●「石川啄木の東京」を歩く 明治44年〜
    初版2017年7月8日  <V01L04> 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治44年〜」です。今回が「『石川啄木の東京』を歩く」の最終回となります。やっとクリアーしたという感じです。ただ、まだ未完成なところがたくさんありますので、順次時間を掛けて更新していきます。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図(書ききれないため重要地名のみ記載)



「ルナパーク跡」
<ルナパーク>
 啄木はたびたび浅草に遊びに行っていますが、体調も思わしくなくなり、ほとんど最後の浅草ではなかったかとおもいます。明治44年1月8日のことです。明治43年はほとんど日記を残していませんでしたが、44年に入ると1月からこま目に書いています。2月に入院したり、自宅にいる時間が増えたためとおもわれます。

 「石川啄木全集」から”明治四十四年当用日記”です。
「一月八日 曇 温
 休み。午前に入浴した。午後は昨夜の稿をついた。日が暮れて丸谷君と並木君が来た。二人は朝から遊ひ廻つてゐたんださうである。忿に仮面会を開くことになつて、浅草に行き、ルナパークでピラアスパレースに入り木馬に乗つた。それから塔下苑をブラついて、とある馬豚肉で豚をくひ、酒をのんだ。その時三人寄せ書きで岩崎宮崎二君ヘハガキを出した。それからまた汁粉を食つて遅く帰つた。新年になつてから初めて遊んだわけである。…」

 <浅草ルナパークは、日本で最初にできたルナパークの名前を冠する遊園地です>
 河浦謙一の映画会社である吉沢商店によって建設され所有されていました。ニューヨークのコニーアイランドに明治36年(1903)に開業したルナパーク を模して設計されています。
 明治43年(1910)9月10日の開業後は盛況であったが、明治44年(1911)4月29日に火災により焼失したため、たったの8ヶ月のみの営業であった。ルナパークの火災とほぼ同時期に河浦の所有する大阪の映画館二件も不審火で焼失した。原因は放火だったとされている。
 この三件の火災により吉沢商店は苦境に陥り、アメリカから進出してくる海外映画産業などとの競争が厳しい状況となった。河浦はM・パテー商会のオーナーである梅屋庄吉に吉沢商店を375,000ドルで売却した。そして河浦は、新しいルナパークを東京ではなく大阪に建設することを決めた。大阪新世界のルナパークは明治45年(1912)に開園し、大正12年(1923)に閉園した。(ウイキペディア参照)

写真の右側がROX3Gで、左側先にある浅草ROXビルの北側の附近にルナパーク(ウイキペディア参照)がありました。下記の明治44年の浅草6区の地図を参照して下さい。



浅草地図 -4- 明治44年



「芝、浜松町一ノ十五」
<土岐善麿>
 読売社の土岐善麿と親しくなります。明治42年、金田一京助が結婚して以降疎遠になっており(金の無心に度々くるので奥様に嫌われた?)、44年以降は土岐善麿が一番親しく付合った友達だったとおもいます。

