<鶴巻町の八雲館> 明治41年7月27日、啄木は早稲田鶴巻町の八雲館に藤条静暁を訪ねています。この八雲館は若山牧水が明治42年3月から明治43年に下宿していたので有名です。下記に書かれている”藤条の話にきいた宿の娘”は早稲田の学生の中では相当有名だったようです(詳細は調査不足です)。
明治四十一年の日誌からです。
「七月二十七日…
…
九十三度の炎天。灰色になつた白地の単衣が垢にしめつて、昆布でも纒うてゐる様な心地だ。英和辞書──自分の最後の財産を売つて、電車賃と煙草代を拵へた。
江戸川の終点まで電車にのつた。小日向台の樹が、窓から見えた。六年前を思浮べて、胸が痛んだ。
鶴巻町の八雲館に藤条静暁君を訪ねると、一昨日帰郷したとの事。下宿の主婦から戸塚村へゆく路をきいて其処を出た。藤条の話にきいた宿の娘といふのは、成程物凄いほど艶な姿と働く眼を持つた女であつた。
戸塚村五番地! 自分は小栗風葉氏を訪ねて、旧交もある事であれば、居候においてくれと頼むつもりであつた。
然し、それから三時過まで探しに探して、遂々見つけかねた。アトで聞けば自分は完く別方面な戸塚町の方を探したのだげな。
若松町(?)とか、喜久井町とか、南町とか榎町とか、それはそれは、生れた以来初めての町許りアテもなく汗みづくになつて辿り歩いた。俺は死ぬのだとい声弱々しい決心と、無宿者といふ強い感じとを抱いて、初めて町の炎天の下を、両側を物珍らしげに見てあるいた。胸の鳩尾から流れる汗が、鈍つた頭にもそれと知れる。これらの家を、今初めて見て、そして終りに見るのだ、俺は死ぬのだから。と考へたのは、卜ある新らしい家の建つた小坂を降りて曲つて、南町三十三番地先を通つた時。
北山伏町三三に北原君の宿を初めて訪ねた。そこで気がついたが、頭が鈍つて、耳が──左の耳が、蓋をされた様で、ガンガン鳴つてゐた。…」
啄木は”英和辞書”まで売って電車賃にして八雲館の藤条静暁に来ますが会えません。仕方がないので戸塚村五番地の小栗風葉氏を訪ねようとします。しかし見つかりません。
戸塚村五番地は何処のあるのか調べて見ました。
明治22年(1889年)市制町村制施行に伴い、町村の廃置分合が実施され、新たに南豊島郡戸塚村が出来ます。
・戸塚村大字戸塚
・戸塚村大字下戸塚
・戸塚村大字源兵衛
・戸塚村大字諏訪
大字が4つもあります。戸塚村五番地という住所はないわけです。
その後、戸塚村は大正3年(1914)に町制を施行し、戸塚町となります。昭和7年(1932)、大久保町、戸塚町、落合町、淀橋町の区域をもって淀橋区が設置され、その後の昭和22年(1947年)に新宿区となっています。
推定ですが、早稲田に近いのは戸塚村大字下戸塚、戸塚村大字源兵衛、戸塚村大字諏訪で、この辺りを探し回ったのでないかとおもいます。実際は高田馬場駅近くの戸塚村大字戸塚字清水川五番地でした(「新宿区に在住した文学者たち」より)。写真も掲載しておきます、
戸塚第二小学校の
早稲田通りを挟んで向い側附近です。
★写真の正面交差点付近に”鶴巻町の八雲館”があったとおもわれます。この付近は関東大震災後の区画整理で古い曲がりくねった道が新しい真っ直ぐな道になり、昔の面影は全くありません。清盟帖と「新宿区に在住した文学者たち」から地番は鶴巻町251と分かりましたので、昔の地図から場所を探してみました。明治40年の地図から地番を探し、今の地図と重ねてみました。しかし、昔の地図は正確では無く上手くピッタリ重なりません。仕方がないので昭和16年の地番入り地図で重ねてみました。ただ、鶴巻町251は合筆されて非常に大きな地域となっていました。この2つの地図から推定して記載しています。
啄木が歩いた、”
南町三十三番地(写真正面付近)”、”
北山伏町三三(路地の奥)”の写真も掲載しておきます。