●高見順「如何なる星の下に」を歩く -3-
    初版2001年7月3日
    二版2013年3月2日 
    三版2013年3月12日 <V01L03> 桃太郎の場所を修正 暫定版

 高見順の「『如何なる星の下に』を歩く」を引き続き掲載します。前回から半年ほど経ちましたが継続して掲載していきます。前回はボン・ジュール、大黒屋等を紹介しました。今回は「モナミ」から「桃太郎」、「かっぱ橋道具街」他を順に紹介したいとおもいます。




「如何なる星の下に」
<高見順 「如何なる星の下に」 (この項は毎回同じ内容です)>
 三人の作家の浅草を歩いてみたいと思います(高見順、川端康成、吉本ばなな)。浅草については紹介のホームページも数多くあり、詳細に案内されていますので、私は三人の作家が各々書いた浅草紹介の本に沿って紹介していきたいと思います。しかし書かれた時代によって紹介内容も変わってきます。まず最初は、高見順の「如何なる星の下に」に沿って戦前(昭和13年頃)の頃の浅草を歩いてみます。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「  ── アパートの三階の、私の侘しい仕事部屋の窓の向うに見える、盛り場の真上の空は、暗ぐどんよりと曇っていた。窓の近くにあり合わせの紐で引っ張ってつるした裸の電灯の下に、私は窓に向けて、小さな什事机を据えていたが、その机の前に、つくねんと何をするでもなく、莫迦みたいに坐っていた。できるだけ胸をせばめ、できるたけ息を殺そうと努めているみたいな恰好で両肘を机の上に置いて手を合わせ、その合掌した親指の先に突き出した顎を乗せて、私は濁った空を眺めていた。…」

上の本は「如何なる星の下に」の復古版として昭和51年2月に日本近代文学館によって出版されたものです。元々の小説は雑誌「文藝」に昭和14年1月から昭和15年3月まで12回にわたって連載され、その後、昭和15年4月に新潮社により単行本として出版されました。既に販売されていませんので、古本屋さんで1000円で購入しました(新古品みたいでした)。初版の新潮社版は3000円位だったと思います。高見順はこの本を書くにあたって浅草田村町(現在の西浅草2丁目辺り)の五一郎アパートを借りて執筆活動をしており、そのままを書いている様に思えます。新潮社文庫になったのは昭和22年ころで、解説を宇野千代の夫の北原武夫が書いています。

【高見順(たかみじゅん)、本名:高間芳雄、明治40年(1907)1月30日 - 昭和40年(1965)8月17日】
 明治40年(1907)福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に父 福井県知事阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ) の間に生まれる(永井荷風と高見順は従兄弟同士)。 第一高等学校から東京帝国大学文学部英文学科に進む。左翼芸術同盟に参加、プロレタリア文学への道を進みだす。東大卒業後、コロムビア・レコード会社教育部に勤務。この頃、日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)に参加したと推定される。石田愛子と結婚。昭和8年(1933)治安維持法違反の疑いで大森署に検挙されるが、半年後に釈放される。妻 愛子が他の男性と失踪し離婚する。昭和10年「故旧忘れ得べき」で第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。水谷秋子と結婚。昭和14年 「如何なる星の下に」を「文芸」に発表、高い評価を受ける。昭和40年(1965)食道癌のため死去、58歳。


高見順の浅草地図 -1-



「寺島広小路」
<小柳雅子の家は寺島広小路>
 前回は馬道の大国屋までを紹介しました(今の天麩羅屋の大黒屋とは違うようです)が、大黒屋の掲載ページで「如何なる星の下に」のページ数で70%は終ったのですが、後半でまだまだ商店名等の固有名詞が出てきます。最初はK劇場(浅草花月劇場)の踊り子、小柳雅子の住まいからです。(小柳雅子のモデルは、当時の「吉本ショウ」の踊り子、立木雅子と小柳咲子の名前を合わせたものです)。ですかか住まいの場所はフィクションですね!

