●高見順「如何なる星の下に」を歩く -4-
    初版2001年7月3日
    二版2013年3月9日  <V01L03> 暫定版

 高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」を引き続き掲載します。前回は「モナミ」から「桃太郎」、「かっぱ橋道具街」他を紹介しました。今回は「今半」から「河金」、「広養軒」を紹介したいとおもいます。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図 -1-



「浅草今半」
<合羽橋通りを国際通りに出る左角に「今半」>
 戦前の「今半」は国際通りと、仲見世通りと新仲見世通りの交差点を右に曲がった先に大きなお店(雷門今半)の二店がありました。「雷門今半」の方が本店だったとおもいます。

 ホームページによると、明治28年(1895)、本所吾妻橋にて牛めし屋を開店、大正元年(1912)に浅草雷門にて遠縁にあたる相澤半太郎氏と共同経営にて「今半」を開店、関東大震災後の昭和3年(1928)、雷門の「今半」から分離独立し、国際通りの現住所に「浅草今半」を開店しています。雷門の「今半」は戦後、新仲見世通りの向い側に移っています。別館今半はそのままです。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  ── 何か、ひけらかすようなことばかり書いたようだか、あえてその調子をつづけれは、合羽橋通りを国際通りに出る左角に「今半」かあり、そのビルの二階に風呂屋がある。合羽橋通りに向けて、その入口があり、二階に「日本政府登録ロンジン精浴 ── ガラス湯」という看板か出ているか、ガラス湯というのは、何も湯槽などかガラスでつくられているというような意味ではなく、今はもうないけど、もとその裏手にガラス工場があり、そこで使った湯をひいてきて銭湯に利用したところから、ガラス湯という名が出た、 ── ということである。二階の銭湯は公園にもあり、珍しくないか、ガラス湯という名はちょっと珍しい。…」

 戦後の「今半」は昭和27年(1952)人形町に「浅草今半 日本橋支店」を開店しています。「人形町今半」はその後、昭和31年(1956)に別会社 「有限会社人形町今半」として分離独立しています。長男が「浅草今半」で、次男が「人形町今半」となったわけです。

写真は現在の「浅草今半」です。平成20年(2008)に新築されています。昭和3年に建てられた建物の写真も掲載しておきます。戦前の今半ビルの二階にはガラス湯という風呂屋があったようですが、戦後の火保図にも記載がありますので戦後も引き続いて営業されていたようです。

「戦後の「河金」跡」
<河金>
 カツカレーで有名な「河金」を紹介します。ウイキペディアによると、大正7年(1918)に東京市浅草区浅草(現・台東区浅草)の洋食屋台「河金」が、豚肉のカツレツを載せた丼飯にカレーソースを掛けて「河金丼」と称して出したものが最初だそうです。平皿に盛るカツカレーのスタイルは、昭和23年(1948)に東京都中央区銀座の洋食店「グリルスイス」で生まれたとされれいます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… その風呂屋の下には「ときわや食堂」「丸与果実店」それから「河金」という小屋の人々の間に有名な洋食屋、その三軒かあって、さらに地下室には「花月」というビリヤードかある。
 ちょうどそこへさしかかった時、ガラス湯の、真冬なのに少しとはいえ窓をひらいた、その窓から、パンパンという、三助か肩を叩く気持のいい音か聞えてきた。冬らしくない爽やがな音だったか、そうした音が私の耳に入ったというのも、私たちは、 ── 真中に私、左右にバーテンとドサ貫、いずれも黙って、歩いていたがらたった。…」


 戦後の「河金」の場所は分かっているのですが、戦前の場所がよく分かりません。高見順の「如何なる星の下に」を読み解くと、「今半ビル」の一階にあったようです。「今半ビル」は一階国際通り側に「今半」、二階合羽橋本通側にガラス湯、ガラス湯の下に「ときわや食堂」、「丸与果実店」、「河金」があったとおもわれます。昭和58年に「かのう書房」から発行された「染太郎の世界」の見返りに”昭和10年代浅草田島町芸人横丁”という地図が掲載されており、その中に戦前の「今半ビル」について書かれていました。”1F 牛肉料理、ときわや食堂、丸与果実店、河金 2F ガラス湯”と書かれていますので「河金」が「今半ビル」の一階にあったのは間違いないようです。。昭和3年に建てられた建物の写真も掲載しておきます。

