< ビートたけし生誕の地> 「…島根町のわが家の一帯は、田んぼのなかに家が建ち並んでいるという長閑な土地でした。人家が密集し、環状七号線の道路が横切っている現在からは想像さえつきません。おふくろの話では、戦争中まではもっと人家も少なく、家にいて近くの梅島駅で何人降りたか見えるほどだったとか。「あれ、駅で降りたの、うちのおばあちゃんじゃないかい」 と、ヤカンを火にかけておくと、ちょうど帰ってくるころにはお茶が出せたというくらいだそうですが、戦後しだいに人家は増えて、私が物心つくころには、さすがにそんなことはできませんでした。 近所には大工さん、ハンドバッグ造りの人、貝殻などをちりばめた螺釦漆器造りの人、ソバ打ち……要するに手に職を持つ人たちが住んでいました。ちょっとした下町の職人街のようなものでした。ペンキ塗りの職人だった親父も、その一人です。家の造りも同じようなものなら、暮らし向きもさほど変わりません。戦争は終わったものの、日本中がまだ貧しかった時代です。味噌を少し貸してほしい。米を一升、明日まで顧みたい。そういって、かみさん同士が往来していました。気さくに融通し合い、助け合って生きていけるのも、下町のよさでしたね。貧しい平屋建てが並ぶ町内で、唯一の例外は立派な構えの二階建ての家でした。人気紙芝居の『黄金バット』 の作者永松武雄さんの家で、当時としては珍しいダットサンの自家用車を持っていました。夏になると、自転車にリヤカーをつけた氷屋がその家の前に停まり、氷を切っていたものです。まだ、氷の冷蔵庫の時代ですが、クルマと同様、冷蔵庫は庶民にとって高値の花。子どもたちがよく氷切りを眺めていました。…」。いい時代ですね。氷の冷蔵庫は当家にもあった覚えがあります。そんなにお金持ちだった分けではないのですか、夏になると氷屋が毎日氷を持ってきて、木製の冷蔵庫の一番上に入れていたのを覚えています。現在は梅島という町名がありますが、当時は梅島駅の近くまで島根町で、梅島という町名はありませんでした。場所を示す名前だったのだとおもいます。(現在は梅島駅北側が梅島町となっています)
★ 左上の写真の辺りがビートたけし生誕の地です。長らく三男の北野大氏が住んでいましたが、現在は売却して他に転居しています。(個人のお宅ですので地図等の掲載は控えさせていただきます)
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