●「石川啄木の仙台」を歩く 明治38年(1905)5月20日〜29日
    初版2019年5月15日  <V01L01> 暫定版

 「石川啄木の仙台」を歩く 明治38年(1905)5月20日〜29日です。残っている石川啄木について順次掲載していきます。ただ、まだ未完成なところがたくさんありますので、順次時間を掛けて更新していきます。


「石川啄木全集」
<「石川啄木全集」 筑摩書房(前回と同じ)>
 先ず、石川啄木を知るためには「石川啄木全集」とおもいました。石川啄木全集は何回か発行されていて、大正8年〜9年に新潮社版(三巻)から発行されたのが最初で、昭和3年〜4年に改造社からも発行されています(この復刻版もノーベル書房から昭和53年に発行されています)。今回は昭和53年から発行された筑摩書房版を参考にしています(筑摩書房版も昭和42年に発行されていますので再販版になります)。

 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「伝記的年譜(岩城之徳)

五月十二日 父一禎が啄木と堀合節子との婚姻を盛岡市役所に届け出た。
五月二十日 啄木東京を出発、途中仙台に立ち寄り二十九日まで滞在。大泉旅館に宿泊する。
六月四日 盛岡に帰り新居に入る。父母と新妻に妹光子を加えて五人の生活であった。九日より「岩手日報」に「閑天地」を連載する(二十一回)。
六月二十五日 盛岡市加賀野第二地割字久保田百六番地(盛岡市加賀野磧町四番戸)に転居。…」

 ”伝記的年譜(岩城之徳)”と書かれていましたので、年譜自体を読んでも面白いのではないかとおもい、一通り読んでみました。支離滅裂なところは太宰治とも共通点がありますね、読み手を楽しませます。短い人生でしたが、変化にとんでいます。このくらい色々なことが起らないと読み手は面白くありません。

写真は平成5年、第六版(初版は昭和54年発行)の石川啄木全集第八巻 啄木研究 筑摩書房版です。”伝記的年譜(岩城之徳)”です。私は少し前に古本で入手しています。

「石川啄木事典」
<「石川啄木事典」 おうふう(前回と同じ)>
 石川啄木の所在地について調べるには、比較的新しい本が良いのではないかとおもい、探してみました。私は石川啄木についてはほとんど知識がなかったのですが、国際啄木学会があり、この学会が出された「石川啄木事典」が詳しそうだったので、新たに購入しました。この学会はホームページもあり、毎年研究年報も出されています(無知でごめんなさい)。この事典のなかに年譜がありますが、全集の年譜とは大きくはかわりません。比較しながら歩いて見たいとおもいます。

  「石川啄木事典」の”年譜”からです。
「…五月一二日、一禎、啄木と節子との婚姻届を盛岡市役所に届け出た。著名ではあるが、真相は必ずしも明らかになっていない、かの「花婿欠席結婚式」を経て、六月四日、盛岡市帷子小
路八番戸に移る。啄木の両親、妹光子との同居であった。三週間の後の、六月二五日には、同じく盛岡市内の加賀野磧町(現盛岡市加賀野)四番戸に移る。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を比較すると面白いです。「石川啄木事典」の方が後の発行なので、加筆・修正されているはずです。

写真は平成13年(2001)発行のおうふう版「石川啄木事典」です。国際啄木学会が出版しています。

「26年2か月」
<「26年2か月 啄木の生涯」 もりおか文庫(前回と同じ)>
 啄木の生涯を伝記的に書かれたのが松田十刻さんの「26年2か月 啄木の生涯」です。石川啄木の一生を面白く読むにはこの本がベストです。文学論を振り回すのではなく、伝記的に書かれていますので読んでいて面白いです。

  「26年2か月 啄木の生涯」からです。
「 文学で身を立てんと旅立つ
 啄木は十月三十日付で、最初の日記となる『秋韷笛語』(縦罫ノート)をつけ始めた。日記には「白蘋日録」の付記があり、当時の心情を吐露した「序」が記されている。この時点では、第三者ないしは後世の人に読まれてもいいように意識して書いていた節がある。のちの口語体ではなく文語体である。
 「運命の神は天外より落ち來つて人生の進路を左右す。我もこ度其無辺際の翼に乗りて自らが記し行く鋼鉄板状の伝記の道に一展開を示せり」
 「序」の出だしである。「序」には「宇宙的存在の価値」「大宇宙に合体」「人生の高調に自己の理想郷を建設」というぐあいに、やや気負った表現がみられる。『秋韷笛語』のテーマを一口で言えば、節子との恋愛である。
 同日午前九時、啄木は両親と妹に見送られて、宝徳寺を後にした。…」

 「石川啄木全集」の”伝記的年譜(岩城之徳)”と、「石川啄木事典」の”年譜”を補完するものとして、参考にしました。裏が取れていない事柄も書かれています。

写真は松田十刻さんが書かれたもりおか文庫版の「26年2か月 啄木の生涯」です。最後に略年譜が掲載されていますが。略なので参考にはなりません。

「石川啄木と仙台」
<「石川啄木と仙台」 相沢源七編 宝文堂>
 石川啄木の仙台について何か書かれた物はないかと探したらありました。「石川啄木と仙台」 相沢源七編 宝文堂版です。色々調べて見たところ、これ以上のものはありません。良く調べられて纏められています。石川啄木の仙台は土井晩翠とその奥様とのやり取りがポイントなのですが、この本で全て分かります。原本を見る必要もないとおもいます。

