●「石川啄木の東京」を歩く 明治37年
    初版2017年4月22日 
    初版2017年5月20日  <V01L03> 追加 暫定版

 今回は「『石川啄木の東京』を歩く 明治37年 」です。明治37年10月31日、啄木は処女詩集出版のため上京しています。この上京については資料がほとんどありません。日記が無く、書簡しかありませんので、かなり調べたのですが詳細の動きについてはよく分かりません。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図


「弥生町三跡附近」
<本郷区向ケ岡弥生町三村井方>
 明治37年の上京については巻頭にも書きましたが、資料がほとんどありません。年譜に書かれている事項は書簡からだとおもわれます(確認はしていません)。仕方が無いので今回は年譜のみで歩いています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十月三十一日 処女詩集刊行の目的で上京。本郷区向ケ岡弥生町三村井方に止宿する。…」
 10月31日に上京と書かれていますが、推定ですが東京に着いた日とおもわれます。”本郷区向ケ岡弥生町三村井方”とあり、この下宿は誰が斡旋したのか分かりません。事前に頼んでいたのだとおもわれます。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一〇月三一日、詩集刊行のため上京。(一一月二八日からは、牛込・井田芳太郎方に下宿。)…」
 此方は”本郷区向ケ岡弥生町三村井方”が書かれていません。仕方がないので文京区教育委員会発行の「文京区ゆかりの文人たち」をみると、”本郷区向ケ岡弥生町三(弥生2−15)村井方”となっています。明治37年の地図で”本郷区向ケ岡弥生町三”を見るとかなりの広さです。現在の住居表示では、弥生1丁目の一部(東大農学部の東側)、弥生2丁目1〜18(弥生美術館附近は除く)です。文京区教育委員会発行の「文京区ゆかりの文人たち」では”弥生2−15村井方”となっていますが、何故この地番が出てきたのか、私が調べた限りでは不明です。又、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」の年譜では”現在文京区弥生1−8”と書かれています(これは昭和40年の住居表示で、現在の住居表示では弥生2−15)。仕方がないので、法務局の土地台帳で”本郷区向ケ岡弥生町三 村井方”を探してみました。明治からの全ての土地所有者台帳なのですが、残念ながら見つけることが出来ませんでした。本郷区向ケ岡弥生町三は、侯爵 浅野長勲がほとんどの土地を所有されていました。当時は土地を借りていた方が多かったのではないかと推定しています。昭和初期以降の火保図や戦後の住宅地図でも”村井”の記述はありませんでした。

写真は言問通りから弥生2−11、15附近を撮影したものです。”本郷区向ケ岡弥生町三”はこの左右一体全てです。



文京区本郷附近地図(太宰治の地図から流用)



明治37年の地番入り地図(向ケ岡弥生町三)



「駿河台袋町八養精館跡」
<神田区駿河台袋町八養精館>
 啄木は明治37年10月31日に上京し、本郷区向ケ岡弥生町三村井方に宿泊してから一週間程度で神田区駿河台袋町八養精館に転居しています。村井方は仮の住まいだったようです。場所的には御茶ノ水駅(明治37年12月31日開業なので、この時にはまだ無い)の南西直ぐになります。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
 「十一月八日 神田区駿河台袋町八養精館に移る。…」

 石川啄木の「眠れる都」より
「(京に入りて間もなく宿りける駿河台の新居、窓を開けば、竹林の崖下、一望甍いらかの谷ありて眼界を埋めたり。秋なれば夜毎に、甍の上は重き霧、霧の上に月照りて、永く山村僻陬へきすうの間にありし身には、いと珍らかの眺めなりしか。一夜興をえて々さうさう筆を染めけるもの乃すなはちこの短調七聯れんの一詩也。「枯林」より「二つの影」までの七篇は、この甍の谷にのぞめる窓の三週の仮住居になれるものなりき)…」
 詩にも書き残していますので相当印象深かったのではないかとおもいます。

写真の左側駿台予備校附近が神田区駿河台袋町八です。その先の駿河台袋町九には「養精館」より有名な旅館「貴臨館」がありました。辛亥革命前の清国留学生の溜り場だったところです。



御茶ノ水駅附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用)



「井田芳太郎方跡」
<牛込区砂土原町三丁目二十二番地井田芳太郎方>
 啄木は養精館が閉鎖されたため、11月28日 養精館の経営者であった井田芳太郎方(牛込区砂土原町3−22)に転居しています(このくだりは松田十刻さんの「26年2か月」より)。ここでも僅か20日間程の滞在でした。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月二十八日 牛込区砂土原町三丁目二十二番地井田芳太郎方に転居。…」
 この辺りの詳細な事柄はまったく不明です。出典をもう少し細かく書かれていると検証ができるのですが、よく分からないのが実情です。

写真の正面が牛込区砂土原町3−22です。区が新宿区に変っていますが、町名も地番もそのままで変っていません。現在は井田さんは住まわれてはおりません。

「大和館跡」
<牛込区払方町二十五番地の大和館>
 啄木は明治38年3月10日 井田芳太郎方(牛込区砂土原町3−22)から近くの大和館(牛込区払方町25)に移っています。それでも井田芳太郎方には三ヶ月半程いたことになります。松田十刻さんの「26年2か月」によると、ここでも借金で5月に入り飛び出していたようです。結局、皆にせかされて5月19日に盛岡に向います。まあ、いい加減な男です!

