<大隈伯邸> 明治41年7月27日、啄木は金田一京助に誘われ、早稲田の大隈伯邸で開催された三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会に出かけます。”2千人の来賓”は凄いですね、広い庭でのガーデンパーティーを行なったのだとおもいます。啄木はビックリしたとおもいます。
明治四十一年の日誌からです。
「十一月二十一日…
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明日三省堂の日本百科大辞典の披露園遊会が大隈伯邸に催される。行かぬかと金田一君がいふ。
それで平野君へ行つて同行を約し、追分日本館に藤岡玉骨君を訪ね、三円借りた。…
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十一月二十二日
日曜日。
大急ぎで(五)の一鳥影のところをかいてると、平野君が約の如く来た。金田一君の羽織袴をかりて出かけた。初めて大隈伯邸に人つて二千余人の来賓と共に広い庭園に立つた時は、予は少し圧迫される様な感がした。間もなく金田一君岩動君小笠原君らに逢ひ、園中の摸擬店を廻つた。菊はすがれたが紅葉の盛り。
上田敏氏も来てゐられた。花の如き半玉共の皆美しく見えた。一人、平野君がテンプラを攻撃してるうちに、ブラブラ歩いてるうちに、皆にはぐれて了つて池を廻り、山に登つた。何処も彼処も人、その数知れぬ人の間に誰も予の知つた人は居なかつた。予は実際心細かつた。漸く上田氏を見つけて初めて安心した。
上田氏は、二十日に夏目氏に逢つたが、独歩の作が拵へた拵へぬといふ議論で、拵へたといふ夏目氏の方は理屈あるらしいと言つた。
ビール、を飲んだ。立食場は広くて立派なもの。テーブルスベーチは聞えなかつた。日本人は園遊会に適しない。少くとも予自身は適しない。
六時頃に済んだ。何のために、何の関係なき予らまで来て御馳走になつたらうと、平野君と語り合つて笑つた。芝居をやつた大広間の金の唐紙に電気が映えて妙に華やかな落ついた色に輝やいてゐた。それを紅葉の間から見た刹那の感じはよかつた。
門──今迄くぐつた事のない立派な門を出るとき、此処から一歩ふみ出せば、モウ一生再びと入ることがあるまいと言つて笑つた。実際──恐らくは実際さうであらう。…」
啄木はこの会場で上田敏にあっています。森鴎外繋がりかもしれません。啄木が上田敏に初めて会ったのは明治38年1月5月の新詩社新年会だとおもいます。
【上田敏(うえだ びん、明治7年(1874) - 大正5年(1916))】
日本の評論家、詩人、翻訳家。「柳村(りゅうそん)」と号したため、上田柳村名義でも執筆活動を行った。旧幕臣上田絅二(けいじ)の長男として明治7年(1874)、東京築地に生まれる。絅二は昌平黌教授をつとめた儒学者の乙骨耐軒の次男で、英学者で沼津兵学校教授の乙骨太郎乙は伯父(耐軒の長男)、その子で音楽評論家の乙骨三郎は従兄弟に当たる。静岡尋常中学、私立東京英語学校、および第一高等学校を経て、明治30年(1897)東京帝国大学英文科卒。講師小泉八雲から「英語を以て自己を表現する事のできる一万人中唯一人の日本人学生である」とその才質を絶賛されたという。卒業後、東京高等師範学校教授、東大講師(八雲の後任)。第一高等学校在学中、田口卯吉邸に寄寓しており、平田禿木を通じて北村透谷・島崎藤村らの『文学界』同人となり、東大在学中、第一期『帝国文学』の創刊(明治28年(1895))にかかわる。明治35年(1902)主宰誌の『芸苑』と廃刊になっていた森鴎外の主宰誌『めざまし草』とを合併し、『芸文』を創刊(その後、出版社とのトラブルで廃刊したものの、10月に後身の『万年艸』を創刊)。その後、鴎外とは家族ぐるみで交際した。明治大学で教鞭を執っていたが、明治41年(1908)欧州へ留学。帰国後、京都帝国大学教授となる。この頃、「マント事件」によって一高を退学し京都帝大に進学していた菊池寛が上田に師事した。明治43年(1910)慶應義塾大学文学科顧問に就任。大正5年(1916)腎臓疾患で東京の自宅で急逝。享年41歳。(ウイキペディア参照)
明治7年生まれですから啄木より12歳上で学歴も凄いです。
上田敏関連の啄木日誌
「十月三十日
新たに帰朝した上田敏氏を訪ねた。与謝野氏の伝言を伝へて一時半許りも話した。少し頭の毛がうすくなつてゐる。そして、盛んに日本文学者がブライドを失つてゐると気焔を吐かれた。…
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十一月十九日
昼飯をすごして、一時頃平野君から電話、吉井君が来てるから来ないかといふ。一時後にゆく約束をして、小説をかいて了つて二時半出かけた。上田氏の宅に行つてゐるといふ。行くと平野吉井に栗山の三君がゐた。上田氏は仏蘭西の話をされた。面白かつた。二十三Bに立つて京都にゆくといふ。アナトール・フランスの小説の梗概二つヨつきいた。…
…
十二月十一日
(九)ノ四。
朝に平野が下まで来て、上田氏が出京してるからと言つたので、午後一時頃に訪ねた。風邪の気味で京都の方電報でのばして静養中との事。原稿は明日までの約。今後毎号昴にかく約束。…」
上田敏の住まいに関しては啄木の日誌の中に記載がありましたが、文京区教育委員会発行の「文京ゆかりの文人たち」に詳しく書かれていました。
<文京区とのゆかり>
明治七年一〇月三〇日 東京府築地(中央区)二丁目一四番地生
明治二二年四月 *本郷西片町一〇番ヘノ一四(西片2-18-4)
明治三二年九月 *〃西片町七番にノー (西片2-3-22)
*〃西片町一〇番にノ四四(西片2-12-14)
明治四二年六月 京都へ(京都大学文学部講師)
大正五年七月九日 東京市芝区(港区)白金内三光町で没 墓・谷中霊園
(*
西片2-19-4・田口邸に、鼎軒(田口)柳村居住之地碑)
※啄木の日誌に書かれていた住所は”
西片町一〇番にノ四四”です。
★写真は現在の大隈庭園です。大隈邸が出来たのは明治20年といわれています。大正11年に大隈重信の没後、その遺志によって早稲田大学に寄附され、大隈会館の庭園として活用されました。空襲で被害を受けましたが戦後復旧されています。