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… ぽんたんは、変に白っちゃけたような顔をしていたが、私がぽんたんの家は東武電車の沿線なのかと聞くと、これも変に充血した眼をショボつがせて、
「いや、ゆんべ、寺島町へちょっと顔言出しを……」
 ニヤユヤするのに、
「寺島町?」
 小柳雅子の家は寺島広小路と聞いた。雅子を思い出したのた。すると私の真面目な、いややぼな顔に、
「いやですねえ」
と、ぽんたんは肩を叩くような手付をして、
「あの女のところへね、ちょっと……。寺島町の彼女の
ところへ……」
「……?・」私にはまだわがらなかった。
「ねむい、ねむい」
 これは大阪弁で、
 「では、 ── そのうち一度、一緒に行きませんが」
 私は、ああそうか、魔窟へ行ったのかと気づいた時は、ぽんたんは洋服の肩を女のように振って車道を横切っていた。…」


 当時の寺島広小路は東武伊勢崎線の踏切があり、その先に有名な玉ノ井がありました。現在の東向島交差点で、東向島広小路が現在の名称になります。昭和6年には東武鉄道が業平橋から浅草間までを開通させ、浅草から玉の井まで電車で通えるようになっています。又、同時期に明治通りが水戸街道の寺島広小路まで通じでいます。都電が向島須崎から寺島広小路まで延長開通したのは昭和25年でした。このころまで寺島広小路の名前が残っていたようです。

写真は現在の「東向島広小路バス停留所」です。東向島交差点から明治通りを南東に100mのところです。東向島交差点の写真を掲載しておきます。


高見順の浅草地図 -2- (永井荷風の寺島地図を流用)



「マロミ跡」
<吾妻橋の雷門寄りにある「マロミ」>
 高見順の「如何なる星の下に」の中で喫茶店が幾つか登場しています。一番多いのが地下鉄横町(現在は観音通り)の喫茶店「ボン・ジュール」です。二番手くらいが雷門近くの「マロミ」です。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… さて私は十三銭のメシを食って、それがら二十銭のコーヒーを飲みに行くのだったが、(「ボヴ。ジュール」はマンネリズムだ。どこか知らないところへ行ってみよう。)
 そこで、吾妻橋の雷門寄りにある「マロミ」という、今まで一度も入ったことのない店の扉を押した。そしてコーヒーを注文して、煙草へ火をつけたところへ、思いがけないサーちゃんが入ってきた。ここで誰かと会う約束をしたらしく、チョロチョロと店のなかを見回して、私に気づくと、バッと顔を赧くした。約束の人は来てないらしく、サーちゃんは私の側へ来て、
 「先日はご馳走さまでした」
 そう言って、もじもじと立っているのに、
 「まあ、おがけなさい」
と私は言った。店にはアベックの客が多かった。…」


 「マロミ」は雷門の向い側にあり、観光客は余り入らないところにありましたので、入りやすかったのだとおもいます。

写真は現在の雷門東部です。昭和14年の浅草絵図で確認すると、左端から二件目、右端から五件目になります。三菱東京UFJ銀行の左隣辺り「せんねんそば」辺りです。

「現在の桃太郎」
<名代昔団子と書いたのれんのががった「桃太郎」>
 2013年3月12日 場所を修正
 団子屋のはずが稲荷寿司屋で有名な店のようです。稲荷ずしは昔から日本人の好きな料理の一つです。
 ウイキペディアで少し調べてみると
 稲荷寿司に関する最古の史料として江戸時代末期に書かれた『守貞謾稿』があり、
「…天保末年(旧暦1844年、新暦1844年2月〜1845年1月)、江戸にて油揚げ豆腐の一方をさきて袋形にし、木茸干瓢を刻み交へたる飯を納て鮨として売巡る。(中略)なづけて稲荷鮨、或は篠田鮨といい、ともに狐に因ある名にて、野干(狐の異称)は油揚げを好む者故に名とす。最も賤価鮨なり。尾の名古屋等、従来これあり。江戸も天保前より店売りにはこれあるか。…」
と記載されています。この事から名古屋で作られたものともされていますが、豊川の説もあり、定かとはなっていないようです。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…その悠然をまねて言うならは、その稲荷ずしはアパートの路地を国際通りに出たところにある、名代昔団子と書いたのれんのががった「桃太郎」という店の、店の宣伝をするわけではないが、大層おいしい、そしておいしいので有名らしい稲荷ずしなのだが、前述のように暖かい血液の通っている手をさえ冷え上がらせるその夜の寒さはもともと冷たいその稲荷ずしのめしを氷のように冷たくしていて、その冷たさは私の歯にシーンと沁みた。私はぶるると唇を鳴らしながら、アパートの外に出た。…」

