●「石川啄木の東京」を歩く 明治42年
    初版2017年6月17日  <V01L02> 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治42年」です。今回は明治42年の一年間を掲載します。この年の日記は正月から6月までしかありません。その後は年譜を参照しましたがほとんど記載がありませんでした。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図(書ききれないため重要地名のみ記載)



「神田区北神保町二番地跡」
<平出修の法律事務所>
 明治42年元日の日記です。明治41年11月に「明星」の終刊号を発刊して次の雑誌について検討をしています。新しい雑誌については「スバル」という名称で、経済上の責任を平出君が担当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当することになったようです。平出修は弁護士で大逆事件の弁護を引き受けたことで有名です。

 明治四十二年の日誌からです。
「一月一日金曜 晴 曇 寒 四方拝
 今日から二十四歳。…
…千駄ケ谷に与謝野氏を訪ふ。間島長島の二君がゐた。屠蘇、夕飯。与謝野氏はスバルの前途を悲観してゐた。主要なる話はスバルに関した事であつた。…」

 ”明星”から”スバル”に名前を変えても与謝野寛が抜けただけではメンバーが余変らないので、売れるとは思われないですね。時代にマッチしていかないと難しいとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「明治四十二年(1909)二十四歳
一月一日 「スバル」創刊。啄木は発行名義人。発行所を平出修の法律事務所である東京市神田区北神保町二番地においた。この月啄木は第二号の編集を担当、その発行準備にあたる。…」

 平出修の事務所の場所を書いています。明治41年の「改訂弁護士名簿」によると”京橋区南鍋町2-5 岡村方”となっていました。弁護士になったのが明治37年で、神保町の事務所開設が明治38年(ウイキペディア)なので、住居が南鍋町かなともおもっているのですが、銀座に住んでいるのも気になります。(明治42年の弁護士名簿は見つかりませんでした)

 与謝野寛の「啄木君の思い出」より
「… 間も無く私達が経済上の事情から「明星」を百号で止めようと云い出して、その相談会を同人相寄つて開いた時に、極力不賛成を唱えた人は啄木君であつたが、私を解放して自由に読書の人とさせたい考から平野万里君其他の多数が廃刊説に賛成されたので、私の希望が通つた。その代りに、森鴎外先生や上田敏先生はじめ木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、茅野蕭々、長田秀雄、石井柏亭、高村光太郎、平野万里、平出修、石川啄木、江南文三、私達夫婦が新たに「スバル」という雑誌を出し、経済上の責任を平出君が担当し、編輯を吉井、平野、石川の三君が廻り持で担当する
ことになつた。この編輯をしている中に、啄木君は編輯の事で平野、平出二君と時々小さな意見の衝突があつて、暫くして編輯に関係しなくなつた。私は平出君に「啄木君だけには編輯のお礼をして下さい」と云つたが「スバル」も手一杯の財政であつたから、ほんの僅かばかりしか物質上のお礼は出来なかつたらしい。
 当時大逆事件で幸徳秋水外諸氏が死刑や無期懲役に処せられた不祥事があった。日本人の総てが此事件に由って覚醒する所があった。併しまだ其頃は裁判官も弁護士も社会主義、無政府主義、虚無主義の区別さえ知らない時代であったから、花井卓蔵博士までが幸徳氏等の裁判の弁護に当惑せられた。私は間接直接に知っている二三の被告のために、弁護士である平出君を弁護に頼んだが、研究心に富んだ平出君は私に伴われて行って一週間ほど毎夜鴎外先生から無政府主義と社会主義の講義を秘密に聞くのであった。…」

