●「石川啄木の東京」を歩く 明治41年 -5-
    初版2017年6月3日
    二版2017年6月17日  東京毎日新聞の場所を修正
    三版2017年7月4日  <V01L02> 東京毎日新聞の沿革を修正 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治41年 -5-」です。今回は明治41年8月21日〜12月末までで、やっと明治41年が終りました。啄木の死去が明治45年ですから後3年と少しありますので、掲載数を増やして6項目の掲載にしました。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図



「三友館跡」
<キネオラマ>
 明治41年8月21日、啄木は金田一京助と浅草に遊んでいます。十二階に登り、三友館でキネオラマを見て、十二階下の私娼窟で××です。日誌には××は書いていませんが当然だとおもいます。吉原は高額なのでお金のないものの遊び場はこのような場所だったわけです。

 明治四十一年の日誌からです。
「八月廿一日
 夜、金田一君と共に浅草に遊ぶ。蓋し同君嘗て凌雲閣に登り、閣下の休魔殿の在る所を知りしを以てなり。
 キネオラマなるものを見る。ナイヤガラの大瀑布、水勢鞺鞳として涼気起る。既にして雷雨あり、晴れて夕となり、殷紅の雲瀑上に懸る。月出でて河上の層楼窓毎に燈火を点ず。児戯に似て然も猶快を覚ゆ。
 凌雲閣の北、細路紛糾、広大なる迷宮あり、此処に住むものは皆女なり、若き女なり、家々御神燈を掲げ、行人を見て、頻に挑む。或は簾の中より鼠泣するあり、声をかくるあり、最も甚だしきに至つては、路上に客を擁して無理無体に屋内に拉し去る。歩一歩、チョイト∞様子の好い方∞チョイト、チョイト、学生さん∞寄つてらつしやいな
 塔下苑と名づく。蓋しくはこれ地上の仙境なり。
 十時過ぐるまで艶声の間に杖をひきて帰る。…」

 ”キネオラマなるものを見る”としか書いて無く、見た劇場の名前がありません。啄木の「我等の一団と彼」の中に劇場の名前を見つけました。

 啄木の「我等の一団と彼」より
「…『驚いたらう? 僕も初めは驚いたよ。何しろ意外な處で見附けたんだものな。』
『淺草の何處にゐたんだ。』
『まあ聞き給へ。昨日僕は○○さんから活動寫眞の弊害調査を命ぜられたんでね。早速昨夜淺草へ行つて見たんさ。可いかね? さうして、二、三軒歩いてから、それ、キネオラマをやる三友館てのが有るだらう? 彼れへ入つたら、先生ぽかんとして活動寫眞を見てゐるんぢやないか。』
『ははは。活動寫眞をか! そして何と言つた?』
『何とも言はんさ。先あ可いかね。僕が入つて行つた時は何だか長い芝居物をやつてゐて、眞暗なんだよ。…」

 ここで”キネオラマをやる三友館”と分かります。

 永井荷風の断腸亭日乗に12階附近の私娼窟について書いていないか探してみました。
「断腸亭日記巻之五大正十年
十月廿三日。午後百合子来る。倶に浅草公園に徃き千束町の私娼窟を一巡して帰る。百合子余が家に宿す。…」

 少しだけ書いてありました。浅草十二階(凌雲閣)辺りは当時の住所で千束町2丁目でした。

写真の右側正面あたりに三友館がありました。現在は浅草演芸ホールです。浅草十二階(凌雲閣)の絵葉書を掲載為ておきます。又、米久の横の筋が若干昔の面影があるかなとおもったので写真を掲載しておきます。浅草地図 -2- 大正10年(高見順の浅草地図を参照)の@のところAのところ



浅草地図 -1- (高見順の浅草地図を参照)



浅草地図 -2- 大正10年(高見順の浅草地図を参照)



浅草地図 -3- 大正10年(高見順の浅草地図を参照)