 稲荷寿司に関しては「稲荷寿司を歩く」を参照してください。

写真は現在の国際通り浅草一丁目交差点西を南に約20m歩いたところです。今も「桃太郎」はありました。”アパートの路地を国際通りに出たところ”の路地は、写真のやや左、金網のドアのところとおもわれます。昭和14年の浅草絵図で調べてみると、「桃太郎」がありました。中央公論社の「日本の文学 高見順」の中の「『如何なる星の下に』 参考地図 昭和13年〜14年」に「桃太郎」が記載されていますが、場所が違うようです(路地が書かれていない)。今の「桃太郎」は和菓子屋さんになっていました。110円の豆大福と草餅を買ってきました(少し小さいので安いのかもしれません)。

「かっぱ橋道具街」
<ちょっと不思議な商店街>
 高見順の下宿していた五一郎アパートの前の道を西に歩くと、当時は菊屋橋の電車通り(現在のかっぱ橋道具街(合羽橋道具街))に出ます。かっぱ橋道具街途中には合羽橋交差点がありますが、「河童橋」ではありませんので要注意です。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…  ── 田島町の私のアパートの前の道を、六区の方でなくその反対の方へ、つまり「染太郎」のある方へ行ってそのまま菊屋橋の電車通りに出ると、その電車通りはちょっと不思議な商店街をなしている。すなわちそのうちのひとつの店の看板を紹介すれば。
  各飲食店道具
  漬物寿司店用具 
 こう二列に書いてある。その隣には「陳列壜店」という看板が掲げてあって、店をのぞくと、たとえは諸君がお煎餅屋の店先で見られるであろう、あのお煎餅の入っている電灯型の壜、または煙草屋の煙草の入れてある四角い壜、はては喫茶店などで「うちではこういう上等のコーヒーを使っています」といった風にコーヒーの豆を入れて出しておくのに使うような、どんぐりの実の形をした小さな壜。こうしたありとあらゆる種類の陳列壜が、── ほかには何もない、そうした壜だけが店にいっぱい並べてある。その隣には、洋食の皿、支那ソバのどんぶり、鮨屋の大きな湯呑み、そんなのばかり売っている店があるかとおもうと、 ── ためしに電車道を横切って前へ行つてみると、そこには、安食堂のチャチな椅子がらはじまって、相当立派な喫茶店用の長椅子まである、そんな家庭用でなく商売用の椅子はがり売っている店があるといった工合に、その辺一帯は、もしも諸君が明日がら急に「とんかつ屋」を開こうと思って、そこへ行けば、肉切り包丁、油鍋等の裏の道具から、テーブル、椅手等の表の設備品に至るまで一式がたもどころに揃えられる、そんな便利この上なしの商店街である。食いものやの道具たったら、なんだって売つてないものはない。割箸専門の店、各種薬味容器専門の店、それがら……ああ、もうやめよう。…」


 合羽橋(かっぱばし)とは、台東区西浅草 - 松が谷地区にある、食器具・包材・調理器具・食品サンプル・食材・調理衣装などを一括に扱う道具専門の問屋街の事です。日本一の道具街であり、かっぱ橋、合羽橋道具街、かっぱ橋道具街とも呼ばれれいます。河童をマスコットにしていますが、「河童橋」ではありません。
 文化年間にこの地で掘割(後の新堀川、現在は消滅)整備を行った合羽屋喜八が合羽橋の名前の由来の一つとされており、湿地帯であるこの土地の住民達のために私財を費やして整備を行った合羽屋喜八の良心に心を打たれた河童達が、夜ごとに工事をして喜八を助けたという言い伝えが残っている。合羽橋交差点で道具街通りと交差するかっぱ橋本通り沿いの曹源寺(通称かっぱ寺)に合羽屋喜八の墓があります。
 道具街の起源は、1912年(大正元年)頃に数軒の道具商が店を構えたこととされています。(ウイキペディア参照)

写真はかっぱ橋道具街のお店です。飲食店向けの一切の道具を扱っている専門店ばかりです。「陳列壜店」の専門店や「椅子」の 専門店等がたくさんあります。この場所が一般人に有名になったのは食品サンプルからだとおもいます。