 「石川啄木全集」から”明治四十四年当用日記”です。
「一月十二日 雨 温
 午前に丸谷君が一寸来た。前夜貸した「青年に訴ふ」を帰しに来たのである。 木村の爺さんが休んたので夜勤の代理をせねはならぬことになつた。六時頃に一寸帰つてすぐまた社に行つた。雨が篠つくばかり降つてゐた。社に帰ると読売の土岐君から電話かかゝつた。逢ひたいといふ事であつた。とうに逢ふべき筈のを今迄逢はすにゐた。その事を両方から電話口で言ひ合つた。二人 ── 同じやうな歌を作る ── の最初の会見が顏の見えない電話口たつたのも面白い。一両日中に予のところへやつて来る約束をした。
 家にかへれはもう十二時半たつた。
一月十三日 曇 寒
 何の彼のといつてるうちに一月も十三日になつた。そんなことか思はれた。急かしい気持かして社へ行つた。
 電話て話し合つて、帰りに読売社へ寄り、北風の真直に吹く街を初対面の土岐哀果君と帰つて来た。さうして一杯のんてノバを食つた。こなひだ読売に予と土岐君と共に僧家の出て共に新聞記者をしてると書いてあつたが、二人は酒に弱い事も痩せてる事も同じたつた。たゞ予の直ぐ感じたのは、土岐君が予よりも慾の少いこと、単純な性格の人なことであつた。一しよに雑詰を出さうといふ相談をした。「樹木と果実」といふ名にして兎も角も諸新聞の紹介に書かせようぢやないかといふ事になつた。土岐君は頭の軽い人である。明るい人である。土岐君の歌は諷刺皮肉かも知れないが、予の歌はさうちやない。
一月十五日 晴 寒
 夜、詩六章を書いて「精神修養」へ送つた。
 社のかへりに読売社へよつて土岐君と二時間許り雑誌のことを相談した。金のことは予か責任を負ふといふことになつた。発行所も予のところにすることにした。
一月十六日 晴 寒
 気持のいゝ日てあつた。朝には白田に起こされた。
 空仰の智恵子さんから送つてくれたバタがとゞいた。
 社て安藤氏に逢つたから、精神修養へ半頁たけ予らの雑誌の広告を出して貰ふことにした。「それは面白い。大にやりたまへ。少し位は寄附してもいゝ。」と安藤氏が言つた。
 前日の約によつて社からすぐ土岐君を訪ねた。二階建の新しい家に美しい細君と住んでゐた。雑誌の事て色々相談した。我々の雑詰を文学に於ける社会運動といふ性質のものにしようといふ事に二人の意見か合した。十時過ぎに帰つたが風が寒かつた。帰れは釧路の坪仁からかなしい手紙がとゝいてゐた。…」

 土岐善麿は当時、読売新聞(銀座一丁目、読売新聞社になったのは大正6年)に勤めており、東京朝日新聞(銀座6丁目)に勤めていた啄木とは近い距離にありました。
 <読売新聞>
・明治7年(1874) 読売新聞は東京・虎ノ門で創刊
・明治10年(1877) 東京銀座1丁目13番地(明治12年2月地番変更で1番地となる)に移転
・大正12年(1923) 本社社屋を東京・京橋区西紺屋町(現・中央区銀座3丁目)に移転

 土岐善麿の住まいは”芝、浜松町一ノ十五 土岐善麿○△”〔住所人名録〕の記載がありました。

【土岐善麿(とき ぜんまろ、明治18年(1885) - 昭和55年(1980年】
 東京府東京市浅草区浅草松清町(現在の東京都台東区西浅草一丁目)の真宗大谷派の寺院に生まれる。東京府立第一中学校(現在の東京都立日比谷高等学校)を経て、早稲田大学英文科に進み、島村抱月に師事。窪田空穂の第一歌集『まひる野』に感銘を受け、同級の若山牧水と共に作歌に励んだ。
卒業の後、読売新聞記者となった明治43年(1910)に第一歌集『NAKIWARAI』を「哀果」の号で出版、この歌集はローマ字綴りの一首三行書きという異色のものであり、当時東京朝日新聞にいた石川啄木が批評を書いている。同年啄木も第一歌集『一握の砂』を出し、文芸評論家の楠山正雄が啄木と善麿を歌壇の新しいホープとして読売紙上で取り上げた。これをきっかけとして善麿は啄木と知り合うようになり、雑誌『樹木と果実』の創刊を計画するなど親交を深めたものの、明治45年(1912)に啄木が死去。啄木の死後も善麿は遺族を助け、『啄木遺稿』『啄木全集』の編纂・刊行に尽力するなど、啄木を世に出すことに努めた。その後も読売に勤務しながらも歌作を続け、社会部長にあった1917年(大正6年)に東京奠都50年の記念博覧会協賛事業として東京〜京都間のリレー競走「東海道駅伝」を企画し大成功を収めた。これが今日の「駅伝」の起こりとなっている。翌大正7年(1918)に朝日新聞に転じるが自由主義者として非難され、昭和15年(1940)に退社し戦時下を隠遁生活で過ごしながら、田安宗武の研究に取り組む。戦後再び歌作に励み、昭和21年(1946)には新憲法施行記念国民歌『われらの日本』を作詞する(作曲・信時潔)。翌年には『田安宗武』によって学士院賞を受賞した。同年に窪田の後任として早稲田大学教授となり、上代文学を講じた他、杜甫の研究や長唄の新作を世に出すなど多彩な業績をあげた。新作能を多数物した作者としても名高い。紫綬褒章受章。第一歌集でローマ字で書いた歌集を発表したことから、ローマ字運動やエスペラントの普及にも深く関わった。また国語審議会会長を歴任し、現代国語・国字の基礎の確立に尽くした。戦後の新字・新仮名導入にも大きな役割を果たしている。