「太栄館跡」
<蓋平館別荘(高木)といふ高等下宿>
 明治41年9月6日、啄木は金田一京助の好意で一緒に森川町一番地新坂三五九、蓋平館別荘(高木)に移ります。本当に金田一京助は本当に優しい人です。これだけ借金を重ねられれば、いくら同郷でも、嫌になってしまうとおもうのですが、昔の人は偉いです。

 明治四十一年の日誌からです。
「九月六日
 十一時頃に起きた。枕の上で矒乎考へ事をしてゐたのだ。
 金田一君が来て、今日中に他の下宿へ引越さないかといふ。同君は四年も此下宿にゐて、飽きた、飽きた、陰気で嫌だとは予々言つてゐたが、怎して然う急にと問ふと、詰り、予の宿料について主婦から随分と手酷い談判を享けて、それで憤慨したのだ。もう今朝のうちに方々の下宿を見て来たといふ。
 予は、唯、死んだら貴君を守りますと笑談らしく言つて、複雑な笑方をした。それが予の唯一の心の表し方であつたのだ!
 本を売つて宿料全部を払つて引払ふのだといふ。本屋が夕方に来た。暗くなつてから荷造りに着手した。
 それより前、本屋の来るのを待つ間の怠屈を、将棋でまぎらかした。三番やつて予が退けた。其処へ、小樽の桜庭ちか子さんから美しい字でかいた葉書が来た。
 午後九時少し過ぎて、といふ高等下宿に移つた。家は新らしい三階建、石の門柱をくぐると玄関までは坦かな石甃だ。家の造りの立派なことは、東京中の下宿で一番だといふ。建つには建つたが借手がないので、留守番が下宿をやつてるのだとのこと。
 三階の北向の室に、二人で先づ寝ることにした。成程室は立派なもの。窓を明けると、星の空、遮るものもなく広い。下の谷の様な町からは湧く様な虫の声。肌が寒い程の秋風が天から直ちに人つてくる。
 枕をならべて寝た。色々笑ひ合つて、眠つたのは一時頃であつたらう。
    三階生活…」

 蓋平館別荘(現 太栄館)は余に有名なので直ぐに分かります。私もかなり昔から前を通って撮影していました。ただ、現在は敷地全体でマンションを建設中でした。秋には出来るようです。

写真は蓋平館別荘(現 太栄館)跡で、マンションを建設中です。平成12年(2000)に太栄館を撮影しておりましたのでその写真を掲載しておきます。玄関前に石川啄木の碑が建てられていました。マンションが建っても石川啄木の碑はおかれるとおもいます。写真の道を左に行くと下り坂となります。この坂は新坂といって有名な坂で文京区教育委員会の記念碑が建てられています。



本郷附近地図(太宰治関連地図流用)



「明治時代の鈴本亭跡」
<鈴本亭>
 啄木は寄席や義太夫を聴きによく行っていたようです。一番近かったのは上野広小路の鈴本亭です。当時の娯楽はこれくらいしか無かったのだとおもいます。”美人の昇菊”は今で言えば誰かな?

 明治四十一年の日誌からです。
「十月五日
 午後三時頃まで机に向つて、遂に想がまとまらず。
 吉井君が来た。日がくれてから、平野君を誘つて鈴本亭に義太夫をきく。かほるといふのが案外巧かつた。大切は朝重に昇菊、の酒屋。美人の顔を黙つて見てると、実に気持が可い。這麼時予の心は三様に働く。一つの心は、義太夫を聴いて味つてゐる。一つの心は、美しい顔を眺めて喜んでゐる。そして一つの心は、取留もない空想に耽つてゐる。…

十月九日
予は平野君と共に鈴本亭に義太夫をきいた。今夜位真面目に聞いた事はない。小土佐は流石に巧かつた。朝重の鳴門、纎かな談振、情の機微を捉へて、人を泣かせる。美人の昇菊の存在も忘れて一心に聴いたものだ。明日の電車賃五十銭平野君からかりた。…

