<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。
高見順の「如何なる星の下に」からです。
「 ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」
★上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。
【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。
第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻
愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年
「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。
<「日本の文学」に掲載された「如何なる星の下に」の参考地図(昭和13〜14年)>
昭和40年5月に発行された「日本の文学 高見順」に掲載されている『「如何なる星の下に」参考地図(昭和13〜14年)』を下記に掲載します。高見順が亡くなられたのが昭和40年8月ですから、直前に発行された本に掲載されたことになります。
地図に幾つか間違いがあるようです。
・大黒屋の位置
「…その馬道と国際通りの間。広小路通りと言問通りの間の、普通浅草と呼ばれる一区画の中にある食い物屋は、これはいわば外から浅草へ遊びにくる人たちのための食い物屋で、浅草のなかで働いている人たちのための、そうとも限定できないが、とにかくそんな内輪の感じの安いメシ屋はその区画の外郭にある。馬道、国際通り、広小路、言問通り、そこにいかにもメシ屋らしい安直なメシ屋があるのだ。
馬道の「大黒屋」で、「傘売り」と向い合って、 ── …」
”馬道の大黒屋”と確かに書いていますが、下記の地図では公園劇場の近くに書かれています。昭和14年の浅草絵図をみると馬道通りと区役所と公園劇場の近くの三ヶ所に大黒屋(家)が見られます。それも公園劇場の近くが大衆食堂で、馬道と区役所の大黒屋(家)の方は天麩羅屋になっています。上記の文から読み解くと、場所は馬道の大黒屋で、中身は公園劇場の近くの大黒屋とするのが正解のようです。区役所跡の角の大黒家が唯一
天麩羅屋として現存しています。
・桃太郎の位置
これは単純に地図の位置の書き間違いとおもわれます。昭和14年の浅草絵図を参照してください。
その他は正しいおもいますので、見ていただけたらとおもいます。