<平野君の宅> 2017年9月20日
正行寺と多磨霊園のお墓を追加修正 5月2日、森鴎外宅(観潮楼)での歌会が終った後、道坂にあった平野万里宅を吉井勇と訪ね宿泊しています。平野万里についてはほとんど知識がなかったのでウイキペディアを参照します。
【平野万里(ひらの ばんり、明治18年(1885) -昭和22年(1947)本名は平野久保(ひさやす)】
埼玉県北足立郡大門町(現:さいたま市緑区)の甚三の次男として生まれる。明治23年(1890)一家が上京し、本郷森川町三二番地に住んだ。実家は煙草屋を営み、生まれたばかりの森於莵を5歳まで預かった。
本郷区立駒本尋常高等小学校を経て、当時、錦城、共立、日本中学と並んで、東京の四大私立学校の一つに数えられていた有名校郁文館中学に学ぶ。同校を明治34年(1901)卒業、新詩社入社、翌年9月一高入学。1905年東京帝大工科大学応用化学科に進んだ。「明星」に短歌・詩・翻訳などを多数発表している。明治40年(1907)、歌集『わかき日』刊行。明治41年(1908)に大学を卒業、その翌年横浜の会社に入り、明治43年(1910)満鉄中央試験所の技師として大連に赴任する。その間「明星」廃刊のあと、石川啄木らと「スバル」創刊に尽し、同誌に小説・戯曲を発表している。1912年末から大正4年(1915)までドイツに留学、帰国後農商務省技師となり、昭和13年(1938)商工省退官まで勤めた。大正前期作歌は一時中断したが、大正10年(1921)第二次「明星」創刊に参画してから、与謝野夫妻が没するまで与謝野鉄幹、与謝野晶子夫妻と相伴うようにして協力し、同行して作品を発表した。大正12年(1923)には、『鴎外全集』の編集も務めている。妻で歌人の玉野花子とともに、多磨霊園に眠る。
明治四十一年日誌からです。
「五月二日…
… 吉井、北原二君と共に、動坂なる平野君の宅に行つて泊る。床の間には故玉野花子女史の位牌やら写真やら、色んな人形などを所せく飾つてあつた。寝てから吉井君が、十七の時、明治座に演じた一女優を見そめた初恋の話をした。平野君は頻りに、細君の有難味を説いたが、しまひになつて近所の煙草屋の娘の話をする。眠つたのは二時半頃であったらう。
五月三日
平野君の室。八時に起きて、十時四人でパンを噛る。平野君はTrue love, its first practice.と云ふ西洋の春情本を出して、頻りに其面白味を説いた。此人達は、一体に自然主義を攻撃して居るが、それでゐて、好んで所謂其罵倒して居る所の自然主義的な事を話す。これは三年前になかつた事だ。自然主義を罵倒する人間も、いつしか自然主義的になつて居るとは面白い話だ。…
…
六月二十六日
目をさまして、七時半頃、せつ子からの手紙をよむ。妹──みつ子、噫!
千駄ヶ谷に行かうと思つたが、雨が降つて来たのでやめ、昨夜の歌を清書して送つた。
雨。
高田紅花から手紙。金星会の歌二人。
一時頃吉井君が玉子の形をした懐中汁粉を買つて来て、雨が晴れた。二人で十題二十首の歌会をやつたが、十許り作つてやめる。例のすきずきしき話。平野万里君が来た。三時半頃三人で動坂の平野君の宅へ行つた。途中駒込の一寺で玉野花子さんの墓に詣でた。…」
清盟帖に”平野久保氏 本郷区駒込動坂町二四”とあり、啄木が訪ねたところは本郷区駒込動坂町二四で間違いないとおもいます。
玉野花子さんのお墓があった駒込のお寺については、明治42年1月12日の当用日記に記載がありました。
明治四十二年日誌からです。
「一月十二日 火曜 曇 寒
十二時すぎておきた。
…
十四日は故玉野花子女史の命日、モの日駒込正行寺で記念歌会をひらくといふ招待状が平野君から来た…
…
一月十四日 木曜 霙 寒
十時頃におきた。間島君から電話。
平山良子から来たうたを見てるうちに午。やがて間島君が来て二時頃一しよに駒込正行寺に行つた。平野君の故夫
人の一週忌だ。太田、与謝野、万造寺、川上、間島、松原、渡辺に平野。北原からはオバサソが代理。
読経がすんでから歌題十首。
さかづきの少しかけたるところより寂み来る酒の半ばに(琴山)
わが心あそぶが如き軽石を伊豆の海辺にひろひてあそぷ(寛)…」
玉野花子さんのお墓は
駒込の正行寺にあったようです。平野万里(本名:久保)のお墓については多磨霊園にあります。
多磨霊園のお墓を訪ねたところ、平野万里のお墓の墓誌に玉野花子さんの記載はありませんでした。ウイキペディアには”妻で歌人の玉野花子とともに、多磨霊園に眠る”とあり、脚注のページには”同墓所内には、平野万里の妻で歌人の玉野花子の個人墓も建立されている”とも書かれていましたが、お墓が綺麗にされており、玉野花子の個人墓はありませんでした。
<平野万里(本名:久保)の住所(判明している分)>
・本郷森川町三二番地(ウイキペディア参照、
現在の文京区本郷6丁目26の北側道路上)
・本郷森川町二六番地(文京ゆかりの文人、
現在の弥生1-1
弥生坂交番付近)
・平野久保氏 本郷区駒込動坂町二四(千駄木5-49)(啄木の清盟帖)
・駒込千駄木町三七(與謝野晶子書簡
188、明治45年3月3日、
現在の文京区千駄木3丁目3附近)
★写真の路地を少し入った右側が本郷区駒込動坂町二四になります。啄木が訪ねた頃には平野久保の奥様で歌人の玉野花子さんは既に亡くなられていたようです。
道坂下の交差点を登った次の信号を左に折れた先です。