十月十一日
 帰つて来るとき、電車が満員で五台許り見送つた。吉井が是非昇菊の顔を見なけりやならぬと云ふ。平野の処で夕飯をくつて、八時少し前、三人で鈴本亭に行つた。小土佐がやつてゐた。太田正雄君も来てゐた。小京の風邪声、イヤで、イヤで、そして眠い。朝重は、お俊伝兵衛、猿廻しの段、昇菊に京歌のつれ引、眠くて、眠くて、見台を叩く音にびつくりする、昇菊が素的に美しく見えた。見てゐると、段々遠くなつてゆく様に見える、卜、ドタンと見台を打つ音、びつくりして又昇菊の顔をみる。こんな事が何回か続いて、十時二十分にハネた。帰りは月がよかつた。…

十二月六日
 それから小奴と二人、日本橋の宿へ電車で行って、すぐまた出た。須田町から本郷三丁目まで、手をとって歩いた。小奴は小声に唄をうたひ乍ら予にもたれて歩く。大都の巷を──。俥で鈴本へ行つて、九時共に帰宿、金田一君を呼んで、三人でビールを抜き、ソバを喰った。
 十二時に帰した。通りまで送った。…」
 
 ウイキペディアには女義太夫について下記のように書かれていました。
”1900年には、豊竹呂昇、豊竹昇之助・昇菊姉妹、二代目綾之助などが上京して人気となるが、初代綾之助ほどではなかった、この頃に東京の娘義太夫は1000人を越え、地方都市でも興行を行ったが、東京ほどの人気は得られなかった。志賀直哉は学生時代の1903年頃から昇之助の熱烈なファンになって寄席通いしたことが日記に記されており、1908年に昇之助の結婚後には木下杢太郎が昇菊に熱を上げ、「花の「昇菊、昇之助」」を謳った詩も残している。また高浜虚子は竹本小土佐に思い入れし、小説『俳諧師』では主人公が娘義太夫の小光に入れ込む姿が描かれている。”
 皆さん、熱中していたようです。

写真の真ん中辺り、左角の亀井堂の右側辺りに鈴本亭がありました(現在の鈴本亭の道路を挟んで反対側です)。大正6年の東京演芸地図 講談浄瑠璃落語定席一覧には”下谷區之部 上野小路町十一番地 鈴本亭”と記載があります。又、「古老がつづる台東区の明治・大正・昭和」には上野広小路の地図の記載があり、亀井堂の右横に書かれていました。亀井堂は当時と同じ場所にありますので、右側に当時の鈴本亭があったとおもわれます。



上野広小路附近地図(「芥川龍之介のしるこ」の地図流用)



「大隈伯邸」
<大隈伯邸>
 明治41年7月27日、啄木は金田一京助に誘われ、早稲田の大隈伯邸で開催された三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会に出かけます。”2千人の来賓”は凄いですね、広い庭でのガーデンパーティーを行なったのだとおもいます。啄木はビックリしたとおもいます。

 明治四十一年の日誌からです。
「十一月二十一日…

  明日三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会が大隈伯邸に催される。行かぬかと金田一君がいふ。
 それで平野君へ行つて同行を約し、追分日本館に藤岡玉骨君を訪ね、三円借りた。…

十一月二十二日
 日曜日。
 大急ぎで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に人つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の摸擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。
 上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も予の知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。
 上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵へた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈あるらしいと言つた。
 ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスベーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。
 六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝やいてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。
 門──今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再びと入ることがあるまいと言つて笑つた。実際──恐らくは実際さうであらう。…」

