●「石川啄木の東京」を歩く 明治35年(上)
    初版2017年3月11日
    二版2017年4月8日  <V01L01> 牛込の地図(明治40年)を追加 暫定版

 今回から「『石川啄木の東京』を歩く」を掲載します。石川啄木については書き物が多く、調べるのも楽ではないかとおもったのですが、詳細については確認の必要があるケースが多くあります。又、明治時代の事で、調べるには限度があるため、推定が多くなってしまいます。出版物をある程度、信じるしかありません。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

明治十九年(1886)一歳

  二月二十日 岩手県南岩手郡日戸村曹洞宗日照山常光寺に生まれる(一説には明治十八年十月二十七日の誕生ともいわれる)。父石川一禎は同寺二十二世住職。岩手郡平館村の農民石川与左衛門の五男で、嘉永三年生まれの当時三十七歳であった。母カツは南部藩士工藤条作常房の末娘で、一禎の師僧葛原対月の妹、弘化四年生まれのこの年四十歳。一禎夫妻には既に長女サダ十一歳と次女トラ九歳の二女がいて、啄木は長男、一と名付けられた。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八八六年(明19) 満○歳
 二月二〇日生まれ。(生年月日については、前年の一八八五年説もあるが、確証が得られないため、戸籍の年月日に従っているのが、現在の研究状況である。)
 生誕地は、当時の岩手県南岩手郡日戸村(現岩手郡玉山村日戸)曹洞宗常光寺。ただし、じっさいの生誕の場所については、後に述べる両親である一禎とカッの生活環境、当地における当時の風習等の綿密な調査にまたねばなるまい。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「啄木と東京散歩」
<「石川啄木と東京散歩」 大里雄吉著>
 啄木の東京での生活をかいた本はないかと探したら、大里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」という本を見つけました。昭和54年発行なので少し古いですが、250部限定ということで貴重本だとおもい購入しました。色々古本を探していたら、結構古本で出ているので、もう少し多く出版されたのではないかとおもいました。

  「石川啄木と東京散歩」からです。
「… 啄木が、郷里の盛岡中学を中途退学して上京した明治三十五年から六年へかけての東京生活は、筆忠実な啄木には珍しく日記が不備で、詳細を知ることは出来ないが、幸にも、一足先に盛岡から上京していた神田錦町の我が家の前の下宿に、啄木が転がり込んで来たことから、小生の家との接触が生じ、筆者も亦、啄木の室を訪れたり、また、郷里で啄木が親しくしていた啄木の友人達が、わが家に出入りしていた関係から、当時の啄木の生活を知る
ことが出来たことは、せめもの幸いである。、…」

 神田錦町界隈に関しては地図の掲載もあり、非常に参考になりました。地番等も含めて、もう少し詳細に書かれていたら完璧だったのですが、残念です。

写真は里雄吉さんの書かれた「石川啄木と東京散歩」です。東京に特化して書かれているので、身近で面白く読ませて貰いました。

「啄木と鉄道」
<「啄木と鉄道」 太田幸夫著>
 新しい本をもう一冊購入しました。平成10年(1998)発行、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。副題が「石川啄木入門」なので私にはピッタリかもしれません。この本の特徴は啄木が乗ったであろう列車の時刻表が掲載されていることです。非常に参考になります。又、啄木年譜も掲載されています。”本章は石川啄木全集第八巻(筑摩書房)の伝記的年譜(岩城之徳)に準じ、それに北海道史、鉄道史を加えて編集した。”と書かれています。私が見たところでは、太田幸夫さんの感性も少し入っているようです。

  太田幸夫さんの「啄木と鉄道」からです。
「… あと半年で中学卒業をひかえながら退学を決意した啄木は、明治三十五年十月三十日活躍の舞台を求めて上京の途についた。
  「かくて我が進路を開きぬ。かくして我は希望の影を探らむとす。記憶すべき門出よ」とはるかなる東京の空を思いながら、この日の日記を書いている。啄木の膨大な日記はこの日から始まっている。
 実は、啄木は明治三十二年(中学二年)の夏休みに、上野駅に勤務していた義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに一か月ばかり滞在しているので、正式には二度目の上京であるが、今回は文学で身をたでようと、生活をかけての上京であった。…」

