●「石川啄木の東京」を歩く 明治41年 -4-
    初版2017年5月27日  <V01L01> 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治41年 -4-」です。今回は明治41年7月3日〜8月7日までです。明治41年中は新しい外出先が多いのですが、明治42年以降はほとんど無くなりますので、後3〜4回で終りそうです!


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図



「麹町、隼町八」
<麹町隼町に蒲原有明君を訪うた>
 明治41年7月3日、啄木は麹町區麹町隼町の蒲原有明を訪ねています。蒲原有明は元々東京の人で日誌では7月3日が初登場です。啄木がどうして知り合ったのかよく分かりません。岩手日報(明治35年1月11〜12日)に蒲原有明の「草わかば」について書いておりその頃から手紙のやり取りがあったのかもしれません。残っているのは一通のみです(石川啄木事典参照)。

【蒲原 有明(かんばら ありあけ、明治8年(1875) - 昭和27年(1952))】
日本の詩人。本名、隼雄(はやお)。東京生れ。D・G・ロセッティに傾倒し、複雑な語彙やリズムを駆使した象徴派詩人として『独絃哀歌』『春鳥集』『有明集』などを発表。薄田泣菫と併称され、北原白秋、三木露風らに影響を与えた。東京市麹町区隼町に、蒲原忠蔵、石川ツネ(1879年入籍、のち離婚)の子として生れた。東京府尋常中学校(現・都立日比谷高校)を卒業し、第一高等中学校(のちの一高)を受験したが失敗。国民英学会で学び、卒業後小林存や山岸荷葉らと同人雑誌「落穂双紙」を発刊し、ここに初めて詩を載せた。読売新聞の懸賞小説に応募し「大慈悲」が当選し、この時期小説を書いたが、すぐに詩作に専念する。巌谷小波の木曜会に顔を出すようになり、D.G.ロセッティの訳詩や、新体詩集『草わかば』を出版した。さらに上田敏の訳詩に強く影響を受け、『独絃哀歌』『春鳥集』を刊行し象徴主義を謳歌。このころ青木繁と親交を結ぶ。明治41年(1908)に刊行した『有明集』で象徴詩手法を確立し、薄田泣菫と併称された。だがすでに時代は自然主義の流れに向かっており、文壇から激しく批判され孤立するとノイローゼに陥った。大正8年(1919)に鎌倉に移り、関東大震災後は静岡へ移転。この際改修した自宅は貸家とし、昭和20年(1945)から1年間川端康成が泊まっていた。敗戦後は鎌倉に戻った。自伝『夢は呼び交わす』を刊行後の1948年、日本芸術院会員に選ばれる。昭和27年(1952)急性肺炎のため77歳で死去した。墓は元麻布・賢宗寺にある。(ウイキペディア参照)

 書簡からです。
「   一三二 七月十三日盛岡より 蒲原隼雄宛
拝啓
水車の音枕にひゞく南の窓の甘き夢、今朝は「春鳥」のいみじき歌声にさまされ候、胸躍らせて常になく早起いたし侯に、雨しとゞ降る日也、一日草盧に立て籠りて、炉に沈香を?ぎ添へ添へいつもならばうら淋しさに堪へがたかるべき雨の庭面の紫陽花にも心とられず、浄興そゞろ抑へ兼ねて御集難有只今まで耽誦いたし候。
かく一まとめにされて美しき装かさねぬれば、又おのづから、どれもこれも今更の様に読みかへされ候、用紙も表紙の色も、青木氏の画も、限りなく心にかなひ候、たゞ背の布の色と其金字、これだけがこの詩界のおほ華に惜しき心地せられ候。彩光世の常ならぬその葩の数々にっきては今夕は何も申上げ間敷、八月の「明星」にて、敢て批評とは申さず、たゞこの御集を読みての感懐を出来うるだけ詳かに、思ひのこす隈もなく、表白致したき考へに候。僭越の業、許し被下候はゞ幸甚也。生はたゞ今更の様に驚いて居り候。例の駄洒落の一つも申上たく候へど、今日はどうやらイヤにまじめくさつて洒落も出来ず。
こゝの夕暮の縁、これから二人して読む御本がまた一冊ふえたりと、よろこぶものは小生のみに候はず、呵々、御笑ひ被下度候、御暇の時は都門の御たより願上候。
生もそのうちに、何かに、くはしく文まゐらせ可申候、故山の水を飲んでより血漸く肥え、何か百日の溜飲を一時に下げる様のおもしろい事やつて見たくてたまらず、叛艦ポテムキンがルーマニヤに降服したりと聞いてしきりに業をにやし居候 頓首
  七月十三日夕             啄木生拝」

 イヤー、凄い手紙です。季語が凄いです。詩人同士の手紙はこうなるのですかねz!

