●「石川啄木の東京」を歩く 明治35年(下)
    初版2017年3月25日  <V01L01> 暫定版

 今回は「『石川啄木の東京』を歩く 明治35年 」の(下)です。書簡等が残っていると何処に滞在したが分かるのですが、地番が広かったりすると大まかな場所しか分かりません。日記も明治35年は12月に入ってからほとんど書いていません。特に12月19日から翌年の明治36年2月26日は記載がありません。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著(前回と同じ)>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著(前回と同じ)>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



現在の東京南部地図


「神田錦町三丁目の力行会跡」
<神田錦町三丁目の力行会>
 前回の記載と前後しますが、11月5日に神田錦町の中学校を訪ねています。編入を期待していたようですが、無理だったようです。訪ねた学校は正則学園(当時は正則学園中学校)と錦城学園(当時は錦城中学校)だったとおもわれます(一部の本に開成と書かれているが開成は日暮里の私立東京開成中学校のことなので、錦城の間違いとおもわれる)。その後、下宿代を払えなかった啄木は金子定一(神田錦町三丁目の力行会)のところに転がり込んでいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月五日 野村長一の忠告を入れ、共に連れだって神田付近に中学校を尋ね五年生への編入を照会したが、欠員なく徒労に終った。…

十二月二十八日 盛岡中学校の後輩で上京中の金子定一の厚意で、その友人である紀藤方策の紹介状を持って金港堂に雑誌「文芸界」の編集主任佐々醒雪(政一)を訪問、「文芸界」の編集員として就職を希望するが面会できず失敗に終る。当時金子定一は神田錦町三丁目の力行会に宿り苦学して夜間中学校に通っていたが、啄木は明治三十五年の年末から三十六年の正月にかけてこの力行会の金子の部屋に滞在した。
明治三十六年(1903)十八歳
二月二十六日 父に迎えられて東京を出発帰郷する。…」

 又、”啄木は明治三十五年の年末から三十六年の正月にかけてこの力行会の金子の部屋に滞在した”とあり、この”力行会の金子の部屋”の場所については大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」に記載がありました。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一九〇三年(明36) 満一七歳
 〔日記。所在なし。書簡 野村長一 (一月一日、小石川)〜小林茂雄(一二月一三日、渋民)、全集書簡番号nO一〜四五〕
 一月上旬、下宿料滞納により、大館みつ方を追われる。
 京橋周辺の鉱業会社に勤務していたという佐山某に助けられ、二〇日ほど神田錦町(現千代田区)の下宿に止まる。
 二月二六日、父に迎えられて東京出発、二月二七日帰郷。
(この時、父一禎が、檀家に無断で、寺の林の木を売却し、それが後に寺を追われる一因ともなったとする説もあるが、
現在のところ、確証はとれていない。)…」

 ”京橋周辺の鉱業会社に勤務していたという佐山某”と書かれているのは、下記の「石川啄木と東京散歩」から推定すると、大里雄吉さんの父上(大里鉱業試験所を経営)のことではないかとおもわれますが、ただ名字が違うので詳細は不明です。

 「石川啄木全集」から日記”秋韷笛語”です。
十一月八日 快晴、
 きのふかひ求め来し絵葉書に認めて残紅兄花郷兄箕人兄藻外君に送る。
 午後宮永佐吉君大里てふ人と突然来訪せらる。
 眼は悪しき光を放ち風容自ら野卑也、その昔の機敏の面かげのみ狡猾の相にのこれるが如し。あゝこの大この年の三月幼年校を放校せられて以来京に入り種々なる転化の末遂にかゝる浅ましくなれる也。我は常にくり返す、日く京は学ぶにも遊ぶにも都合のよき処也と。…

十一月十一日、快晴。
 朝、故家より手紙来り北海道なる山本氏よりの送金切手送り来る。
 野村兄訪ね来た【ま】ひぬ。雑談に時を移し午後一時かへらる。それより外出して日本力行会に金子兄を訪ひ、為替受取て裏神保丁に古本屋尋ねまはり
  Tales from Shakespeare. By Charles Lamb.
Childe Harold. By Byron.
Gleanings from the English poets.
"Arthur" '1' ennyson.
Seven English classics.
等求め。道を転じて野村兄の自炊を訪ひ夕飯を認め小山芳太郎君に逢ひ夜に入りて清明の月に促されて野村兄と共に散歩にとて出づ。
…」
 ”午後宮永佐吉君大里てふ人と突然来訪せらる”の”大里てふ人”は大里雄吉さんのお兄さんのようです。