「お菓子屋人道跡」
<お菓子屋人道>
 国際劇場から西に二筋目にお菓子店ばかりの街があったようです。菊屋橋の電車通り(現在のかっぱ橋道具街)と国際劇場通り(国際通り、都道462号線)の間になります。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「…そしてバーテン君が六区の方へ回って帰るところだと言りので、一緒に芝崎町の方へ曲ったのだが、そこは浅草公園の方がら言うと、国際劇場の裏に当るところで、ここがまた小思議な一画なのである。
 その通りは通称お菓子屋人道といわれ、軒並みお菓子屋だらけ、 ── お菓子を製造する家はかりがその一両にかたまっている。このお菓子屋人道というのを私はながい間、お菓千屋新道をそうなさって言っているのだろうと勝手に思い込んでいたが、ずっと後になって、お菓子屋人(お菓子屋さん)の道というのだと知らされた。…」

 ”お菓子屋人道”については調査不足でよく分かりませんでした。もう少し調べて見ます。

写真は現在のお菓子屋人道です。全くお菓子屋はありませんでした。昭和14年の浅草絵図で確認しようとおもったのですが、掲載されていませんでした。

「呑兵衛横町(推定)」
<呑兵衛横町>
 最後は大森の”呑兵衛横町”です。なぜ「如何なる星の下に」で大森が登場するかというと、昭和5年(1930)東京帝国大学を卒業後、石田愛子と結婚し、最初に住んだのが大森だからです。しかし、昭和8年(1933)、治安維持法違反の疑いで大森署に検挙・留置され、起訴留保処分で半年後に釈放後、妻・愛子が他の男性と失踪します。そうとうショックだったようです。

 高見順の「如何なる星の下に」からです。
「… 「 ── 振り返ったのが、いけなかったのね、きっと。危いと思って、軒下の方へよけたんたけど、よけた方へ自転車がわざとのようにやってきて、ドシン!」
 「まあ、馬鹿にしているわね」
 百合子はくやしそうに靴の踵で床を蹴った。呑兵衛横町という大森駅近くの線路脇にある細い路地でのことだという。
 「痛かったわ」…」


 大森の”呑兵衛横町”というと、大森駅を山王側に出て、池上通りと大森駅の間にある、幅2m、長さ80m程の飲み屋街(山王小路飲食店街、俗に”地獄谷”と呼ばれている)のことかとおもいました。ただ、自転車が通っているので、どうも違うようです(山王小路飲食店街は階段を降りるので自転車が通るのは無理)。

写真はミルパショッピングモールの西の端(山王側へのJRガード付近)からJR東海道線沿いの小路を撮影したものです。推定ですが呑兵衛横町はこの小路のことではないかとおもいます。あくまでも推定です。

 まだまだ続きます。


高見順の大森地図(立原道造の大森地図を流用)



高見順年表
和 暦 西暦 年  表 年齢 高見順の足跡
明治40年  1907 義務教育6年制 0 二月十八日、福井県坂井郡三国町平木で出生、本名 高間芳雄、父 阪本ソ之助、母 高間古代(コヨ)
(永井荷風と高見順は従兄弟同士)
         
大正13年 1924 中国で第一次国共合作 17 3月 府立第一中学校を卒業
4月 第一高等学校文科甲類に入学
         
昭和2年 1927 金融恐慌
芥川龍之介自殺
地下鉄開通
20 4月 第一高等学校を卒業
4月 東京帝国大学文学部英文学科に入学
昭和3年 1928 最初の衆議院選挙
張作霖爆死
21 全日本無産者芸術聯盟(ナップ)
         
昭和5年 1930 ロンドン軍縮会議 23 秋、コロムビア・レコード会社に入社
石田愛子と結婚、大森に住む
         
昭和7年 1932 満州国建国
5.15事件
25 日本プロレタリア作家同盟(ナルプ)の城南地区のキヤップ
昭和8年 1933 ナチス政権誕生
国際連盟脱退
26 2月 治安維持法違反の疑いで検挙、後 起訴留保処分で釈放
妻 愛子が他の男性と失踪し離婚
       
昭和10年 1935 第1回芥川賞、直木賞 28 7月 水谷秋子と結婚,(水谷政吉、志げの三女)
         
昭和13年 1938 関門海底トンネル貫通
岡田嘉子ソ連に亡命
「モダン・タイムス」封切
31 3月 浅草の五一郎アパートに仕事部屋を借りる
昭和14年 1939 ノモンハン事件
ドイツ軍ポーランド進撃
32 1月 雑誌「文藝」に掲載を開始(15年3月まで)