<東雲堂書店> 啄木は明治43年10月4日、東雲堂書店と処女歌集「一握の砂」の発行契約を結んでいます。12月1日には「一握の砂」刊行と書いています。
「一握の砂」の奥付には12月13日と書かれています。
「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十月四日 啄木の妻節子、東京帝国大学構内の医科大学付属医院産婦人科で男子分娩。真一と名づける。この日東雲堂書店と処女歌集出版の契約を結び、二十円の稿料のうち十円を受取る。
十月九日 東雲堂書店の西村辰五郎(陽吉)に、歌集の書名を「一握の砂」とする旨連絡する。この日朝日新聞社で「一握の砂」の稿料の残額十円を受け取る。…
…
十二月一日 処女歌集『一握の砂』刊行。序文は藪野椋十(渉川柳次郎)、表紙画は名取春僊。歌数五百五十一首。定価六十銭。歌集は一首三行にして短歌在来の格調を破る。…」
”序文は藪野椋十(渉川柳次郎)、表紙画は名取春僊”は朝日新聞の関係から頼めたのだとおもいます。
「一握の砂」の奥付に書かれている東雲堂書店の住所は”東雲堂書店 東京市京橋區南傳馬町三丁目十番地”です。
【渋川玄耳(しぶかわ げんじ、明治5年(1872) - 大正15年(1926)】
明治期に活躍したジャーナリスト、随筆家、俳人。佐賀県出身。本名渋川柳次郎。ほかに薮野椋十(やぶの
むくじゅう)の筆名を用いる。
佐賀県杵島郡西川登村小田志(現武雄市西川登町小田志)出身。長崎商業を卒業後、法律家を志し上京。獨逸学協会中学校および國學院で学び、東京法学院(現中央大学)に進み卒業。高等文官試験に合格し、福島県いわき市平区裁判所の裁判官となる。その後、陸軍法務官として熊本県の第六師団に勤務。熊本時代には、夏目漱石を主宰に寺田寅彦、厨川千江らがおこした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)に参加。漱石が英国留学で不在時には、池松迂巷らと紫溟吟社を支え、機関紙『銀杏』を創刊。熊本の俳句文化の基礎づくりに貢献。
日露戦争で従軍法務官として満州に出征した際、東京朝日新聞特派員の弓削田精一と親しくなり、東京朝日新聞に現地ルポを寄稿するようになる。それらの文章は『従軍三年』という書物にまとめられ評判を呼ぶ。弓削田の推薦で熊本出身の池辺三山主筆に請われ、明治40年(1907)3月東京朝日新聞へ入社。「辣腕社会部長」として斬新なアイディアを次々に出し、記事の口語体化や、社会面の一新、家庭欄の充実を図る。「取材法」や「記者養成システム」を、現在につながる方法に革新。
熊本時代の知己であった夏目漱石を社員として東京朝日新聞へ招くことに尽力し、石川啄木を抜擢して『朝日歌壇』を創設(
啄木の歌集『一握の砂』の序文を藪野椋十の筆名で執筆している)。
明治43年(1910)中央大学に新聞研究科が設置された際、会社の同僚で親友でもある杉村楚人冠とともに、「中央大学学員」として同研究科の講師を務めた。
名社会部長として「新聞制作の近代化に不朽の足跡」を残すも、性格的に狷介なところがあり、頼みの池辺三山も不祥事の引責で辞め、社内で孤立。自身の離婚問題なども重なり、大正元年(1912)11月に東京朝日新聞を退社する。以後はフリーランスとなり、文筆活動で生計を立てる(フリージャーナリストの先駆けとも言われている)。しかし、晩年は貧苦と病気により、寂しいものであった。(ウイキペディア参照)
【名取春仙(なとり しゅんせん、明治19年(1886) - 昭和35年(1960))】
明治から昭和時代の版画家、挿絵画家、浮世絵師、日本画家。
久保田米僊及び久保田金僊の門人。山梨県中巨摩郡櫛形町(現・南アルプス市)の綿問屋に生まれるが、父・市太郎の事業の失敗により、1歳の時、東京に移る。名は芳之助。春僊、春川とも号す。小学校時代には、同窓の川端龍子、岡本一平、仲田勝之助とともに画才を認められていた。11歳の時、綾岡有真に師事、1900年(明治33年)14歳で米僊に、米僊失明後は金僊に学ぶ。明治38年(1905)、福井江亭にも洋画も学び、東京美術学校においてさらに日本画も学んだが、平福百穂に私淑して中退する。
明治35年(1902)、16歳の時、「秋色」、「霜夜」を第13回日本絵画協会展・第8回日本美術院連合共進会展に出品、「摘草」を第5回无声会展に出品した。同年、真美会に出品した水墨画「牧牛の図」が褒章を受けたのを始めとし、数多くの賞を受けた。明治39年(1906)、20歳の時には日本美術院展に「海の竜神」を出品、入選している。翌年、東京朝日新聞連載の二葉亭四迷の小説『平凡』の挿絵を描いたことが縁となり、明治42年(1909)、同社に入社、大正2年(1913)に退社するまでに夏目漱石の小説『虞美人草』や『三四郎』、『明暗』、『それから』などの挿絵を描いたことで、ジャーナリズムに認められ、以降、多くの挿絵を手掛けた。他には森田草平の『煤煙』や長塚節の『土』、島崎藤村の『春』、田山花袋の『小さな鳩』、泉鏡花の『白鷺』、
石川啄木『一握の砂』(東雲堂書店、1910年)などの挿絵をしている。
昭和33年(1958)2月、長女を肺炎で亡くし、昭和35年(1960)3月30日午前7時、妻の繁子とともに青山の高徳寺境内名取家墓前で服毒自殺した。74歳没。法名は浄閑院芳雲春仙信士。遺書には、寺院へ迷惑をかけることの詫びと、将来、夫婦のどちらか一人だけが残されることは望まぬため、娘の傍で二人で逝くことにした旨が記されていた。(ウイキペディア参照)
★写真は京橋の警察博物館前から京橋交差点方面を撮影したものです。右側の白いビルのところが京橋區南傳馬町三丁目十番地です。残念ながら関東大震災前の地図には東雲堂書店の記載を見つける事はできませんでした。
<東雲堂書店>
京橋區南伝馬町三丁目十番地
大正2年6月 日本橋区檜物町九番地
大正13年 神田區今川小路一ノ一(関東大震災後)
昭和16年 神田區神保町三ノ二七ノ一
昭和21年10月 神田區一ツ橋二ノ九(東雲堂出版部)