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最終更新日:2006年10月30日


●田中英光の東京を歩く 戦中・戦後編
  初版2005年4月23日 <V01L03>

 今週は「田中英光の東京を歩く 戦中・戦後編」 を掲載します。前回は太宰治の墓の前で自殺したその一日を追ってみましたが、今回は田中英光の戦中・戦後を歩いてみました。


花園町十三番地>
 田中英光は戦後間もなく新宿の武蔵野館前で山崎敬子という女性と偶然出会います。「…桂子と知り合いになった。桂子は、前に同棲していた異国人のおかげで、バラックながら一軒の家を持っていた。私はそこに転がりこんだ形になったのである。桂子も私に幾つかの嘘を吐いていた。年も五つばかり若く言い、学校も女学校を出ているなぞいったが、例えば十二の八倍が幾つになるかの暗算さえできなかった。彼女は貧農の娘、しかも不義の子として生れたのである。幼時、煙草畑の草取りがいかに苦しかったか、一晩中、叱責され、土間に立たされていて、蚊に責められた思い出なぞを私に語ったこともある。男や金のことでも、時々、嘘をついていた。しかし彼女の嘘は、例えば幼女の嘘のようにすぐバレ易く、それだけ、妻の頑固な嘘よりは、私にとって可憐に思われた。妻は、肉体の喜びさえかくし勝ちなのだが、桂子はすべてが開けっぴろげのようで、私には可愛い女だった。そこで私は、桂子と、夜昼なしの愛欲生活を送りながら、カストリ雑誌なぞにしきりに書きはじめた。そうした雑誌の編集者たちと飲みあかす晩も少なくなかった。生活の乱れに筆の荒れるのを感じるようになる。また金だけ送って疎開先におき放しになっている妻子、特に子供たちに良心的呵責も感じるようになる。更に共産党、人民の党と考えていたものを裏切ったと思う、苦痛もある。…」。ここに書かれている桂子とは山崎敬子です。この文は田中英光の「野狐」という文の一節です。戦後間もなくの田中英光の思いをそのまま書いている小説です。

左上の写真は当時山崎敬子が住んでいた新宿区花園町十三番地です。現在は花園公園になっています。当時は山崎敬子所有の土地だったのかはよく分かりません。推測ですが、花園小学校のすぐ傍ですので多分、他人の土地に勝手に家を建てていたのではないかとおもいます(戦後まもなくだったので適当だった?)。現在は同じ場所に三遊亭円朝の記念碑が建てられています。時代の移り変わりがわかりますね!

【田中英光】
大正2年(1913)1月10日東京都赤坂区榎坂町に生まれます。早稲田大学在学中に第10回ロサンゼルスオリンピックのボート日本代表選手として参加しています。在学中に友人たちと始めた同人誌「非望」に『急行列車』、『空吹く風』を発表。『空吹く風』は太宰治に好意的に批評されます。昭和10年、早稲田大学を卒業後横浜ゴムに入社します。昭和15年(1940)、「文学界」に『オリンポスの果実』を発表、池谷賞を受賞し文壇に登場します。昭和23年(1948)6月、太宰治自殺に大きな衝撃を受けます。昭和24年(1949)11月3日、三鷹禅林寺の太宰治の墓前で自殺。(あおぞら文庫を参照)

田中英光の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中英光の足跡

昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
22
3月 早稲田大学卒業
4月 横浜護謨株式会社入社(10年勤める)朝鮮出張所に転勤
昭和17年
1942
ミッドウェー海戦
29
東京転勤
世田谷区北沢1-1147番地横浜ゴムの社宅
横浜ゴム本社工場庶務部文書課報道係主任
昭和19年
1944
マリアナ海戦敗北
東条内閣総辞職
レイテ沖海戦
神風特攻隊出撃
31
9月 家族を静岡県三津浜の旅館富士屋へ疎開
10月 横浜ゴム鶴見寮 神奈川区小安台町35
昭和21年
1946
日本国憲法公布
33
3月 疎開先の静岡県三津浜で共産党に入党、国鉄沼津機関区で活動する
昭和22年
1947
織田作之助死去
中華人民共和国成立
34
3月 共産党を離党
10月 新宿武蔵野館前で山崎敬子と知り合う
<田中英光の東京地図>