 これが当時の状況を良く表わしているとおもいます。

【平出修(ひらいで しゅう、明治11年(1878) - 大正3年(1914))】
 日本の小説家・作家・歌人・弁護士。幸徳事件(大逆事件)で弁護人をつとめたことで有名。
明治11年(1878)新潟県中蒲原郡石山村(現・新潟県新潟市)に庄屋・児玉家の八男として生まれる。その後、小学校の教員をしている時に、高田の平出家の四女・ライと結婚し入夫する。
明治36年(1903)明治法律学校(現在の明治大学)を卒業し、判事検事登用試験に合格し司法官試補に任ぜられるがこれを辞退する。
明治37年(1904)弁護士登録。
明治38年(1905)神田区北神保町にて独立開業する。石川啄木と親交をむすぶ。
明治43年(1910)与謝野鉄幹とともに森鴎外の饗応を受けており、また、その鴎外から一週間にわたって無政府主義と社会主義に関する講義を受けたと伝えられている。
平成18年(2006)生家跡には平出修の生誕の地として記念石碑が建てられている。(ウイキペディア参照)
 大正3年に亡くなられているので、啄木が亡くなってから4年後ですからあまりかわりません。

写真の正面あたりが神田区北神保町二番地です、靖国通りが拡張されているので、推定ですが道路上ではないかとおもいます。関東大震災と戦後の区画整理で大きく変ってしまっています。



神田錦町附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用)



「小石川原町一〇跡」
<小石川原町に中村>
 明治42年1月から4月までの日記は詳細に書かれています。まだこの頃は元気であちこちを訪ねています。

 明治四十二年の日誌からです。
「一月五日火曜 晴 温 新年宴会

 湯に入つて、金田一君と二人、六時頃出かけて小石川原町に中村君の加留多会へ行つた。サッパリ気がはづまなかつたが、冷たい空気の正月ながら充ち充ちてゐるかの家をみたのはアナガチ無用でなかつた。帰りは十二時、途中、敵国をあるく時のまねをすると言つてイタヅラしながら夜の路をあるいた。…
一月六日 水曜 曇 温
 風邪の気味で一日鼻がつまつた。朝は金田一君より先におきた。
 平野から(ハガキにて御質問ゆゑハガキにて御返答仕侯)云々のハガキ、会議は開かなくてもよいではないかと、少し怒つた口調で言つて来た。予はうれしくなつた。わざと一日ハガキも出さず電話もかけぬ。
 午前に斬髪し、昨日の為替をうけとり。スバルを三部買つて来て平山、橘、高野の三人へ。平山へ手紙、高野ヘハガキ。
  正午から智恵子さんへ手紙をかき出した。夕方並木君来た。一緒に飯。笑はせクラをしてさわいでると伊東圭一郎
君。
 相不変痔がよくないさうな。この人は気取らないといふことを気取つてる人だ。しかしなつかしかつた。岩動君宅のカルタ会には金田一君に先に行つて貰つて、一時間許り話した。それから一緒に出て、電車の中で高々と盛岡弁で語りながら江戸川終点で下車。わかれて予は一人岩動君宅に行つた。立派な家だ。…」

 ”小石川原町に中村君の加留多会へ行つた”:小石川原町一〇 中村唯一〔住所人名録〕
 ”岩動君宅のカルタ会”:小石川小日向台町一ノ四四、 岩動孝久〔住所人名録〕

写真は小石川原町一〇附近です。”小石川原町一〇”は広くて詳細の場所の特定は困難です。又、”小石川小日向台町一ノ四四”も広くて詳細の場所の特定は困難です。



白山・茗荷谷附近地図



「岡村病院跡」
<岡村病院>
 啄木は「スバル」の発行に向って積極的に動いています。下記にも書いていますが”結局スバルは予の雑誌になるのだ”との思いが強かったのだとおもいます。

 明治四十一年の日誌からです。
「一月十五日 金曜 晴 温…

 金田一君から五十銭借り、一時頃北原君を訪うて原稿の約束をした。詩集の校正は半分許りすんださうな。それから大久保余丁町に永井荷風氏を訪ねてみたが留守、四時頃に疲れきつて千駄ヶ谷に行つた。生田長江君、河井酔若君、太田君が行つてゐた。河井君には初めて逢つた。…

