●「石川啄木の東京」を歩く 明治41年 -1-
    初版2017年4月22日  <V01L01> 暫定版

 今回は「『石川啄木の東京』を歩く 明治41年 -1-」です。明治41年4月5日 啄木は釧路新聞社を退社、函館を経由して、船で横浜に向います。東京での創作活動や生活に憧れたものとおもわれます。4月27日横浜着、翌日、新詩社に向います。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



現在の東京南部地図



「正金銀行前の長野屋跡」
<正金銀行前の長野屋>
 明治41年4月5日 啄木は釧路新聞社を退社、函館に向い、その後、船で横浜に向います。函館は4月25日午前4時頃の出航で、前日から乗込み、三河丸三等室での船旅でした。啄木は釧路での生活に辟易し東京での創作活動や生活に憧れたものとおもわれます。4月27日横浜着、翌日、新詩社に向います。乗船した船は日本郵船の三河丸とおもわれますがこの船は明治27年に進水した船で、明治37年6月に三河丸と改名しています。それまでの三河丸は明治37年5月、日露戦争の旅順港閉塞作戦で、旅順口で自沈しています。その名を引き継いで命名したものとおもわれます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「四月二十四日 宮崎郁雨の厚意で家族を函館に残し、三河丸で海路上京する。「今度の上京は、小生の文学的運命を極度まで試験する決心に候」(向井永太郎宛五月五日書簡)…」
 4月24日ですから乗船前に書いたものとおもわれます。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「 四月二四日、「文学的運命を極度まで試験する決心」〔向井永太郎宛書簡(同年、五月五日)〕にて上京。但し、故郷の渋民を通りたくない理由もあり、海路を選択。家族は、宮崎郁雨(大四郎)に托した。…」
 釧路新聞での活動で少し自信が付いたのかもしれません。しかし東京と釧路では全く環境が違いすぎます。

 明治四十一年日誌からです。
「四月廿七日
 夜の明方、船が大分揺れた。犬吠岬の沖を過ぎたのである。
 午後になって房州の海岸が右舷に近く見える。青々とした麦の畑が所々にあった。館山の沖を過ぎる。鋸山の頂きには雲が靉びいて居た。
 軍港横須賀の沖合には、新らしく築かれた砲台が二つ三つ、海の中に牛の如く臥て居た。港の入口と覚しきあたりに、軍艦らしい檣が七八本。軈て、横浜の崎が見えだした。
 船は防波堤の奥深く入って、午後六時錨を投じた。人々と共に二昼夜半の航海を終って上陸、正金銀行前の長野屋に投宿。船の中で枕を並べた二人と室を同じうする。
 湯に入って晩餐の膳についたが、綿入を着て汗が流れた。八時半、手紙をかいて小嶋烏水君にやる。返事が来て明日正午会食の約。
 ハガキを五六枚。興謝野氏に明日行くと打電して机に就く。(横浜市長野屋にて、)…」

 25日早朝の出港で27日夕方着ですから、上記に書いてある通り、二泊三日です(一応確認しました)。宿泊は”正金銀行前の長野屋”とありますので、少し調べて見ました。大正12年の「職業別電話名簿 東京横浜」に”長野屋 辨天通5−88”とあり、関東大震災前の2月発行なので間違いないとおもいます。”辨天通5−88”については大正10年の土地宝典で確認為ました。下記に掲載しておきます。

写真の右側、茶色のビル、横浜平和プラザホテルのところとおもわれます。左側は神奈川県立歴史博物館(昔の正銀銀行)です。



横浜館内駅附近地図(孫文の地図から流用)



