●「石川啄木の東京」を歩く 明治41年 -2-
    初版2017年5月13日  <V01L01> 暫定版

 今回は「『石川啄木の東京』を歩く 明治41年 -2-」です。なかなか進まないのは調査に時間が掛っているからで、一回に四ヶ所程度の掲載にします。年譜には書かれていませんが日記には書かれているような細かなところも掲載していきたいとおもっています。それ故時間が掛ります。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図



「市ヶ谷本村町三六、森嶋収六方」
<突然並木君を市ケ谷本村町に訪ねた>
 前回からの続きです。前回の最後は明治41年4月29日に四谷大番町の小泉奇峰を訪ねた後、菊坂町の赤心館に金田一京助を訪ね、二人揃って本郷の牛鍋屋の豊国に行っています。今回はその翌日からの啄木の行動を追ってみたいとおもいます。

 明治41年4月30日の日誌に記載のある、”突然並木君を市ケ谷本村町に訪ねた”から追ってみます。

 明治四十一年日誌からです。
「四月三十日
 九時近く目をさます。金田一君の室。凡てに優しき此人の自然主義論は興をひいた。十二時千駄ケ谷に帰る。
 与謝野氏は言の泉≠フ校正に忙殺されて居る。森博士から、来る二日の同氏宅歌会へ案内の葉書を貰つた。
 筆をとる心地がせぬので、せつ子と宮崎兄へ葉書かく。急に逢ひたくなつて、突然並木君を市ケ谷本村町に訪ねた。
玄関に立つてベルを推すと、出て来たのが並木君。目をまるくして驚いた顔のなつかしさ。外国語学校の支那語科に首尾よく入学したとの事。
 夏目漱石の虞美人草≠読んで寝る。…」

 上記に書いている並木君とは、清盟帖に”並木武雄方 東京市牛込市ヶ谷本村町三六、森嶋収六方、”とあり、並木武雄方の”方”が気になりますが並木武雄(翡翠)のことです。清盟帖には並木武雄の住所としてあと二ヶ所書かれています。
<清盟帖に記載の並木武雄住所>
・並木武雄氏 函館区末広町一五(函館市)
・並木武雄方 東京市牛込市ヶ谷本村町三六、森嶋収六方
・並木翡翠君 下谷区山下町五、杉原鶴蔵方(現在の東区上野7丁目15附近

写真の正面右側のビルから2軒目左端付近ではないかと推定しています。写真の通りは靖国通りで、防衛省の正面入口付近から撮影しています。下記に掲載した大正4年の土地宝典を参照してください。森嶋収六方については確認がとれていません。



小日向台町、飯田橋、四谷、市ヶ谷附近地図



牛込區の土地宝典(大正4年)



「森鴎外宅跡」
<森鴎外宅の観潮楼歌会に出席>
 明治41年5月2日、啄木は千駄ヶ谷の新詩社から與謝野鉄幹に連れられて森鴎外宅の観潮楼に向います。吉井勇、北原白秋他の錚々たるメンバーです。相当緊張したとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
 「五月二日 与謝野寛に連れられて森鴎外宅の観潮楼歌会に出席する。参会者は佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋ら主客あわせて八名。…」
 ”参会者は佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋主客あわせて八名”と記載のあるのですが、その中で”ら”と書かれているのが気になります。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「五月二日、鉄幹につれられて、森鴎外の「観潮楼歌会」に出席。出席者は、他に、伊藤佐千夫、北原白秋、佐佐木信綱、平野万里、吉井勇等。…」
 メンバーの人数は主客合せて8名なので、森鴎外、與謝野鉄幹、佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋、本人で8名になります。”等”と書いているので他にメンバーが居たのかもしれません。

