●高見順「如何なる星の下に」を歩く -6-
    初版2001年7月3日
    二版2013年6月8日 
    三版2013年6月16日  <V01L01> 長国寺と浅草神社の裏手の写真を追加 暫定版

 パソコンのマウスを使いだしたら、治りかけていたテニス肘が悪化してしまいました。困ったものです。今回も高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」を引き続き掲載します。浅草の鷲神社から浅草寺裏の被官稲荷界隈を中心に歩きます。後一回で終らせる予定です。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図 -1-



「鷲神社」
<鷲神社>
 浅草の神社と言えば「浅草神社(通称:三社権現(さんじゃごんげん)、三社様(さんじゃさま))」と並んで有名な「鷲神社」です。正確には千束なので浅草ではありません。浅草神社が5月の三社祭、鷲神社が11月の酉の市となりますので、春と秋で丁度良いわけです。

 鷲神社は言い伝えによれば、古来この地に天日鷲命が祀られており、その神社に日本武尊が東征の折に戦勝を祈願したとされますが、実際は隣接する長国寺に祀られていた鷲宮に始まるといわれています。江戸時代中期から酉の市で知られ、東京都足立区花畑七丁目の大鷲神社の「おおとり」に対し、鷲神社は「しんとり」と称された。明治初年の神仏分離に伴い、長国寺から独立し鷲神社となりました。(ウイキペディア参照)

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…   ── 三の酉は十一月二十五日てあった。(一日が一の酉で、十三日か二の酉で、 ── )…
… ── その晩の十二時過ぎると二十五日で、三の酉かはじまる。十二時前がら人々は鷲神社につめがけている。
 どちらか誘うともなく美佐子と私とはお酉さまに出かけた。お酉さまの晩は、公園の食いもの屋は二時まで営業か許される。「聚楽」の前へ行くと、二時までの営業のため帰れなくなる店員を店へ泊らせる用意のものだろう、夜具蒲団をうず高く積んだトラックがとまっていた。何か奇観で、私が思わず足をとどめると、「あれ、一組十銭よ」と美佐子か言った。
「 ── え?」
「一晩借りるのが十銭」
「 ── なるほど」…」


 酉の市(とりのいち)・酉の祭(とりのまち)・大酉祭(おおとりまつり)・お酉様(おとりさま)は、例年11月の酉の日に行われる「祭礼」。関東地方だけではなく大阪府堺市の大鳥大社・名古屋市大須の稲園山七寺(長福寺)など日本各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われている年中行事です。多くの露店が出店し賑やかなお祭りとなっている年末の風物詩。えびす講(えびす祭・えべっさん)は、由来が異なり酉の市とは全く関係が無いようです。(ウイキペディア参照)

写真は現在の「鷲神社」です。今年、平成25年(2013)の酉の市は11月3日、15日、27日となります。「酉の日」は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のこと。これは、12日おきに巡ってきます。ひと月は30日なので、日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年があります。初酉を「一の酉」、次を「二の酉」、3番目を「三の酉」と言います。「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説があります。そのため、三の酉がある年には平年にもまして、歳末にかけて火の用心が心がけられ、熊手商の多くは縁起熊手に「火の用心」のシールを貼って売りだすそうです。なお、三の酉は、およそ一年おきにあるため、さほど珍しいわけではありません。(ウイキペディア参照)
 「長国寺」は、「鷲神社」に入った先を左に曲がったところに有ります。神仏分離までは長国寺内にあったわけです。

「台東病院(旧吉原病院)」
<吉原病院>
 吉原(現 千束四丁目)の南西(現 千束三丁目)にある病院です。現在は東京都立台東病院になっています。8階建ての大きな病院です。

