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最終更新日:2006年2月20日


●ビートたけしの梅島を歩く
  初版2005年3月12日 <V01L01>

 先週、お約束したとおり「ビートたけしの梅島を歩く」を特集します。ビートたけしは以前、亀有と新宿を特集しましたが、今週はビートたけしの生まれ故郷である足立区梅島を歩いてみました。

 ビートたけしは昭和22年1月18日足立区島根町1115番地に父菊次郎、母さきの四男として生まれます。「昭和二十二年一月十八日、東京都足立区の小さな木造の家で、弟はこの世に生を享けました。名前は「武」。 ……弟が生まれたのは冬の寒い朝であったそうです。四歳半の私には、そのころの記憶はおぼろで、母のおなかが大きかったことさえ覚えていなかったのです。それでも、産湯を沸かすので前の家のお婆さんが手伝いに来ていたり、産婆さんが駆けつけたりと、慌ただしい空気につつまれていたことだけ覚えています。当時はまだ産婆さんに来てもらって、自分の家で産むのがふつうでした。私たちの住んでいた下町では、お産となれば隣近所から手伝いが来るのもごく当たり前であったようです。生まれた弟は早産であったために二五〇〇グラムの小さな赤ん坊だったそうですが、襖の向こうにいた姉の記憶では、火のついたような元気な産声であったとか。さもありなんと納得できますが、これも私の記憶にはありません。ともかく、こうして末っ子のたけしが生まれ、わが家は七人家族になりました。七人家族一人ひとりについては、後に詳しく語る機会もあるでしょう。ここではとりあえず、そのメンバーを紹介しておきます。祖母 うし、父 菊次郎、母 さき、長男 重一、長女 安子、三男 大、四男 武 最年長は明治十年生まれで義太夫の師匠をしていた祖母のうし、次いで父菊次郎と母さき。母の名は「きち」と命名されたのですが、役場に届けに行った祖父の手違いで「さき」と登録された由。わが家の大黒柱として、この先何度か登場することがあろう母のさきです。…」。これは、ビートたけしの兄、三男の北野大氏が書いています。昭和22年ですから、戦後間もないころで、親父はペンキ職人、空襲には遭わなかったとはいえ、生活は楽ではなかったとおもいます。ただ、この頃は住宅がどんどん建てられ職人不足で仕事はかなりあったとおもいます。

左の写真は東武伊勢崎線梅島駅です。当時は高架橋にはなっておらす、踏み切りでした。駅の改札口も現在は一つだけですが当時はプラットホームの両側にあったようです。二年後には一つ手前の五反野駅近くで下山事件が起こっています。

【ビートたけし】
1947(昭和22)年、東京足立区生れ。浅草フランス座で芸人修業中に知り合ったきよしと漫才コンビを結成。「ツービート」として、漫才ブームで一躍人気者となる。その後もソロとして、テレビやラジオの出演、映画や出版の世界などで国民的な活躍を続けている。映画監督・北野武としても世界的な名声を博す。’97(平成9)年には「HANA−BI」でベネチア国際映画祭グランプリを受賞した。著書に『たけしくん、ハイ/』など多数。(新潮文庫より)

ビートたけしの年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

ビートたけしの足跡

昭和22年
1947
織田作之助死去
ゼネスト中止命令
マーシャル・プラン
0
東京都足立区梅島で父菊次郎、母さきの四男として生まれる
昭和28年
1153
テレビ本放送を開始
6
4月 足立区立梅島第一小学校に入学
昭和34年
1959
永井荷風死去
三池争議
12
4月 足立区立足立第四中学校に越境入学
昭和37年
1962
常磐線三河島事故
堀江謙一太平洋単独横断
15
4月 東京都立足立高等学校に入学
昭和40年
1965
米軍北爆開始
江戸川乱歩死去
18
4月 明治大学工学部機械工学科に人学

