<平出修の法律事務所> 明治42年元日の日記です。明治41年11月に「明星」の終刊号を発刊して次の雑誌について検討をしています。新しい雑誌については「スバル」という名称で、経済上の責任を平出君が担当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当することになったようです。平出修は弁護士で大逆事件の弁護を引き受けたことで有名です。
明治四十二年の日誌からです。
「一月一日金曜 晴 曇 寒 四方拝
今日から二十四歳。…
…千駄ケ谷に与謝野氏を訪ふ。間島長島の二君がゐた。屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。…」
”明星”から”スバル”に名前を変えても与謝野寛が抜けただけではメンバーが余変らないので、売れるとは思われないですね。時代にマッチしていかないと難しいとおもいます。
「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「明治四十二年(1909)二十四歳
一月一日 「スバル」創刊。啄木は発行名義人。発行所を平出修の法律事務所である東京市神田区北神保町二番地においた。この月啄木は第二号の編集を担当、その発行準備にあたる。…」
平出修の事務所の場所を書いています。明治41年の「改訂弁護士名簿」によると”
京橋区南鍋町2-5 岡村方”となっていました。弁護士になったのが明治37年で、神保町の事務所開設が明治38年(ウイキペディア)なので、住居が南鍋町かなともおもっているのですが、銀座に住んでいるのも気になります。(明治42年の弁護士名簿は見つかりませんでした)
与謝野寛の「啄木君の思い出」より
「… 間も無く私達が経済上の事情から「明星」を百号で止めようと云い出して、その相談会を同人相寄つて開いた時に、極力不賛成を唱えた人は啄木君であつたが、私を解放して自由に読書の人とさせたい考から平野万里君其他の多数が廃刊説に賛成されたので、私の希望が通つた。その代りに、森鴎外先生や上田敏先生はじめ木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、茅野蕭々、長田秀雄、石井柏亭、高村光太郎、平野万里、平出修、石川啄木、江南文三、私達夫婦が新たに「スバル」という雑誌を出し、経済上の責任を平出君が担当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当する
ことになつた。この編輯をしている中に、啄木君は編輯の事で平野、平出二君と時々小さな意見の衝突があつて、暫くして編輯に関係しなくなつた。私は平出君に「啄木君だけには編輯のお礼をして下さい」と云つたが「スバル」も手一杯の財政であつたから、ほんの僅かばかりしか物質上のお礼は出来なかつたらしい。
当時大逆事件で幸徳秋水外諸氏が死刑や無期懲役に処せられた不祥事があった。日本人の総てが此事件に由って覚醒する所があった。併しまだ其頃は裁判官も弁護士も社会主義、無政府主義、虚無主義の区別さえ知らない時代であったから、花井卓蔵博士までが幸徳氏等の裁判の弁護に当惑せられた。私は間接直接に知っている二三の被告のために、弁護士である平出君を弁護に頼んだが、研究心に富んだ平出君は私に伴われて行って一週間ほど毎夜鴎外先生から無政府主義と社会主義の講義を秘密に聞くのであった。…」
これが当時の状況を良く表わしているとおもいます。
【平出修(ひらいで しゅう、明治11年(1878) - 大正3年(1914))】
日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめたことで有名。
明治11年(1878)新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。その後、小学校の教員をしている時に、高田の平出家の四女・ライと結婚し入夫する。
明治36年(1903)明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格し司法官試補に任ぜられるがこれを辞退する。
明治37年(1904)弁護士登録。
明治38年(1905)神田区北神保町にて独立開業する。石川啄木と親交をむすぶ。
明治43年(1910)与謝野鉄幹とともに森鴎外の饗応を受けており、また、その鴎外から一週間にわたって無政府主義と社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。
平成18年(2006)生家跡には平出修の生誕の地として記念石碑が建てられている。(ウイキペディア参照)
大正3年に亡くなられているので、啄木が亡くなってから4年後ですからあまりかわりません。
★写真の正面あたりが神田区北神保町二番地です、靖国通りが拡張されているので、推定ですが道路上ではないかとおもいます。関東大震災と戦後の区画整理で大きく変ってしまっています。