 明治四十一年日誌からです。
「五月二日…

 二時、与謝野氏と共に明星の印刷所へ行つて校正を手伝ふ。お茶の水から俥をとばして、かねて案内をうけて居た森鴎外氏宅の歌会に臨む。客は佐々木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋に予ら二人、主人を合せて八人であつた。平野君を除いては皆初めての人許り。鴎外氏は、色の黒い、立派な体格の、髯の美しい、誰が見ても軍医総監とうなづかれる人であつた。信綱は温厚な風采、女弟子が千人近くもあるのも無理が無いと思ふ。左千夫は所謂根岸派の歌人で、近頃一種の野趣ある小説をかき出したが、風采はマルデ田舎の村長様みたいで、随分ソソツカしい男だ。年は三十七八にもならう。
 角、逃ぐ、とる、壁、鳴、の五字を結んで一人五首の運座。御馳走は立派な洋食。八時頃作り上げて採点の結果、鴎外十五点、万里十四点、僕と与謝野氏と吉井君が各々十二点、白秋七点、信綱五点、左千夫四点。親譲りの歌の先生で大学の講師なる信綱君の五点は、実際気の毒であつた。鴎外氏は、御馳走のキキメが現れたやうだね≠ニ哄笑せられた。次の題は、赤、切る、塗物の三題。九時半になつて散会。出て来る時、鴎外氏は、石川君の詩を最も愛読した事があつたもんだ。=c」

 ここでは出席者メンバーが正確に書かれています。年譜に書かれている”ら”とか”等”とかはなんなんですかね?

写真は藪下通りから撮影した現在の森鴎外宅跡(観潮楼)です。現在はご存知の通り森鴎外記念館になっています。昔は図書館と兼ねていたのですが、図書館が直ぐ近くに移転して、単独で森鴎外記念館となっています。平成12年(2000)頃の同じ場所からの写真も掲載しておきます。森鴎外宅跡(観潮楼)については森鴎外の方で別途掲載する予定です。



本郷附近地図(太宰治関連地図参照)



「駒込動坂町二四」
<平野君の宅>
 5月2日、森鴎外宅(観潮楼)での歌会が終った後、道坂にあった平野万里宅を吉井勇と訪ね宿泊しています。平野万里についてはほとんど知識がなかったのでウイキペディアを参照します。

【平野万里(ひらの ばんり、明治18年(1885) -昭和22年(1947)本名は平野久保(ひさやす)】
埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。明治23年(1890)一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於莵を5歳まで預かった。
本郷区立駒本尋常高等小学校を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を明治34年(1901)卒業、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。明治40年(1907)、歌集『わかき日』刊行。明治41年(1908)に大学を卒業、その翌年横浜の会社に入り、明治43年(1910)満鉄中央試験所の技師として大連に赴任する。その間「明星」廃刊のあと、石川啄木らと「スバル」創刊に尽し、同誌に小説・戯曲を発表している。1912年末から大正4年(1915)までドイツに留学、帰国後農商務省技師となり、昭和13年(1938)商工省退官まで勤めた。大正前期作歌は一時中断したが、大正10年(1921)第二次「明星」創刊に参画してから、与謝野夫妻が没するまで与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表した。大正12年(1923)には、『鴎外全集』の編集も務めている。妻で歌人の玉野花子とともに、多磨霊園に眠る。

 明治四十一年日誌からです。
「五月二日…
… 吉井、北原二君と共に、動坂なる平野君の宅に行つて泊る。床の間には故玉野花子女史の位牌やら写真やら、色んな人形などを所せく飾つてあつた。寝てから吉井君が、十七の時、明治座に演じた一女優を見そめた初恋の話をした。平野君は頻りに、細君の有難味を説いたが、しまひになつて近所の煙草屋の娘の話をする。眠つたのは二時半頃であったらう。

五月三日
 平野君の室。八時に起きて、十時四人でパンを噛る。平野君はTrue love, its first practice.と云ふ西洋の春情本を出して、頻りに其面白味を説いた。此人達は、一体に自然主義を攻撃して居るが、それでゐて、好んで所謂其罵倒して居る所の自然主義的な事を話す。これは三年前になかつた事だ。自然主義を罵倒する人間も、いつしか自然主義的になつて居るとは面白い話だ。…

六月二十六日
 目をさまして、七時半頃、せつ子からの手紙をよむ。妹──みつ子、噫!
 千駄ヶ谷に行かうと思つたが、雨が降つて来たのでやめ、昨夜の歌を清書して送つた。
 雨。
 高田紅花から手紙。金星会の歌二人。
 一時頃吉井君が玉子の形をした懐中汁粉を買つて来て、雨が晴れた。二人で十題二十首の歌会をやつたが、十許り作つてやめる。例のすきずきしき話。平野万里君が来た。三時半頃三人で動坂の平野君の宅へ行つた。途中駒込の一寺で玉野花子さんの墓に詣でた。…」