 明治四十一年の日誌からです。
「七月三日
  午後一時頃、フト思出して、麹町隼町に蒲原有明君を訪うた。取留のない気焔、詩を読むことをイヤになつたと言つた。芝居は見た事がないけれども、一幕物の現代劇を書くと言つた。明治の真の詩人は、透谷と独歩の二人きりだと言つた。此人もモハヤ叙情詩にアキが来てゐる。……
 一緒に酒でも飲まうといふのを、四時頃辞して帰つた。
 夜、また電車の旅。京橋へ行つた。不快、いふ許りなき不快を抱いて帰つた。
 此夕、時事新報は号外を出して、西園寺首相病気のため、内閣総辞職を報じた。元老の圧迫の結果であらう。…」

 大正8年迄は東京市麹町区隼町に住んでいたので啄木は手紙のやり取りで住所を知っていたのだとおもいます。

写真の正面あたりに東京市麹町区隼町八があったのですが、今は最高裁判所の敷地内です。



霞ヶ関附近地図(孫文の地図を流用)



霞ヶ関附近地図(明治35年)



「東大正門前附近」
<森川町一番地桜館に正宗白鳥君を訪問した>
 啄木は明治41年7月5日、正宗白鳥を森川町の下宿に訪ねています。正宗白鳥との関係がよく分かりません。石川啄木事典によると、「新刊雑誌評」(読売新聞 明治37年12月14日)に正宗白鳥が啄木批判記事を書いたことから始まったようです。この時の様子は姉崎潮風宛書簡に詳しく書いてあるそうなので下記に掲載しておきます。

【正宗 白鳥(まさむね はくちょう、明治12年(1879) - 昭和37年(1962))】
小説家、劇作家、文学評論家。本名は正宗 忠夫(まさむね ただお)。岡山県和気郡穂浪村(現在の備前市穂浪)に生まれる。閑谷黌を卒業し、明治29年(1896)東京専門学校(後の早稲田大学)に入学。在学中に植村正久・内村鑑三の影響を受けキリスト教の洗礼を受ける。明治34年(1901)文学科を卒業。早大出版部を経て読売新聞社に入社。文芸・美術・演劇を担当した。明治37年(1904)処女作品となる『寂寞』を発表し文壇デビューする。明治40年(1907)読売を退社し本格的に作家活動に入る。明治41年(1908)に発表した、日露戦争後の青年像を描いた『何処へ』は彼の代表作である。自然主義文学に新分野を開き注目された。明治44年(1911)甲府市の油商清水徳兵衛の娘・つ禰と結婚。この頃、本間久雄は評論書『高台より』上で、諸作品から見た正宗の思想は「シニシズムの哲学」であると評している。昭和期になると、活動の主点を評論に置く。昭和11年(1936)1月の読売新聞に小林秀雄が「作家の顔」という小論文を掲載した。その中に、同年に正宗がトルストイについて書いた評論に対する非難が掲載されており、小林と正宗との間に「思想と実生活論争」が起こった。昭和10年(1935)、外務省文化事業部の呼びかけに応えて島崎藤村・徳田秋声らと日本ペンクラブを設立。昭和18年(1943)から昭和22年(1947)まで会長(2代目)。昭和15年(1940)、帝国芸術院会員。昭和25年(1950)文化勲章受章。昭和37年(1962)膵臓癌による衰弱のため、飯田橋日本医科大学付属病院で死去(83歳)。墓所は多磨霊園にある。(ウイキペディア参照)

