●「石川啄木の東京」を歩く 明治41年 -3-
    初版2017年5月20日
    二版2017年8月1日  <V01L02> 本郷藪そばの位置を若干修正 暫定版

 「『石川啄木の東京』を歩く 明治41年 -3-」です。今回は明治41年5月17日〜6月30日までです。啄木が亡くなる明治45年4月まではかなりの期間です。もう少しスピードアップしないと終らないですね!


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図



「大鋸町三番地」
<植木千子>
 前回からの続きです。前回最後の記載は明治41年5月4日、啄木が千駄ヶ谷の新詩社から金田一京助が下宿していた本郷の赤心館に移った事項です。

 明治41年5月17日の日誌に記載のある、”大鋸町三番地、四年前に見覚えのある門札には行書で植木千子¥曹「てあつた”から順に追ってみます。

 明治四十一年の日誌からです。
「五月十七日
 十時に起きた。雨。日曜日、金田一君の室で話してると原達君が来た。
 朝飯と昼飯を一緒に食つて、出懸ける。雨の都の電車、日曜ながら人が少なくて、何となく詫しい様な心地がする。色々な事を胸に描いて、中橋広小路で降りる。一町許り左に折れて右に這入つた小路が大鋸町三番地、四年前に見覚えのある門札には行書で植木千子¥曹「てあつた。
 お母さんな人が飛び立つ程喜んで迎へてくれた。快活な、切下髪の、四十二三の人で、晴渡つた面に云ふ許りない男優りの健気さが現はれて居る。話は主に四年前の落花の春、江東の花に催した芝居の追憶で、それからそれと尽きぬ。
椽に雨が這入つて、二坪の庭は植木鉢に足の踏場もない位。小ヂンマリした趣きに何かしら下町式の匂ひがある。
 すしを御馳走になつて三時十分前に辞す。小路を出ると後から我名を呼ぶ声、それは贈物を包んだ風呂敷を持つて、追かけて来た貞子さんであつた。…」

 上記に書かれている”植木千子”についてはよく分かりません。日誌にも一度しか書かれていません。同じ名字で”植木貞子(うえきていこ)”の事なのか不明です。日誌をもう少し調べてみます。

「八月二十七日…

 因に、忘れてはならぬから書いておくが、あの芝居は三十八年四月十五日江東伊せ平楼でやつたので、岩田郷一郎君高村砕雨君を初め、社中では与謝野、伊上凡骨、僕、平出君それから石井柏亭君山本鼎君(共に画家)博文館の竹貫某君、生田葵山君、美術学校の彫塑科を出た佐々木某君(名取、)女は香山とか云ふ美術学校のモデルだといふ狂気染みた女と植木貞子(うえきていこ)。…」

 同じ年の8月27日の日誌に植木貞子(うえきていこ)の名前が出てきています。啄木辞典の第二章【一般項目】に植木貞子(うえきていこ)の記載がありますが、住所等は書かれていません。ただ、”戸籍名セン…姓名判断により貞子を通称とする”と書かれており、”セン”が”千”で同一人物の可能性が高いです。

 又、上記に書かれている”江東伊せ平楼”は両国橋河畔の料亭伊勢平楼のことと思われます(「『石川啄木の東京』を歩く 明治37年」に記載)。

写真の正面左側附近が大鋸町三番地です。この附近は軒並みビルが建て直されており、ビル工事ラッシュです。明治時代はこの辺りにも民家があったようです。



東京駅、京橋、日本橋附近地図



京橋附近地図(大正元年)魯山人の地図から流用



「弥生亭跡」
<金田一君と弥生亭へ行つて洋食>
 2017年8月1日 本郷藪そばの位置を若干修正
 明治41年5月18日、啄木は金田一京助と本郷の弥生亭へ行つて洋食を食べています。相変わらず贅沢です。支払は割り勘か、どちらが支払ったのか興味が湧いてきます。当然、金田一京助かな?

 明治四十一年の日誌からです。
「五月十八日
 晴。今日より陽気に復す。
 朝に斬髪して湯に行つて来た。気が軽々とした。
 菊池君≠ヘ、余り長くなるので、筆を止めて今日新たに病院の窓≠フ稿を起す。釧路の佐藤衣川の性格を書くのだ。
 二時、金田一君来て話してると並木君が来た。間もなく貞子さんが窓の下から兄さん兄さんと呼んだので、二人は下の室に行つた。貞子さんは、今日は浅草の観音さまへお詣りに行くのだと云ふ。話してるうちに夕飯。穏やかな夕べが都の賑ひの音を伝へて、煙草の味がうまい。八時頃三丁目迄送つて帰つて来て、すぐ又金田一君と弥生亭へ行つて洋食。今日の事を語り合つて帰つたのが十一時。…