一月十八日 月曜 雪 温
 十一時頃生田長江君におこされた。窓外は霏々たる雪。終日やまなかつた。…
 二時頃、雪を犯して発行所にゆき、岡村病院に平出君をとひ、スバルについての相談、二号以後、百頁のはづだつたのを百五十頁二十五銭にすることに決定。それから色々話した。予は、文壇と直接する必要をとき、平出をして賛成せしめた。結局スバルは予の雑誌になるのだ、予はそれを面白いとおもふ、しかし迷惑と思ふ。…」
 
 弁護士の平出修も体調が良くなかったようです。大正3年に亡くなられているので、啄木が亡くなってから4年後ですからあまりかわりません。

 「スバル」について、あまり知識が無いのでウイキペディアを参照しました。
 『スバル』は、1909年から1913年までに刊行された、ロマン主義的な文芸雑誌である。月刊。通巻60冊。菊判200頁内外。定価30銭。
 文芸雑誌「明星」の廃刊後、森鴎外や与謝野寛(鉄幹)、与謝野晶子らが協力して発行した。創刊号の発行人は石川啄木が務めた。石川、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋、平野万里、吉井勇らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載し、同人らはスバル派と呼ばれた。「パンの会」とともに後期ロマン主義を主導した。
森鴎外は『ヰタ・セクスアリス』(発売禁止になった)『青年』『雁』などを掲載。
石川啄木は創刊時から1年間にわたり同誌の発行名義人を務めており、その時期に『赤痢』『足跡(その一)』などの小説も発表したが、それらの多くは評判があまり芳しくなかったという。
 皆さん、熱中していたようです。

写真の正面茶色の大原法律専門学校のところに岡村病院がありました。岡村病院の住所については帝国医師名簿を参照して”大正8年版 西小川町一ノ八 岡村龍彦(區内では他に無し)”ではないかと推定しています。西小川町なので神保町からは近くとなります。

「現在の三秀舎」
<三秀舎>
 明治42年から発行された「スバル」の印刷所は神田區美土代町の三秀舎になります。 三秀舎は現在も引き続いており、ホームページを参照すると

「…森鴎外や与謝野寛(鉄幹)、与謝野晶子らが協力して発行した文芸雑誌「スバル」が創刊されたのは明治42(1909)年1月。その印刷は三秀舎の手になるものでした。明治43(1910)年の「白樺」創刊より1年以上も前に、三秀舎は日本文学史に名高い雑誌をもう一つ手がけていたのです。スバルとの関係は、大正2(1913)年12月の最終巻にいたるまで続きます。 創刊号の発行人を石川啄木が務めたスバル。石川、木下杢太郎、高村光太郎、北原白秋らが活躍し、反自然主義的、ロマン主義的な作品を多く掲載し、同人らはスバル派と呼ばれました。 森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」などはスバルが初出。鴎外が三秀舎を訪れることはまずなかったでしょうが、その手書きの原稿は三秀舎の手によってはじめて活字になったのです。…」
 文学関係に強い印刷所だったようです。資金的に苦しい雑誌を良く応援したとおもいます。

 明治四十二年の日誌からです。
「一月二十一日 木曜 細雨 温
…予は三秀舎へ行つて第二号の初め六十四頁分の原稿をおいて来た。それか
ら伊上にゆくと、持病で寝てゐた。表紙の事、裏画((南蛮寺門前──太田君鉛筆画))のこと決定。…

一月二十三日 土曜 晴 寒
 十一時起床、朝飯もくはずに俥で三秀舎へゆき、原稿を渡し、伊上へ行つて写真版をたのみ 平出宅へ入つて、それから岡本病院に平出君を訪ねた。そして昂の事相談。…

一月二十五日 月曜 兩
 十二時におきて(足跡)の稿をつぐ。
 車夫をして原稿を三秀舎に送つた。
 平野が来た。校正が来た。平野のもつて来た餅をやいてくふ。湯に入る。…

一月二十七日 水曜…
… それから伊上へよつて三秀舎にゆき、(足跡)の原稿わたす。平野がゐた、一寸校正して、二時間許帰つた、そのあとに平野が歌の六号になつてるのを発見して周章して平出のところへとんで行つたのだ。…