大正10年の土地宝典



「千駄ヶ谷の新詩社跡」
<千駄ヶ谷の新詩社>
 啄木は4月27日横浜着、翌日、千駄ヶ谷の新詩社に向っています。新橋から上野方面はまだ開通しておらず、鉄道で行くには逆方向の品川→渋谷→新宿→千駄ヶ谷駅(明治37年開業)で行くことが出来ました。しかし、啄木は贅沢にも人力車で千駄ヶ谷の新詩社に向っています。相変わらず散財しています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
 「四月二十八日 千駄ヶ谷の新詩社に入り、与謝野寛・晶子夫妻と再会、しば
らく滞在する。
五月二日 与謝野寛に連れられて森鴎外宅の観潮楼歌会に出席する。参会者
は佐佐木信綱、伊藤左千夫、平野万里、吉井勇、北原白秋ら主客あわせて八名。…」


 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「四月二八日、千駄ヶ谷の新詩社にて数日滞在。…」
 詩にも書き残していますので相当印象深かったのではないかとおもいます。

 明治四十一年日誌からです。
「四月廿八日
 同室の客が先づ立って了ふ。一人残って十二時を待つ間を斬髪して来る。
 港内の船々の汽笛が、皆一様にボーツと鳴り出した時、予は正金銀行の受付に名刺を渡して居た。応接室に待つ事三分にして小嶋君が来た。相携へて程近い洋食店の奥座敷に上る。玻璃の花瓶には白いあやめと矢車の花。夏は予に先立ってこの市に来て居た。
 正金銀行の預金課長、紀行文に名を成して、評論にも筆をとる此山岳文学者は、山又山を踏破する人と思へぬ程、華車な姿をして居た。痩せた中背の、色が白くて髯黒く、目の玉が機敏に動く人で、煙草は飲まぬ。
 名知らぬ料理よりも、泡立つビールよりも、話の方がうまかつた。話題の中心は詩が散文に圧倒されてゆく傾向と自然主義の問題であつた。有明集が六百部しか売れぬと聞いた。二葉亭の作に文芸を玩弄する傾向の見えるのは、氏の年齢と性格によるので、今の文壇、氏の位頭の新らしい人はあるまいと評した。然し乍ら、遠からず自然主義の反動として新ロマンチシズムが勃興するに違ひない。小川未明など云ふ人は、頻りにそれを目がけて居る様だが、まだ路が見つからぬらしい。
 午后二時発の汽車は予を載せて都門に向つた。車窓の右左、木といふ木、草といふ草、皆浅い緑の新衣をつけて居る。アレアレと声を揚げて雀躍したい程、自分の心は此緑の色に驚かされた。予の目は見ゆる限りの緑を吸ひ、予の魂は却つて此緑の色の中に吸ひとられた。やがてシトシトと緑の雨が降り初めた。
 三時新橋に着く。俥といふ俥は皆幌をかけて客を待つて居た。永く地方に退いて居た者が久振りで此大都の呑吐口に来て、誰しも感ずる様な一種の不安が、直ちに予の心を襲うた。電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。予は遂に一台の俥に賃して、緑の雨の中を千駄ヶ谷まで走らせた。四時すぎて新詩社につく。
 お馴染の四畳半の書斎は、机も本箱も火鉢も坐布団も、三年前と変りはなかつたが、八尾七瀬と名づけられた当年二歳の双児の増えた事と、主人与謝野氏の余程年老つて居る事と、三人の女中の二人迄新らしい顔であつたのが目についた。本箱には格別新らしい本が無い。生活に余裕のない為だと気がつく。与謝野氏の着物は、亀甲形の、大嶋絣とかいふ、馬鹿にあらい模様で、且つ裾の下から襦袢が二寸も出て居た。同じく不似合な羽織と共に、古着屋の店に曝されたものらしい。
 一つ少なからず驚かされたのは、電燈のついて居る事だ。月一円で、却つて経済だからと主人は説明したが、然しこれは怎しても此四畳半中の人と物と趣味とに不調和であつた。此不調和は軈て此人の詩に現はれて居ると思つた。そして此二つの不調和は、此詩人の頭の新らしく芽を吹く時が来るまでは、何日までも調和する期があるまいと感じた。
 茅野君から葉書が来て、雅子夫人が女の児を生んだと書いてあつた。晶子女史がすぐ俥で見舞に行つた。九時頃に帰つて来て、俥夫の不親切を訴へると、寛氏は、今すぐ呼んで叱つてやらうと云つた。予はこの会話を常識で考へた。そして悲しくなつた。此詩人は老いて居る。
 与謝野氏は、其故恩師落合氏の遺著言の泉≠フ増補を合担して居て、今夜も其校正に急がしかつた。ごれなん
か、御礼はモウ一昨年とつてあるんだからね。印刷所から送つて来た明星の校正を見ると、第一頁から十二頁まで
だ。これでも一日の発刊に間に合ふかと聞くと、否、五六日延るであらう。原稿もまだ全部出来てないと答へた。そして先月も今月も、九百五十部しか刷らないんだが、……印刷費が二割も上つたし、紙代も上つたし、それに此頃は怎しても原稿料を払はなければならぬ原稿もあるし。怎しても月に三十円以上の損になります。……外の人ならモウとうにやめて居るんですがねー。
 小説の話が出た。予は殆んど何事をも語らなかつたが、氏は頻りに激石を激賞して先生≠ニ呼んで居た。朝日新聞に連歌されて居る藤村の春≠、口を極めて罵倒する。自然派などといふもの程愚劣なものは無い≠ニ云つた。そして居て、小栗氏の作などは賞める。晶子夫人も小説に紜ずると云ふて居ると話した。僕も来年あたりから小説を書いて見ようと思つてるんだがね。=i来年からですか)と聞くと、マア、君、嶋崎君なんかの失敗の手本を見せて貰つてからにするサ。 ── はこれ以上聞く勇気がなかつた。世の中には、尋常鎖事の中に却つて血を流すより亀悲しい悲劇が隠れて居る事があるものだ。噫、この一語の如きもそれでは無いか! 氏にして若し真に藤村が失敗するといふ確信があるならば、何故その失敗の手本を見る必要があるか? 予は、たとへ人間は年と共に圭角がなくなるものとしても、嘗て日本を去るの歌≠作つた此詩人から、恁の如き自信のない語を聞かうと思つて居なかつた。
 十時に枕についた。緑の都の第一夜の夢は、一時過ぐるまで結ばれなかつた。
 与謝野氏は既に老いたのか? 予は唯悲しかつた。(千駄ケ谷新詩社にて)…」


