●「石川啄木の東京」を歩く 明治43年
    初版2017年7月1日 長与胃腸病院を追加 暫定版
    二版2017年8月3日  <V01L01> 冨山房(ふざんぼう)の写真を追加 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治43年」です。この年の日記は4月1日から4月26日までしかありません。仕方がないので年譜を参照しましたが参考になる記載はほとんどありませんでした。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図(書ききれないため重要地名のみ記載)



「現電気館」
<電気館>
 明治42年6月16日、家族を上野駅に迎え、本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現文京区本郷ニー三八−九)の新井こう方(喜之床)で二間の間借り生活をはじめています。家族の上京から以降、家族一緒に何処かに出かけたという記述はここまでありませんでした。

 「石川啄木全集」から日記です。
「 明治四十三年四月より
       ((本郷区弓町二丁目十八、喜之床(新井)方にて))
四月一日。
 月給二十五円前借した。
 佐藤編輯長の洋行中、弓削田氏と安藤氏が隔日に編輯することになつた。
 夜、父と妻子と四人で遊びに出た。電車で行つて浅草の観音堂を見、池に映つた活動写真館のイルミネエションを見、それから電気館の二階から活動写真を見た。帰るともう十一時だつた。行く時の電車の中で、伊上凡骨君と岩田郷一郎君に逢つた。岩田君とは三十八年の五月に別れたきりだつた。──それは恰度あの江東の伊勢平で催した芝居から一月許り経つた時てあつた。…」

 ”父と妻子と四人で遊ひに出た”と書いていますので、母が留守番をしたのだとおもいます。妻節子さんは相当うれしかったとおもいます。

写真が現在の電気館です。当時と同じ場所にあります。同じ頃の浅草寺境内の写真電気館の写真(ウイキペディア参照)にありましたので掲載しておきます。



浅草地図 -3- 大正10年(高見順の浅草地図を参照)



「牛込、新小川町ニノニ」
<西村真次を訪問>
 2017年8月3日 冨山房の写真を追加
 啄木は収入増のため朝日新聞での仕事を増やしていきます。朝日新聞で西村眞次(酔夢)が行なっていた二葉亭四迷の全集の編集を引き受けています。校正の仕事は本当に大変です。

 「石川啄木全集」から”明治四十二年当用日記”と”明治四十三年より”です。
「明治42年
三月十一日 木曜 晴 暖
 晴れた。今年になつての一番あたゝかい日。
 九時菓子折をかつて麻布霞町に佐藤氏を訪ねて礼を言つた。かへりに鈴木氏をとふと不在、蒲原氏を訪ふて三十分許り雑談。
 今日初めて渋川、西村の二氏と話した。
 かへりに平出へよる。四号は吉井がやるさうだ。予は近頃実に吉井がイヤになつた。…

明治43年
四月五日。
 電車で市川君に逢つて聞くと、二葉亭全集の一巻はまだ署名者の一件がきまらないで製本に取かゝらないと。好い加減な年をした大家にも子供みたいな心があるのだから可笑しい。
 木村爺さんから五円かりる。三円は下へ屋賃の残り払ふ。
 西村酔夢君は社をやめて冨山房へ行くことになつた。血色のよくない顔をしながら、二葉亭全集の方の書類を私に引きついでくれと言つてゐた。…
四月七日。
 三途の川の川銭は、情死した二人連の男女は二二が四銭、産後のわづらひで死んた女は三五の十五銭、腸を悪くして毎日ソツプを二杯づゝ飲んて死んた本多博士はソツプ六十四の二倍一円二十八銭とられた ── と、一度死んで生きかへつた博士か新聞に話してゐる。久し振りで床の中で一人で笑つた。笑つても/\可笑しかつた。
 父は一人で上野の花を見ると言つて出て行つたが、腰が痛いと言つてすぐ戻つて来た。
 社で池辺主筆から、二葉亭全集に関する引継を西村君から享けて、そして第二巻の原稿を印刷所へ渡すやうに呍咐かつた。帰りに上野へ廻つて、薄雲のやうに咲いた桜を見た。夕飯後、西村君を訪うたが不在、中島君も不在。留守居の内山君と半時間許り話して帰つた。間のぬけたやうな内山君の細君を見た。…
四月九日。
 内田魯庵氏を訪うだ。先月のうちに来た二葉亭全集中『浮雲』の序文の校正に不審の箇所あつて廻しておいたのが、また手元にあつた。これたから何時迄も/\長くなるのだ。
 それから出社。
 夜、雨を犯して西村君を訪ふと、姥原君もゐた。飲む。二葉亭全集の原稿や書類の引継を享けて十一時帰る。「我党の士」といふ事を西村君が何回も言つた。我党の士! 我党の士! さびしい言葉だ。…」