  「啄木と仙台」からです。
「… 啄木が仙台を訪れたのは、たったの一度ではあったが、疾風のように来り、親切な城下町の人々に、鮮烈な印象を残して去った。彼自身、深く傷つきながら。
 十八才で天才詩人と謳われ、二十才で処女詩集『あこがれ』(小田島書房)を出版、詩壇の寵児を以て自ら任ずるに至った啄木は、この月(明治三十八=一九〇五年五月)堀合節子との結婚式挙行のため、帰郷の途次、仙台駅に下車したのであった。そして五月二十日から二十九日まで大泉旅館(相沢註=現在の国分町二丁目千松島醸造所の南隣りあたり)に滞在している。金策のためである。
 明治二、三十年代の仙台市は五城文学の華やかなりし頃であり、高山樗牛・島崎藤村・岩野泡鳴、佐藤紅緑は既に去ったが、土井晩翠がおり、吉野臥城がいた。…

八枝夫人が、啄木の借金事件を河北新報に公表する気になったのは、昭和十四年七月二十九日(土)付の同新報に、関三郎氏(不詳・乞御教示)が、論稿「仙台訪間の啄木」を発表したのに刺激されてのことであった。… 」

 この本のポイントは“関三郎氏”と“土井晩翠の奥様の八枝夫人”が石川啄木の仙台について書かれたことを詳細にフォローされていることです。ただ残念なのは上記にも書かれている通り、関三郎氏(不詳・乞御教示)についてはよく分からないことです。

写真は「石川啄木と仙台」 相沢源七編 宝文堂です。石川啄木の仙台に関することはこの本で全て分かります。


啄木の仙台地図(現在)



「戦前の仙台駅」
<仙台駅>
 啄木は堀合節子との結婚のため、盛岡へ向かいますが、途中の仙台で下車します。下車した理由ははっきりしませんが、「石川啄木と仙台」等を呼んでみると、懐具合が良くなく、このままでは結婚式に出られないとおもい、借金をするために下車したと推測します。誰に借金をするかというと、まず最初は友人達です。中学校時代の友人、猪狩五山、小林花郷(茂雄)両氏が仙台におり、借金を頼んだかどうかは分かりませんが、借金は成功しませんでした。

 石川啄木と仙台」からです。
「   関三郎「仙台訪問の啄木」
 今より三十有五年前、即ち明治三十八年五月二十日処女詩集「あこがれ」を唯一の土産として思い出多き東 京を心ならずも発ち、宝徳寺問題で故郷渋民村を去り盛岡に転居の己が家に帰るべく仙台まで来たが、盛岡 中学校時代の詩友猪狩五山、小林花郷(茂雄)両氏が恋しくまた詩集出版の自慢もしたく尋ね見ようと下車 し、道場小路で久濶を叙する〔と〕共に東都六ヶ月余の動静、尾崎行雄氏などに会見し詩集を献じたことな ど語り、署名した「あこがれ」を小林氏に贈り、その夜は広瀬川の渓流の音をききっつ小林氏の寝具に二人 一緒に夢を結んだ。…」

 
<仙台駅舎>
仙台駅は明治20年(1887)12月15日に開業した。このとき、東京府の上野駅から宮城県の塩竈駅まで路線が通じ、上野駅と仙台駅は12時間20分で結ばれた。初代の駅舎は木造平屋建ての小さな建物で線路の西側に位置し、幅35メートル、奥行き8メートル、面積236平方メートルであった。明治27年(1894)駅舎は改築され、木造ペンキ塗、中央部は2階建て両翼は平屋、面積8,407平方メートルという、当時としては大きく立派なものとなった。この駅舎は増築や改築が重ねて行われ、昭和20年(1945)7月10日の仙台空襲で焼失するまで使用された。(ウイキペディア参照)

写真の戦前の仙台駅です。昭和20年7月10日の空襲で焼失しています。当時、上野から仙台までは一日3本の列車しまありませんでした。上野5時発(仙台行)ー 仙台着17時49分、上野発9時20分(青森行)ー仙台着20時44分、上野発18時発(青森行)ー仙台着4時28分の3本です。20日で出て20日に着いているようなので午前中の2本のどちらかとおもわれます(本によっては19日の夜行で仙台に向かったと書かれたものもあります)。現在の仙台駅の写真も掲載しておきます。



仙台地番入り地図 大正15年



「大泉本館跡」
<大泉本館>
 石川啄木が仙台で宿泊したのは国分町の大泉本館(大泉旅館)でした。帝国旅館全集(大正2年)で調べてみると、“大泉本館 国分町68”とあります。この国分町68が何処かは、大正15年の仙台市全図 地番入で探すことが出来ましたが、現在の何処に当るのかを探すのが大変でした。仙台市中心部は戦後の区画整理ですっかり変ってしまっています。