 書簡より
「   108 十二月十四日牛込より 姉崎正治宛
師よ。窓の外に聞ゆるは、雪の声ならずや。その仄かなるおとづれに、総々たる灯の光に、灰となり行く火鉢の埋火に、あゝ今都の冬の夜は更けぬ。…
…師よ、師は去る九日の読売新聞にて、「白百合」を評したるうちにいたくも我が詩を非難したる時評子の一文を見玉ひしや。そは我が詩を非難したるものに非ずして今の詩を非難したるものなりき。友の多くは乃ち端書を寄せて我に、失望する勿れ、これはたゞ一新聞記者の愚言のみと云ひぬ。而して師よ、友よ喜べと云へるはたゞ一人我が水魚の交ある友のみなりき。我を知る者この広き世にたゞ一人かと思ひて我は涙ありき。さて思へらく、この批評はもとより我らの詩を知る者の言に非ず、然れどもこれ時代の詩に対する一部の要求を確かに伝へたるものなり、と。かくて我はこの評者と語るの頗る趣味ある事なるべきを思うて、過日所用の序でに日就社を訪ひ、評者正宗白鳥と会見しぬ。師よ、我は疑もなく失望したり。彼繰り返し/\日く、我は詩を評するの心なし、今の時、詩人を訓ふべきは克く詩に通ずるの人のみなるべき也、我の如きたゞ新聞記者たる責任に迫られて止むなく筆を取れるのみ、と。我は心に泣きぬ。あゝ今の世の批評家、多謝す皇天、卿等糧を得んがために筆を文芸の事に用ふとならば、我何をか云ふ所あらむ。
彼又曰く、余君を知らざりしが故にたゞ白百合派の一老将とのみ思ひて君の詩を引ける也、と。昔者神の子の頭にユダヤ人の捧げたるは茨の冠なりき。今の賢明なる批評家に捧ぐべきもの、それたゞ「憫む」の一語乎。あゝ師よ、稚なき我に暫しは不僣なる激語を許せ。…」

 啄木はよく読売新聞まで訪ねて当時記者だった正宗白鳥にクレームをつけますね、こういうことに関しては、たいしたものです。

 明治四十一年の日誌からです。
「七月二日…
… 趣味≠ナ正宗白鳥氏の世間並≠読んだ。うまい。
下手な嘘をいふと時々心の中で嘲りながらべ女の苦労話をきいたといふ句がある。
  早速正宗氏へ面会を求める手紙をかいた。
  金の多少ある晩は、何となく気が暢然してゐる。…

七月五日
 十二時ですと謂って、女中に起された。雲つた日。
 一時、森川町一番地桜館に正宗白鳥君を訪問した。背のひくい、髯のない人。四年前に一度読売社の応接室で逢った事があったが、そのまま些とも老けてゐない。
 随分ブツキラ棒であるとは人からも聞いてゐた。入って行っても、ロクに辞儀もせぬ。茶を汲んでも黙って出したきり、……それが頗る我が意を得た。何処までもブッキラ棒な話と話。二時半帰る時は、然し、額を畳に推しつける様にして、宛然バッタの如く叩頭をした。玄関まで送って来た。…」

 この頃の正宗白鳥は読売新聞を退社して小説家として自立しつつあった時期とおもわれます。敵を作りたくないので上手に対応したのだとおもわれます。それにしても啄木はいまだ子供です。甘いです。

写真は東大正門前から西側を撮影したものです。この辺り一帯が森川町一番地でかなり広いです。桜館は岸信介も下宿したようで有名なのですが詳細の場所が分かりません。もう少し調べて見ます。



本郷附近地図(太宰治関連地図流用)



「鶴巻町の八雲館跡附近」
<鶴巻町の八雲館>
 明治41年7月27日、啄木は早稲田鶴巻町の八雲館に藤条静暁を訪ねています。この八雲館は若山牧水が明治42年3月から明治43年に下宿していたので有名です。下記に書かれている”藤条の話にきいた宿の娘”は早稲田の学生の中では相当有名だったようです(詳細は調査不足です)。