 吉原病院は警視庁病院を母体とする性病専門の病院でした。明治44年(1911)娼妓の治療をなすため、警視庁が吉原遊廓ほか5カ所に警視庁病院を設けたのが始まりです。これは明治43年勅令第310号「風俗上取締を要する稼業を為す者及行政執行法第3条の患者の治療施設に関する件」に根拠を有するもので、警視庁は「警視庁病院設置の件」を公布しています。昭和17年(1942)に東京府に経営移管されます。戦後の娼妓取締規則(明治33年10月内務省令第44号)の廃止により、性病予防法第16条に基づく性病病院として残りますが、昭和26年(1951)以降に入院患者が激減したため、まず駒込病院分室として伝染病患者の収容を始め、次いで結核性疾患のための整形外科病院として使用することになり、昭和34年(1959)4月1日、東京都立台東病院(性病科35床、整形外科95床)となります。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 吉原病院の方へ抜けて、吉原に入った。仲の町は、お酉さまへ行く人、帰りの人で、ごった返していた。「角海老」の前庭を、素人の女たちが、見物するのはこの時とはがりに、ひやかしの男に混ってソロゾロと通り抜けている。そういう場合どういうものか、惨めな側にすぐ自分の心を置く癖の私は、 ── 同じ女と生れてきなからいかなるめぐり合わせか、自分のせいではなく苦界に身を沈めねばならなかった女か、同じ女に、のんきそうに遊んでいる女に見物される苦しみを考えると、それはあまり気持のいい風景ではなかった。…」

 東京都立台東病院は鷲神社から東に50m程の所にあります。直ぐ裏です。吉原は当時としては一般の女性の行くところではありません。

 角海老(かどえび)とは、.吉原に存在した遊郭の屋号です。明治時代に吉原で奉公していた宮沢平吉が「角尾張楼」という見世を始め、その後「海老屋」という見世を買い取り、そこに「角海老楼」という時計台付きの木造三階建ての大楼を建てたのが起源とされます。当時の「角海老楼」は総籬の高級見世で、歴代の総理大臣が遊びに来るような格式の店であったといわれています。(ウイキペディア参照)

写真の正面ビルが東京都立台東病院(旧吉原病院)です。道沿いに右に曲がっていくと、千束四丁目(旧吉原)になり、次の信号の左先マンションが角海老跡になります。


高見順の台東区地図



「被官稲荷」
<被官稲荷>
 浅草寺の正面右に浅草神社がありますが、その右奥に「被官稲荷」があります。

 被官稲荷神社は、安政元年(1854、因みに明治元年は1868、ペリーが浦賀に来航したのが前年)、新門辰五郎の妻が重病で床に伏したとき、山城(現、京都府南部)の伏見稲荷神社に祈願したところ、その効果あって病気は全快します。そして、同二年、町の人がお礼の意味も込め、伏見稲荷神社から祭神御分身を当地に勧請しました。その後、小社を創建し、被官稲荷神社と名付けられ、現在浅草神社の末社としてその境内に祀られています。名称の由来は不明ですが、被官とは官を被(こうむ)る、ということから、就職・出世と解せばよいでしょう。被官稲荷神社正面の鳥居は新門辰五郎により奉納されたものだそうです。(被官稲荷神社ホームページより)

 新門辰五郎(しんもん たつごろう、寛政12年(1800年)? - 明治8年(1875年)9月19日)
江戸時代後期の町火消、鳶頭、香具師、侠客、浅草浅草寺門番です。父は飾職人・中村金八。町田仁右衛門の養子となる。娘の芳は江戸幕府15代将軍・徳川慶喜の妾となっています。「新門」は金龍山浅草寺僧坊伝法院新門の門番である事に由来しています。生年月日は寛政4年3月5日(1792年4月25日)という説もあるようです。(ウイキペディア参照)