 啄木はこの会場で上田敏にあっています。森鴎外繋がりかもしれません。啄木が上田敏に初めて会ったのは明治38年1月5月の新詩社新年会だとおもいます。

【上田敏(うえだ びん、明治7年(1874) - 大正5年(1916))】
 日本の評論家、詩人、翻訳家。「柳村(りゅうそん)」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。旧幕臣上田絅二(けいじ)の長男として明治7年(1874)、東京築地に生まれる。絅二は昌平黌教授をつとめた儒学者の乙骨耐軒の次男で、英学者で沼津兵学校教授の乙骨太郎乙は伯父(耐軒の長男)、その子で音楽評論家の乙骨三郎は従兄弟に当たる。静岡尋常中学、私立東京英語学校、および第一高等学校を経て、明治30年(1897)東京帝国大学英文科卒。講師小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)。第一高等学校在学中、田口卯吉邸に寄寓しており、平田禿木を通じて北村透谷・島崎藤村らの『文学界』同人となり、東大在学中、第一期『帝国文学』の創刊(明治28年(1895))にかかわる。明治35年(1902)主宰誌の『芸苑』と廃刊になっていた森鴎外の主宰誌『めざまし草』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。その後、鴎外とは家族ぐるみで交際した。明治大学で教鞭を執っていたが、明治41年(1908)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となる。この頃、「マント事件」によって一高を退学し京都帝大に進学していた菊池寛が上田に師事した。明治43年(1910)慶應義塾大学文学科顧問に就任。大正5年(1916)腎臓疾患で東京の自宅で急逝。享年41歳。(ウイキペディア参照)
 明治7年生まれですから啄木より12歳上で学歴も凄いです。

 上田敏関連の啄木日誌 
「十月三十日
 新たに帰朝した上田敏氏を訪ねた。与謝野氏の伝言を伝へて一時半許りも話した。少し頭の毛がうすくなつてゐる。そして、盛んに日本文学者がブライドを失つてゐると気焔を吐かれた。…

十一月十九日
 昼飯をすごして、一時頃平野君から電話、吉井君が来てるから来ないかといふ。一時後にゆく約束をして、小説をかいて了つて二時半出かけた。上田氏の宅に行つてゐるといふ。行くと平野吉井に栗山の三君がゐた。上田氏は仏蘭西の話をされた。面白かつた。二十三Bに立つて京都にゆくといふ。アナトール・フランスの小説の梗概二つヨつきいた。…

十二月十一日
 (九)ノ四。
 朝に平野が下まで来て、上田氏が出京してるからと言つたので、午後一時頃に訪ねた。風邪の気味で京都の方電報でのばして静養中との事。原稿は明日までの約。今後毎号昴にかく約束。…」

 上田敏の住まいに関しては啄木の日誌の中に記載がありましたが、文京区教育委員会発行の「文京ゆかりの文人たち」に詳しく書かれていました。
<文京区とのゆかり>
明治七年一〇月三〇日 東京府築地(中央区)二丁目一四番地生
明治二二年四月     *本郷西片町一〇番ヘノ一四(西片2-18-4)
明治三二年九月     *〃西片町七番にノー (西片2-3-22)
               *〃西片町一〇番にノ四四(西片2-12-14)
明治四二年六月 京都へ(京都大学文学部講師)
大正五年七月九日   東京市芝区(港区)白金内三光町で没 墓・谷中霊園
        (*西片2-19-4・田口邸に、鼎軒(田口)柳村居住之地碑
※啄木の日誌に書かれていた住所は”西片町一〇番にノ四四”です。

写真は現在の大隈庭園です。大隈邸が出来たのは明治20年といわれています。大正11年に大隈重信の没後、その遺志によって早稲田大学に寄附され、大隈会館の庭園として活用されました。空襲で被害を受けましたが戦後復旧されています。



早稲田鶴巻町附近地図(孫文の地図を流用)



「京橋尾張町新地七」
<東京毎日新聞>
 2017年6月17日 東京毎日新聞の場所を修正
 2017年7月5日 東京毎日新聞の沿革を修正

 (東京毎日新聞については全く勘違いをしていたので修正します)
 啄木は11月1日から東京毎日新聞に新聞小説を掲載することが決まります。東京毎日新聞に勤める友人 栗原古城(元吉)が骨を折ってくれたおかげです。啄木は本当に良い友人を持っています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十月三十一日 新詩社の同人で東京毎日新聞社に勤務する栗原古城(元吉)の厚意で「東京毎日新聞」に新聞小説「鳥影」を連載することになり、この日啄木の書いた予告が同紙に掲げられた。「本朝の御紙にて予告文を見、聊か若き心のをののくを覚え侯」(栗原古城宛十月三十一日書簡)十一月一日 この日から年末にかけて小説「鳥影」が「東京毎日新聞」に連載される。…」

