<神田錦町三丁目の力行会> 前回の記載と前後しますが、11月5日に神田錦町の中学校を訪ねています。編入を期待していたようですが、無理だったようです。訪ねた学校は
正則学園(当時は正則学園中学校)と錦城学園(当時は錦城中学校)だったとおもわれます(一部の本に開成と書かれているが開成は日暮里の私立東京開成中学校のことなので、錦城の間違いとおもわれる)。その後、下宿代を払えなかった啄木は金子定一(神田錦町三丁目の力行会)のところに転がり込んでいます。
「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月五日 野村長一の忠告を入れ、共に連れだって神田付近に中学校を尋ね五年生への編入を照会したが、欠員なく徒労に終った。…
…
十二月二十八日 盛岡中学校の後輩で上京中の金子定一の厚意で、その友人である紀藤方策の紹介状を持って金港堂に雑誌「文芸界」の編集主任佐々醒雪(政一)を訪問、「文芸界」の編集員として就職を希望するが面会できず失敗に終る。当時金子定一は神田錦町三丁目の力行会に宿り苦学して夜間中学校に通っていたが、啄木は明治三十五年の年末から三十六年の正月にかけてこの力行会の金子の部屋に滞在した。
明治三十六年(1903)十八歳
二月二十六日 父に迎えられて東京を出発帰郷する。…」 又、”啄木は明治三十五年の年末から三十六年の正月にかけてこの力行会の金子の部屋に滞在した”とあり、この”力行会の金子の部屋”の場所については大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」に記載がありました。
「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一九〇三年(明36) 満一七歳
〔日記。所在なし。書簡 野村長一 (一月一日、小石川)〜小林茂雄(一二月一三日、渋民)、全集書簡番号nO一〜四五〕
一月上旬、下宿料滞納により、大館みつ方を追われる。
京橋周辺の鉱業会社に勤務していたという佐山某に助けられ、二〇日ほど神田錦町(現千代田区)の下宿に止まる。
二月二六日、父に迎えられて東京出発、二月二七日帰郷。
(この時、父一禎が、檀家に無断で、寺の林の木を売却し、それが後に寺を追われる一因ともなったとする説もあるが、
現在のところ、確証はとれていない。)…」
”京橋周辺の鉱業会社に勤務していたという佐山某”と書かれているのは、下記の「石川啄木と東京散歩」から推定すると、大里雄吉さんの父上(大里鉱業試験所を経営)のことではないかとおもわれますが、ただ名字が違うので詳細は不明です。
「石川啄木全集」から日記”秋韷笛語”です。
「
十一月八日 快晴、
きのふかひ求め来し絵葉書に認めて残紅兄花郷兄箕人兄藻外君に送る。
午後宮永佐吉君大里てふ人と突然来訪せらる。
眼は悪しき光を放ち風容自ら野卑也、その昔の機敏の面かげのみ狡猾の相にのこれるが如し。あゝこの大この年の三月幼年校を放校せられて以来京に入り種々なる転化の末遂にかゝる浅ましくなれる也。我は常にくり返す、日く京は学ぶにも遊ぶにも都合のよき処也と。…
…
十一月十一日、快晴。
朝、故家より手紙来り北海道なる山本氏よりの送金切手送り来る。
野村兄訪ね来た【ま】ひぬ。雑談に時を移し午後一時かへらる。それより外出して日本力行会に金子兄を訪ひ、為替受取て裏神保丁に古本屋尋ねまはり
Tales from Shakespeare. By Charles Lamb.
Childe Harold. By
Byron.
Gleanings from the English poets.
"Arthur"
'1' ennyson.
Seven English classics.
等求め。道を転じて野村兄の自炊を訪ひ夕飯を認め小山芳太郎君に逢ひ夜に入りて清明の月に促されて野村兄と共に散歩にとて出づ。…」
”午後宮永佐吉君大里てふ人と突然来訪せらる”の”大里てふ人”は大里雄吉さんのお兄さんのようです。
大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」からです。
「… その頃、啄木は、神田錦町の日本力行会に頻繁に金子定一氏を訪ねて、時には一、二泊していることがある。
啄木から窮状を訴えられた金子定一氏が、啄木の話を進輔兄に伝えたものだろう。
そこで進輔兄が世話をして、宮永佐吉が居たらしい筆者宅前の下宿望遠館に啄木が転宿するに至ったようである。
望遠館には金子定一・野村菫舟(長一、後の胡堂)氏などが訪ねて來だ程度で、あまり訪客はなかった(その頃、啄木は白蘋と号していた)…」
この本の33ページにこの頃の神田錦町界隈の地図が掲載されており、力行会の記載もあります。又、”宮永佐吉が居たらしい筆者宅前の下宿望遠館に啄木が転宿する(年譜には一切書かれていない)”と書いてあり、筆者宅、下宿望遠館も地図に書かれています。啄木が望遠館に滞在したのは、明治36年初めに力行会の金子定一の下宿に滞在した後ではないかと推測しています。下宿望遠館は当時の地番で神田錦町2丁目5〜6附近、現在の住居表示で
神田錦町2丁目2-5〜6附近となります。この当たりは再開発の真っ最中で後一年もしたらすっかり変ってしまっているとおもいます。唯一、変らないのが直ぐ近くにある
五十稲荷神社です。大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」の地図にも記載があります。
石川啄木全集 大五巻」 明治41年8月25日の日記に”宮永佐吉”が書かれていました。
「八月二十五日
金田一君と語る。この頃からまた独逸語を初めて、頻りに二年前に憶えた単語を思出しては無理な会話を試みる。
小田島孤舟から鮫港のたより。
午後に瀬川深君からなつかしい長い手紙が来た。九月京都に帰る途次、ここに一泊して行くと云つて来た。
”麹町二の十鶴鴫館宮永”といふ手紙が来た。久闊を叙して逢ひたいと言ふ。宮永といふのは、中学の一年の時同じデスクに並んだ男で、その後幼年学校に人つて退校させられ、東京でゴロツキの小さい親分になつてゐたのを、三十五年の十二月、渋谷からの帰りの汽車の中で見た事があつたが、その男からの消息とも思へぬ。今は毎日加賀町の東京タイムス社に出てゐるといふから何れ此方で忘れて了つた新聞時代の友人だらうと思つた。それにしても不思議なので、夕方訪ねてゆくと不在。矢張旧友の佐吉君、中学の入学試験に一番だつた宮永佐吉君であつた。…」
明治35年の上京時に逢っていたことが分かります。
★写真は神田警察署交差点から南東を撮影したものです。正面は竹橋スクエア竹橋ヒルズです。大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」に記載の地図によると、この当たりに力行会の下宿があったようです。番地を知りたくてもう少し調べたのですが、”力行会とは何ぞや 著者:島貫兵太夫
著 明44.9”等にも記載がありませんでした。