 西村真次の住まいは”牛込、新小川町ニノニ 西村真次○△”〔住所人名録〕の記載がありました。

【西村眞次(にしむら しんじ、明治12年(1879) - 昭和18年(1943))】
 日本のリベラル系ジャーナリスト、歴史学者、考古学者、文化人類学者、民俗学者。別名「酔夢」。
 三重県度会郡宇治山田町(現伊勢市)にて西村九三、のぶ子夫妻の次男として生まれる。尋常小学校卒業後は大阪で仕事をしながら、私立の中等教育機関にて勉学に励むこととなる。この間『少年文集』や『中学世界』をはじめ、少年雑誌、青年雑誌を中心に採用された投稿は多い。西村の投稿は当時の文学少年の間で人気を博した他、『早稲田講義録』を受講していたという。その後上京し、新声社(現新潮社)や博文館で編集業務に携わった。
 明治36年(1903)4月東京専門学校(現早稲田大学)文学部に入学し、坪内逍遥の薫陶を受ける。明治38年(1905)3月に東京専門学校を卒業するも、同年の日露戦争勃発に伴い、陸軍輜重輸卒として応召の後中国戦線へと赴くこととなる。除隊後は従軍体験を綴った『血汗』(精華書院)など小説を発表する。
 明治40年(1907)には東京朝日新聞社(現朝日新聞)に入社、社会部及び学芸部に属し記者として活躍。専門学校時代に師事した坪内の斡旋により明治42年(1909)冨山房に移籍、大町桂月が主宰する雑誌『学生』の編集者を務めた。冨山房時代には現在で言う受験参考書も出版。多くの学者と親交を結んだのをきっかけとして、人類学や考古学、歴史研究に身を投じるようになったのはこの時期のことである。
 大正7年(1918)には母校の早稲田大学に講師として招聘され、日本史や人類学の講義を受け持つ。第一早稲田高等学院でも日本史の講座を担当した。大正11年(1922)教授に昇進、昭和3年(1928)には史学科専任教授に就任。昭和7年(1932)『日本の古代筏船』『皮船』『人類学汎論』で早稲田大学より文学博士号を受ける。昭和12年(1937)には神武天皇聖蹟調査委員に就任。
 晩年は戦時色が強まる中、官憲から「自由主義者」として弾圧を受け、昭和16年(1941)には『国民の日本史 大和時代』(早稲田大学出版部)『日本古代社会』(ロゴス書院)『日本文化史概論』(東京堂)の3冊が発禁処分を余儀無くされた。同年太平洋協会より、南洋群島を対象とする民族学的研究を収めた『大南洋 - 文化と農業』を上梓。「大東亜共栄圏の不可分の重要要素たる大南洋熱帯圏の科学的研究」の必要性が説かれた同書は、西村が冒頭太平洋地域の概説を執筆しており、国策として進められた「南進論」に協力の度合いを深めてゆく。
 その後も学術研究や後進の育成に尽力するが、昭和18年(1943)5月27日死去。享年64歳。同年4月より胃癌の疑いのため大塚癌研究所(現がん研究会)で入院加療中であった。(ウイキペディア参照)

 ここでは”明治42年(1909)冨山房(ふざんぼう)に移籍”と書いていますが、啄木の日記では明治43年4月5日に”西村酔夢君は社をやめて冨山房へ行くことになつた”と書いています。啄木の日記の方が正しいとおもわれます。冨山房は当時と同じ場所、神田すずらん通りの三省堂書店から西にワンブロックのところに立派なビルであります。