写真の正面一帯が全て浜松町一ノ十五です。詳細の場所は不明です。上記に”二階建の新しい家に美しい細君と住んでゐた”とあるので自宅かなともおもったのですが、関東大震災後に目黒に引越しているので、借地だったようです。



港区浜松町附近地図(吉井勇の地図を流用)



「東京大学附属病院」
<東京帝国大学構内の医科大学付属医院>
 啄木は明治44年2月4日、慢性腹膜炎で東京帝国大学構内の医科大学付属医院に入院します。慢性腹膜炎の原因はそのほとんどが結核への感染、発症によるもののようなので、病院の先生はある程度結核菌に感染していることは分かっていたとおもいます。

 「石川啄木全集」から”明治四十四年当用日記”です。
「二月一日 晴 温
 午前に又木君が来て、これから腹を診察して貰ひに行かうといふ。大学の三浦内科へ行つて、正午から一時までの間に青柳医学士から診て貰つた。一目見て「これは大変だ」と言ふ。病名は慢性腹膜炎。一日も早く入院せよとの事たつた。
 さうして帰つたが、また何だかホントらしくないやうな気がした。然し医者の話をウンとも思へない。社には又木君に行つて貰つて今日から社を休むことにした。
 医者は少くとも三ヶ月かゝると言つたが、予はそれ程とは信じなかつた。然しそれにしても自分の生活か急に変るといふことたけは確からしかつた。予はすぐに入院の決心をした。そして土岐、丸谷、並木三君へ葉書を出した。
 夜になつて丸谷、並木二君がおとろいて訪ねて来た。…

二月四日 晴 温
 今日以後、病院生活の日記を赤いインキて書いておく。
 どうせ入院するなら一日も早い方がいゝ。さう思つた。早朝妻か俥で又木、太田二君を訪ねたか要領を得なかつた。更に予自身病院に青柳学士、太田君を訪ねたが、何方も不在。午後に再ひ青柳学士を訪ねてその好音を得た。
 早速入院することにして、一且家へかへり、手廻りの物をあつめて二時半にこの大学病院青山内科十八号室の人となつた。同室の人二人。夕方有弓学士の診察。夕食は普通の飯。
 病院の第一夜は淋しいものたつた。何たかもう世の中から遠く離れて了つたやうで、今迄うるさかつたあの床屋の二階の生活が急に恋しいものになつた。長い廊下に足音が起つては消えた。本をよむには電燈が暗すぎた。そのうちにいつしか寝入つた。
 入院のしらせの葉書を十枚出した。…

三月十五日
 午前並木君来る
 午後退院
三月十六日
 天気悪し
 午前は土岐君来てくれて少し元気出しが午後は発勢、不快
三月十七日
 雪雨降る
 午後発熟不快…」
 
 退院が3月15日なので、約一ヶ月の入院でした。この頃はあまり重病ではなかったのではないかとおもいます。

写真は現在の東京大学附属病院です。当時の病棟の写真がありますので掲載しておきます。



本郷付近地図



東京帝国大学構内図(明治37年)



