<豊国> 啄木は四谷大番町の小泉奇峰を訪ねた後、菊坂町の赤心館に金田一京助を訪ねています。日記によると、その後二人で本郷にある牛鍋屋の豊国に行っています。
明治四十一年日誌からです。
「四月廿九日
…
広小路で女を電車に載せてやつて、予は菊坂町の赤心館に金田一花明兄を訪ねた。髪を七三にわけて新調の洋服を着て居た。予が生れてから、此人と東京弁で話したのは此時に初まる。
豊国へ案内されて泡立つビールに牛鍋をつついた。帰りはまた一緒に赤心館に来て、口に云ひ難いなつかしさ、遂々二時すぐるまで語つて枕を並べた。…」
本郷で牛鍋屋と言えば弓町の”江知勝”と龍岡の”豊国”だったようです。”江知勝”は大正8年の牛料理店番付でも小結で有名ですが”豊国”は記載がありません。
正岡子規「筆まかせ」の「十一時間の長眠」(岩波文庫”筆まかせ”に掲載)からです。
「○十一時間の長眠
明治廿五年九月十九日夜三時頃まで俳句の分類に従事し終に眠りに就きしか 翌朝七時頃眼さめたれぱ一日頭なやみて堪へがたし 尤前日晩餐ハ我根岸庵のあてがひわろければくはず勝田明庵の来るを幸に同氏を誘ふて本郷枳殼寺うしろの豊国に行きて牛肉を喰ひ二、三杯の酒を飲みたりなどせしなり。さて廿日の昼餐ハ陸に呼ばれ 午後ハ下谷郵便局に為替を取りて本郷台町一丁目林イヨ方に竹村錬卿を訪ひ 雨を侵して錬卿と共にまた豊国に赴く。けだし錬卿近日兵庫の師範学校の教員として赴任するはず故 暗にこれを送るの微意なり(尤同学生の発起にかかる送別会(数日前已に切通上島又においてこれを開きたり)ここに晩餐を終へ枳殻寺向への川崎屋にてフラネルのシャツ及び靴下を購ふ。それより錬卿と共に破蕉翁を訪はんとて行く途中にて 錬卿の注意にて余(足駄一双を新調す 尤前皮附なり(余が足駄を購ひし事ハ数年来絶てなき事なり)翁の内にて俳話を上下して後 鶯横町の寓居に帰りしは十一時頃なり。それよりまた発句類題全集の分類に従事 一時過ぐる頃寝に就きたり。翌廿一日目さめて見れば雨戸一、二枚明けたるばかりにて室内いと暗く雨はなほふりしきりたる様子なり。枕元によせたる今日の『日本新聞』及び天外生の端書など一見しつつ婆?に声をかけて何時にやといへば はや十二時を過ぎたりといふ。いたく驚かれてよくよく睡眠の時間を数ふるに 十一時間の長眠にしてしかもその間一度も眼のさめたることなし。余生れて未だ此の如く長寝せしこと
はあらじ 真昼まで燈の残りけり秋の雨」 ここでは場所が”本郷枳殼寺うしろ”(正式には
麟祥院のうしろ)、まで分かりました。
斎藤緑雨が明治31年に書いた「ひかへ帳」の中に”豊国”について書いています(国会図書館のインターネットで閲覧可能)。
「○焼鍋煮鍋の湯気や雲なる龍岡町の豊國といふは、打群るゝ彼の制帽組の間に聞えし家なりと知るべし。学校衛生といふことを唱道せる医学士の、或席にて府下の牛屋といふ牛屋は、一軒残さず食廻りたりと言ひしに、又始めたなと言はぬばかりの甲乙袖引合ふて、何家が一番うまかつたと問返せば、それはと学士は尠からず躊躇ひしが、何うだ何うだと意地悪く追窮められて、まあ豊國だ。」
ここでは住所が”本郷の龍岡町”と分かりました。
芥川龍之介の「豊島与志雄氏の事」にも書かれていました(青空文庫より)。
「 豊島は僕より一年前に仏文を出た先輩だから、親しく話しをするようになったのは、寧ろ最近の事である。僕が始めて豊島与志雄と云う名を知ったのは、一高の校友会雑誌に、「褪紅色の珠」と云う小品が出た時だろう。それがどう云う訳か、僕の記憶には「登志雄」として残った。その登志雄が与志雄と校正されたのは、豊島に会ってからの事だったと思う。
初めて会ったのは、第三次の新思潮を出す時に、本郷の豊国の二階で、出版元の啓成社の人たちと同人との会があった、その時の事である。一番隅の方へひっこんでいた僕の前へ、紺絣の着物を着た、大柄な、色の白い、若い人が来て坐った。眼鏡はその頃はまだかけていなかったと思うが、確には覚えていない。僕はその人と小説の話をした。それが豊島だった事は、云うまでもなかろう。何でもその時は、大へんおとなしい、無口な人と云う印象を受けた。それから、いゝ男だとも思ったらしい。らしいと云うのは、その後鴻の巣か何かで会があった時に、豊島の男ぶりを問題にした覚えがあるからである。…」
大正11年の東京特選電話名簿で探すと、”豊國屋
山川勝蔵 本郷、龍岡、二八”、昭和初期の火保図で調べて見ると、同じ場所に見つけることが出来ました。関東大震災後前の電話帳なので、間違いないとおもいます。
★写真の正面が本郷區龍岡町28となります。
東大病院に入る門前を右に曲がった突き当たり附近になります。現在の住居表示で湯島四丁目8番付近となります。
続きます!!