ビートたけし生誕の地>
 「…島根町のわが家の一帯は、田んぼのなかに家が建ち並んでいるという長閑な土地でした。人家が密集し、環状七号線の道路が横切っている現在からは想像さえつきません。おふくろの話では、戦争中まではもっと人家も少なく、家にいて近くの梅島駅で何人降りたか見えるほどだったとか。「あれ、駅で降りたの、うちのおばあちゃんじゃないかい」 と、ヤカンを火にかけておくと、ちょうど帰ってくるころにはお茶が出せたというくらいだそうですが、戦後しだいに人家は増えて、私が物心つくころには、さすがにそんなことはできませんでした。 近所には大工さん、ハンドバッグ造りの人、貝殻などをちりばめた螺釦漆器造りの人、ソバ打ち……要するに手に職を持つ人たちが住んでいました。ちょっとした下町の職人街のようなものでした。ペンキ塗りの職人だった親父も、その一人です。家の造りも同じようなものなら、暮らし向きもさほど変わりません。戦争は終わったものの、日本中がまだ貧しかった時代です。味噌を少し貸してほしい。米を一升、明日まで顧みたい。そういって、かみさん同士が往来していました。気さくに融通し合い、助け合って生きていけるのも、下町のよさでしたね。貧しい平屋建てが並ぶ町内で、唯一の例外は立派な構えの二階建ての家でした。人気紙芝居の『黄金バット』 の作者永松武雄さんの家で、当時としては珍しいダットサンの自家用車を持っていました。夏になると、自転車にリヤカーをつけた氷屋がその家の前に停まり、氷を切っていたものです。まだ、氷の冷蔵庫の時代ですが、クルマと同様、冷蔵庫は庶民にとって高値の花。子どもたちがよく氷切りを眺めていました。…」。いい時代ですね。氷の冷蔵庫は当家にもあった覚えがあります。そんなにお金持ちだった分けではないのですか、夏になると氷屋が毎日氷を持ってきて、木製の冷蔵庫の一番上に入れていたのを覚えています。現在は梅島という町名がありますが、当時は梅島駅の近くまで島根町で、梅島という町名はありませんでした。場所を示す名前だったのだとおもいます。(現在は梅島駅北側が梅島町となっています)

左上の写真の辺りがビートたけし生誕の地です。長らく三男の北野大氏が住んでいましたが、現在は売却して他に転居しています。(個人のお宅ですので地図等の掲載は控えさせていただきます)

梅島第一小学校>
 ビートたけしが通った小学校が梅島第一小学校です。「…一度だけ、おいらの小学校の授業参観にオヤジが来たことがあった。……「悪いけど、おまえさんが行ってくれ」とオフクロに言われた瞬間、オヤジは固まってしまった。……結局、オフタロに説得されて行くことになったのだが、当日は朝、おいらが家を出ようとする時からもう、一升瓶を抱えてコップ酒をあおっていた。そして、その勢いで教室に現れたのだ。「北野」と大きく染めぬかれたハッピにボンタン姿、足には地下足袋を履いた職人風の男が、足元をふらつかせながら入ってきたものだから、教室が実に異様な雰囲気になってしまった。まるで、ラッキーセブンのコントみたいな恰好だ。おまけに酒の匂いをプンプンさせている。そして、先生が「誰か、この問題がわかる人、手を挙げて」と言った瞬間、後ろから「さっさと手を挙げろ。このヤロウ」とオヤジの怒鳴り声が聞こえてきた。……たまりかね虎先生が、「ちょっと。誰なんですか、あなたは」と止めに入った。「誰だ、だと? オレは武の親だ、このヤロウ」オヤジはすごんでみせるのだが、先生の「帰って下さい」 の一言で、何も言えなくなってしまった。しばらく先生を脱んでいたが、「覚えてやがれ、このヤロウ」と捨てゼリフを吐いて、教室を出ていった。後にとり残されたおいらの、バツの悪いことったら …。身を縮めて、ひたすら授業終了のチャイムを待ち続けた。…」。これはビートたけしが書いているので、すこしオーバーに書いているのだとおもいますが、父兄参観日のことは何時になっても思い出しますね。イメージピッタリのビートたけしの親父です。

右の写真が梅島第一小学校です。ビートたけしの自宅からは500m位の距離です。「…お金を使って遊ぶなんて、本当に滅多になかったのですが、映画館にはよく一緒に出かけましたね。当時、近所に「島根富士館」という映画館があって、オフクロが内職で忙しかったり、ばあちゃんが義太夫のお弟子さんを取っているとき、厄介払いでしょうか、小遣いをもらって姉と弟の三人で映画を観にいきました。アラカン(嵐寛寿郎)や美空ひばりが出ていた『鞍馬天狗』は何回も観ましたね。映画館を出て家へ帰る道すがら、すっかり興奮してしまった二人が、「オレが鞍馬天狗、武は杉作をやれ。新撰組、覚悟〜つ!」なんて、観たぽっかりの映画をまねてチャンチャンバラバラやっていたのを思い出すと、懐かしくて、なんだか笑いがこみ上げてしまいます。…」。よく私もチャンバラをやりました。映画の帰りは、もう主人公になった気分ですね。ここに書かれている島根富士館(当時の住所で島根947、現在の梅島二丁目22付近)はもうありません。美容室になっていました。また、なにがイベントがあると必ず食事に行っていた正華という千住新橋手前の中華料理屋も現在はラブホテルになっていました。