【小島烏水(こじまうすい 明治6年(1873)12月29日-昭和23年(1948)12月13日)】
明治6年(1873)香川県高松生まれ。横浜商業学校卒業。横浜正金銀行に入行。銀行は定年まで勤め、シアトル支店長などを歴任。横浜商業学校時代に友人と雑誌『学燈』を編集するなど、早くから文筆に興味を持つ。銀行に入ってから、明治29年(1896)に出した『一葉女史』により評論家として世に注目される。また、登山家としても知られ、1897年立川から甲府の昇仙峡まで徒歩で青梅街道を歩く、1899年休暇に浅間山 - 木曽へ山旅するなど、旅を趣味とした。『日本風景論』(志賀重昂、1894年)の影響もあるといわれ、中部地方の山々(日本アルプス)へ入るようになる。木暮理太郎、田山花袋、バジル・ホール・チェンバレン(王堂チェンバレン)、ウォルター・ウェストンと交遊がある。1905年、日本山岳会初代会長となる。横浜正金銀行から派遣されてシアトルの他サンフランシスコやロサンジェルスにも滞在しており、その際にはシエラ・ネバダ山脈やカスケード山脈にも足跡を残している。(ウイキペディア参照)

 手元にある明治40年の時刻表では、横浜駅(現在の桜木町駅で、大正4年に地下鉄高島駅附近に移転し、更に昭和3年に現在の位置に移っています)14時発→新橋駅14時54分着があります。