 大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」からです。
「… その頃、啄木は、神田錦町の日本力行会に頻繁に金子定一氏を訪ねて、時には一、二泊していることがある。
 啄木から窮状を訴えられた金子定一氏が、啄木の話を進輔兄に伝えたものだろう。
 そこで進輔兄が世話をして、宮永佐吉が居たらしい筆者宅前の下宿望遠館に啄木が転宿するに至ったようである。
 望遠館には金子定一・野村菫舟(長一、後の胡堂)氏などが訪ねて來だ程度で、あまり訪客はなかった(その頃、啄木は白蘋と号していた)…」

 この本の33ページにこの頃の神田錦町界隈の地図が掲載されており、力行会の記載もあります。又、”宮永佐吉が居たらしい筆者宅前の下宿望遠館に啄木が転宿する(年譜には一切書かれていない)”と書いてあり、筆者宅、下宿望遠館も地図に書かれています。啄木が望遠館に滞在したのは、明治36年初めに力行会の金子定一の下宿に滞在した後ではないかと推測しています。下宿望遠館は当時の地番で神田錦町2丁目5〜6附近、現在の住居表示で神田錦町2丁目2-5〜6附近となります。この当たりは再開発の真っ最中で後一年もしたらすっかり変ってしまっているとおもいます。唯一、変らないのが直ぐ近くにある五十稲荷神社です。大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」の地図にも記載があります。

 石川啄木全集 大五巻」 明治41年8月25日の日記に”宮永佐吉”が書かれていました。
「八月二十五日
 金田一君と語る。この頃からまた独逸語を初めて、頻りに二年前に憶えた単語を思出しては無理な会話を試みる。
 小田島孤舟から鮫港のたより。
 午後に瀬川深君からなつかしい長い手紙が来た。九月京都に帰る途次、ここに一泊して行くと云つて来た。
 ”麹町二の十鶴鴫館宮永”といふ手紙が来た。久闊を叙して逢ひたいと言ふ。宮永といふのは、中学の一年の時同じデスクに並んだ男で、その後幼年学校に人つて退校させられ、東京でゴロツキの小さい親分になつてゐたのを、三十五年の十二月、渋谷からの帰りの汽車の中で見た事があつたが、その男からの消息とも思へぬ。今は毎日加賀町の東京タイムス社に出てゐるといふから何れ此方で忘れて了つた新聞時代の友人だらうと思つた。それにしても不思議なので、夕方訪ねてゆくと不在。矢張旧友の佐吉君、中学の入学試験に一番だつた宮永佐吉君であつた。…」

 明治35年の上京時に逢っていたことが分かります。

写真は神田警察署交差点から南東を撮影したものです。正面は竹橋スクエア竹橋ヒルズです。大里雄吉さんの「石川啄木と東京散歩」に記載の地図によると、この当たりに力行会の下宿があったようです。番地を知りたくてもう少し調べたのですが、”力行会とは何ぞや 著者:島貫兵太夫 著 明44.9”等にも記載がありませんでした。



神田錦町附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用)



「金港堂跡」
<金港堂>
 啄木は収入を得るため、紹介状を以て金港堂という出版社を訪ねています。この金港堂の場所をさがしてみました。当時の金港堂が出版した本の奥付に書いてある住所をさがしてみました。”明治26年 金港堂書籍株式会社 東京市日本橋区本町三丁目十七番地 ”とあり、現在の住居表示では”中央区日本橋本町2丁目1−6”となります。大正元年の日本橋区地籍図で日本橋区本町三丁目十七番地に金港堂書店の記載がありましたので間違いないとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
 「十二月二十八日 盛岡中学校の後輩で上京中の金子定一の厚意で、その友人である紀藤方策の紹介状を持って金港堂に雑誌「文芸界」の編集主任佐々醒雪(政一)を訪問、「文芸界」の編集員として就職を希望するが面会できず失敗に終る。当時金子定一は神田錦町三丁目の力行会に宿り苦学して夜間中学校に通っていたが、啄木は明治三十五年の年末から三十六年の正月にかけてこの力行会の金子の部屋に滞在した。…」

【佐々 醒雪(さっさ せいせつ、明治5年5月6日(1872年6月11日) - 大正6年(1917年)11月25日)】
日本の国文学者・俳人である。本名佐々 政一(さっさ まさかず/せいいち)。京都に生まれ、明治29年(1896年)東京帝国大学文科大学卒。在学中の明治27年(1894年)に俳句結社・筑波会を結成し、雑誌『帝国文学』に『連俳小史』を連載した。旧制第二高等学校や旧制(旧)山口高等学校で国文学を教えた。また、明治大学でも教鞭を執った。明治34年(1901年)12月に山口高校を依頼退官した後、書店・金港堂に入社し、雑誌『文芸界』を編集した。明治39年(1906年)に東京高等師範学校教授に就任した。大正6年(1917年)、腸チフスのため死去。(ウイキペディア参照)

写真の正面が”日本橋区本町三丁目十七番地 ”金港堂跡です。当時、金港堂は教科書出版の大手だったようです。関東大震災後は神田区美土代町3−1、昭和に入って、神田区小川町三丁目6と移っています。現在はありません。