足立第四中学校>
 昭和34年4月、足立第四中学校に入学します。「…中学校は、越境入学で、足立四中は進学校だったから、いろいろなところから生徒がくる。ぜんぜん、オレの町内と生活のレベルが違うんだよ。おかずの仕切りがある弁当箱。弁当の形とおかずで、カルチャーショックだった。オレたちは、団塊世代の臭っただ中。1クラス60人ぐらい、16クラスに、夜間中学もあって、1学年1000人近く。それを、ぜんぶ1番から最後まで、成績を張り出すんだよ。それが、けっこうきついんだ。トップとケツはいつも同じ。思いっきり頭がいいのと、本気でバカがいて、10番、20番ぐらいまでが、上野高校から東大をめざす。オレは、はなから真ん中だから、おふくろにいつも怒られた。英語の塾にやらされたけど、とりあえず行って、サボる。遊ぼう、遊ぼうってうるさいやつがいてね。いつも自転車の2人乗りをして、遊びに行った。…」。越境入学といっても、日光街道を挟んで足立高等学校と反対側にあり、そんなに遠くではありません。

左の写真が足立第四中学校です。逆光で撮影しましたので、写真がイマイチです。

東京都立足立高等学校>
 「…都立足立高校入学、相変わらずモテない そこでオレは思うブスはオレの天敵ではないかと、中学3年になっても、高校進学のための受験勉強なんて全然しない。試験間際、1カ月ぐらいチョコチョコとやっただけ。いい高校へ行く気もなかったし、学力も落ちてたからね。結局、足立高校という地元の都立校に進んだ。……遅刻とサボりの常習犯、ひとりが好きでいつもひとり、マジメにやっているやつがこっけいに見えたね 高校1年のときは遅刻の常習でね。 校門の前に先公が立って、遅刻の生徒をチェックしてる。それをなんとかごまかすことができないかと友達3人で考えた。それで、校門と反対側のグラウンドのほうにあるブロック塀から入ろうということになって、ノミとトンカチでちょうど人が通り抜けられるくらいの穴を開けた。次の朝、ゆうゆうと遅刻してその穴から入ると、先公が待ち伏せしてる。先に見つけられちゃったんだ。…」。此方もビートたけしが自ら書いていますので、話半分で読んだ方がいいとおもいますが、それでもあまり真面目では無かったようです。

右の写真が東京都立足立高等学校正門です。北野家からは十分に歩いていける距離です。

T塗装店>
 ビートたけしの親父はペンキ職人であり、ペンキの仕入先がT塗装店でした。また、この塗装店の前に、親父が毎日飲んでいた呑み屋、信濃屋がありました。「…オヤジには趣味らしい趣味はなく、唯一の楽しみが酒だった。仕事が終わると必ず飲みに行くのだが、行き先は毎日判で押したように決まっていた。まず、現場から信濃屋という飲み屋に直行して一杯やる。日本酒の冷やにモロキユウ、それにアジフライ。頼むものまで決まっていた。ほろ酔い加減になって、次にキンリユウ会館というパチンコ屋に入る。たまにタバコやガムなどの景品を取ってくることもあったが、たいていはスッていた。最後に、シノとかいう名前のバアさんの店で飲み直し、すっかり出来上がって家に帰って来る。毎晩、同じコースを歩くものだから、まるでけもの道みたいだった。だから夕方、オヤジを見つけ出そうと思ったら、いとも簡単だった。そのけもの道を逆行すればいいのだから。棟梁から金が出る日には、オフクロがおいらにオヤジを探しに行かせるのだが、シノのバアさんの店に行き、キンリユウ会館を覗いて、信濃屋に向かう。その途中のどこかで、必ず見つけることができた。…」。このT塗装店と信濃屋(現在は無くなっていました)の場所は分かったのですが、パチンコ屋の「キンリュウ会館」と「シノ」という呑み屋の場所がまだ不明です。

右上の写真がT塗装店です。拡大するとお店の名前が分かってしまいますね。場所は都バスの千住車庫前です。信濃屋の場所は写真の理髪店の右隣になります。

<ビートたけしの梅島地図>




【参考文献】
・スイングジャーナル 59/12 68/6:スイングジャーナル社
・琥珀色の記録〜新宿の喫茶店:新宿歴史博物館
・新宿ACB:講談社、井上達彦、寺内タケシ
・新説 たけし!:講談社α文庫、ビートたけし
・たけしくん ハイ!:新潮文庫、ビートたけし
・浅草キッド:新潮文庫、ビートたけし
・少年:新潮文庫、ビートたけし
・コマネチ!/!2:新潮文庫、新潮ムック、ビートたけし
・ユリイカ 北野武:青土社
・笑芸人2、5:白夜書房、高田文夫編集
・なぜかたけしの兄です:主婦と生活社、北野大

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