと云う。して見ればちょうどあの時分が花見小路の開けかけた時であったかも知れない。まだ重なお茶屋は大概四条通りの北、新橋方面にあって、ただ万亭が今と同じ所、花見小路の曲り角にあったのを記憶するけれども、その外には女紅場(即ち祇園演舞場、都踊りをやる所)があったぐらいで、あの花見小路から今の東山線の電車の走っているあたりは実に淋しいものであった。…」

 三条万屋については別に紹介します。夏目漱石も泊まった有名な旅館です。

右上の写真の左側に菊水が有りました。当時の地図にお店が掲載されていました。花見小路ではなくて花見小路から少し入った青柳小路にありました。残念ながら現在は無くなっています。

次回も引き続いて「谷崎潤一郎の京都を歩く -3-」を掲載します。