五月二十三日
 八時に起きる。藤田高田二君からの葉書と金星会へ二戸の小田嶋孤舟からの歌が来た。
 九時頃、金田一君と下坂一郎君と三人で四丁目のやぶ≠ヨ行つた。予は今日馬鹿に噪いで、盛んに皆を笑した。金田一君の話のうち、
  海城中学の書記をしてる音楽家
の話を材料だと思つた。横山糸子といふ女楽師との事。其女の父と男との会話を聞くのだ。
 女学生は遠くに居るうち男の方を見て歩いて、近づくと急にスマス。男学生は遠くでスマして、近くで見る。≠ニ金田一君が云つた。面白い!
 予は長篇を書きたくて仕様がない!
 十一時に帰つて、頭が少し疲れてるから、此日誌をつけて寝る。…

五月二十五日
 起きると天気。京子の事が心に浮ぶ。
 金星会へ来た三十銭の小為替を受取りに本郷郵便局へゆくと、洋服の紳士が三百五十円の為替を受取つて居た。三百五十円と三十銭! 其紳士と予と、予の方が背が高いのに、などと云つた様な事を考へる。吉野並木二君へ葉書。…」

 ここで出てくる固有名詞の名前と地番は
1.弥生亭:本郷真砂10(東京特選電話名簿 大正11年)
2.やぶ(藪蕎麦):本郷4-17(東京特選電話名簿 大正11年)、真光寺(眞光寺)境内(真光寺は世田谷に移転
3.本郷郵便局:本郷元富士町(地図に記載あり、当時は本郷警察署(現在の本富士署)の左隣)
4.江知勝(ついでに記載、牛鍋屋)
   本郷、湯島切通坂、六(東京特選電話名簿 大正11年)
   本郷、弓、二ノ十二(東京特選電話名簿 大正11年)
 となります。

写真は本郷三丁目の交差点から西に一つ目の交差点を南から北に撮影したものです。弥生亭は当時右側角から奥に2軒目にありました。現在の場所を考えると、道路が拡張されており、右角か、又は少し入った右側ではないかと推定しています。やぶ蕎麦は真光寺(眞光寺)境内にありました。現在の桜木神社の奥の辺り(下記の火保図参照)だとおもわれます。



本郷附近地図(太宰治関連地図参照)



火保図(戦前 本郷三丁目附近)



「日本橋区通四丁目五」
<春陽堂>
 啄木はどうも森鴎外に頼み込んで自身の小説を売り込んだようです。日誌には頼んだとは一切書いていないですが啄木のやりそうなことです。森鴎外は啄木の無理なお願いをやむを得ず聞き入れて春陽堂に頼み込んだようです。森鴎外が頼めば断れる出版社はいないでしょう。

 明治四十一年の日誌からです。
「六月七日
 日曜日。朝七時半女中に起して貰ふ。
 十時頃、動坂に平野君を訪うた。途中、中学時代の同級生佐々木直哉君に逢つた。
 平野君は卒業論文執筆中で、非常に急がしくてゐた。歌の話、小説の話。昨日森先生宅に歌会があつたさうなが、僕には間違つて葉書を出さなかつたので、迎ひの者をやらうかとまで云はれたさうだが、そのうちに遅くなつたから止めたとの事。その時予の小説についても話されたさうで、春陽堂に電話かけたと云つてゐられたとか。…

 降雹の真最中に森先生から手紙。予の小説二つ春陽堂にやつてある事、次回の歌会の兼題など知らして来た。貞子さんからも葉書一枚。
 雹を見ながら、金田一君と語つた。粉屋の娘の水車で死んだ話。コルサコフの露人の麺麭売の話。アイヌ人の宴会の話。
 夜、朝≠かきかけたが、怎も興がなくて、唯三枚。十二時寝る。…

六月九日
 昨夜寝てから、次の様なものを書かうと考へた。
二筋の血=i幼時に見た悲哀)
開業医=i死人を見ながら、馬の仕度を命ず)
伯父の家=i仙北町の伯父の家にゐた頃)
  朝八時頃起床。病院の窓¥t陽堂で買取る事に決つたが、報酬は登載の上といふ鴎外先生からの葉書。返事を出した。…

六月十二日
 十時起きて、二筋の血≠読直し、天鵞絨≠訂正した。一時頃出かけて、春陽堂をとひ、後藤氏留守、編輯の人某氏に逢つて原稿料の件相談。アトで返事して貰ふことにして帰る。…