 参考になる本がたくさんあるので、簡単に掲載できるだろうとおもったのですが、簡単ではありませんでした。時間が掛ります。

写真は富士書院版、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」です。石川啄木の鉄道に関することはこの本で全て分かります。



啄木の東京地図


「初代上野駅」
<中学時代(十三〜十五歳)>
 明治35年から書き始めようとおもったのですが、啄木が初めて東京に上京したのは、明治32年になります。「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)には、明治32年の最後のところに”また夏休みを利用して上京、六月五日、上野駅に転任した義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに滞在する。”と書かれています。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「明治三十二年(一八九九)十四歳
 二月五日 冬期休暇終了。
 三月十一日 学年末試験始まる。十六日終了。
 三月二十四日 堀合節子盛岡高等小学校卒業。
 三月二十七日 第一学年修了成績発表。啄木の成績は倫理七十七点、国語八十四点、漢文八十七点、作文八十点、英語読方
 八十七点、英語訳読八十五点、英語書取綴字九十六点、英語習字六十六点。地理八十八点、歴史九十六点、算術六十七点、
 幾何六十五点、博物七十六点、習字八十二点、図画六十点、体操九十点、行状百点で平均八十点、学年百三十一名中二十五
 番の成績であった。
 三月三十日 修業証書授与式。啄木は二年に進級した。
 四月一日 中学校令の改正により校名が岩手県盛岡中学校と改められた。この日堀合節子私立盛岡女学校二年に編入学。
 四月七日 始業式、啄木は丁二年級に編入された。担任は引き続き富田小一郎教諭。
 四月十三日 授業開始。
 七月七日 第一学期試験始まる。十二日終了。
 七月十四日 夏期休暇始まる。八月十五日終了。…

 この年啄木は盛岡市新山小路三番戸に住む士族堀合忠操の長女節子と知りあった。また夏休みを利用して上京、六月五日、上野駅に転任した義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに滞在する。(山本千三郎は十月十六日上野駅長助役に昇進)…」

 ”夏休みを利用して上京、六月五日、上野駅に転任した義兄山本千三郎(次姉トラの夫)のもとに滞在する”と書かれているのですが、この文章の解釈は”義兄山本千三郎(次姉トラの夫)が上野駅に転任した日が6月5日”と考えるのが正しいとおもいます。そう解釈しないと夏休みが始まる日と整合がとれません。

 「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「一八九九年(明32) 満一三歳
 四月、岩手県盛岡尋常中学校は、岩手県盛岡中学校と校名変更。啄木は、二年次進級(丁二年級。なお、一年次修了成績は、一三一名中、二五番)。担任は再び富田小一郎教諭。…

 六月五日、最初の上京。上野駅に転任した次姉トラの夫山本千三郎宅に滞在。…」

 ”六月五日、最初の上京”と書かれており、啄木が上京した日が6月5日になっています。明らかに誤解釈です(既に正誤表が出ているかもしれません)。

写真は初代の上野駅です。明治16年(1883)7月28日 - 日本鉄道上野 - 熊谷間の始発駅として開業しています。啄木が明治32年に下車した上野駅はこの駅舎になります。太田幸夫さんの「啄木と鉄道」に掲載されている当時の時刻表を見ると、盛岡から上野まで18時間位掛っています。宿泊は”上野駅に転任した次姉トラの夫山本千三郎宅に滞在”と書かれていますが、社宅だとおもうのですが、場所は全く分かりません。