「小石川久堅町七十四ノ四六号」
<小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す>
 明治44年8月7日、啄木はまたしても宮崎郁雨の援助により本郷弓町から小石川久堅町に転居します(喜之床への転居も援助してもらった)。その後、宮崎郁雨からの援助に頼っていた啄木は”いわゆる「不愉快な事件」”で宮崎郁雨と絶縁しますが、この絶縁が啄木の死を早めたようです。

 「石川啄木全集」から”明治四十四年当用日記”です。
「八月七日
 本日本郷弓町ニノ十八新井方より小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す。予は午前申荷物たらけの室の隅の畳に寝てゐ、十一時俥にて新居に入りすぐまた横になりたり。いねにすけらる。
 門構へ、玄関の三畳、八畳、六畳、外に勝手。庭あり、附近に木多し。夜は立木の上にまともに月出でたり…

八月十一日
東京市木郷区本郷弓町二丁目十八番地より東京市小石川区久堅町七十四番地に転籍を小石川区役所に届出る…」

 喜之床の二階二間から一軒家に移ります。

写真は現在小石川久堅町七十四ノ四六号です。久堅町七十四番地は範囲が広いため、枝番で四六号があるとおもわれます。現在は「石川啄木終焉の地歌碑」及び「石川啄木顕彰室」があります。終焉の地は右隣のマンションのところで、”石川啄木終焉の地”の説明板があります。昔は石川啄木終焉の地の石柱と記念碑があるのみでした。変らないのは電柱のみです。



小石川・茗荷谷附近地図



「現在の等光寺」
<浅草等光寺にて母カツの葬儀>
 啄木の母カツが明治45年3月7日、死去します。啄木が亡くなる約一ヶ月前です。肺結核で亡くなったものとおもわれます。

 「石川啄木全集」から”明治四十四年当用日記”です。
「七月四日
 発熱三十八度五分、近所の医師有賀を呼ぶ
 代診下平来る…」

 ここに書かれている”医師有賀”については帝国医鑑 第1編(明治43年)で調べてみると、”有賀立雄 本郷區弓町2-31(本郷幼稚園の左隣附近)”と書かれており、新井(喜之床)方から、僅か80m程の距離です。”代診下平”については、この方も帝国医鑑 第1編(明治43年)で調べてみると、”下平文柳 本郷區湯島新花町33(写真左側附近)”とあります。この方が代診かどうかの確認はとれていません。

 「石川啄木全集」から”千九百十二年日記”です。
「一月二十一日(日)…
…一円あると最初二日分の薬価には大丈夫間に合ふといふのて、早速妻を、去年も母の病気にたのんた近所の老つた医者へ走らした。しかしこれは失望に終つた、医者は十二月以来脊髄炎で動けないてゐるのたさうた。…

一月二十二日(月)…
…さうして千駄木にゐる知人の医者を紹介してくれると言つて、自分で出向いてくれた。
 その医者は、しかし、夕方まて待つても来なかつた。夜になつても来なかつた。…

一月二十三日(火)
…アテにして行つた医者は眼科医たつたので、知人と相談して下谷の柿本医師に今日の午後行つて貰ふことにしたといふのだつた…
 待ちに待つたか、その手紙の中の医者はとう/\日か暮れても来てくれなかつた。そこで思ひ切つて近所の三浦といふ医者に使ひをやつたところが、三十位の丁寧な代診が来た。診察の結果は、母はもう何年前よりとも知れない痼疾の肺患を持つてゐて、老体の事たから病勢は緩慢に進行したにちかひないが、もう左の肺は殆ど用をなさない位になつてゐるといふ事だつた。…
 三浦の代診の帰つて行つたあとで、薬をとりに行つた妻の戻る少し前に、柿本医師が来てくれた。診察の結果は矢張同じだつた。病気か重いし、老体の事てあるから、十中七八は今明両月の寒さを経過することが出来まいといふのである。医師は世慣れた調子て色々親切な注意をして帰られた。薬は三浦からよこした散薬と水薬ていゝといふ事だつた。……」