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「三月十日 啄木、牛込区払方町二十五番地の大和館へ転居する。…」
 この大和館も詳細の場所が分かりません。”本郷区向ケ岡弥生町三”程ではありませんが、”牛込区払方町二十五番地”も結構広いです。啄木関連本では特定の場所を示されているのもあるのですが、出典が分からず、詳細の場所が確認できません。

写真の左側一帯が牛込区払方町25です。井田芳太郎方(牛込区砂土原町3−22)からは550m位ですので、井田芳太郎方をやむを得ず出ざるを得なくなり、近くの下宿を探したのだとおもいます。



市ヶ谷付近地図(「村尾嘉陵を歩く」から流用)



明治40年市ヶ谷・牛込地図



「旧両国橋跡」
<料亭伊勢平楼>
 2017年5月20日 料亭伊勢平楼を追加
 明治38年4月15日、新詩社主催で旧両国橋河畔の伊勢平楼で演劇会を開催しています。いわゆる文士劇です。明治38年の啄木日誌は無く、後述の日誌で書かれていました。

 明治四十一年の日誌からです。
「2月15日
…モウ一本は京なる植木女史の長い長いたよりで、封じ込めた白梅の花に南の空の春を忍ばしめる。三年前の四月十五日、隅田川辺の桜老いたる伊勢平楼で新詩社の演劇をやった時、一曲春の舞を舞ふた村松某といふ少女が昨年あへなくも亡き人の数に入り、其母君も間もなく物故せられたといふ。世の中は恁うしたものかと書いてる。世の中といふ言葉はヒシと許り胸に応へた。…

八月二十七日
…因に、忘れてはならぬから書いておくが、あの芝居は三十八年四月十五日江東伊せ平楼でやつたので、岩田郷一郎君高村砕雨君を初め、社中では与謝野、伊上凡骨、僕、平出君それから石井柏亭君 山本鼎君(共に画家) 博文館の竹貫某君、生田葵山君、美術学校の彫塑科を出た佐々木某君(名取、)女は香山とか云ふ美術学校のモデルだといふ狂気染みた女と植木貞子(うえきていこ)。…」

 この伊勢平楼(旧中村楼)は明治41年には売りに出され、東京美術倶楽部となっています。住所は東京市本所区元町1番地となります(東京美術倶楽部のホームページに記載あり)。東京美術倶楽部は関東大震災で倒壊後、芝区に移転しています。

写真は隅田川左岸の旧両国橋(明治37年架設)付近から隅田川を撮影したものです。この左側附近に伊勢平楼があったとおもわれます。

「小田島書房跡」
<小田島書房>
 啄木は処女詩集『あこがれ』を小田島書房より発行します。この費用については盛岡出身の小田嶋尚三(弟が啄木と盛岡高等小学校で同級)が出資しています。啄木の上手な話に乗ったのだとおもいます。

 「石川啄木全集」からです。
「五月三日 小田島書房より処女詩集『あこがれ』が刊行された。上田敏の序詩と与謝野鉄幹の跋文が付され、装幀は同郷の友人石掛友造で、詩集の暃には「此書を尾崎行雄氏に献じ併て遙に故郷の山河に捧ぐ」という献辞がある。収録作品は七十七篇、定価五十銭。…

五月二十日 啄木東京を出発、途中仙台に立ち寄り二十九日まで滞在。大泉旅館に宿泊する。…」


 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「五月三日、処女詩集『あこがれ』発行。高等小学校時代の級友小田島真平の兄尚三の厚意により、尚三出征記念として、その経営する小田島晝房から発行された。(啄木が刊行した詩集一冊、歌集二冊は、いずれも自費出版でなかったことは、啄木の文学的力量もさることながら、その「文学的強運」に注目される。生前ほとんど原稿料を手にすることのなかった宮沢賢治の「文学的不運」と、この点でも好対照をなしていると言えよう。)
 上田敏の序詩と与謝野鉄幹の跋文が付され、装丁は、友人の石掛友造。収録作品数七七篇で定価五〇銭であった。…」

 小田島書房の場所については処女詩集『あこがれ』の奥付を参照しました。
 発行所 東京市京橋區南大工町五番地 小田島書房 

写真は八重洲ブックセンターの北側の路地を東京駅側に向って撮影したものです。左側三軒先附近が京橋區南大工町五番地となります。

 明治37年はここで終了です。




東京駅から日本橋附近地図