「大館光方」
<大館光方>
 明治35年11月11日、石川啄木は二回目の上京をします。盛岡中学を退学し、決意を秘めた上京だったはずなのですが、自身の思い通りにはいきません。当時の田舎の中学生のおもいと、大都会、東京の状況とはかけ離れていたとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
 「明治三十五年(1902)十七歳
十月二十七日 「家事上の都合に依り」を理由に盛岡中学校に退学願を提出、この日の「回議件名簿」二六五号をもって退学が許可された。
十月三十日 文学をもって身を立てるため故郷を出発上京する。この日盛岡に下車して仁王の田村夫妻の許に宿る。午後下の橋写真館で友人の岡山儀七(残紅)と記念写真を撮影。夜伊東圭一郎を訪れ阿部修一郎、小野弘吉、小沢恒一らと別宴をはる。
十月三十一日 午前中堀合節子と別れを惜しみ、午後公園よの字橋側の高橋写真館で阿部修一郎らユニオン会の会員四人と記念写真を撮る。午後五時友人や堀合節子に送られて盛岡駅より上京する。
十一月一日 午前十時上野駅に到着。俥を走らせて小石川小日向台町の下宿に中学の先輩細越夏村(省一)を訪ね、この日その下宿に一泊した。当時細越は早稲田大学高等予科に入学した直後であった。
十一月二日 細越夏村の厚意で小石川区小日向台町三丁目九十三番地の大館みつ方に止宿する。…」

 啄木の日記(秋韷笛語)にも”十一月一日 午前十時上野駅に下車”とあるので、太田幸夫さんの「啄木と鉄道」から載っていた列車を見ると、青森発の列車で、盛岡17時5?分(?は読めない)発の列車で、上野着9時30分着となります。私の持っている明治36年の時刻表でも同じ列車が掲載さていますが、時刻が同じく読めませんでした。16時間位乗っていたことになります。多分列車は30分位遅れて、10時頃に到着したものとおもわれます。

 上野駅の到着後、人力車で中学の先輩細越夏村(省一)の下宿を訪ねています。上野駅から小石川小日向台町までは、約4.8Km(Google Map)程ですから、歩けない距離ではありませんが、地理に不案内なことと、雨だったためともおもわれます。正岡子規は明治16年に上京していますが、全て歩いて訪ねています。人柄が違うようです。

 年譜では11月1日の宿泊については書いてありません。日記には”談つきずして夜遅くまで眠らず”と書いてあるので細越夏村(省一)の下宿に宿泊したと書いてある本もあります。細越夏村(省一)の下宿については、少し調べたのですが不明です。小石川小日向台町にあるので大館みつ方の近くだとおもわれます。ひょっとしたら船越封子氏のまとめた「評伝 細越夏村」に書いてあるのではないかと期待しているのですが迄読んでいません。

写真の正面が”小石川区小日向台町三丁目九十三番地の大館みつ方”跡です。新しく建て直されていました。17年程前の写真も掲載しておきます。この辺りは関東大震災、空襲と大きな災害にあっていますが、道幅、階段等は昔のままとおもわれます。今宮神社から坂の階段八幡坂)を登ってくると昔の雰囲気が味わえます。



小日向台町附近地図

「本郷六丁目廿八番地」
<野村胡堂の下宿>
 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と「石川啄木事典」の”年譜”には11月3日については記述がありません。日記には”午後。本郷にて露子岩動君の逢う。野村琴舟を(本郷六丁目二十八月村方)訪ふて逢はず”と書いてあります。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月四日 先輩の野村長一(胡堂)が啄木を訪れその血気にはやる無謀な行為を戒め、着実に勉学を続けることを勧告した。
十一月五日 野村長一の忠告を入れ、共に連れだって神田付近に中学校を尋ね五年生への編入を照会したが、欠員なく徒労に終った。…」

 日記によると、11月3日に岩動孝久の本郷にある下宿を訪ねたようですが、書簡を探してもこの下宿の場所の記載はありませんでした。野村胡堂の下宿も訪ねており、此方の方は書簡が残っており、”本郷六丁目二十八月村方”とあります。ただ、文京区教育委員会発行の「文京ゆかりの文人たち」をみると、野村胡堂の明治35年は本郷台町(本郷五−)の記載のみで番地が未記載なので、確認がとれていないのだとおもわれます。ただ書簡が届いているようなので、番地は別にして、”月村方”は実在したのだとおもいます。