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一〇月一日、『東京毎日新聞』に勤務する新詩社同人栗原古城から、同紙に小説連載の勧めを受ける。
 一一月一日、『東京毎日新聞』に「鳥影」を連載(五九回)を開始する。…」


 明治四十一年の日誌からです。
「十月十一日
 今日新詩社へ毎日新聞にゐる栗原古城君(文学士)が来て、二週間後から毎日に掲げる小説(一回一円)の話、五六回分を二三日中に同君へ届ける約束が出来た。八分通りまでは成功しさうだといふ。そして、回数には制限がない。…

十月二十六日
  清岡、新渡戸、桜庭、及び郁雨正二君とせつ子とへ葉書──毎日社の小説きまつた事を知らしてやつた。…

十月三十一日
  この日の東京毎日に、鳥影=@の事予告文が載つた。…

十一月一日
 予の生活は今日から多少の新らしい色を帯びた。それは外でもない。予の小説鳥影≠ェ東京毎日新聞へ今日から掲載された。朝、女中が新聞を室へ入れて行つた音がすると、予はハツと目がさめた。そして不取敢手にとつて、眠い目をこすり乍ら、自分の書いたのを読んで見た。題は初号活字を使つてあつて、そして、挿画がある。──静子が二人の小妹をつれて、兄の信吾を好庠のステーションへ迎ひに出た所。
  一葉は切抜いて貼つておく事にし、一葉は節子へ、一葉はせつ子の母及び妹共へ送ることにした。…

十一月三十日
 おそく起きた。
 平山良子から写真と手紙。驚いた。仲々の美人だ
 スラスラと鳥影(七)の二をかき、それを以て俥で午後三時毎日社へ行った。そして三十円──最初の原稿料、上京以来初めての収入──を受取り、編輯長に逢ひ、また俥で牛込に北原君をとひ、かりた二円五十銭のうち一円五十銭払ひ、快談して帰った。宿へ二十円、女中共へ二円。日がくれた。…」

 原稿料として初めての収入が30円、相当うれしかったとおもいます。ただこれが続かないのが啄木です。
 啄木の〔住所人名録〕には”京橋尾張町新地七 新橋一四七 東京毎日新聞社ヽ”の記載があります。
 
 上記に書かれている東京毎日新聞とは、横浜毎日新聞を改題した新聞で、大阪毎日新聞(現在の毎日新聞社)とは全く関係の無い新聞社です。

<横浜毎日新聞(東京毎日新聞)>
明治3年12月8日(1871年1月28日)、横浜で創刊された日本最初の日本語の日刊新聞。横浜活版舎(のち横浜毎日新聞社)が発行。当時の神奈川県令(県知事)・井関盛艮(いぜき・もりとめ)が近代新聞の必要性を横浜の貿易商達に説き、印刷業者の本木昌造・陽其二の協力の下、創刊に漕ぎ着けた。編集者は横浜税関の翻訳官:子安峻(こやす・たかし)。この時に出資・創刊を行った島田豊寛(とよひろ)が社長に就任。1873年(明治6年)には妻木頼矩が編集長となり、その後島田三郎(豊寛の養子)、仮名垣魯文が文章方(記者)となった。幕末の新聞は半紙を二つ折り、若しくは四つ折りにしたものを数枚まとめた「冊子」であったのに対し、本紙は洋紙の両面に記事を木活字で印刷し、紙面を欄で区切るという、現在の新聞とほとんど変わらないものであった。発行経緯からわかるように当初は貿易に関する情報が紙面の中心となっていたが、明治7年(1874)頃より、民権派の新聞と目されるようになる。明治12年(1879)11月18日、沼間守一が買収(社長も豊寛から沼間へ変わった)して東京に移駐し、「東京横浜毎日新聞」と改題。発行元も東京横浜毎日新聞社から毎日新聞社と改称。肥塚龍らが健筆を振るって、嚶鳴(おうめい)社系の民権新聞として確立し、後に嚶鳴社一派を率いて沼間も参加した立憲改進党の機関紙となって、明治19年(1886)5月1日には「毎日新聞」、明治39年(1906)7月1日に「東京毎日新聞」とそれぞれ改題した。この間の明治21年(1888)に沼間から引き継いで島田三郎が社長に就任し、日露戦争に対しては徹底的な反戦姿勢を貫いた。また、「毎日新聞」時代の明治28年(1895)には樋口一葉の小説『軒もる月』が掲載されている。しかしながら、経営は芳しくなく明治42年(1909)報知新聞社に身売り。報知の傍系紙として存続するが、やがて報知でも持て余す存在となる。大正3年(1914)山本実彦に譲渡。その後経営者は転々とし、頼母木桂吉が社長を務めたこともある。昭和15年(1940)11月30日、「帝都日日新聞」(野依秀市経営)に吸収合併され、日本初の日本語による日刊紙は消滅した。(ウイキペディア参照)

