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最終更新日:2006年2月20日

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●びーとたけしの新宿を歩く
  初版2004年2月28日 <V01L02>

 今週から「新宿」を特集します。昭和30年代から昭和40年代終わりにかけて、ジャズ喫茶全盛時代の「新宿」を、小説家と共に歩きます。ます最初はビートたけし(小説家かどうかは?)ですが、中上健次、五木寛之、村上龍、村上春樹、他を予定しています。御期待ください!!

 私個人的には、映画監督や喜劇人としての”ビートたけし”よりも、小説家としてのビートたけしの方が興味が沸くのですが、経秀実が「ユリイカ」の北野武特集号で「小説を書かない作家」として、この辺りの話題について書いています。「ビートたけしは一九八四年の『ギャグ狂殺人事件』に始まって、九六年の『草野球の神様』にいたるまで、ほぼ十冊の小説を「ビートたけし」の名前で発表している。ほぼ十冊という言い方をするのに、別段他意はない。単純に考えても、『浅草キッド』のような実名ものを小説と呼ぶかノンフィクションに分類するかといった問題は残るし、「書き下ろし実名ポルノ小説」と銘うたれたケッサク掌編「オレのポコチンに人格はない」(『しまいにゃ笑うぞ』所収)などもあるからである。小説家たけしを漫才師、テレビタレント、DJ、ジャーナリスティックな毒舌家、映画監督、俳優……としてのたけし(あるいは、北野武)に比すれば、相対的に少ない影響力しか持たない存在であることは、論をまたない。…「おれ、自分で字を書いたことないから、できちゃって読んで終わりだから(笑)」…」。自分で書かないにしてもネタは話しているのでしょうから、読者にどのように書いたら興味をわかせる事が出来るのか、また売れるのかは、よく理解していた上でゴーストライターに書かせているのでしょう。そう考えれば、口実筆記と変わらない気がします。

左の写真はビートたけしについての年譜が一番詳しく掲載されている笑芸人5号です。さまざまな本に書かれた過去の経歴を一冊にまとめた様な本です!

ビートたけしの年表

和 暦

西暦

年  表

年齢

ビートたけしの足跡

昭和40年 1965 北ベトナム爆撃開始 17 4月 明治大学工学部機械工学科に入学
昭和41年 1166 全日空機、羽田沖に墜落 18 与野のマルヨ家具店の車で家を出る
昭和42年 1967 東京都知事に美濃部亮吉 19 新宿 風月堂に入り浸る
びざーるでボーイのアルバイトを始める
昭和43年 1968 パリ和平会談
安田講堂占拠
20 ビレッジ・バンガードでアルバイトを始める
昭和45年 1969 日本万国博覧会
三島由紀夫割腹自決
22 8月 日本交通・早稲田営業所に運転手として入社
昭和46年 1970 ニクソン・ショック 23 日本交通退社
通産省前のガソリンスタンドでアルバイトを始める

風月堂>
 新宿の風月堂といえば、当時の三越南館裏の中央通りあって、戦後の新宿を代表する著名な喫茶店でした。「…新宿の中央口に『風月堂』つていう喫茶店があってさ。そこに入りびたってた。新宿でも有名な店で、変なのがいたよ。大学中退とか、卒業しても就職しないでブラブラしてるのとか、いわゆるドロップアウトしてる連中が多かった。今の落ちこぼれとは全然違う。落ちこぼれってのは、できのいいやつについていけなくて挫折しちゃうんで、ドロップアウトというのは、自分の意志で社会からはみ出ちゃう。オレもこの時点で、サラリーマンになることをあきらめた。大学へ戻る気ないから、中退ってことになる。大学中退は高卒だからね。それでサラリーマンになっても出世できっこない。「コネも学歴もないのに出世しょうとしているガンコ者」っているけど、オレはいやだった。そのときに人生切っちゃった。話をもどそう。その『風月堂』という店には、オレみたいに人生を切っちゃったようなやつが当時多かった。作家、芸術家のタマゴみたいのも多勢いたよ。ヒッピーみたいのがね。…」、と「たけし!」に書かれています。ビートたけしが風月堂に出入りしていた時期は昭和40年前半ですから、ベトナム戦争の真っ最中で学生運動の最も盛んだった頃です。なにか、戦後が終わって、変化を求めていた時代だったようなきがします。

【新宿風月堂】
 新宿風月堂は、三越新宿店南館か建っていた土地(現在は大塚家具新宿ショールーム)の北側、中央通りに面した場所にあった。当初,昭和20年(1945)の暮れに世田谷区祖師谷大蔵に創業し、横山三郎、横山正二によって主として経営されていた。風月食品工業のパン工場で焼いた洋菓子を販売するための店として、昭和22年(1947)正月には開店していたという。……大きく発展したのは、昭和24年(1949)夏の改築後からである。クリーム色でモルタル塗りの曲面を持つ壁、唐草状装飾や大きなガラス窓が美しいモダンな外観で、客席90の店内は白い円柱が中程に立ち、漆喰壁に彫刻が施され、様々な照明器具が灯されて、白壁が明るく広がりを感じさせるものだつた。店内には,豊富な種類のクラシックレコードから客のリクエスト曲が流され、横山氏のもう一つのコレクション、日本の洋画と彫刻作品が惜しげなく何点も飾られた。終戦後の侍しい都会の住宅事情、議論や会話で人間同士のふれあいを求めてやまない当時の風潮のなかで、新宿風月堂には多くの人々が集まるようになった。昭和27年(1952)初頭には、店独自の選曲で、レコードを解説付きで名鑑賞する、レコードコンサートの第1回が開かれた.その当時は,一ケ月のうち25日も訪れる常連が客の8割にのぼったという、連日超満員の様子は、およそ20年先の、昭和48年(1973)の閉店まで続くことになる。(「琥珀色の記録〜新宿の喫茶店」新宿歴史博物館より)

