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最終更新日:2006年2月20日


●ゼームス坂(高村智恵子)と明治記念館(日本ペイント)
  
2000年4月8日
 
 今週の散歩情報は品川区大井町方面です。温かい日差しで桜が満開でした。

 毎日京浜東北線で通勤しているのですが、品川から大井町へJR京浜東北線に乗って左側を見ていると、大井町の駅の手前で素晴らしい桜並木を見ることができます。一度歩いてみたいと思っていたのですが、あまりに綺麗なので今日は大井町付近を散歩してみることにしました。大井町駅を品川寄りで降りると、東急大井町線の乗換口があります。そちらの方へは行かずに右側に降りると東口です。そのまま線路沿いに土手の道を品川方面に歩いていくと、左の写真の(上で説明した)桜並木になります。もう頭のすぐ上で、手に届く所に咲いていますので絶景です。(やっぱり日本人には桜ですね!!、左の写真は大井町方面に向かって撮影しましたので右側がJRの線路になります)

<ゼームス坂>
 桜並木の方へは行かずに東口を南品川の方に歩いていくと100m位でゼームス坂上のT字路の交差点になります。この交差点から新馬場方面へ抜ける坂がゼームス坂と呼ばれています。昔の坂は今のように緩やかな坂ではなく、浅間坂と呼ばれるかなり急な坂だったようです。名前の由来は、英国人ジョン・M・ジェームスがこの坂の途中に住んでいた事から名付けられています。ジェームスは慶応2年(1863)28歳の時来日し、坂本龍馬等とも知り合い、日本海軍創設に貢献し明治5年海軍省航海術教授になっています。ゼームス自信はとても日本びいきだったようです。明治8年(1875)には品川の馬場町(現・南品川6−5−11)に居住していました。仏教にも関心あったようで池上本門寺や身延山へも行かれたようです。戦争中も坂の名前を改称されることなく現在に至っています。エンジュ並木のゼームス坂は、大正時代によく流行した銅板葺きの商店が立ち並び、レトロな雰囲気をかもし出しています。坂の途中の三越ゼームス坂マンションの横の道を少し入ると右側に高村智恵子の記念碑「レモン哀歌の碑」が建っています。その記念碑の斜め前にはジョン・M・ジェームスの記念碑もあります。(三越ゼームス坂マンションの入り口にあります)

<高村智恵子>
 『智恵子は東京に空が無いといふ、
 ほんとの空が見たいといふ。
 私は驚いて空を見る。
 桜若葉の間に在るのは、
 切つても切れない
 むかしなじみのきれいな空だ・・・ 』

これは「智恵子抄」の中の「智恵子の半生」「あどけない話」の一部です、すばらしいですね!。この感性はなんなんでしょう・・・。
 大井町駅近くのゼームス坂の途中にあった「ゼームス坂病院」は、詩集『智恵子抄』で有名な高村光太郎の妻、智恵子の終焉の地です。高村光太郎は、彫刻家高村束姜(上野の西郷隆盛像を制作)の長男として東京で生まれ、彫刻家・詩人として活躍しました。その妻智恵子は、福島県二本松の裕福な造り酒屋に生まれ、日本女子大学を卒業後、光太郎と知り合い、大正3年(1914)に結婚しています。智恵子は、そのころには珍らしく社会的自立を目指す女性で、絵画の創作を単なる趣味ではなく、経済的自立の手段と考えていました。しかし、父の死や実家の没落も打撃となって、智恵子は次第に精神を病むようになります。光太郎は看病に専念しましたが、病状はすすむ一方で、昭和10年(1935)にこのゼームス坂病院に入院しました。この病院で智恵子は、切り絵に没頭し、一千点もの作品を残しています。しかし、退院できぬまま、3年後に生涯を終えました。ゼームス坂病院は、戦後まもなく取り壊されてしまいましたが、その跡地の一角に、記念碑「レモン哀歌の碑」が建てられています。

<明治記念館(日本ペイント)>
 ゼームス坂を下って、南品川4丁目の天竜寺の所を左に曲がり、300m程歩いて行くと、京浜東北線のガードの手前が日本ペイント品川工場です。この工場の一角にある赤レンガの建物(明治42年(1909)に建てられた当時の工場)を、創業100年目の昭和56年(1981)に「明治記念館」と命名し、資料館として一般に公開しています。内部には明治時代のペンキ製造に用いられた機械類や関係文書を展示しています。私は土曜日に訪ねたのですが、当然工場は休みでしたが、入り口の守衛の方が親切にも記念館をわざわざ空けてくださいました。さすが、日本ペイントですね。(普通は平日のみです)
<享保21年銘道標>
日本ペイント品川工場の入口に置かれています。東海道から南馬場通りを経て目黒にいたる目黒道が、この工場前の碑文谷道と交わる地点にあったものと見られ、右側面に「右めくろ道」、左側面に「左ひ文や道」と記されています。享保21年(1736)に南品川の庚申講中の人々が建てたもののようです。

【高村智恵子(1886〜1938)】
明治19年 5月20日、福島県安達郡に酒造業長沼今朝吉の長女として誕生
明治36年 17歳 町立福島高等女学校を卒業、上京して日本女子大学校に入学
明治40年 21歳 大学校を卒業。反対する両親を説得して東京に残る
明治44年 25歳 大学校の先輩の紹介で光太郎を訪問
大正2年 27歳 光太郎と婚約
大正10年 35歳 光太郎が智恵子のためにヴェルハアランの愛の詩集三部作を訳
昭和4年 43歳 実家の長沼家が倒産、一家は離散する
昭和6年 45歳 この頃から精神分裂症の兆候が現れる。翌年、アダリン自殺未遂
昭和8年 47歳 高村家に入籍
昭和10年 49歳 ゼームス坂病院に入院、15号室南東2階の6畳が智恵子の病室
昭和13年 52歳 10月5日夜、光太郎にみとれながらその生涯を終わる
昭和16年 光太郎詩集「智恵子沙」刊行。太平洋戦争開戦
昭和31年 4月2日、光太郎没する。73歳

【参考文献】

・しながわの史跡めぐり:品川区教育委員会
・日本ペイント明治記念館パンフレット:日本ペイント
・智恵子抄:新潮文庫

【交通のご案内】
・JR京浜東北線/東急大井町線大井町駅下車徒歩10分
・京浜急行線新馬場駅下車徒歩6分

【見学について】

・日本ペイント明治記念館:品川区南品川4-1-15 ??03-3740-1110  日本ペイントホームページ
福島県ホームページ(高村智恵子)

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