 ”近所の三浦といふ医者”は三浦省軒とおもわれます(嘉永2年(1849) - 大正8年(1919))。
 三浦省軒については有名だったようで、ググるとかなりでてきます。樋口一葉の死亡診断書を書いたのは三浦省軒との記載がありました。住所について帝国医鑑 第1編(明治43年)で調べてみると、”三浦省軒 小石川區竹早町八十二番地(広い地番なので特定出来ていません)”と書かれていました。
 ”柿本医師”については帝国医鑑 第1編(明治43年)で調べてみると”柿本庄六 入谷117(写真の正面道路上付近)”と記載がありました。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「三月七日
母カツ肺結核で死去。
三月九日
浅草等光寺にて母カツの葬儀(法名恵光妙雲大姉)。なお、等光寺における葬儀は、土岐哀果の厚意によるものである。…」

 土岐哀果の実家が浅草等光寺で、推定ですが安くしてもらったのだとおもいます。昔から葬式にはお金がかかります。

写真は現在の等光寺です。関東大震災以降の区画整理で場所が変っています。中に啄木の碑があります。昔の地図と比べてみると場所は現在の等光寺の前の道を西に十b位のところ(下記の重ね地図参照)とおもわれます。



御徒町・浅草附近地図



御徒町・浅草附近地図(現在の地図と明治29年の地図を重ねる)



「函館のお墓」
<啄木死去>
 明治45年4月13日、母親が死去してから僅か一ヶ月と6日で啄木自身も死去します。母親に呼ばれたのかもしれません。それにしても早すぎる死です。本人は無念だったとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「四月十三日 早朝危篤に陥り午前九時三十分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水にみとられながら永眠。享年二十七歳。病名は肺結核である。
四月十五日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、この日午前十時より浅草松清町の等光寺で葬儀が営まれた。導師は哀果の兄の土岐月章であった。会葬は朝日新聞社関係を加えて約四、五十名、文壇関係では夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、木下杢太郎、北原白秋、佐佐木信綱らが参列した。法名は啄木居士。遺骨は等光寺に埋葬したが、翌年三月二十三日啄木の妻の意志で函館に移し、立待岼に一族の墓地を定めて葬った。(現在の墓碑は宮崎郁雨ら有志により大正十五年八月一日建立。)…」

 土岐哀果の世話で、実家である浅草松清町の等光寺での葬儀となっています。

 金田一京助の「私の歩いて来た道」からです。
「…   一〇 石川啄木の臨終
 人力車に乗って石川家に着いたら奥さんが、玄関へ迎え出て、
「ゆうべから時々昏睡しまして、昏睡から覚めると、金田一さんを呼んでくれ、金田一さんを呼んでくれ、と申しますので、今晩はもう遅いから、とすかして寝せましたけれども、今朝も早くからそういいまして、まだあまり早いからと止めていましたが、とうとう、結局こんな早くお呼びして、申しわけございません」
というあいさつです。……」

 後は本を買って読んで下さい。金田一京助はその当時住んでいた”本郷森川町一番地蓋平館隣”から駆けつけています。金田一京助としては臨終に立ち会えなかったのが心残りのようです。まあ、今の生活の方が大切です。