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  ── 私たちは観音堂をまわって、右手の裏に来ていた。観音堂前の賑わしさ、雑踏は、左にそれて、その裏はうそのように寂しかった。ついそこの、つい今通ってきた仲見世の賑わいか夢のような感じのする、そこは蕭条とした場所たった。
 森鴎外がその撰文を書いたという、九代目団十郎の「暫」の銅像がある。そのさきに、お坊さんたちのモダンな住いかあり、その角の公孫樹の下に寂しい場所に似合わない公衆電話がポツンと立っている。折から、被官稲荷の方から参詣の帰りらしい粋な女が出てきて、その前でちょっと思案する足をとどめて足もとの公孫樹の落葉に眼を落したが、さっと身をひるかえして、公衆電話のなかに入った。寂しい周囲のため異様に際立つそのなまめがしい風情がらか、またはそうした寂しい場所の人目につがぬ公衆電話というところからが、 ── 好きな男へ電話をかけるのだろう、いやがけるのに違いないと、奇妙な的確さで想像されるのだった。…
… お坊さんの住いの塀に沿って山東庵京伝の書案の碑とが中原耕張の筆塚とか並木五瓶の「月花のたはみこゝろ
や雪の竹」という句の刻んである碑とが、いろいろの石碑が一列に並んでいる。そのさきに粋筋の人たちがよく願をかける被官稲荷がある。その神燈の格子にサーちゃんかおみくじを結びつけているのだ。けばけばしい洋服の踊り子と占風なおみくじ。…
… 被官稲荷の前に行った時は、私たちに気づがぬサーちゃんは浅草神社の方へ急ぎ足で去っていて、私もドサ貫もあえて呼びとめようとはしながった。社前には新門辰五郎が奉献したという、柱に新門と刻んである石の華表が立っていて、その内側に木でつくった小さな神燈かある。その井型の格子に結びつけられたおみくじが、ようやく迫った薄暮のなかにあざやがに白く光っていた。…」


 ・九代目団十郎の銅像 → 戦前は浅草神社の裏手にあったが戦時中に金属供出、場所を変えて昭和61年に復活
 ・公衆電話 → 戦前は浅草神社の左側裏手、福祉会館に向う角付近にありました(昭和14年の浅草絵図参照)
 ・山東庵京伝の書案の碑 → 浅草神社の裏手、被官神社の左側駐車場の所
 ・中原耕張の筆塚 → 昭和30年代以降に浅草神社の裏手から伝法院に移されています(写真撮影が不可です)
 ・並木五瓶の碑 → 浅草神社の裏手、被官神社の左側駐車場の所

写真は現在の「被官稲荷神社」です。この左側に山東庵京伝の書案の碑と並木五瓶の碑があります。九代目団十郎の銅像はずっと西側の観光バスの駐車場北側にあります。中原耕張の筆塚については上記にも書きましたが、昭和31年発行の「浅草寺境内金石諸仏・諸碑・供養塔記」には中原耕張の筆塚は浅草神社裏にあると書かれていましたが、昭和50年の「金石碑 浅草寺」では伝法院前に移っていました。最新では「図説 浅草寺 今むかし」に伝法院前と書かれていました。(伝法院には入れませんので撮影できませんでした)

「田中屋跡」
<「田中屋」という牛めし屋>
 広小路の屋台の牛飯屋です。当時は広小路に屋台がずっと並んでいたようです。昭和14年の浅草絵図を見ると、牛飯屋が複数見受けられますが、田中屋が一番美味しかったのだとおもいます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…夜の広小路で私はドサ貫に会った。マスクをかけていて、顔ははっきりしなかったが、しがし私にはすぐドサ貫とわかった。私は牛めしを食いに行くところだったので、「どう、一緒にカメチャボを食わない」
とドサ貫を誘ったのであった。
 小屋の連中がひいきにしている「田中屋」という牛めし屋の暖簾をくぐって、ドサ大貫がマスクを取ったのを見で、私はこれはと驚いた。…
… へい、お待ちどおさまと、玉葱に肉がチラホラ混っている牛めしが前に置かれた。…」


 当時の牛飯屋と今の牛丼屋とは違いますね。”玉葱に肉がチラホラ混っている牛めし”では寂しい限りです。高見順が吉野家で牛丼を食べたら感激するのではないでしょうか!!

写真は浅草広小路、浅草一丁目の交差点西側です。現在の地番で浅草一丁目5番付近です。この辺りに”「田中屋」という牛めし屋”の屋台があったはずです。歩道側から撮影してみました。昭和14年の浅草絵図を掲載しておきますので確認してください。

 続きます!



高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)