写真の左側、ビルのところに戦後の「河金」がありました。戦後は”河金食堂”の名称でした。国際劇場(現在の浅草ビューホテル)の南側です。平成2年(1990)頃まではお店があったようですがその後は住宅地図に「河金」の名を見ることはありませんでした。跡地は現在「今半」の寮になっているようです。

「入谷河金」
<入谷河金>
 「河金」もご多分に漏れず、兄弟で暖簾分けしています。長男のお店が入谷の「河金」です。このお店の名物カレーは丼スタイルのカツカレーです。

 1993年10月7日号の雑誌「さらい」からです。創刊4周年記念特大号で”老舗で味わう あの人の愛したライスカレー”が書かれています。
「…とくに江利チエミちゃんは屋台時代からの常連。ルイ・アームストルングなんかもか国際で公演中は毎日来て、”ドンブリウマイ”って食べてました…」

 ”江利チエミちゃんは屋台時代からの常連”は?です。確かに江利チエミは下谷生れで浅草に近く、父親が吉本所属で、ピアノ弾きだったので国際劇場にも出入りしていたとはおもいますが、生れが昭和12年(1938)です。屋台の頃は過ぎていたとおもいます。

 国際劇場横のお店はかなり有名だったようですが、この入谷のお店は入谷交差点から路地を少し入ったところにあり、少し寂しいです。ただ、ここの河金丼はうまいのひとことです。なんでこんなにうまいんだろう考えてしまいました。特徴は丼にご飯、キャベツ、カツ、カレーと乗せていきます。時間がとれるようなら是非とも一度食べておきたい一品です。

写真は入谷の「とんかつ河金」です。お客が10人が入ると一杯になるような小さなお店です(取材は2003年です)。住所は台東区下谷2-3-15です。

「千束河金」
<千束河金>
 次男の「河金」は浅草5丁目にあります。昭和60年(1985)前後にオープンしたようです。浅草から少し離れているのが残念です。お店の中に「浅草河金」、「入谷河金」、「千束河金」の名前が並んだ看板がかけられていましたので、三店が同時にあった時期があるのだなとおもいました。

 「千束河金」ではロースの河金丼(1,100円)を頼みました。800円の河金丼が並で、1,100円は肉がロースで上となり、器が丼から四角い箱になります。

写真は現在の「千束河金」です。住所は台東区浅草5-16-11となります。出前もされているようです。

「広養軒跡」
<広養軒>
 「今半」の国際通りを挟んで向い側、交差点の左側に「聚楽」、右側に「広養軒」があったようです。昭和14年の浅草絵図で確認すると、カタカナで「コウヨーケン」と書かれていました。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…   第十回 酉の日の前後

 国際通りを横断して、左角に「聚楽」(ついこの間まで観音劇場)、右角に「広養軒」のある通りを、そのまままっすぐに行こうとすると、
 「こっちへ行きましょう」
とドサ貫か「広養軒」の方を指さした。 「O館の奴らに会うと、いやだから……」その通りのさきに、ドサ貫かもといたレヴィウ劇場のO館か見える。
 私たちは、ドサ貫の言うままに、右ヘモれたが、少し行くと「広養軒」の女給に会って、
 「今日は。 ── この間は」  
とあいさつされた。…

「広養軒といえは、前の聚楽……」
とバーテンは言うのだった。「須田町食堂の発展は大したもんですね」
 各所にある「聚楽」という食堂は須田町食堂で経営していることは、私も知っていたが、
「 ── 今度、花屋敷を買うそうですね」…」

 ”レヴィウ劇場のO館”は「オペラ館」のことです。「今半」ある交差点を東に50m程歩くとY字路の正面にありました。

 「須田町食堂」については、現在は「聚楽」と言ったほうがよく分かるとおもいます。「聚楽」のホームページによると、大正13年(1924)東京神田須田町に「簡易洋食」ののれんを掲げた「須田町食堂」を創業。 洋食をリーズナブルに、また新しい外食スタイルを提案。翌14年には4店、昭和に入ってからは年間平均5店というハイペースでチェーンを広げる。
一方、大学・デパート・官公庁などの給食事業も開拓。昭和10年代に89店のチェーン網を築く。しかし終戦時の残存店舗はわずか5店となったそうです。現在はレストラン事業だけでなくホテル業進出されて、大きな企業に成長されています。

写真は現在の公園六区入口交差点です。反対側に「今半」があります。この写真の左側に「聚楽」、右側に「広養軒」がありました。現在浅草にある「聚楽」は新仲見世通り(台東区浅草1-23)です。戦前から戦後も「須田町食堂」があった場所です。

 続きます。


高見順の台東区地図



高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)