 若山牧水全集から「石川啄木の臨終」です。
「   石川啄木の臨終
 小石川の大塚辻町の疊職人の二階借をして住んてゐた頃である。朝また寢てゐるところに石川君の細君から使ひか来た。病人が危篤だから直く来て呉れといふのであつた。明冶四十五年四月十三日午前六時過ぎの事てある。馳けつけて見ると、彼は例の如く枯木の枝の樣に横はつてゐた。午前三時頃から昏睡状態に陷つたので夜の明けるのを待焦れて使を出したのだか、その頃からどうやら少し落ちついた樣ですと細君は語りながら病人の枕もとに顔を寄せて大きな聲て「若山さんがいらつしやいましたよ」と幾度も幾度も呼んだ。すると彼は私の顏を見詰めて、かすかに笑つた。「解つてゐるよ」との音味の微笑てあつたのだが、あとて思へはそれか彼の最後の笑ひてあつたのだ。その時、側にいま一人若い人か坐つてゐたが、細君の紹介て金田一京助氏である事を知つた。
 さうして三四十分もたつと、急に彼に元気か出て来て、物を言ひ得る樣になつた。勿論きれぎれの聞き取りにくいものではあつたか、意識は極めて明瞭で、四つ五つの事に就いて談話を交はした。私から土岐哀果君に頼み、同君から東雲堂に持込んた彼の歌集の原稿料か昨日屆いたといふお禮を何より先に言った。そしてその頃私の出さうとしてゐた雑誌の事に就いてまて話し出した。何しろ昨夜以來初めて言葉を發したといふのて細君も非常に喜ひ、金田一氏もこのふんならは大丈夫たらうからと、丁度出勤時間も來たのて私はこれて失禮すると云って歸って行った。細君も初めて枕許
を離れた。
 それから幾分もたたなかったらう、彼の容體はまた一變した。話しかけてゐた唇をそのままに次第に瞳かあやしくなって來た。私は惶てて細君を呼んた。細君と、その時まて私か來て以來次きの部屋に退いて出て來なかった彼の老父とか出て來た。私は頼まれて危篤の電報を打ちに郵便局まて走って歸って來てもなほその昏睡は續いてゐた。細君たちは口うつしに藥を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしてゐたか、私はふとその場に彼の長女の(六歳たったとおもふ)居ないのに氣かついてそれを探しに戸外に出た。そして門口で櫻の落花を拾って遊んてゐた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とか前後から石川君を抱きかかへて、低いなから聲をたてて泣いてゐた。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もう駄目てす、臨柊の樣てす」と言った。そして側に在つた置時計を手にとつて、「九時半か」と呟く樣に言ったか、まさしく九時三十分てあった。
 私は直ぐかかりつけの醫者に走った。書き落したか同君はその半年ほと前から小石川の久堅町に住んでゐた。番地を忘れたが一二度訪ねたのでは直く忘れてしまふ位ゐ解りにくい家てあった。醫者は矢張り久堅町の三浦醫院といふのであった。細君たちももう醫者を連れて來る必要はあるまいから唯た知らせてたけ置いて呉れといふ意見てあったか、醫者の方ても夙うにその樣に承知してゐて、直く診断書(死亡屆か)を書いて呉れた。
 三四丁離れた醫者から歸ると老父と細君とはただ二人きりて手早く部屋を片附けてゐた。何といふ惶しい臨終たらうと、今まてとやや場所をかへてひつそりと置き捨てられてゐる彼の遺骸のそばに坐りながら、かぶせてあつた毛布を少し引いて彼の顔を見てゐると、生前と少しも變らぬ様子にしか感ぜられぬのてあつた。彼は初め腹膜炎で腹部が非常に膨れてゐた。それか肋膜炎に變ると急にまたげつそりと痩せてしまつた。久堅町に來て半年餘りといふものすつかり床に就いてゐたのて次第に痩せ痩せて、初め枯本々々と呼んてゐたのをやかては「枯木の枝」と吁ぶ様になつてゐたのであつた。
 私は水く彼の顔を見てゐられなかつた。
 よく安らかに眠れる如くといふ風のことをいふが、彼の死顔はそんなでなかつた。で、直くまた死亡の打電のため郵便局に走り、次いて警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人て片附けてしまつた。他に手も無かつたのだか、結局さうして動いてゐる方か氣輕てもあつたのた。蒸暑い日和て、街路には櫻の花が汗ばんて咲き垂れてゐた。
 その夜の十時頃まては二三の人も來てゐたか、それからはまた午前の通り老父と細君と子供と私との四人きりになつてしまつた。細君も夙うから同し病に冒されてゐたのたか、その夜は見るも氣の毒なほとよく咳いた。て、強ひて子供と二人を次きの間に寢さして、老父と二人して遺骸に添ふて夜を明かした。
   かなしきはわが父!
    けふも新聞を讀みあきて。
   庭に小蟻とあそへり。
 とその子に歌はれた老父もまた痩せて、淋しい姿の人てあった。石川君の死ぬる丁度三十日前に彼はその妻を、即ち石川君の母を、同しその家で死なしてゐたのてある。そして心をまぎらす積りて北海道の縁家か何かに行ってゐるとまた五六日前、息子の病気の重ったために東京に呼びかへされてゐたのてあつた。折々耐へ難い愚癡をば漏らしなから、つとめて私の方を淋しがらすまいとして斷えず世馴れた口調て何か知らの世間話を續けてゐた。その中て私の心に殘つてるのは小樽だか室蘭だかの古棧橋から魚を釣る話であった。眼の前のこの老人が糸を垂れてゐる姿か、古棧橋と一緒にいかにもありありと想像せられたからてある。
 話も盡きて、夜の白みそめた頃老人は一枚の紙に次ぎの樣な歌を書きつけて私に示された。
 「毋ゆきていまだ中陰も過きぬにその子また失せにければ」と前書きをして。
   さきたちし毋をたつねて子すすめの死出の山路を急くなるらむ
 佛の枕許に小さく片附けられた小道具などの中に私に眼についてならぬ一箱の薬品かあつた。死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語つた。「若山君、僕はまた助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見給へ、其處にある薬がこの二三日來斷えてゐるが、この薬を買ふ金さへあつたら僕はいまに直く元気を医復するのだ、現に僕の家には一圓二十六錢(或は單に廿六錢てあつたかとも思ふ)の金しか無い、しかももう何處からも入つて來る見込は無くなってゐるのだ」と。
 その薬の名を訊いておいて私はすく附近の薬屋に出かけたが、私の財布の中の金でもそれを買ふに足りなかつた。たしか薬の價は一圓六十錢てあつたとおもふ。本郷まて金を借りに行つたか出來なかつた。そしてその足で、同しくその日彼から頼まれた歌集(『悲しき玩具』であつたらう)原稿を賣るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすく日本橋の東雲堂に行き、それを二十圓に代へて石川君の許に屆けたのてあった。その金て早速買ひ求めたのてあらう。その何とかいふ薬が、僅かに箱の蓋かとられたばかりて其處の枕許に置かれてあるのてあった。
 葬式はその翌日、土岐君の生家てある淺草の等光寺(?)て營まれた。が、私は疲勞と其處て種種の人に出逢ふ苦痛をおもふとのために缺席した。 」