横浜護謨株式会社>
 田中英光は早稲田大学を卒業後、横浜護謨株式会社(現在は横浜ゴム株式会社)に入社します。昭和10年ですから戦時体制に入る直前です。入社後すぐに朝鮮に配転されます。この頃から太宰治に傾注していったのですが、なかなか太宰には会えませんでした。また、朝鮮時代に田中英光は結婚します。「…いわば憐憫の情から結婚してしまった私の妻は処女でなかった。しかも、それは自転車に乗ったためだと嘘を吐き、自分の過去を神聖そのもののようにみせようと、いつまでも私に対して冷たかった。私も童貞で、妻と一緒になった訳ではない。けれども私は自分の過去を包みかくさず、彼女に語った。そして、彼女にもそのようにして貰いたかった。だが、妻は、(汚された処女の復讐)を私に対して、行なったのである。私はそれに対して、放蕩をもって対抗していた。…」。やっぱり戦前の人は処女を気にするのでしょうか。男は何時の時代でも純粋ですね。でも女は……!!

左の写真正面が現在の横浜ゴム株式会社本社です。御成門の近くの日比谷通りにあります。写真の交差点を左に曲がると慈恵医大となります

鶴見区平安町>
 昭和17年、田中英光は朝鮮から呼び戻され、横浜護謨本社工場庶務部文書課報道係主任になります。庶務部文書課報道係は横浜ゴム株式会社鶴見工場内にありました。工場の前の通りはゴム通りと呼ばれ横浜護謨株式会社の町となっていたようです。現在は”ヨコハマアイランドガーデン”というマンションニなっていました。”ヨコハマ”という名前が付いているので、何らかの関係があるのでしょう。しかし当時の面影はありません。残っているのは通りの名前がゴム通りだけです。「…戦争が済むと、私は会社を馘になり、子供は四人もあった。インフレはたちまち激しくなり、六千円ほどの退職金は三日ももたなかった。私は昔から文学志望だったけれど、その時は、資本主義社会の邪悪さを身にしみて感じていただけに、新しい正しい世の中を作りたい希望をもって共産党に入っていった。…」。戦前は、出征で社員が減少し、次から次へと進入社員を雇ったのですが、戦後、戦地から続々社員が戻ってくるため、戦時中に雇った社員の首を切ります。

右の写真の左側、辺りに横浜護謨株式会社の鶴見工場がありました。場所的には横浜市鶴見区平安町です。その当時の寮は世田谷区北沢1-1147番地横浜護謨の社宅でした。

安田屋旅館>
 戦争が激化する中で、昭和19年、田中英光は家族を静岡県沼津市三津浜の安田屋旅館へ疎開させいます。疎開中に田中英光は横浜護謨鶴見寮に入ります。安田屋旅館は太宰が「斜陽」を書くために訪ねた旅館で有名です。終戦後、田中英光は大志を抱いて共産党に入党し、国鉄の沼津機関区で闘争に突入しますが、大志と現実のギャップに幻想し、共産党を脱党します。

左の写真が三津浜の安田屋旅館です。あまりに有名なので書くことはありませんね!

芹香院>
 田中英光は山崎敬子と知り合い後、アドルム中毒になります。昭和24年になると山崎敬子と刃傷ざたまで起こし、警察の厄介になりその結果、病院に入院させられます。「…私は前から酒好きで、その酒も強いほうだったが、催眠剤を連用しはじめると、酒だけではまるで酔えなくなった。私は昔のボート選手で六尺、二十貫。それでも一升飲めばいい気持になったのだが、そのうち、焼酎《しょうちゅう》一升飲んでもケロリとしているので、酒と一緒に催眠剤を飲むようになる。また、そのほうが安上りというサモシイ気持もあったのだ。そのおかげで私は、桂子の肉体と催眠剤の中毒患者になった。そのどちらもが一日でもないと、禁断症状がおこり、私は口を利く気力さえない半死半生の病人のようになる。…」。その入院した病院が神奈川県立芹香院です。この病院も間もなく退院し、世田谷区上北沢の松沢病院に再び入院します。まあ、太宰治と同じ経路を辿っていますね!!

右上の写真が神奈川県立芹香院です。JR東戸塚駅と京急上大岡駅の中間辺りにあります。


<田中英光の東京地図 −2−>

【参考文献】
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・田中英光愛と死と:竹内良夫、別所直樹 大光社
・田中英光全集:芳賀書店
・小説 田中英光:北村鱒夫、三一書房
・オリンポスの黄昏:田中光二、集英社文庫
・師 太宰治:田中英光、津軽書房

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