 清盟帖に”平野久保氏 本郷区駒込動坂町二四”とあり、啄木が訪ねたところは本郷区駒込動坂町二四で間違いないとおもいます。又、玉野花子さんのお墓については当初は駒込のお寺にあったようですがその後多磨霊園に移されています。推定ですが平野久保が亡くなられた時に一緒に移されたモノとおもわれます。

<平野久保の住所(判明している分)>
・本郷森川町三二番地(ウイキペディア参照、現在の文京区本郷6丁目26の北側道路上
・本郷森川町二六番地(文京ゆかりの文人、現在の弥生1-1 弥生坂交番付近
・平野久保氏 本郷区駒込動坂町二四(千駄木5-49)(啄木の清盟帖)
・駒込千駄木町三七(與謝野晶子書簡 188、明治45年3月3日、現在の文京区千駄木3丁目3附近

写真の路地を少し入った右側が本郷区駒込動坂町二四になります。啄木が訪ねた頃には平野久保の奥様で歌人の玉野花子さんは既に亡くなられていたようです。道坂下の交差点を登った次の信号を左に折れた先です。



千駄木から本駒込附近地図



「菊坂町の赤心館跡」
<菊坂町の赤心館>
 啄木は千駄ヶ谷の新詩社から明治41年5月4日 金田一京助が下宿していた本郷の赤心館に移ります。新詩社に長くは滞在できないとおもいますので、丁度よい転居だったのではないかとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「五月四日 金田一京助の友情で本郷区菊坂町八十二番地赤心館に同宿。爾後創作に専念。上京後一ヵ月余に「菊池君」「病院の窓」「母」「天鵞絨」「二筋の血」等五つの作品三百余枚の原稿を書き、その小説の売り込みに奔走したが失敗、ために収入なく次第に生活に困窮する。この月与謝野寛の厚意で、新詩社の短歌添削の会である金星会を主宰する。…」
 谷崎潤一郎等もそうですが、文筆一本で生活していこうと思うと短歌だけでは難しく、小説を書かないとダメです。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「五月四日から、金田一京助の友情で、本郷区菊坂八十二(現文京区本郷五−五)の赤心館に下宿。
 一ヶ月ほどの間に、「菊地君」、「病院の窓」、「母」、「天鵞絨」、「二筋の血」、「刑余の叔父」の六作品、三百枚を脱稿するも、売込みに失敗。生活に困窮する。…」

 小説は短歌以上に難しく才能と努力が必要とおもいます。村上春樹が谷崎潤一郎の「細雪」を何回も読んだと書いていますが、相当勉強しないとダメだとおもいます。

 明治四十一年日誌からです。
「五月四日
 十二時千駄ケ谷にかへる。緑の雨がしとしとと降る。気持のよい日だ。
 二六新聞へ入社する様に主筆に話して来たと与謝野氏が語る。新詩社附属の、歌の添刪をやる金星会を、今後予がやる事にきまる。
 三時、千駄ケ谷を辞して、緑の雨の中をこの本郷菊坂町八十二、赤心館に引き越した。室の掃除が出来てないといふので今夜だけ金田一君の室に泊る。枕についてから故郷の話が出て、茨嶋の秋草の花と虫の音の事を云ひ出したが、何とも云へない心地になつて、涙が落ちた。螢の女の事を語つて眠る。(赤心館にて)

五月五日
 節 句。
 起きて二階に移る。机も椅子も金田一君の情、桐の箪笥は宿のもの。六畳間で、窓をひらけば、手も届く許りの所に、青竹の数株と公孫樹の若樹。浅い緑の色の心地よさ。
 晴れた日で、見あぐる初夏の空の暢やかに、云ふに云はれぬ嬉しさを覚えた。殆んど一日金田一君と話す。
 本田君、奥村君、向井君、小鵤君、宮崎君、せつ子へ葉書。岩崎君へ緑の都の第一信≠書いた。
 京に人つて初めて一人寝た。自分の室≠ノ寝た。安々と夢路に入る。…」

 啄木は千駄ヶ谷の新詩社を辞して本郷の東大近くの赤心館に移ります。全て金田一京助のおかげです。同郷の友情は凄いです。

写真右側のビルのところが赤心館跡(本郷菊坂町八十二)です。文京区が建てた赤心館跡の記念碑があります。17年前に同じ場所で撮影した写真も掲載しておきます。変っていません。

 続きます!



本郷附近地図(太宰治関連地図参照)