写真正面の日産のショールーム(SONYのショールームも一時的に移転している)のところが”京橋尾張町新地七”で 東京毎日新聞跡です。



銀座付近地図(谷崎潤一郎の東京 銀座地図を流用)



「蓬莱家 日本橋通り二ノ八」
<日本橋二丁目の蓬莱屋>
 今回の最後は”日本橋二丁目の蓬莱屋”です。釧路時代に関係があった藝者 小奴が男に連れられて上京、宿泊したのが”日本橋二丁目の蓬莱屋”です。正式には”蓬莱家”がただしい。

 明治四十一年の日誌からです。
「十二月一日
 遂に今年も十二月となった。
 一昨日原稿がおそかったので、今朝は新聞の小説休載。
 赤痢≠ワた稿を改めて書き出した。それで一日は短かく暮れた。
 六時半頃のことだ。女中が来て、日本橋から使が来たといふ。誰かと思って行っで見ると、伸夫が門口に立ってゐる。誰からと聞くと、一寸外へ出てくれといふ。
 釧路から来たものだと言ってくれ。
といふ女声が聞えた。ツイと出ると、驚いた、驚いた、実に驚いた。黒綾のコートを着た小奴が立ってるではないか!
 ヤアー″
と言ったきり、暫くは二の句をつげなかった。俥を返して入つた。
 或る客につれられて来たので日本橋二丁目の蓬莱屋に泊つてるといふ。予は唯意外の事にサッパリ解らなかつた。…
十二月二日
 (七)の三。
 昼食がすむと、日本橋に坪仁子の宿を訪うた。座にゐたのは大坂炭鉱の逸身豊之輔、函館の奥村某──小奴は予の後に座ってゐた。三時頃異様な感情を抱いて帰った。…

十二月七日
 赤痢≠直して三秀舎に送った。
 (八)の五。
 日本橋から今日来てくれとの電話。予は先頃から電話をかけることをおぼえた。どうも変なものだ。
 夕方一寸平野君。
 飯がすむと日本橋へ行った。(お待兼でムいます。)と女中が階子口で言つた。奴は八畳間に唯一人、(逸身氏は大坂に行つて了つたのだ。)寂し相に火鉢の前に坐つてゐた。イキな染分の荒い縞お召の衣服。
 共に銀座に散歩した。奴は造花を買つた。
 それからまた宿に帰つて、スシを喰ひ乍ら悲しき身の上の相談──逸身の妾になれ、と勧めた。
 十一時、言ひがたき哀愁を抱いて一人電車で帰つた。…」

 小奴は好きだった啄木に面倒をみて貰いたかったのだとおもいます。自身の生活でやっとだった啄木が面倒を見れる筈かありません。”逸身の妾になれ、と勧めた”は正直なところだったとおもいます。

 ”日本橋二丁目の蓬莱屋”については帝国旅館全集(大正2年)で調べると”蓬莱家 日本橋通り二ノ八”とあります。

写真は日本橋の交差点を京橋側から撮影したものです。写真のビルは東京日本橋タワーです。このタワーの右側に小径があり、この道を少し入った左側が日本橋通り二ノ八となります。この辺りに蓬莱家があったとおもわれます。
 続きます!



日本橋、東京駅、京橋附近地図