写真の正面、左側附近が牛込區新小川町ニノニです。写真の先に新しい左右の道が出来ていますが、これ以外は明治時代と大きくは変っていません。



小日向台町、飯田橋、四谷附近地図



「長与胃腸病院跡」
<入院中の夏目漱石を訪ねる>
 啄木は明治43年7月1日、入院中の夏目漱石を訪ねています。何故、夏目漱石を訪ねたのか、誰かに紹介されたのか、この時期、日記がありませんのでよく分かりません。年譜を見ると訪ねたことしかかかれていません。ひょっとしたら、渋川玄耳に紹介されたのかなともおもっています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「七月一日 啄木は麹町区内幸町の胃腸病院に入院中の夏目漱石を訪問。病気見舞と社用とを兼ねる。二葉亭の原稿「けふり」について指導を受ける。
七月五日 再度漱石を訪問。資料として「SMOKE」所収の『ツルゲーネフ全集』第五巻(一九〇六年ロンドンのハイネマン社刊、C・ガーネット女史英訳)を借用する。…」
 

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「七月一日、入院中の夏目漱石を訪ね、二葉亭の「けふり」について指導を受ける。
七月五日、再度漱石を訪ね指導を受ける。」

 全集の年譜のほうが少し詳しく書かれています。

 明治四十四年当用日記補遺、○前年(四十三)中重要記事からです。
「… 文学的交友に於ては、予はこの年も前年と同じく殆ど孤立の地位を守りたり。一はその必要を感ぜさりしにより、一は時間に乏しかりしによる。森氏には一度電車にて会ひたるのみ、与謝野氏をは二度訪問したるのみなりき。以て一斑を知るべし。時々訪ね呉れたる人に木下杢太郎君あり。夏目氏を知りたると、二葉亭全集の事を以て内田貢氏とし
ば/\会見したるとは記すべし。…」

 夏目漱石については一目おいているようです。

写真の正面のビルのところに夏目漱石が入院した”長与胃腸病院”がありました。現在の平山胃腸クリニックです。ホームページに詳しく書かれています。大正8年の帝国医師年鑑には”麹町區内幸町1-3 胃腸病院”の記載があります。

「南伝馬町三丁目十番地」
<東雲堂書店>
 啄木は明治43年10月4日、東雲堂書店と処女歌集「一握の砂」の発行契約を結んでいます。12月1日には「一握の砂」刊行と書いています。「一握の砂」の奥付には12月13日と書かれています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十月四日 啄木の妻節子、東京帝国大学構内の医科大学付属医院産婦人科で男子分娩。真一と名づける。この日東雲堂書店と処女歌集出版の契約を結び、二十円の稿料のうち十円を受取る。
十月九日 東雲堂書店の西村辰五郎(陽吉)に、歌集の書名を「一握の砂」とする旨連絡する。この日朝日新聞社で「一握の砂」の稿料の残額十円を受け取る。…

十二月一日 処女歌集『一握の砂』刊行。序文は藪野椋十(渉川柳次郎)、表紙画は名取春僊。歌数五百五十一首。定価六十銭。歌集は一首三行にして短歌在来の格調を破る。…」
 
 ”序文は藪野椋十(渉川柳次郎)、表紙画は名取春僊”は朝日新聞の関係から頼めたのだとおもいます。「一握の砂」の奥付に書かれている東雲堂書店の住所は”東雲堂書店 東京市京橋區南傳馬町三丁目十番地”です。

【渋川玄耳(しぶかわ げんじ、明治5年(1872) - 大正15年(1926)】
 明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの むくじゅう)の筆名を用いる。
 佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。漱石が英国留学で不在時には、池松迂巷らと紫溟吟社を支え、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献。
 日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、東京朝日新聞特派員の弓削田精一と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ評判を呼ぶ。弓削田の推薦で熊本出身の池辺三山主筆に請われ、明治40年(1907)3月東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図る。「取材法」や「記者養成システム」を、現在につながる方法に革新。
 熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、石川啄木を抜擢して『朝日歌壇』を創設(啄木の歌集『一握の砂』の序文を藪野椋十の筆名で執筆している)。
明治43年(1910)中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある杉村楚人冠とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた。
 名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立。自身の離婚問題なども重なり、大正元年(1912)11月に東京朝日新聞を退社する。以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった。(ウイキペディア参照)