 明治四十一年の日誌からです。
「七月二十七日…

  九十三度の炎天。灰色になつた白地の単衣が垢にしめつて、昆布でも纒うてゐる様な心地だ。英和辞書──自分の最後の財産を売つて、電車賃と煙草代を拵へた。
 江戸川の終点まで電車にのつた。小日向台の樹が、窓から見えた。六年前を思浮べて、胸が痛んだ。
 鶴巻町の八雲館に藤条静暁君を訪ねると、一昨日帰郷したとの事。下宿の主婦から戸塚村へゆく路をきいて其処を出た。藤条の話にきいた宿の娘といふのは、成程物凄いほど艶な姿と働く眼を持つた女であつた。
 戸塚村五番地! 自分は小栗風葉氏を訪ねて、旧交もある事であれば、居候においてくれと頼むつもりであつた。
 然し、それから三時過まで探しに探して、遂々見つけかねた。アトで聞けば自分は完く別方面な戸塚町の方を探したのだげな。
 若松町(?)とか、喜久井町とか、南町とか榎町とか、それはそれは、生れた以来初めての町許りアテもなく汗みづくになつて辿り歩いた。俺は死ぬのだとい声弱々しい決心と、無宿者といふ強い感じとを抱いて、初めて町の炎天の下を、両側を物珍らしげに見てあるいた。胸の鳩尾から流れる汗が、鈍つた頭にもそれと知れる。これらの家を、今初めて見て、そして終りに見るのだ、俺は死ぬのだから。と考へたのは、卜ある新らしい家の建つた小坂を降りて曲つて、南町三十三番地先を通つた時。
 北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が──左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。…」

 啄木は”英和辞書”まで売って電車賃にして八雲館の藤条静暁に来ますが会えません。仕方がないので戸塚村五番地の小栗風葉氏を訪ねようとします。しかし見つかりません。

 戸塚村五番地は何処のあるのか調べて見ました。
明治22年(1889年)市制町村制施行に伴い、町村の廃置分合が実施され、新たに南豊島郡戸塚村が出来ます。
・戸塚村大字戸塚
・戸塚村大字下戸塚
・戸塚村大字源兵衛
・戸塚村大字諏訪
 大字が4つもあります。戸塚村五番地という住所はないわけです。
 その後、戸塚村は大正3年(1914)に町制を施行し、戸塚町となります。昭和7年(1932)、大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町の区域をもって淀橋区が設置され、その後の昭和22年(1947年)に新宿区となっています。
 推定ですが、早稲田に近いのは戸塚村大字下戸塚、戸塚村大字源兵衛、戸塚村大字諏訪で、この辺りを探し回ったのでないかとおもいます。実際は高田馬場駅近くの戸塚村大字戸塚字清水川五番地でした(「新宿区に在住した文学者たち」より)。写真も掲載しておきます、戸塚第二小学校早稲田通りを挟んで向い側附近です。

写真の正面交差点付近に”鶴巻町の八雲館”があったとおもわれます。この付近は関東大震災後の区画整理で古い曲がりくねった道が新しい真っ直ぐな道になり、昔の面影は全くありません。清盟帖と「新宿区に在住した文学者たち」から地番は鶴巻町251と分かりましたので、昔の地図から場所を探してみました。明治40年の地図から地番を探し、今の地図と重ねてみました。しかし、昔の地図は正確では無く上手くピッタリ重なりません。仕方がないので昭和16年の地番入り地図で重ねてみました。ただ、鶴巻町251は合筆されて非常に大きな地域となっていました。この2つの地図から推定して記載しています。
 
 啄木が歩いた、”南町三十三番地(写真正面付近)”、”北山伏町三三(路地の奥)”の写真も掲載しておきます。



早稲田鶴巻町附近地図(孫文の地図を流用)



飯田橋、神楽坂、市ヶ谷附近地図



早稲田鶴巻町附近地図(現在の地図に明治40年の地図を重ねた地図)



早稲田鶴巻町附近地図(現在の地図に昭和16年の地図を重ねた地図)



「日本橋本町の博文館跡」
<日本橋本町の博文館>
 森鴎外に頼んで貰った春陽堂が掲載してくれず原稿料が入らないので、博文館の長谷川天渓にもお願いしたようです。啄木は生活のため、なんとしても原稿料が欲しいのです、この辺りは根性があります!