 ”電車に乗つて二度三度乗換するといふ事が、何だか馬鹿に面倒臭い事の様な気がし出した。”、本当に贅沢な男です。正岡子規は、初めて新橋駅に降り立ったときは久松邸まで人力車に乗っていますが、啄木は何度目かの上京でよく分かっていたはずです。

写真の右側、駐車場のあるところが千駄ヶ谷村五四九番地 新詩社跡です。新詩社は明治37年11月、渋谷から千駄ヶ谷村五四九番地に転居しています。



「大番町二六、佐久間方」
<四谷大番町の小泉奇峰君>
 ここから啄木が訪ねたところを少し回ってみます。住所は清盟帖に書いてあるといいのですが、年譜にはほとんど記載が無く、又、日誌にはフルネームの記載が無かったりして探すのが大変です。記載の内容も本によって違っていたりしています。困ったものです。

 最初は明治41年4月29日の日誌に記載のある、”四谷大番町に小泉奇峰君”です。

 明治四十一年日誌からです。
「四月廿九日
 八時半目をさます。晴がましい初夏の日に緑の色が眩しい。
 十時頃、四谷大番町に小泉奇峰君を訪ねて、一緒に市中をプラついた。小川町の卜ある蕎麦屋で昼食して、歩いて歩いて須田町で別れる。本郷行の電車を待合はして乗らうとすると石川さん≠ニ云ふ女の声に後から止められた。それは梅川であつた。看護婦の梅川……造花の稽古に上京したと聞いた梅川であつた。妙に釧路の人に逢ふ日だなと
思ふ。…」

 清盟帖に”小泉長三氏 東京、四谷区大番町二六、佐久間方”とあり、小泉奇峰の本名が小泉長三なので間違いないとおもいます。

 ”小川町のトある蕎麦屋”は”まつや”のことかなともおもったのですが確証がありません。

写真の正面右側の建物付近が四谷区大番町二六です。”佐久間方”は確認がとれていません。現在の住居表示で新宿区大京町17附近とおもわれます。



四谷三丁目から千駄ヶ谷附近地図



「豊国跡」

<豊国>
 啄木は四谷大番町の小泉奇峰を訪ねた後、菊坂町の赤心館に金田一京助を訪ねています。日記によると、その後二人で本郷にある牛鍋屋の豊国に行っています。

 明治四十一年日誌からです。
「四月廿九日
 …
 広小路で女を電車に載せてやつて、予は菊坂町の赤心館に金田一花明兄を訪ねた。髪を七三にわけて新調の洋服を着て居た。予が生れてから、此人と東京弁で話したのは此時に初まる。
 豊国へ案内されて泡立つビールに牛鍋をつついた。帰りはまた一緒に赤心館に来て、口に云ひ難いなつかしさ、遂々二時すぐるまで語つて枕を並べた。…」

