●高見順「如何なる星の下に」を歩く -7-
    初版2001年7月3日
    二版2013年6月15日  <V01L01> 暫定版

 今回が高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」の最終回です。合計七回の連載でしたが、改版も継続しておこないます。次回は川端康成の「浅草紅團」の改版を掲載する予定です。しばらく浅草が続きます。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。

<「日本の文学」に掲載された「如何なる星の下に」の参考地図(昭和13〜14年)>
 昭和40年5月に発行された「日本の文学 高見順」に掲載されている『「如何なる星の下に」参考地図(昭和13〜14年)』を下記に掲載します。高見順が亡くなられたのが昭和40年8月ですから、直前に発行された本に掲載されたことになります。

 地図に幾つか間違いがあるようです。
 ・大黒屋の位置
「…その馬道と国際通りの間。広小路通りと言問通りの間の、普通浅草と呼ばれる一区画の中にある食い物屋は、これはいわば外から浅草へ遊びにくる人たちのための食い物屋で、浅草のなかで働いている人たちのための、そうとも限定できないが、とにかくそんな内輪の感じの安いメシ屋はその区画の外郭にある。馬道、国際通り、広小路、言問通り、そこにいかにもメシ屋らしい安直なメシ屋があるのだ。
 馬道の「大黒屋」で、「傘売り」と向い合って、 ── …」

 ”馬道の大黒屋”と確かに書いていますが、下記の地図では公園劇場の近くに書かれています。昭和14年の浅草絵図をみると馬道通りと区役所と公園劇場の近くの三ヶ所に大黒屋(家)が見られます。それも公園劇場の近くが大衆食堂で、馬道と区役所の大黒屋(家)の方は天麩羅屋になっています。上記の文から読み解くと、場所は馬道の大黒屋で、中身は公園劇場の近くの大黒屋とするのが正解のようです。区役所跡の角の大黒家が唯一 天麩羅屋として現存しています。
 ・桃太郎の位置
 これは単純に地図の位置の書き間違いとおもわれます。昭和14年の浅草絵図を参照してください。

 その他は正しいおもいますので、見ていただけたらとおもいます。


高見順の浅草地図(「日本の文学」掲載地図の一部)


高見順の浅草地図 -1-



「釜めし 春」
<釜めし>
 いよいよ最終回です。残ったところを順次紹介していきます。
 最初は「釜めし」です。浅草には釜めし屋がかなりの数あるようです。上記の『「如何なる星の下に」参考地図(昭和13〜14年)』を見ながら、昭和14年の浅草絵図で確認します。参考地図と同じ場所の公園通りに「釜めし」を見つけることができました。「釜めし」のみの掲載で店の名前がありません。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 朝 ── 「なんでもない。とにかく、鰯と言われて怒るなと言うことさ。時にそんな話をしたら、とみに空腹を覚えてきた」
  ── それがきっがけで、私たちは釜めしを食べに行った。…
… 釜めしが運ばれて来た。
  「さあ、おあがり」
と、朝野は言って、
 「おや、ぺん吸は?」
 これは女中に ── 。はんぺんの吸物を注文してあった。
 「はい、ただいま」
 店は、ごった返しの混みようである。私たちは二階の隅に坐っていた。女中が去ると、
 「お吸物があとになるナンテ、いやになっちゃうね」
 そう言いながら、すでに釜の蓋をあけて、湯気の立ち上るながに箸を入れて、早速一口やって、
「あツつっ」
 眼を白黒させた。まるで飢えた犬が固い骨を持てあます時のような、滑稽であさましいその口の恰好に、
 「まあ、おがしい」
 サーちゃんが雅子の膝に手をやって、その膝をゆすぶってゲラゲラ笑った。雅子も、くすぐられたみたいに身体をよじらせて笑った。…」


写真は現在の公園通りにある「釜めし 春」です。昔の地図と同じ場所なので間違いないとおもいます。お店の方に聞いたところ、戦前からで、大正15年創業だそうです。関東大震災後です。

「どぜう 飯田屋」
<飯田>
 どじょうだと「駒形どぜう」が有名ですが、合羽橋通りの「どぜう飯田屋」も有名です。両者とも建物は空襲で焼けていますが、「駒形どぜう」の方が戦後の建物を維持しています。

 ドジョウを「どぜう」と表記するようになったのは、「駒形どぜう」の初代当主“越後屋助七”の発案であるというのが定説です。ドジョウは泥鰌、鰌と書き、旧かなづかいでは「どぢやう」あるいは「どじやう」というのが正しいですが、四文字では縁起が悪く、三枚ののれんに書けないという理由から、発音の近い「どぜう」の文字を使用したとされています。「駒形どぜう」は享和元年(1801年頃)の創業で、「どぜう」の表記は文化3年(1806)から用いるようになったようです。老舗の名店がこの表記を採用したことから、幕末近くには江戸の町中でも定着し、他店も「どぜう」を看板として用いるようになったいます。なお、字面は「どぜう」であっても発音はあくまでも「どじょう」です。(ウイキペディア参照)