写真の左側附近が当時の住所で本郷5丁目28番です。右側には有名なペリカン書房の看板が見えます。関東大震災以降の資料で、火保図等で調べたのですが”月村方”の確認がとれていません。地番的には正しいところです。



本郷付近地図(他から流用)



「牛込区神楽町二丁目二十二附近」
<城北倶楽部>
 啄木の日記には11月6日〜8日の記載があるのですが、年譜にはありませんので、11月9日の城北倶楽部の訪問を先に掲載します(11月6日〜8日は次回に掲載予定)。啄木は細越夏村に連れられて牛込区神楽町二丁目二十二の城北倶楽部で催された新詩社の集まりに出席、はじめて与謝野鉄幹に逢っています。彼としては衝撃の面談だったとおもいます。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月四日 先輩の野村長一(胡堂)が啄木を訪れその血気にはやる無謀な行為を戒め、着実に勉学を続けることを勧告した。
十一月五日 野村長一の忠告を入れ、共に連れだって神田付近に中学校を尋ね五年生への編入を照会したが、欠員なく徒労に終った。
十一月九日 細越夏村に連れられて牛込区神楽町二丁目二十二の城北倶楽部で催された新詩社の集まりに出席、はじめて与謝野鉄幹に接す。…」

 ”牛込区神楽町2丁目22番地は泉鏡花が明治36年〜39年、北原白秋が明治41年に住んでいたので有名な場所です。22番地は広く、この辺り一帯なので泉鏡花が住んだ借家とは違うようです。隣と言っていいとおもいます。

写真は神楽町二丁目二十二附近です。左側には当時は無かった東京理科大の校舎があります。少し先に泉鏡花・北原白秋旧居跡の記念碑があります。



小日向台町、飯田橋、四谷附近地図



明治40年市ヶ谷・牛込地図



「中渋谷三百八十二番地跡」
<中渋谷三百八十二番地の新詩社>
 啄木は11月9日の城北倶楽部訪問で與謝野鉄幹や与謝野晶子と親しくなり、翌日、渋谷の新詩社を訪ねています。新詩社は渋谷で2回ほど転居しています。
<與謝野夫妻の住まいの移り変り>
・明治34年4月、与謝野鉄幹が中渋谷二七二番地の一軒を間借り
           (与謝野晶子は2ヶ月後の6月)
・明治34年9月、中渋谷三八二番地に移転
・明治37年5月、中渋谷三四一番地に移転
・明治37年11月、千駄ヶ谷村字大通五四九番地に転居

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「十一月九日 細越夏村に連れられて牛込区神楽町二丁目二十二の城北倶楽部で催された新詩社の集まりに出席、はじめて与謝野鉄幹に接す。
十一月十日 豊多摩郡渋谷村字渋谷三百八十二番地の新詩社に与謝野鉄・晶子夫妻を訪問する。…」
 渋谷で最初の住まいである”中渋谷二七二番地”については記念碑が建てられていますが、その後の”中渋谷三八二番地”、”中渋谷三四一番地”については記念碑はありません。この地区は関東大震災後の区画整理、戦後の246号の開通等により、大幅に変ってしまっていますので、場所の特定が非常に困難になっています。

写真の左側辺りから246号にかけてのあたりが、啄木が訪ねた”中渋谷三八二番地”になっています。中渋谷三八二番地は広くてどの附近かの特定は困難です。

 下記に現在の地図と明治時代の地番入り地図を重ねた地図を掲載します。現在の地図と重ねようとして、ポイントとして、山の手線、109、道玄坂上交番前交差点を併せようとしたのですが、上手くあいません。明治時代の地図が不正確なためです。特に中渋谷二七二番地の位置が大きくずれます。だいたいの位置として見て下さい。





明治時代の地番入り地図と現在の地図を重ねた地図