一月二十八日 木曜 晴 温
 朝に平出によつて広告の原稿やる。
 それから三秀舎へ行つて終日、──夜午前二時まで校正。やりながら(一隅より、──正月の小説界)をかいたが、頁がよけいになるので掲げられなかつた。間島君も来た。
 平野が、歌を六号にした事について抗議文をかいて来た。馬鹿奴とは思つたが、好戦的にそれを出すことにした。そしてその返事を、予は(消息)中にかいた。その校正が来て予が見てる時だ、平野はソワ/\してしきりに予の心をとる様なことを言つてゐた。予は生返事しながら、それでも少し、一二ヶ所烈しい文句だけはけづつてやつた。…

 一月三十一日 日曜 曇 温
 おそくおきた、何となく気分のすぐれぬ日であつた、
 午后一時半頃三秀舎にゆくと、雑誌はもり出来あがつて発行所へやつたといふ。行つてみると積んであつた。予が一ヶ月の労力はこれ。
 芝の方は自分で行つて本屋へおろした。そして電車の中で阿部次郎君に逢つた。
 与謝野氏は転宅のため来てくれぬ。平野も来ぬ。来なくてもいゝ時は来て、来なければならぬ今日は来ぬ。自分でスツカリかたづけようかとも思つたが、つまらぬと思つて帰つて来た。…

二月二十六日金曜
 午後一時、今ゆくといふ北原の電話、太田から三秀舎へ来てすけてくれといふ電話、やがて北原が来てくれた、そして一緒に三秀舎へ行つたが太田がをらぬ、何処へ行かうと長いこと小川町に立つた末、新橋のステーションへ行つた、そして一時間許り何の意味もなく待合所に遊んで来た、人々のきれぎれの会話、色々な人相……面白かつた、然し少し寒かつた、…
 夜また電話、太田が来てくれといふ、金田一君から電車代かりて三秀舎にゆき、十二時まで共に校正した、モウ/\編輯はせぬ──馬鹿は二度編輯しろ──と太田が言つてゐた、…」

 啄木は本当によくこの三秀舎にかよっています。

写真は現在の三秀舎です。戦前から場所は変っていないとおもいますが、ココだけでは無く近くに他にもあったのではないかとおもいます。要調査です。

「駿河台東紅梅町二」
<駿河台東紅梅町二の家>
 与謝野寛、晶子夫妻は明治42年1月東京府神田区駿河台東紅梅町に転居します。啄木も通ったようです。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「一月二十九日 金曜 曇 風 寒
… それから与謝野氏が今度引越す駿河台東紅梅町二の家ヘ一しよに行つてみて、昌平橋でわかれた。予も早く家をもちたかつた。…

二月二十日 土曜
… 予は一人東紅梅町に与謝野氏をとうた、多田君が来てゐた、(鳥影)の世話をしようといふのは対鈴木問題なるをよんだ、…」

 与謝野寛、晶子夫妻は明治43年8月には麹町区中六番町三番地に転居しています。一年と7ヶ月の住まいでした。

写真の一区画、全てが神田区駿河台東紅梅町二番地です。非常に大きな区画で詳細の場所は不明です。



神田錦町・神保町附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用



「啄木記念碑」
<東京朝日新聞>
 定職を探していた啄木は明治42年2月24日、東京朝日新聞に校正係に入ることが決定、”二十五円外に夜勤一夜一円づゝ”の報酬でした。3月1日から正式に出社します。ただ、この仕事もきっちり出来たわけではありません。時が経つに従って欠勤も多くなっていきます。啄木の性格からすると、毎日同じ時間に出社して仕事が出来るタイプではないようです。

 明治四十二年の日誌からです。
「二月三日 水曜 雨 温
… 今日朝日新聞の佐藤北江氏へ手紙と履歴書とスバル一部おくる。…

二月六日 土曜
… それから予一人朝日新聞社に佐藤北江(真一氏)をとひ、明日の会見を約して〈初対面、三十円で夜勤校正に使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してくれるといふ確言をえて〉夕方かへる。…