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…[宿酔は迎え酒をするといいですな]
 朝野は何かうれしそうに黒い歯を剥き出した。「迎え酒をせんと、いかんですな」 ── 露骨にうれしそうなのは、私にうまく会えたのを喜んでくれているのか。それとも、迎え酒を共にしようというためが。
  誘われるままに、いっかドサ貫が出てきた合羽橋通りのどじょう屋の「飯田」へ行った。
「鯰は精力がつくですよ」
と、しきりに朝野がすすめるので、私は別に反対すべき理由もないゆえ、その言葉に従うと、
「では、僕は鯨と行こう」
と、朝野は異をたてて、おいおいと女中を呼び、
 「ズー鍋一丁、カワ鍋一丁」
「はアい。ズー鍋一丁、カワ鍋一丁!」と女中が板場に言った。
「それからお銚子だ」
 「はアい。それがらお銚子一本」
 朝野の言葉と女中の言葉とは、女中がお銚子を一本と限定した、それが違うだけだった。
 客がいっぱい立て混んでいる店の内部は、土間と畳と半分ずつに分れていて、土間に腰掛けた客たちはほとんどすべてが味噌汁でめしを食っている。どじょう汁、鯨汁、しじみ汁、あおみ汁(野菜のこと)、豆腐汁、ねぎ汁、いずれも五銭で、めしが十銭、十五銭也でめしが食える。十五銭という安さに少しも卑下せずに食える、 ── 楽しんで食っているその雰囲気、こうした浅草の空気は、私の心をなごやがにさせるのである。私は畳に上って、ズーとがカワとかいうようなややこしいものを食ったりしないで、土間の諸君にまじってどじょう汁を食いたかった。…」


 ”ズー鍋一丁、カワ鍋一丁”とは、「ズー鍋」とは鯰(なまず)鍋のことで、”カワ鍋”とは鯨(くじら)鍋のことです。どぜうで鯰鍋と鯨鍋とは少し残念です。

写真が現在の合羽橋通りの「どぜう飯田屋」です。残念ながらまだ入ったことがありません。

「花屋敷」
<花屋敷>
 浅草の遊園地です。一応、子供から大人まで遊べるちょっとした遊園地と表現するのが丁度良いとおもいます。戦前からの遊園地なので、少し昔の面影があればいいなとおもいます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 「花屋敷?」
「花屋敷が今度復活するそうで。なんでも浅草楽天地という名前になるとか。そこのショウに入ることになったんです」
「それはよかった」
「でもね、見世物小屋の踊り子ではね、どんなもんですかね。僕もミーちゃんがら誘われたが、断わりました」…」


 嘉永6年(1853年)に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園します。明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定されます。しかし敷地は縮小し、明治18年(1885)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぎます。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示しています。この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していました。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりしました。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになっていきました。大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生でいます。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺しています。昭和に入って徐々に規模を縮小し、昭和10年(193)に仙台市立動物園に動物を売却し、事実上閉園します。昭和14年(1939)須田町食堂(「聚楽」)が買収し、名称も食堂遊園地浅草楽天地に変更しています。昭和16年(1941)には松竹が経営に当たることとなり、合資会社浅草花屋敷が設立され、劇場や映画館と共に再度遊戯施設が設けられますが、昭和17年(1942)には強制疎開によりついに取り壊されます。(ウイキペディア参照)
 
写真は現在の「浅草 花やしき」です。関東大震災前の繪端書昭和初期の絵葉書を掲載しておきます。

「三州屋跡」
<三州屋>
 高見順の「如何なる星の下に」の最後に出てくるのが三州屋です。”国際通りの「三州屋」”と書かれていましたので直ぐに場所が分りました。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 浅草の会は、国際通りの「三州屋」が会場であった。
 その日はK劇場の初日に当っていて、初日は稽方がないがら、ショウの連中は舞台がすむと普通の日と違ってあとは遊べる。それで会にも出られるというので、その日が特に選ばれたのだ。
 私はその日の前ずっと浅草に行がず、その日も定刻に大森の家から出がけて行くと、朝野が、「三州屋」の前に立っていて、私を見かけるとパッと駆けて来て、
[倉橋君、大変だ]
 今や遅しと私を待っていたらしく、いきなり噛みつくように言った。
「滅茶苦茶だよ、倉橋君」大分酒か入っているらしい様子だ。…」


 戦後もしばらくはお店があったようです。昭和26年代の地図にお店名が書かれていました。

写真左側の角のビルのところが「三州屋」跡です。右側の感應稲荷神社の石壁のところに三州屋と書かれていました。写真を拡大してみてください。

 終わりです!



高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)