●高見順「如何なる星の下に」を歩く -5-
    初版2001年7月3日
    二版2013年6月1日  <V02L01> 改版
    三版2013年7月10日  <V01L01> 「ハトヤ」のホットドッグを追加 暫定版

 テニス肘で一ヶ月程休みました。まだ少し痛みがあり、短時間しかマウスを使うことができませんので、時間をかけて作成しています。今週は少し期間をおきましたが高見順の「『如何なる星の下に』を歩く-5-」を掲載します。今回は「如何なる星の下に」に書かれている浅草六区とその付近を中心に歩いてみました。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図 -1-



「東京案内」
<東京市編纂「東京案内」>
 明治40年発行、東京市編集の「『東京案内』 浅草区」の中に浅草のお店、劇場が書かれています。この本を高見順が見つけて、「如何なる星の下に」の中に引用しています。移り変りの激しい浅草の推移を見るには丁度良い本だとおもいます。

 明治40年発行、東京市編集の『東京案内』は当時の東京案内そのものです。 「東京案内」と称する案内本は、国会図書館で調べると明治10年代からあり、年を追って増えています。東京市編集が集大成かもしれません。値段が書いていないので、ひょっとすると無償で配布していたのかもしれません。それにしても、国会図書館のデジタル化資料は非常に便利です。自宅で調べることができます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  ── 私の手もとに明治四十年発行の東京市編纂「東京案内」という本かあるが(この明治四十年というのは、私の生れた年なので、この本には特別の感情が持たれるのたが)浅草区のところに、公園の地図が入っている。見ると、それに出ている大きな食いもの屋は大方今日も残っているのだが(たとえは田原町の鰻の「やっこ」、広小路の牛肉の「ちんや」、天婦羅の「天定」、仲見世の汁粉の「梅園」、馬道の鳥の「金田」、花屋敷裏の料亭「一直」、千束町に入って「草津」、牛肉の「米久」等。)
興行方面となると内容はもとより名前もほとんど変っている。
 これで見ても、食いもの屋の一種の凄さがわがる。須田町食堂が花屋敷を買収するというのも、食いもの屋の凄さのひとつの現われにすぎないであろう。…」


 上記に書かれているお店の現在の状況
・田原町の鰻の「やっこ」 → 当時は本店と支店があり現在は支店が存続しています(現在のお店
・広小路の牛肉の「ちんや」 → 東に20m程移動して存続しています(現在のお店
・天婦羅の「天定」 → 店名は「三定(さんさだ)」、現在も同じ場所で存続しています(現在のお店
・仲見世の汁粉の「梅園」 → 現在も同じ場所存続しています(現在のお店
・馬道の鳥の「金田」 → 終戦前に店を譲り、戦後場所を変えて本金田として存続、現在は廃業されています
・花屋敷裏の料亭「一直(いちなお)」 →戦後場所を変えて営業されています(現在のお店
・千束町に入って「草津」 → 現在も同じ場所で存続しています(現在のお店
・牛肉の「米久」 → 現在も同じ場所で存続しています(現在のお店
 結構継続して営業されています。現在無くなっているのは「金田」くらいです。

写真は明治40年発行、東京市編集の『東京案内』です。浅草の様子が詳細に書かれています。『東京案内』に掲載されている「浅草公園之圖」の一部を下記に掲載しておきます。全体図は此方に掲載しておきます(モノクロにしています)。


明治40年発行、東京市編集の『東京案内』掲載地図(一部)



「現在の六区」
<六区>
 浅草六区についても同じように明治40年発行、東京市編集の「『東京案内』 浅草区」を参照して書かれています。明治40年頃から昭和初期までの浅草六区興行街は激しく変遷しながら発展し続けたようです。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…興行方面の有為転変の激しさを示すべく、今ここに同書の六区の記事を掲げてみよう。

 六区に至りては、園内観物(みせもの)の中心地とも称すべきものにして、区内を四号地に分かつ。これが観物は、時々変更して一定しがたしといえども、しばらく明治三九年現在のものを記せば左のごとし。
 一号地《現在の江川ニュース劇場と大勝館の間》
  観物に大盛館(江川玉乗)大人三銭 小児二銭 清遊館(浪花踊)大人三銭 小児二銭 共盛館(少年美団)大人三銭 小児二銭 共盛館(青木玉乗)大人三銭 小児二銭 外に猿の観物。(以下略)
 二号地《現在のオペラ館のある一角》
  観物に日本館(娘都踊)大人三銭 小児二銭 野見(剣術)大人三銭 小児二銭あり。(以下略)
 三号地《現在の千代田館と金龍館の間》
  観物に清明館(剣舞)大人二銭 小児一銭五厘 明治館(大神楽)大人三銭 小児二銭 電気館(活動写真)大人五銭 小児二銭あり 劇場常盤座 木戸六銭 寄席金車 木戸六銭あり。(以下略)
 四号地《現在の富士館、帝国館のある所》
  観物に日本パノラマ 大人十銭 小児五銭 珍世界 大人五銭 小児三銭 木馬館五銭 S派新演劇朝日 大人二銭 小児一銭五厘 あり。 (以下略)…」