六月二十五日
 後藤宙外氏から、春陽堂が十年来の不景気のため稿料掲載日まで待つてくれといふ葉書!…

九月三十日
過日宙外氏へ手紙出しておいた稿料の件で春陽堂へ行って来ようにも電車賃がない。…

十月六日
春陽堂の後藤宙外氏から葉書、稿料暫時待つてくれと書いて来た!…」

 春陽堂のホームページには”春陽堂の創業は明治11年(1878年)と見られています。神田泉町に開いた小さな店からその歴史は始まりました。創業者の名は和田篤太郎。創業当時はわずかな本を店に並べ、さらに本を背負っての行商もしていました。”と記載があります。その後、日本橋区通四丁目に移ったようです(大正元年の地図には記載あり)。現在は東京都中央区日本橋3-4-16 春陽堂ビルです(戦前の火保図に記載あり)。

写真の正面角が日本橋区通四丁目五です(奥付で確認しました)。大正元年の地図には正面の白いビルのところに春陽堂の記載がありました。



東京駅、京橋、日本橋附近地図



「芝公園五号地の三」
<吉井君の家は芝公園五号地の三>
 吉井勇について掲載するかどうか考えたのですが、「吉井勇を歩く」でまだ掲載していないので、啄木の方にも掲載することにしました。

<吉井勇の実家の住所>
・明治34年(1901) 高輪の邸から東京府下北豊島郡尾久村に転居(年譜)
・明治35年(1902) 芝区二本榎西町二番地に移転(年譜)
・明治41年(1908) 6月 芝公園五号地の三(石川啄木日記)
・明治41年(1908)12月 芝区伊皿子町二(最新華族名鑑)
・大正2年(1913)  淀橋町大字角筈725(華族明鑑)

 明治四十一年の日誌からです。
「六月三十日
  十時半頃吉井君に起された。話がつきぬ。北原君が昔の恋人の兄に手紙をやつて、まだ返事が来ぬと云つて弱つてるといふ話をきいた。恋の話になる。吉井君は艶書を四通認めた。何れも別々の女へ。
  二時頃吉井君の家へ行かうといふので、出掛けると、寺の門の所で並木君に逢つた。二人を紹介して、打つれて三田に向つた。三丁目から電車、僕の前に一人の女が乗つた。
  吉井君の家は芝公園五号地の三、伯爵の邸宅としては粗末だが、人造石の門には吉井事務所≠ニいふ札が出てゐた。室は二階の六畳、松の木の間から往来と電車が見える。吉井君は呼んで浮世座の桟敷≠ニ云つてゐる。いろいろの絵を見た。絵葉書を見た。吉井君の恋人なる名村雛子といふ美しい人の写真も見せられた。
  夕飯を御馳走になつて、六時半頃、三人で出かけた。小雨が落ちて来た。公園の中を通つて、増上寺の山門を目にうれしく見た。中門前町から電車。すきあるきではなくて、すき乗りだと笑つだ。不幸にして若い女は一人も乗合せなかつたが、銀座で五十位の酒臭い福相の男が乗つた。根岸の歌会へ行つた帰りだが、小川町に帰るのを居睡をして此方まで来たので、また帰るところだと問はず語りをしてゐた。あとで吉井君は、旧派歌人のデカダン≠ニ言つた。
 松住町で並木君にわかれて本郷三丁目、雨がよほど強くなつて来たので、二人で一本の傘をさして宿に帰つた。…

七月二十八日
… それから知らぬ町をうろつき廻つて鎌倉川岸から濠端、神田橋外から電車に乗つて芝に吉井君を訪ねた。相不変気楽相である。予も元気を出して色々と談つた。同君の家では明日代々木へひき越すとの事である。さて例の件につき、心あたりを聞いてみるとの事。四時頃辞した。…」

 明治41年12月調査の最新華族名鑑には吉井家(実家は伯爵)の住所は芝区伊皿子町二になっています。伊皿子町は現在の高輪なので啄木が書いた”芝公園五号地の三”とは合いません。吉井家は煩雑に引越しを繰り返していますので”芝区伊皿子町二”の前に”芝公園五号地の三”に転居していたのかもしれません。最後に”明日代々木へひき越すとの事”は”代々木一八五”への転居の事とおもわれます。

 上記に書かれている”名村雛子”については不明です。”松住町”は昌平橋付近にあった東京鉄道の停留所だとおもわれます。その頃の東京市内の路面電車は東京鉄道株式会社が運営しており、東京電車鉄道、東京市街鉄道、東京電気鉄道の三社が明治39年9月、料金などの問題で合併し東京鉄道株式会社となったものです。東京市が買収して東京市電となったのは明治44年のことです。

写真は日比谷通りの御成門交差点を北側から南側を撮影したものです。写真正面の工事中のところが”芝公園五号地の三”となります(松下のビルがあった)。道路が拡張されていますので道路上かもしれません。

 続きます!