二月七日 日曜
 午前十時頃金田一君盛岡から帰つて来た、さうかうしてると豊巻君が来、雑誌をかりて帰る、昼飯をくつて出かけて北原君をとひ、天プラを御馳走になる、今日は鈴木氏が不在だからといふので、辞して春陽堂にゆくと日曜で休み、約の如く朝日新聞社に佐藤氏をとひ、初対面、中背の、色の白い、肥つた、ビール色の髯をはやした武骨な人だつた、三分間許りで、三十円で使つて貰ふ約束、そのつもりで一つ運動してみるといふ確言をえて夕方ノコ/\くし乍らかへる、此方さへきされば生活の心配は大分なくなるのだ、…

二月二十四日水曜
 記憶すべき日、
 夜七時頃、おそくなつた夕飯に不平を起しながら晩餐をくつてると朝日の佐藤真一氏から手紙、とる手おそしと開いてみると二十五円外に夜勤一夜一円づゝ、都合三十円以上で東朝の校正に入らぬかとの文面、早速承諾の旨を返事出して、北原へかけつけると、大によろこんでくれて黒ビールのお祝、十時頃陶然として帰つて来た、
 これで予の東京生活の基礎が出来た、! 暗き十ヶ月の後の今夜のビールはうまかつた、…

二月二十五日 木曜
 午後朝日社に行つて佐藤氏に逢ひ、一日から出社のことに決定、出勤は午後一時頃からで、六時頃までとのこと、 夜、その旨を太田北原二君、与謝野氏、及び函館なる家族へ知らせてやつた、それから岩動君へ手紙、…

二月二十八日日曜
 十時頃起きて北原へゆくと、鈴木氏が来てゐた、途中足駄と傘を買ふ、
 鼓村氏と共に大学館にゆき(鳥影)たのむ、十日頃来てくれとのこと、雨がふつてゐた、ソバをおごられ、予一人また北原の宅へゆく、
 四時頃帰つて来て、宿へ十円やつた、百十何円へ十円一然し朝日へ出ることになつたのは多少の信用を作つたらし
い!…

三月一日月曜
 九時少し前起きる、
 嚢中四十五銭、これではならぬとアート エンドモーラリチーを一円三十銭に売り、ツボヘ感謝の電報を打ち名刺の台紙を購ふ、
 昼飯をくつて電車で数寄屋橋まで、初めて滝山町の朝日新聞社に出社した、……」


【東京朝日新聞(とうきょうあさひしんぶん)は日本の日刊新聞】(ウイキペディア参照)
 『朝日新聞』の東日本地区での旧題。現在の朝日新聞東京本社版の前身にあたる。略称は東朝(とうちょう)。大正期には東京五大新聞(東京日日、報知、時事、國民、東京朝日)の一角として数えられた。関東大震災では大打撃を受けたが、大阪本拠の利点を生かして立ち直り、逆に在京既存紙を揺るがす形で伸張した。昭和初期までは「東亰朝日新聞」と「京」の異体字を使用していた。
・明治21年(1888):東京府東京市京橋区元数寄屋町二丁目一番地(現在の東京都中央区中央区銀座五丁目)
・明治22年(1889):東京府東京市京橋区京橋区滝山町四番地(現在の東京都中央区中央区銀座六丁目)
(”明治30年11月調査 東京市京橋區全図”には滝山町五番地に朝日新聞社と記載あり)
・昭和2年(1927) :東京府東京市麹町区有楽町三丁目一番地(現在の東京都千代田区有楽町一丁目)
・昭和55年(1980):東京都中央区築地5-3-2

写真は中央区銀座6-6にある啄木の記念碑です。文面は”京橋の滝山町の新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな”と啄木の歌が記されています。東京朝日新聞があったところには現在朝日ビルが工事中です。朝日新聞は新聞事業より不動産業で儲けているのではないかとおもいますね。