 若山牧水は当時の住所で巣鴨村3518番地 郡山幸男方から駆けつけています。ただ、この場所については「文京ゆかりの文人たち 文京区教育委員会発行」によると、”巣鴨村三五一八番地(豊島区駒込二−)郡山幸男方”、次のページには”現在の都バス車庫附近”(JR駒込駅北側)とも書かれています。詳細に調べたところ、これは間違いで、当時は巣鴨村と巣鴨町の二つがあり、”豊島区駒込”は巣鴨町に属しており、また三五一八番地はありません。あるのは巣鴨村で、現在の”豊島区東池袋5丁目52”附近とおもわれます。ただ”郡山幸男方”で再確認する必要があります。

 若山牧水は啄木の死後、”死亡の打電のため郵便局に走り、次いて警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人て片附けてしまつた”と書いています。小石川郵便局、小石川警察署は今の伝通院前交差点の北東(小石川二丁目14)にありました。小石川区役所は伝通院前交差点から安藤坂を南に240m下った東側にありました。啄木の自宅から小石川区役所までは約1.3Km程ですからたいしたことはありません。場所については上記の”小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す”の地図を参照してください。

 <読売新聞に掲載分>
・4月14日 朝刊 石川啄木氏逝く(一段19行)
・4月15日 朝刊 啄木石川一(死亡広告)
・4月16日 朝刊 故啄木氏葬儀(一段9行)

写真は平成17年(2005)に撮影した函館にある石川啄木一族の墓です。相当昔なので、現在は変っているかもしれません。



北海道 函館市地図 -1-