 本郷で牛鍋屋と言えば弓町の”江知勝”と龍岡の”豊国”だったようです。”江知勝”は大正8年の牛料理店番付でも小結で有名ですが”豊国”は記載がありません。

 正岡子規「筆まかせ」の「十一時間の長眠」(岩波文庫”筆まかせ”に掲載)からです。
「○十一時間の長眠
 明治廿五年九月十九日夜三時頃まで俳句の分類に従事し終に眠りに就きしか 翌朝七時頃眼さめたれぱ一日頭なやみて堪へがたし 尤前日晩餐ハ我根岸庵のあてがひわろければくはず勝田明庵の来るを幸に同氏を誘ふて本郷枳殼寺うしろの豊国に行きて牛肉を喰ひ二、三杯の酒を飲みたりなどせしなり。さて廿日の昼餐ハ陸に呼ばれ 午後ハ下谷郵便局に為替を取りて本郷台町一丁目林イヨ方に竹村錬卿を訪ひ 雨を侵して錬卿と共にまた豊国に赴く。けだし錬卿近日兵庫の師範学校の教員として赴任するはず故 暗にこれを送るの微意なり(尤同学生の発起にかかる送別会(数日前已に切通上島又においてこれを開きたり)ここに晩餐を終へ枳殻寺向への川崎屋にてフラネルのシャツ及び靴下を購ふ。それより錬卿と共に破蕉翁を訪はんとて行く途中にて 錬卿の注意にて余(足駄一双を新調す 尤前皮附なり(余が足駄を購ひし事ハ数年来絶てなき事なり)翁の内にて俳話を上下して後 鶯横町の寓居に帰りしは十一時頃なり。それよりまた発句類題全集の分類に従事 一時過ぐる頃寝に就きたり。翌廿一日目さめて見れば雨戸一、二枚明けたるばかりにて室内いと暗く雨はなほふりしきりたる様子なり。枕元によせたる今日の『日本新聞』及び天外生の端書など一見しつつ婆?に声をかけて何時にやといへば はや十二時を過ぎたりといふ。いたく驚かれてよくよく睡眠の時間を数ふるに 十一時間の長眠にしてしかもその間一度も眼のさめたることなし。余生れて未だ此の如く長寝せしこと
はあらじ    真昼まで燈の残りけり秋の雨」

 ここでは場所が”本郷枳殼寺うしろ”(正式には麟祥院のうしろ)、まで分かりました。

 斎藤緑雨が明治31年に書いた「ひかへ帳」の中に”豊国”について書いています(国会図書館のインターネットで閲覧可能)。
「○焼鍋煮鍋の湯気や雲なる龍岡町の豊國といふは、打群るゝ彼の制帽組の間に聞えし家なりと知るべし。学校衛生といふことを唱道せる医学士の、或席にて府下の牛屋といふ牛屋は、一軒残さず食廻りたりと言ひしに、又始めたなと言はぬばかりの甲乙袖引合ふて、何家が一番うまかつたと問返せば、それはと学士は尠からず躊躇ひしが、何うだ何うだと意地悪く追窮められて、まあ豊國だ。」
 ここでは住所が”本郷の龍岡町”と分かりました。

 芥川龍之介の「豊島与志雄氏の事」にも書かれていました(青空文庫より)。
「 豊島は僕より一年前に仏文を出た先輩だから、親しく話しをするようになったのは、寧ろ最近の事である。僕が始めて豊島与志雄と云う名を知ったのは、一高の校友会雑誌に、「褪紅色の珠」と云う小品が出た時だろう。それがどう云う訳か、僕の記憶には「登志雄」として残った。その登志雄が与志雄と校正されたのは、豊島に会ってからの事だったと思う。
 初めて会ったのは、第三次の新思潮を出す時に、本郷の豊国の二階で、出版元の啓成社の人たちと同人との会があった、その時の事である。一番隅の方へひっこんでいた僕の前へ、紺絣の着物を着た、大柄な、色の白い、若い人が来て坐った。眼鏡はその頃はまだかけていなかったと思うが、確には覚えていない。僕はその人と小説の話をした。それが豊島だった事は、云うまでもなかろう。何でもその時は、大へんおとなしい、無口な人と云う印象を受けた。それから、いゝ男だとも思ったらしい。らしいと云うのは、その後鴻の巣か何かで会があった時に、豊島の男ぶりを問題にした覚えがあるからである。…」

 大正11年の東京特選電話名簿で探すと、”豊國屋 山川勝蔵 本郷、龍岡、二八”、昭和初期の火保図で調べて見ると、同じ場所に見つけることが出来ました。関東大震災後前の電話帳なので、間違いないとおもいます。

写真の正面が本郷區龍岡町28となります。東大病院に入る門前を右に曲がった突き当たり附近になります。現在の住居表示で湯島四丁目8番付近となります。

 続きます!!



本郷附近地図(太宰治関連地図参照)