左上の写真の右側辺りに風月堂がありました。現在は大塚家具ショールームのビルになっています。当時は写真右の角にラーメン屋、次が鉄板焼き、角から三軒目に風月堂がありました。因みに左隣は吉野寿司だったとおもいます。当時の風月堂の写真(「琥珀色の記録〜新宿の喫茶店」新宿歴史博物館より、)


びざーる>
 ビートたけしが新宿でバイトを始めたのがこの「びざーる」です。「新宿のジャズ喫茶『びざーる』でボーイのアルバイトを始める。「本当は新宿で乗り換えて明治大学に行かなきやいけないんだろうけど、彼は新宿で降りてここに来てたんだろうね。当時、何をするでもなく『びざーる』に集まって、腹が減ると近くにあったレストラン『アカシヤ』のロールキャベツを食べてた。当時で200〜300円だけど、これにご飯大盛りもらって、スープをかけて食べるのが御馳走だった。」(『びざーる』時代の友人・写真家の和泉昭雄氏)」、と友人は書いています。「びざーる」は現在でもお店が残っています。ただ、お店はジャズ喫茶というよりは、ワンショットバーになっています。場所も当時と変わらす、新宿高野のビルから靖国通りに抜ける路の左側のビルの地下にあります。風景は昔のままです!!

右の写真が「びざーる」の入口正面に飾られている看板です。お店の入口の写真も掲載しておきます。

アカシア>
 上記の「びざーる」の所で書かれているとおり、お腹がすくと「アカシヤ」のロールキャベツを食べにいっていたようです。「びざーる」のすぐ近くで100mもありません。ジャズ喫茶「DIG」があったビルの一階ですからすぐにわかります。私も、ロールキャベツを食べてきました(ご飯付きで690円)。一般のロールキャベツとは味が少し違います。とにかく柔らかくてスープが多いです。ご飯も多くて若い人向きかなとおもいました。新宿で洋食なら、ここと言われるくらい有名なお店です。ロールキャベツの写真を載せておきます(スープをご飯にかけて食べられるのがよく分かります)。貴方もビートたけしが食べたロールキャベツを食べてみませんか!

左の写真が「アカシア」です。アルタの裏の路地の右側です。当時は二幸の裏、DIGの一階で分かりました。みんな”アカシヤ”といっていますが、お店の名前は”アカシア”です。(DIGについては別途説明します)

地球座>
 ビートたけしがよく通った映画館が地球座です。「…「当時、新宿に『地球座』というピンク映画館がありまして、よく2人で観に行ってました。映画の問に福島県(拳弘二)さんという方のコント(実演ヌードショー)があつてそれを見ているうちに 『俺もコメディアンを目指さなきやいけないんだ』 と思い出したように言い始めてました。」(南池袋時代の同居人・五十嵐誠氏)…」。残念ながら地球座はもうありません。現在はジョイシネマ1、2になっています。当時は地球会館といって、映画館としては新宿座と地球座、他に地球飯店やムーランルージュがありました。

右の写真が現在のジョイシネマ1、2です。建て直されてホテルもあり、総合レジャービルになっいます。

ビレッジ・バンガード>
 ビートたけしが次にアルバイトをしていたのがこのジャズ喫茶「ビレッジ・バンガード」です。このお店はいろいろな意味で”ゆうめい”になりました。「ユリイカ」の北野武特集号で「新宿物語」として荒井晴彦が書いています。「…六九年、一月、安田講堂支援で神田カルチェラタン闘争、安田講堂が陥ち、気分は「パーティ・イズ・オーバー」。四月に永山則夫逮捕、小水一男は六五年から六七年まで「ビザール」でバイトしていて、北野武は客だったという。この頃は「ヴィレッジバンガード」で武が早番、永山が遅番で働き、若松プロの助監督になっていた小水は足立正生、沖島勲、佐藤重臣、平岡正明らとジャズで踊っていたという。中上健次も客だったかもしれない。その緑で武は若松孝二の『新宿マッド』に仕出しで出演、後年、小水は『ほしをつぐもの』を撮らせてもらう。小水によると武は目立たない、ヘラヘラニコニコした奴だったという。永山は猫背でのっべりした伏し目がちの奴で、あいつだ!とすぐ言った足立はその年、風景映画『略称・連続射殺魔』を撮る。俺は池袋のアングラ劇場でモギリをしていた。そして、処女と童貞で始めて四年目の恋人を親友に奪われ、授業料を飲み屋に払ってしまう。新宿の朝、早稲田へ向う機動隊の車両を吐きながら見ていた。…」。連続射殺事件の犯人 永山則夫が働いていた所として有名で、村上春樹や中上健次などもこのことについて書いています。ビートたけしはビレッジゲートでもバイトをしていたようですが、詳細は分かりませんでした。

右上の写真正面のビルの二階にビレッジ・バンガードがありました。ただし、ビルは当時から建て直されているようで、現在はホテルになっていました。

<ビートたけしの新宿地図>




【参考文献】
・スイングジャーナル 59/12 68/6:スイングジャーナル社
・琥珀色の記録〜新宿の喫茶店:新宿歴史博物館
・新宿ACB:講談社、井上達彦、寺内タケシ
・新説 たけし!:講談社α文庫、ビートたけし
・たけしくん ハイ!:新潮文庫、ビートたけし
・浅草キッド:新潮文庫、ビートたけし
・少年:新潮文庫、ビートたけし
・コマネチ!/!2:新潮文庫、新潮ムック、ビートたけし
・ユリイカ 北野武:青土社
・笑芸人2、5:白夜書房、高田文夫編集
・なぜかたけしの兄です:主婦と生活社、北野大

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