【長谷川 天渓(はせがわ てんけい、明治9年(1876 − 昭和15年(1940))】
20世紀初期に活躍した日本の文芸評論家である。本名は長谷川誠也。新潟県刈羽郡高浜町出身、柏崎に育つ。高田中学入学後上京し、東京専門学校(早稲田大学)に学び、坪内逍遥や大西祝に学ぶ。卒業後は博文館に勤務し、雑誌『太陽』の編集にたずさわる。明治32年(1899)「小説家と時代精神」を発表し、評論活動にはいる。その後、明治41年(1908)の「現実暴露の悲哀」にいたるまで、自然主義文学を擁護する立場から論陣をはる。明治43年(1910)社命により渡欧してからは評論活動よりも出版者としての活動が主となり、博文館の取締役もつとめた。また、大正10年(1921)には文部省の臨時国語調査委員もつとめた。昭和15年(1940)胆嚢炎にて死去。瀬沼茂樹は岩波文庫で『長谷川天渓文芸評論集』を編み、主要な評論を集成した。また、筑摩書房の『現代日本文学大系』の『文芸評論集』の解説で、「その議論は粗雑で大胆であったが、幻滅時代、論理的遊戯、現実暴露の悲哀などの多くの流行語を生む機敏さをそなえていた」と評している。

 明治四十一年の日誌からです。
「六月十二日
七時半、駿河台に長谷川天渓氏を訪ひ、二筋の血∞天鵞絨%篇置いて来た。…

六月二十五日
 後藤宙外氏から、春陽堂が十年来の不景気のため稿料掲載日まで待つてくれといふ葉書!
 長谷川氏に手紙やつた。…

六月二十七日
 長谷川氏から、今月はどうしても原稿料出せぬといふ手紙が来たので寝た。…
 七時半に駿河台なる長谷川氏を訪ねた。上野とかいふ軽薄な新聞記者が来た。ケーベル博士及び其僕ストラッセルの話など。やつておいた原稿については、いづれ文芸倶楽部の主任石橋思案にきいてくれるとの事。愉快に話して十時に辞した。…

七月二十八日
 九時に粂井君が来たので起きた。直してくれろと言つて持つて来た歌と、外に金星会会費として一円。間嶋琴山君が、一二日中に国へ帰省すると言つて来て三十分許り居て帰つた。
 昼飯を食つて出懸けた。日本橋本町の博文館、其編輯局の三階の応接室で長谷川氏と逢った。風通しがよくて莫迦に涼い。
 稿料今月は駄目。…

八月三日
… 夜、長谷川氏より、予の二筋の血°yび天鵞絨≠ニ共に来書。遂に文芸倶楽部に載するあたはず、太陽も年内に余地を作ること難き故、お気の毒乍ら他に交渉してくれ。…」

 結局、博文館の長谷川天渓にも掲載を断られてしまいます。やはり原稿の二筋の血°yび天鵞絨≠ェ良くなかったのだとおもいます。

写真の右側のビルの左隣のビル付近が日本橋区本町三丁目九〜十番地、旧博文館です。震災前の地籍図に記載がありましたので間違いないとおもいます。又、”駿河台に長谷川天渓氏を訪ひ”とありましたので、こちらも探してみました。本の奥付で”長谷川誠也 神田区鈴木町十二番地”とありましたので写真を掲載しておきます(三楽病院の右隣付近です)。



日本橋、東京駅、京橋附近地図



「神田区錦町一丁目十番地」
<小川町の明治書院>
 何処の出版社に小説を持ち込んでもお金になりませんが、この出版社には「明星」の最後の出版の手伝いに行っています。これもお金にはなりません。

