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最終更新日:2006年2月20日


●田中英光の東京を歩く 戦前編
  初版2005年4月30日 <V01L01>

 今週は「田中英光の東京を歩く」の最終回を掲載します。前回は「戦中・戦後編」でしたが、今週は生誕の地から早稲田大学入学までを歩いてみました。


オリンポスの黄昏>
 田中英光の長男、田中光二が父親の田中英光について書いている「オリンポスの黄昏」に沿って今週は歩いてみました。生誕の地の赤坂榎坂町から早稲田大学入学までを掲載します。「…流行作家として急に売れ出したのは、その愛人と刃傷沙汰に及んだスキャンダルのためですから、本人としては大いに不本意だったでしょうが、作家としての絶頂期はほんの二年足らずで、その二年間に玉石とりまぜたおびただしい作品を残して、死にました。死んだのは、昭和二十四年十一月三日。つまり文化の日です。その死に方も尋常ではありません。自殺というのはすべて尋常ではないかもしれませんが、師と仰いでいた同じ無頼派の、代表的な作家とされる津島治氏の、三鷹にある寺の墓前で、アドルムという睡眠薬を多量に服み−−なんと三百錠も−−、手首の動脈を軽便かみそりで切ったのですが、死ぬまでにだいぶ時間がかかりました。… …ここで重要なのは逆行、逆説性、死の観念、自己の敵視、エゴ、自己の動物性、健康な精神、含羞といったキーワードでしょう。これらはすべてわかちがたく結びついている。混沌のなかに投げ込まれた人間の精神状態を示すキーワードでもある。いや、つねに混沌として矛盾に満ちた人間存在そのものを示すキーワードでもあります。いいかえると無頼派作家のひとびとは、そもそも逆説的である人間存在というものにことさら忠実であったひとたちだともいえるでしょうか。そして作家としてはそれに絢爛たる技巧が結びついている。そしてデカタンスな生活を送るには、強い体力、意思力、そして財力が要ることは自明の理です。人間が破滅に陥るためにはそれなりの才能が要るのです。…」。太宰治を見ているとまさに書いている通りですね。私個人としては田中英光に第二の太宰を期待していたのですが、死んでしまったのはショックでした。戦後すぐの無頼派は太宰に始まって、織田作之助、坂口安吾、そして田中英光で終わりです。現代の無頼派なんてもうでないかな!!村上春樹ではあまりに優等生すぎますね!

左上の写真は田中英光の長男、田中光二が書いている「オリンポスの黄昏」の文庫版です。

【田中英光】
大正2年(1913)1月10日東京都赤坂区榎坂町に生まれます。早稲田大学在学中に第10回ロサンゼルスオリンピックのボート日本代表選手として参加しています。在学中に友人たちと始めた同人誌「非望」に『急行列車』、『空吹く風』を発表。『空吹く風』は太宰治に好意的に批評されます。昭和10年、早稲田大学を卒業後横浜ゴムに入社します。昭和15年(1940)、「文学界」に『オリンポスの果実』を発表、池谷賞を受賞し文壇に登場します。昭和23年(1948)6月、太宰治自殺に大きな衝撃を受けます。昭和24年(1949)11月3日、三鷹禅林寺の太宰治の墓前で自殺。(あおぞら文庫を参照)

田中英光の東京年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

田中英光の足跡

大正2年
1913
島崎藤村、フランスへ出発
0
1月 東京市赤坂区榎坂町五番地(現東京都港区)榎坂に生まれる
大正8年
1919
松井須磨子自殺
7
4月 渋谷の加計塚小学校に入学
渋谷村下渋谷一七九六番地に転居
大正9年
1920
国際連盟成立
8
鎌倉の別荘に移る
鎌倉小学校二年に編入
大正14年
1925
治安維持法
日ソ国交回復
13
4月 神奈川県立湘南中学校に入学
昭和5年
1930
ロンドン軍縮会議
18
4月 早稲田第二高等学院に入学
昭和7年
1932
満州国建国
5.15事件
20
4月 早稲田大学政治経済学部に進学
8月 ロサンゼルスオリンピックに漕艇部員として参加
昭和10年
1935
第1回芥川賞、直木賞
22
3月 早稲田大学卒業
4月 横浜ゴム入社(10年勤める)朝鮮出張所に転勤
<田中英光の東京地図>

赤坂区榎坂町五番地>
 田中英光は父親の転居にともなって、赤坂区榎坂町で生まれます。「…三十四歳のときに溜池に移住。この年に、”東京日々新聞”に寄稿した、井伊直弼銅像建設反対論をきっかけに、やはり桜田門の襲撃を維新につながる義挙とみなす同郷の明治の元勲のひとり、田中伯爵の知遇を受けることになります。大正二年に生まれた父の名前、重光の光は、田中伯の光をもらったものです。…」。ここで書かれている三十四歳は田中光二の祖父、田中英光の父親のことです。

左の写真には桜坂と書かれていますが、この坂の上付近が榎坂町付近です。現在の赤坂一丁目、アメリカ大使館の裏手になります。道は昔のままですが赤坂アークヒルズが出来て昔の面影はなくなっています。

加計小学校>
 田中家は大正八年、渋谷の伊達町に家を建てて引っ越します。「…大正八年、父が七歳のときに、溜池の借家から渋谷の伊達町に大きな屋敷を買って引っ越しました。祖父は編纂局の嘱託から正規の編纂官となり、借家数軒をもち、また鎌倉にも別荘を持つという身分になりました。このころが祖父の絶頂期だったかも知れません。…」。当時の住居表示で渋谷村下渋谷一七九六番地、現在の住居表示で渋谷区恵比寿三丁目です。高級住宅街ですね。恵比寿ガーデンブレイスのすぐ近くと言った方が分かりやすいかもしれません。


右の写真は現在の渋谷区立加計小学校です。大正時代と場所は変わっていません。クリックすると小学校全体の写真となります。

鎌倉別荘>
 大正9年、田中英光は鎌倉の父親の別荘に転居し、鎌倉小学校二年に編入ます。「…生まれは東京ですが、八歳から十八歳までの十年間う鎌倉ですごしました。鎌倉に父の父、つまり私の祖父の別荘があったのです。…」。この別荘で田中英光は小学校から中学(旧制)までを過ごしています。かれの人生観を決めた時代だったとおもいます。

左の写真の踏切の奥に田中家の別荘がありました。写真の踏切は江ノ電の踏切です。稲村ヶ崎駅からすこし七里ヶ浜方向に歩いた姥ヶ谷の踏切です。この踏切の右側には有島武郎の別荘がありました。

湘南中学校>
 田中英光は姥ヶ谷の別荘から藤沢駅の北西にある湘南中学校(旧制)通います。「父が湘南中学に入った年に、祖父は結核性腹膜炎のため、五十三歳の生涯を閉じました。この時の順位は、文部省編纂局高等官三等四級でした。…」。湘南中学校(現在の神奈川県立湘南高校)は藤沢駅から約1.5Km、歩いて20分くらいです。この後、田中英光は早稲田大学に入学します。

右上の写真が神奈川県立湘南高等学校正門です。道から少し入った所に門かありました。


<田中英光の東京地図 −2−>

【参考文献】
・矢来町半世紀:野平健一、新潮社
・田中英光愛と死と:竹内良夫、別所直樹 大光社
・田中英光全集:芳賀書店
・小説 田中英光:北村鱒夫、三一書房
・オリンポスの黄昏:田中光二、集英社文庫
・師 太宰治:田中英光、津軽書房

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