【名取春仙(なとり しゅんせん、明治19年(1886) - 昭和35年(1960))】
 明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師、日本画家。
 久保田米僊及び久保田金僊の門人。山梨県中巨摩郡櫛形町(現・南アルプス市)の綿問屋に生まれるが、父・市太郎の事業の失敗により、1歳の時、東京に移る。名は芳之助。春僊、春川とも号す。小学校時代には、同窓の川端龍子、岡本一平、仲田勝之助とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡有真に師事、1900年(明治33年)14歳で米僊に、米僊失明後は金僊に学ぶ。明治38年(1905)、福井江亭にも洋画も学び、東京美術学校においてさらに日本画も学んだが、平福百穂に私淑して中退する。
 明治35年(1902)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。明治39年(1906)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、明治42年(1909)、同社に入社、大正2年(1913)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、石川啄木『一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。
 昭和33年(1958)2月、長女を肺炎で亡くし、昭和35年(1960)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた。(ウイキペディア参照)

写真は京橋の警察博物館前から京橋交差点方面を撮影したものです。右側の白いビルのところが京橋區南傳馬町三丁目十番地です。残念ながら関東大震災前の地図には東雲堂書店の記載を見つける事はできませんでした。

 <東雲堂書店>
京橋區南伝馬町三丁目十番地
大正2年6月 日本橋区檜物町九番地
大正13年 神田區今川小路一ノ一(関東大震災後)
昭和16年 神田區神保町三ノ二七ノ一
昭和21年10月 神田區一ツ橋二ノ九(東雲堂出版部)



日本橋、東京駅、京橋附近地図



「了源寺」
<真一葬儀(浅草、了源寺)>
 明治43年10月4日、長男 真一が生まれます。この当時は自宅出産が普通だとおもいますが東京帝国大学構内の医科大学付属医院産婦人科で出産しています。奥様の体調が悪かったのかなともおもいます。

 明治44年末に書いた前年の重要記事です。43年はほとんど日記を書いていなかったため補遺(書き漏らした事柄(=遺)などを、あとから補うこと。その補いの部分)したものとおもわれます。
「明治四十四年当用日記補遺
      ○前年(四十三)中重要記事

 十月── 四日午前二時節子大学病院にて男子分娩、真一と名づく。予の長男なり。生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れは今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。二十九日浅草区水住町了源寺に葬儀を営み、同夜市外町屋火葬場に送りて荼毘に附す。翌三十日同寺新井家の墓域を借りて仮りに納骨す。法名 法夢孩児位。会葬者、並木武雄、丸谷喜市二君及ひ与謝野寛氏。産後節子の健康可良ならず、服薬年末に及ぶ。またこの月真一の生れたる朝を以て予の歌集『一握の砂』を書肆東雲堂に売り、二十金を得たり。稿料は病児のために費やされたり。而してその見本組を予の閲したるは実に真一の火葬の夜なりき。…」

 長男の体調が良く分かります。”市外町屋火葬場”は現在の町屋斎場で、同じ場所にあります。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十月四日 啄木の妻節子、東京帝国大学構内の医科大学付属医院産婦人科で男子分娩。真一と名づける。
十月二十七日 長男真一死亡。「生れて虚弱、生くること僅かに二十四日にして同月二十七日夜十二時過ぐる数分にして死す。恰も予夜勤に当り、帰り来れば今まさに絶息したるのみの所なりき。医師の注射も効なく、体温暁に残れり。」(「日記」)
十月二十九日 浅草区永住町了源寺で葬儀を営み、同夜市外町屋の火葬場で荼眦に付す。法名は法夢禅孜子(三十日寄宿先の新井家の墓を借りて仮納骨をする)、会葬者は並木武雄、丸谷喜市、与謝野寛。苜蓿社同人並木武雄はそのころ上京して東京外国語学校本科清語科に在学中で、啄木と旧交をあたためていた。…」

 残念ながら生まれたお子さんの体調が悪く、同じ月の27日に亡くなります。

写真は現在の了源寺です。戦前から場所は変っていないようです。本堂の写真を掲載しておきます。



御徒町・浅草附近地図