【明治書院 創業時代(明治書院ホームページより引用)】
 創業者三樹一平は明治12(1879)年に神奈川師範学校卒業後、小学校の教壇に立ち、間もなく郡役所書記となり、教育主任として教育行政に携わった。師範学校時代から教科書の不備や、新時代にふさわしい教材の不足を痛感していたので、新しい教科書づくりに意欲を燃やしていた。 明治26(1893)年35歳のとき、師範時代の校長で恩師の小林義則が経営する教科書出版の大手会社文学社に入社した。
 明治29(1896)年1月1日、落合直文門下の与謝野鉄幹を編集長に迎え、一平は東京市神田区通新石町2番地に落合直文の命名になる「明治書院」の社名を掲げ、国語漢文の教科書発行を経営の柱とした。小学校が整備開校されていく中で、これからは中等教育の時代との見通しを持っていた一平は、中等学校では良い教科書が望まれるという出版人としての直感と教育者としての信念があった。この年刊行の主なものは、いずれも直文による『中等国文読本』『日本大文典』などで、創業の姿勢をよく表している。直文は30代半ば、短歌革新を唱える短歌界の一方の雄であり、国文学の泰斗として、第一高等学校・東京専門学校(早稲田)・國學院で教鞭をとりながら、国文学の革新に情熱を注ぎ、新しい口語文体の形成に腐心していた。教科書発行とともに編集長与謝野鉄幹の処女詩歌集『東西南北』を上梓し、青年層に広く迎えられた。それは『明星』創刊の礎となり、創刊時の発売を明治書院引き受ける契機になった。
 明治30(1897)年、現在地の神田錦町1丁目に社屋を新築。教科書は新たに落合直文編『中等国語読本』を刊行し、『徒然草読本』など抄本教材や古典参考書類を充実させて、国文専門の営業基礎を固めた。『明星』の与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌風に強く惹かれていた石川啄木が、書院に一時籍をおいたのもこのころであった。
 落合直文が42歳でこの世を去った後、精神的支柱になったのは森鴎外であった。当時、教科書は中学校用、女学校用、師範学校用を含めて、創立10年後の明治39年までに刊行点数は120点を数え、国漢の明治の定評を得ていた。
 鴎外は落合の『中等国語読本』の改訂編集に着手し、明治44年『修訂中等国語読本』として落合直文・森鴎外・萩野由之の三人の名前で刊行した。この教科書は改訂・校訂・新訂と改訂編集されて大正10(1921)年まで刊行された。落合がこの世を去っても、なお約20年間使われた大ベストセラーであった。
(「明星」、啄木について書かれていましたのでそのまま引用させて頂きました)

 明治四十一年の日誌からです。
「八月七日
 八時半起床。朝餉を了へて家を出づ。風強し。
 昌平橋にて与謝野氏に逢ひ、共に明治書院にゆき、十一時頃千駄ケ谷に至る。夏草の路、蜥蜴を見て郷を思ふ。
 庭の萩風に折れたり。杉垣の下なる向日葵の花、白と鹿の子の百合の花、風情あり。晶子さんは夏に疲せてベッドの上にあり。
 校正など手伝ひて四時辞す。晶子さんが手縫ひの白地の単衣を贈らる。
 此日の時事新報文芸附録は明星廃刊に関して最も同情ある言をなす事一段余。与謝野氏は南米に一家を移住せむとすと語れり。かなしき事なるかな。…

十一月六日
 今日明星¥I刊号の発送するから、暇なら手助つてくれぬかといふ与謝野氏の葉書があつたので、八時半頃から小川町の明治書院に行つた。程なくして与謝野氏も来た。
 あはれ、前後九年の間、詩壇の重鎮として、そして予自身もその戦士の一人として、与謝野氏が社会と戦つた明星は、遂に今日を以て終刊号を出した。巻頭の謝辞には涙が籠つてゐる。
 予と、千駄ケ谷の女中と、書院の小僧と三人で包装を初めた。与謝野氏は俥で各本屋へ雑誌を配りに行つた。十二時を打つと平野君も来た。予は糸をかけるに急いで左の手の小指を擦傷した。平野君は切手を貼る時、誤つて一枚上顎へ喰付つて、口を大きく開いて指を入れた。眼鏡の下で眼が白かつた。
 三時頃になつて済んだ。ハラハラと雨が降り出したので平野君と二人電車で帰つた。与謝野氏は十五日頃に母堂の参をかねて京都に旅すると言つてゐた。…」

 明治書院の移り変わりを見ると
・明治29年(1896):東京市神田区通新石町2番地
・明治30年(1897):東京市神田区神田錦町1丁目10番
・昭和6年(1931):神田錦町1丁目旧社屋跡に新社屋を完成(平成13年解体)
・現在:東京都新宿区大久保1丁目1−7(旧地は”いちご神田錦町ビル”となっています)

写真は小川町の交差点から南に一つ目の交差点を南東から北西を撮影したものです。正面のビルが”いちご神田錦町ビル”です。平成13年まで昭和3年に建てられた三階建てのビルが建っていました。

 続きます!



御茶ノ水駅附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用)