 啄木の記念碑の裏側にキツツキの像があります。私も教えて頂いたのですが、啄木とはキツツキのことだそうです。



銀座付近地図(谷崎潤一郎の東京 銀座地図を流用)



「本郷区木郷弓町2−17」
<本郷弓町二丁目十八番地新井方>
 明治42年3月から東京朝日新聞社に勤めたこともあって生活が安定したため、6月、函館から家族を呼びます。日記は6月1日までしかなく、”床屋の二階に移るの記”あるのみです。年譜その他から状況を知るしかありません。

 ”床屋の二階に移るの記”です。
「(床屋の二階に移るの記)
         本郷弓町二丁目十八番地
         新井(喜之床)方
 髪がホウボウとして、まはらな髭も長くなり。我ながら厭になる程やつれた。女中は肺病やみのようたと言つた。下剤を用い過ぎて弱つた身体を十日の朝まで三畳半に横たえていた。書こうという気はどうしても起こらなかつた。が、金田一君と議論したのが縁になつて、いろいろ文学上の考えをまとめることができた。
 岩本か来て予の好意を感謝すると冒つて泣いた。
 十日の朝、盛岡から出した宮崎君と節子の手紙を枕の上で読んた。七日に函館を発つて。母は野辺地に寄り、節子と京子は友と共に盛岡まで来たという。予は思つた。
「ついに!」
 宮崎君から送つてきた十五円て本郷弓町二丁目十八番地の新井という床屋の二階二間を借り、下宿の方は、金田一君の保証で百十九円余を十円すつの月賦にしてもらい、十五日に発つてくるように家族に言い送つた。
 十五日の日に蓋平館を出た。荷物だけを借りた家に置き、その夜は金田一君の部屋に泊めてもらつた。異様な別れの感じは二人の胸にあつた。別れ!
 十六日の朝、また日の昇らぬうちに予と金田一君と岩本と三人は上野ステーションのプラットホームにあつた。汽車は一時間遅れて着いた。友、母、妻、子…………俥で新しい家に着いた。」

 淡々と書いています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「六月十六日 宮崎郁雨が同伴して函館から上京した家族を上野駅に迎え、床屋を家業とする本郷区本郷弓町二丁目十七番地新井こう方二階二間の新居に移る。(啄木は日記、書簡に新居を「本郷弓町二丁目十八番地新井方」と書いているが、この家は現存する東京法務局文京出張所の建物登記簿によると、「明治四拾年拾壱月貳拾貳日受付 東京市本郷区本郷弓町貳丁目拾七番地宅地四拾八坪四合五尺一木造瓦葺貳階建壱棟建坪拾四坪貳階七坪 右登記ス」「明治四拾壱年拾壱月貳拾貳日受付第壱四六六壱号東京市本郷区本郷弓町貳丁目拾七番地新井辨治ノ為所有権ヲ登記ス」とあり、本郷区木郷弓町二丁目拾七番地が正確な番地であったと思われる。)…」
 地番の違いは単なる勘違いとおもいます。”新井こう方”が正しければ問題ありません。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「… 四月一三日、母カツより上京を促す手紙来る。
 六月二日、節子、函館区立宝尋常高等小学校退職。
 六月七日、宮崎郁雨に伴われて妻、母、京子函館出発。
 六月一六日、家族を上野駅に迎える。本郷区本郷弓町二丁目十七番地(現文京区本郷ニー三八−九)の新井こう方
(喜之床)にて二間の間借り生活。…」

 啄木自身が家族を呼んだわけでは無く、家族からせかされたようです。

写真の正面が”新井方”です。今は春日通りに面していますが戦前は通りから数軒引っ込んだところにありました。関東大震災以前の地図はありませんが、戦前の火保図がありましたので下記に掲載しておきます。これによると春日通りから三軒目になっています。名古屋の明治村に移設された喜之床の写真も掲載しておきます。
 続きます!



本郷附近地図(太宰治関連地図流用)



本郷附近地図(戦前の火災保険特殊地図)