日本橋附近地図



「大橋図書館跡」
<大橋図書館>
 啄木は上京後、暇なときは番町の「大橋図書館」に通っていたようです。番町の「大橋図書館」については「公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館」のホームページに詳細に書かれていましたので参照させて頂きました。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月十三日 快晴、
 午前英語。
 午時より番町なる大橋図書館に行き宏大なる白壁の閲覧室にて、トルストイの我懺悔読み連用求覧券求めて四時かへる。…

十一月十六日 晴、日曜日、
 大橋図書館に一日を消す
 帰路、中西屋より Maimer's novel "Trilby" "Selected poems from Wordsworths" 求む。
 杜陵より金矢来絃君の端書きたる。歌あり曰く、
 その日君、泣く人みきと日記にあり若きにたえん旅ならばこそ。…」

 日比谷図書館が開館したのは明治41年(1908)ですから当時は大きな図書館は無かったようです。「公益財団法人三康文化研究所附属三康図書館」のホームページによると、この図書館は、博文館15周年記念として明治35年創設された財団法人の図書館だそうです。関東大震災で被災し、その後復興しましたが、戦後は場所を転々と移転し、蔵書は現在、港区芝公園内にある三康図書館にあるようです。

写真の正面は東京家政学院です。この場所に「大橋図書館」がありました。当時の地番で麹町区上6番町44番地となります。この場所は戦後の財産税(税率がものすごくMAX90%の税率)で物納されたようで、その後、現在の学校になっています。



市ヶ谷付近地図(「村尾嘉陵を歩く」から流用)



「中西屋跡」
<中西屋>
 啄木は洋書を買うため本屋を歩いています。日記に本屋の記載があり、且つ購入した洋書の名前もわざわざ書いています。本屋としては、丸善の古本扱い本屋である中西屋等のようです。

 「石川啄木全集」から日記”秋韷笛語”です。
「十一月十五日、晴、
 細越白螽兄へ久し振りにて手紙認め阿兄への葉書と共に投函し来る。
 中西屋より美しき絵葉書求めきたる。…

十一月十六日 晴、日曜日、
 大橋図書館に一日を消す
 帰路、中西屋より Maimer's novel "Trilby" "Selected poems from Wordsworths" 求む。…
十一月十七日、「月」monshday(ママ)
 朝残紅兄より端書が来た。自分は申訳がない程皆さまへ返事もやらんで居る。
 午前は読書。午後は日本橋の丸善書店へ行って "Ham-let By Shakespeare" "Longfellow's poem" の Selection とを買って来た。
 若い者が丸善の書籍室に這入って、つらつら自分の語学の力をはかなむ心の生ずるのは蓋し誰しもの事であらふ。あゝ自分も誠に羨ましさに堪えられなかった。…

十一月廿一日、
 思想紛糾して落袖記成らず。
 瀬川藻外兄より端書と、白羊会十一月例会の詠草と来る。
あゝ吾誠に御無沙汰して居たり。
 夜、中西屋、丸善等をたづね、せつ子様に送るべきネスフイルド ダランマーの一、及びウオルズヲースの詩抄、イプセンの散文劇詩 John Gabriel Borkman のオーサー英訳買ひ来る。…」

<上記に書かれている英文(一部カタカナ)について少し調べて見ました>
・Maimer's novel Trilby:”推理小説 中折れ帽”なのですが、ググってもこんな本は見つかりませんでした
・Selected poems from Wordsworths:これは有名なウィリアム・ワーズワース(Sir William Wordsworth)の詩
・Ham-let By Shakespeare:シェイクスピアのハムレット(Hamlet)
・Longfellow's poem:ヘンリー・ワーズワース・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow)の詩
・ネスフイルド ダランマー:不明
・ウオルズヲース:ウィリアム・ワーズワース(Sir William Wordsworth)
・イプセン:ヘンリック(ヘンリク)・イプセン(Henrik Johan Ibsen)
・John Gabriel Borkman:『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』(『ジョン・ガブリエル・ボルクマン』、John Gabriel Borkman)は、1896年にヘンリック・イプセンによって書かれた戯曲(ウイキペディア参照)

写真は駿河台下の交差点を南東方向に撮影したものです。この角の附近に中西屋がありました。当時の住所で表神保町2番地となります。現在は靖国通りの道幅が広がったりしていますから、道路の上かもしれません。この中西屋については丸善百年史(ホームページで見ることができます)に詳細に書かれています。明治13年ごろ、丸善の洋書ストックが著しく増加したため、明治14年に中西屋を開いて売れ行きの良くない洋書を移す経理処理を行なったようです(丸善本体は不良在庫が減り損益が改善します)。

 明治35年編はここで終了です。




神田錦町附近地図(永井荷風の東京地図-4-を流用)