 「石川啄木と仙台」からです。
「… 途中仙台に下車して土井晩翠氏を訊ねたり、医専にいた小林花郷、猪狩五山の諸君と逢ったりして悠々として仙台一流の宿屋大泉旅館(筆者註=国分町にあり現在廃業)に十日も淹留して、長詩「くだかけ」(晩翠に送る)および「夏は来ぬ」を作ったり、土地の新聞(筆者註=東北新聞のこと明治四十三年五月発刊)へ「わかば衣」を寄せたりなどしていたのである。…」
 
 上記の項目の“「石川啄木と仙台」 相沢源七編 宝文堂”に大泉旅館(相沢註=現在の国分町二丁目千松島醸造所の南隣りあたり)との記載がありますが、国分町二丁目千松島醸造所は現在は無く、駐車場になっていました。

 大泉旅館に関しては仙台ホテルでウイキペディアを検索すると詳細が分かります。
 江戸時代の仙台では、奥州街道沿いの国分町、あるいは、水産物(五十集物)の独占販売権を持っていた肴町に旅籠が集まっていたが、明治20年(1887)12月15日の日本鉄道・本線(現在のJR東日本・東北本線)の仙台開業により、仙台駅前(現在の仙台駅西口)が仙台の玄関口となり、旅館が集積した。仙台区国分町にあった旅籠「大泉屋」も仙台駅前に支店を開業し、明治29年(1896)には東北地方初の洋式ホテル「仙台ホテル」を開業した。東京の帝國ホテルやホテルオークラで「仙台で良いホテルは?」と尋ねると真っ先に勧められる程のサービスと格式を誇る、東北を代表するホテルだった。現在は諸般の事情によりホテル業は譲渡し、ウェルネス伯養軒として宮城県名取市に本社を置く仕出し料理店を経営する会社になっています。仙台ホテル跡の写真を掲載しておきます。

 写真の正面に千松島パーキングがあります。このパーキングの右隣が大泉本館 国分町68となります。大正15年の地図でも国分町通りの定禅寺通りと虎屋横丁の間、やや定禅寺通り寄りと分かりますので、間違いないとおもいます。大正時代か昭和初期の大泉本館の絵葉書がありますので掲載しておきます。



土井晩翠の住まい 本荒町21 大正15年



「土井晩翠 本荒町21」
<土井晩翠 本荒町21>
 最後は啄木が訪ねた土井晩翠の住まいです。当時の地番は分からないかと調べました。昭和5年の文藝年鑑に記載がありました。“どいばんすい”で調べたらありません。おかしいなとおもたら、旧名で“つちい”でした。地番は“仙台市本荒町21”でした。この地番も大正15年の仙台市全図 地番入で探すことができました。

 土井八枝「薮柑子」から
「…或夕方主人が不在で私が入浴中大泉旅館の番頭が持って来た手紙、それに「大至急願用」とあるのにおどろいて女中が風呂場へ持って参りました。私は大至急におどろいて浴室の薄あかりで読みました。その意は岩手山 〔相沢註=八枝夫人の記憶違い〕のお宅でお母さんが病気重態との事でした。「今日届いた十才になる妹の手紙を封入して置きますから御らん下されて小生の意中を御察し下さい、旅費のないために私にとって大恩のある母の死目に万一逢われぬとでもいうような事にでもなれば実に千載の怙みです(この千載の怙みの句は特にはっきり覚えています)、原稿の来る迄十五円御立替え願い度い」とかいてあり、妹さんの手紙には粗末な藁半紙に片仮名の鉛筆書で二枚一杯にお母さんの様子を報じてありました。私は一も二も  なく同情してしまいました。…
…私は急いで風呂から上り手早く着物を着て、人力車をよび大町二丁目〔相沢註=現在の細横丁との角あたり、父は質店営業〕のその頃の住居から国分町の大泉旅館へいそがせました。老車夫のかけ足を気の毒と思いながらも、そのわけを話して一生懸命に駆けて貰いました。大泉旅館に着いて石川啄木さんの室というと、直に女中が案内しました。私は重態のおはさんを案じて、机にもたれてさびしい泣き顔でもして居られる様子を胸にえがいて居りましたのに、その室の光景はあまりにも意外でした。二人の医専の制服の学生と三人で酒を飲んで真赤な顔をして、大声で何が面白そうに話していました。」
博士「奥さん、其学生の一人は僕ですよ。」といわれたので私は改めて博士の顔を見た。成程どこやらに見覚えがある様である。
       ×                 ×
…翌日宿屋から勘定をとりに来ました。何でも十五、六円でしたろう。…」
 
 土井晩翠の奥様 土井八枝さんが啄木に欺された経緯を詳細に言われています。啄木も上手に欺しています。友人達に良いカッコして酒等奢らずに15円持って盛岡に帰れば良かったのにとおもいますが、流石、啄木、宿代も払わせて15円を持って行ってしまいます。

写真は現在の土井晩翠の旧宅(晩翠草堂(ばんすいそうどう))です。当時はもっと大きくて前の道路のところまであったとおもわれます。



国分町の大泉本館と土井晩翠の住居との位置関係 明治44年