 ココでも劇場の推移を見ます。(場所については下記の地図を参照して下さい)
・一号地《現在の江川ニュース劇場と大勝館の間》
 →大盛館 → 江川劇場 → 浅草劇場 → 浅草新劇場、浅草世界館、浅草シネマ → 工事中
 →清遊館 → 浅草館 → 敷島館 → キネマ倶楽部(河合キネマ) → 大都劇場 → 浅草名画座、浅草中央劇場
 →共盛館 → 大勝館 → 閉館 → 浅草中映会館
・二号地《現在オペラ館のある一角》
 →日本館 → オペラ座 → 商店街に分割
・三号地《現在の千代田館と金龍館の間》
 →清明館 → 千代田館 → 閉館(昭和51年)
  →明治館 → 千代田館(同上)
 →電気館 → 浅草電気館パシフィックコート
 →劇場常盤座 → 浅草トキワ座 → ROX3スーパーマルチコート → 工事中
 →寄席金車 → 金車(浪曲→浪花節) → 戦後閉館
・四号地《現在の富士館、帝国館のある所》
 →日本パノラマ → 帝国館、ルナ・パーク、パテー館に分割 → 松竹座、帝国館他 → ROX
 →珍世界 → 富士館 → 帝国館 → 浅草日活劇場 → 新世界 → 閉館(昭和59年)
 →木馬館 → 現在のROXの南側にあったのではないかと推測?
 →S派新演劇朝日 → 不明?調査不足です
 元の明治40年発行、東京市編集の「『東京案内』 浅草区」にはもう少し詳しく書かれています。

写真は浅草ROXの南東角、ROXとROX3の間から北側を撮影したものです。右側のROX3は現在工事中です。同じ場所から撮影した昭和初期の絵葉書を掲載しておきます。


浅草六区地図 明治39年(台東区文化財調査報告書第五集「浅草六区」より)



「ROX」
<松竹座>
 浅草六区の劇場の名前が幾つか出てきます。K劇場(花月劇場→東京館)、T劇場(橘館)とローマ字の略語ですが、松竹座はそのまま書かれています。なにか理由があるのかもしれません。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 松竹座の前に来ていた。流行の女剣戟がかかっていて、座の前に、その剣戟女優が太股もあらわに大見得を切っている一種奇矯な看板か出ている。…」

 この当時の松竹はこの松竹座と松竹館がありました。松竹座は国際劇場(昭和12年)ができるまではSKDのホームグラウンドでした。

写真は現在のROXです。当時の松竹座はROXの南西角にありました。


浅草六区地図 昭和17年 (台東区文化財調査報告書第五集「浅草六区」より)



「オーギョーチィ」
<愛玉只の店>
 「愛玉只の店」は高見順が下宿していた五一郎アパートから浅草六区に向う途中にあります。毎日何回もお店の前を通って見ていたので、印象に残っていたのだとおもいます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 左に愛玉只の店が見え、前にも書いたが、冬だというのに堂々と店先に出ている氷の塊は、道行く人々にとって魅力的であるに違いないといった自信に充ちた恰好でデンと坐っている。…」

 この「愛玉只の店」については「如何なる星の下に」にコメントが付いています。
「 (注三)
 愛玉只は、黄色味を帯びた寒天様のもので、台湾の無花果(いちじゅく)の実をつぶして作るのだそうだが、それを賽の目に切ったのの上に砂糖水、氷をかけて食う。氷あずきのあずきの代りに寒天様のものが入っている塩梅(あんばい)で、一杯五銭。(翌年七銭に値上。)氷あずきなど東京中探したってもうどこにもありはしない寒空に、浅草では依然として氷をがけた愛玉只を売っているのだ。夏場だけの商売がと思ったら、 ── と驚いたのだが、その後、往来に氷が張っている寒中でも堂々と店をつづけていて、さすがに客は滅多に見受けなかったが、それでも時々二重回しに襟巻をした客が、往来との間に何の防寒用の設備を施してないむき出しの店のなかで、夏場とおなじ縁台に腰がけて、氷をシャリシャリと食っているのが見られた、すなわち浅草では年がら年中、氷を食わせるのだ。エンコは何か熱いのであろう。」


 この「愛玉只の店」は現在のROXの向い側にありました。昭和14年の浅草絵図で当時の場所が分ります。現在の場所の写真と比較してください。

写真は谷中のお店である「愛王子」のオーギョーチィです。「ガスト」等でもオーギョーチィはあるのですが、やはりオーギョーチィは谷中の「愛王子」だとおもいます。

「ハトヤ」
<喫茶店「ハトヤ」>
 2013年7月10日 ホットドッグを追加
 戦前からの喫茶店がまだ残っていました。高見順の「如何なる星の下に」で書かれた喫茶店で残っているのは唯一ここだけのようです。又、新仲見世通りなので、「愛玉只の店」と同じく、度々前を通っていて、頻繁に入っていたとおもいます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 喫茶店「ハトヤ」の前に来ていた。人ろうかと、ドサ貫と。バーテンダーのどちらへともなく言って暖簾から覗くと、満員であった。ここはいつだって満員でない時はないが、客の多くは六区の小屋の人々で、それが一杯五銭のコーヒーでほっと一息ついているのや、ホット・ドッグの腸詰の代りにカレー・ライスのカレーを入れたカレー・ドックというのを頬ばっているので、狭い店のなかはいっぱいである。…」

 カレー・ドッグとはよいアイデアです。まだメニューにあるといいのですが! お店に入ってきました。残念ながら”カレー・ドック”はありませんでした。普通のホッドドッグがありましたので食してきました。普通の味でした。少し残念です。コーヒーは昔ながらの味でした。

写真は現在の喫茶店「ハトヤ」です。かなりお歳のおばさんがいらっしゃいました。多分戦前からの方だとおもいます。昭和14年の浅草絵図で当時の場所が分ります。

 続きます!!!



高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)